混蟲戦線
木々が揺れていた。何重にも重ね合う枝葉の天蓋によって、地上へは光が届くことがない。森の中であるが、洞窟といわれるほうがあっていた。足を踏み込めば腐った肉のような、湿った土の中へと沈み込む。
巨人の隊列が木々を揺らした。
森より北方の、大帝国で運用される二足歩行兵器、殲滅機カンナミが正体だ。スライム筋肉に体を支えられ、装甲甲冑で身を守る。
操演槽の中に乗り込む操演者ガムランは、服を汗でぐっしょりと濡らしながら、しかしその目は、狭い覗き穴から外を警戒していた。
生唾を飲み込む。
ガムランは緊張していた。
彼は不必要に体を固める新兵というわけではない。だがそれでも、──混蟲戦線の中に立っていると考えるとき、ガムランは自分の腕の良さに不安を抱く。
十以上の戦場で戦果をあげ、勲章も授かる歴戦の男。そんなもの、混虫戦線では、雑兵にいたるまであたりまえのことだ。
ガムランの前後には、僚機のカンナミが、彼を挟み込むようにあらんでいた。つまりこれは、ガムランが半人前であるということだ。先頭で探ることも、後方で警戒することも、一度として許可されたことはなかった。
「……」
給水筒の水を一口、ふくむ。
乾いていた喉が潤う。
生存圏と混蟲活動圏を分断する防壁先の哨戒は、必ずまわってくる貧乏くじのようなものだった。
湿度があり蒸し風呂のような熱気。
小うるさい羽虫が耳元にまとわりつく不愉快な羽音。
流した汗にたかる台形羽の小虫。
目がしみた。
髪は水をかぶったように張り付いていた。
おまけに、樹天から降ってきたヒルに噛み付かれていることもあった。
環境は、まだ刑務所のほうがまともなはずだ。
何よりこれらは、ただのおまけでしかなく、あたりまえと受け入れなければならないところが辛かった。
この土地は、気軽に足を踏み入れる土地ではないのだ。
名誉狂いで、命知らずの冒険家であったとしても、実際に訪れるものは年に一人といないであろう。
──境界の森。
数々の名前をの間を転がりつづけてきたその森は、しかし、ただ境界の森とだけ呼ばれた。混蟲族と、それ以外の知的種族の境界。境界の森は、混蟲族の森なのだ。混蟲族は皆、他の蟲よりも遥かに巨大だ。それは人間よりも大きい。矢や槍の通用する相手ではなかった。
ゆえに、殲滅機なのだ。
だがその殲滅機の一隊でさえも、この森では狩人であり『獲物』だ。
ガムランはそのことを、混蟲戦線配備の初日、体に刻み込まれた。混蟲族の大鎌の腕が、ガムランの乗るカンナミの操演槽を叩き割り、彼のハラワタを空気中に引きずり出したのだ。
ガムランは持ち前の生命力で、地獄の苦しみに耐え生きのびた。
しかしその腹の傷は、今でも生々しく残っていた。
──パキッ。
「!」
音を聞いた。
小枝の折れる小さな音。
気のせい、聞き間違い、聞こえなかったふり、そんな愚かな選択はなかった。
前をいくカンナミ、後ろへ続くカンナミの足が、止まった。
何をやるべきかは、ガムランも理解している。
聴音機と繋がった耳あてをつけ、聴音機を左右にふる。
音を、探すのだ。
視界の悪い密集した森の中では、目で見るよりも、音を耳にしての情報のが早いことがままあった。
目よりもまず耳に集中しろ。
貴重な戦陣訓の一つだ。
音は……澄み渡っていた。
森の囁き声。
木の葉が擦れる音。
自分の胸にある心臓の鼓動。
静かだ。
鳥のさえずりがなければ、獣の息遣いの一つもない。
生物──動物を感じられない不気味さがあったが、それがこの森なのだ。
「……」
何か聞こえた。
幹を擦る何十のカサカサとした音。
カギ爪が樹皮の引っかかり。
そしてそれをガムランは理解した。
“あれ”がいるのかと。
先頭のカンナミが上半身だけをひねって振り向く。
操演槽奥の操演者が、手信号で合図を出していた。
──遭遇戦に警戒。
戦いだ。
殲滅機カンナミがあつかう武装は、短槍と重斧刀。
外骨格を砕く破壊力と、密集した森の中での取り回しを考えての選択だ。大砲や弓を持ち込めないわけではないのだが、あまり有効ではないのだ。
戦いかたは充分に心得ていた。
三機の殲滅機が、互いの背中を隠すようにして方陣をつくる。
敵に補足された。
撤退の選択しはない。
不可能なのだ。
敵のほうが遥かに速い。
「……」
耳が痛くなるような風だった。
ゆっくりと、ゆっくりと目を動かす。
何の変哲もなかった。
忌々しい緑の地獄。
敵に備え、待ち続けた。
しかし敵はこない。
やりすごしたのか。
あるいは、単なる思い過ごし──
「!」
──その時だ。
ガムランは、視界の端に、何かが落ちてきたのを見た。
何かだ……それを確認する暇はなかった。
すぐに、落ちてきたからだ。
敵だ。
「上だっ!!」
一斉に、三機のカンナミの視線が樹上へむかう。
巨大な影が、五。
混蟲。それは蟻族だ。頭、胴、腹の三つの体と、六本の足、触覚をふるう頭には巨大な顎があった。ただしその六本の足のうち前の二本は、大きさに相応しい槍の穂先のようであり、戦闘に特化していた。
「クソッ!」
油断していたわけではなかった。だが、ガムランのカンナミは、降ってきた混蟲・蟻族の一匹に取り付かれた。
一匹だけだ。
ガムラン以外には、二匹ずつでえある。
ガムランが対処するのは一匹だけだが、苦戦した。
覗き穴からは、取り付いた混蟲・蟻族のナマの姿が見えていた。
大顎をカチカチと鳴らし、カギ爪をカンナミの装甲へと喰い込ませていた。
混蟲・蟻族の冷たい複眼と、目があった。
頭はまだ噛み砕かれていない。
槍腕に風穴を穿たれてもいない。
殲滅機カンナミにカギ爪が喰い込んでいるだけだ。
だが短槍は捨ててしまっていた。
混蟲・蟻族の頭を両手で抑えるためだ。
「蟲が……離れろよ!」
ガムランは、カンナミの操演にこだわらなかった。
『最後の自衛用』にもつ、電気銃を引き抜く。銃口を覗き口から押し出し、引き鉄にかけた指に力をこめた。水が電気分解され生じた水素に火がつく。
──ヴォズ!
球形の玉が飛び出す。
それは、混蟲・蟻族の口の中へとえぐり込む。外骨格とは違う、柔らかい肉と体液が降り注いだ。少し、口にはいったのを、ガムランは吐き出す。
悲鳴はない。
だが、混蟲・蟻族はわずかに怯む。
ガムランはその隙をついた。
引き剥がし──蹴り飛ばす!
混蟲・蟻族が宙を舞うが、地におちるまで待つ気はガムランにはなかった。補助武器であった重斧刀に手を伸ばし、混蟲・蟻族へ襲いかかった。
外骨を重斧刀で叩き割るつもりだ。
カンナミが一歩、二歩と、スライム筋肉を軋ませるほどの力で躍進する。
吹き飛ばされていた混蟲・蟻族が、盛大な土煙をあげながら地面を掴んだ。
投げられた、間抜けな格好ではない。
空中で体を捻り、受けみをとっていた。
混蟲・蟻族の複眼は、ガムランが操演するカンナミを見ていた。
「……」
どうした。
カンナミの足の力がしだいに弱まっていく。そしてついには足を止めてしまった。ガムランのカンナミは、重斧刀を手にしたまま、立ち尽くす。
カンナミと混蟲・蟻族の間合いは、
カンナミの足に換算して──十歩。
混蟲・蟻族の槍腕も、カンナミの重斧刀にしても、届く間合いではない。
だがしかし。
ガムランは踏み込めない。
ガムランを止めたものは何か。
──恐怖だ。
昆虫・蟻族の複眼が見ていた。
見られていた。
無数の眼の集合体。
その多くにカンナミの、ガムランの姿がうつりこんでいることだろう。
口の中からドロドロとしたものを流しだしながら、しかし、けっして目を離さないでいるのだ。
口内に鉛玉を喰らわされても。
それでも。
正面から、まっすぐ。
見ているのだ。
『殺し』に対して極めて『誠実』な姿勢。
ガムランは恐怖した。
「だから……だからどうした!」
ガムランは叫ぶ。
兵士になったとき、一番初めに教えられたのは、大声をだすことだった。
それは、恐怖をかきけした。
奇声。
振りかぶられた重斧刀に迷いなし。
ガムランは奇声で恐怖を塗りつぶすことで戦えた。
しかし、混蟲・蟻族にそんな『野蛮』はない。つとめて冷静に、殲滅機カンナミを、振るわれた重斧刀を、受け流した。
重斧刀は、槍腕にはじきあげられる。
「え?」
ガムランの、そんな間抜けな声。
流されるとは考えていなかった。
確実に殺せる。
理由のない自身だけの一撃が、一切の容赦なく、対応された。
槍腕は、二本だ。
一本は重斧刀を受け流した。
もう一本、あるのだ。
残された槍腕の先端が、チリチリと装甲、カンナミの外板に触れるのが聞こえていた。
──ゴッ。
小さな音。
しかしそれは、カンナミの装甲を貫く音。ガムランの目の前で、操演槽が醜く変形していく。見る間に金属の壁が迫った。ガムランの両腕が挟まれた。肉が潰れる。
激痛。
だが骨が砕ける挽肉とはならなかった。
槍腕はとまったのだ。
奇跡がおきたのではなかった。
重斧刀は弾かれた。
だが!
腕は、もう一本ある!
殲滅機カンナミは残された腕でもって、混蟲・蟻族を殴り飛ばしたのだ。
判断したのはガムランではない。
もっと速い。
カンナミのスライム筋肉が、『自己の判断』でもって、その腕の手甲を混蟲・蟻族の頭へねじ込んだのだ。
複眼が一つ、砕け散った。
「すまない!」
カンナミに命を助けられた。
ガムランは気合をいれなおし、重斧刀を、振った。
迷いなく。
慈悲のない一撃。
それは、完全に、混蟲・蟻族の頭をかち割った。
頭を叩き割られ半分になってなお、混蟲・蟻族は三歩、四歩と、歩く。
まだ生きていた。
しかし、それまでだった。
──ひゅっ。
飛来する槍。
それは混蟲を串刺しにした。
同じ隊のカンナミが投げたのだ。
ガムラン以外は、二体一を軽々と制し、装甲に敵の血肉がこびりついていた。
「……」
一機が、ガムランのカンナミに手を貸した。
操演槽が半分潰されたのだ。心配したのだろうか。だがガムランはその手を丁重に断った。少し窮屈になっただけだ。先はまだ長い。
三機のカンナミは、倒した混蟲を捨て置き、隊列を組み直した。
森の奥へ。
足を止めるのは、戦う時と死ぬときだ。
今はまだ違う。
殺されるまでは、止まれなかった。