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私は虚しさを上書きする

 襟元を立てて、そこに自分の鼻を当てて息を深く吸い込んだ。いい匂いがする。どこか安心できて、私の好きな香りがする。何でこんなにも安心できるんだろうか。晴大さんのだから? それもあるのかもしれない。でも、もっと違う、何か他の要因もあるんじゃないかと思う。


 ガチャリっと玄関の扉が開く音が聞こえた。それと同時に、聞きなれた男の声が聞こえてきた。


「ただいま」


「おかえりなさい、総司さん」


 総司さんが帰ってきた。いつものスーツ姿で。彼は持っていた鞄を置いて、ふと私の方を見て首をかしげた。


「雪菜、そんな服持っていたかい?」


「え、えぇっと...その...」


 軽く言い淀んでしまった。どこに躊躇う場所がある? これは、私の友人から借りたものだ。そう、あくまで友人だ。彼とはなんの特別な関係でもない。いたって普通に、何のことでもないように私は返した。


「雨が降ってて...濡れてしまったから、友達のを借りたの」


「...パッと見、男物だね。友人っていうのは男の子かい?」


「...えぇ。でも、ただの友達よ」


 ...本当は友達と言っていいのか不安なんだけど。私は依頼人で、彼は探偵。そこに友情があるのか、と言われれば、私は答えに困るだろう。彼は私に良くしてくれる。気を使って色々としてくれるし、私の相談にもちゃんと乗ってくれる。


 けど、それは仕事だから...? 私は、あくまで依頼人という立場から変わっていないのだろうか。


「...ご飯、作ってきますね。お風呂は湧いてますから、どうぞ」


 私はそそくさとその場を立ち去った。なんだろう。酷く胸の奥がもやもやとしていた。私は彼の...なんなのだろうか。


「...あぁ。いや、ごめんよ。僕はこれからちょいと友人と飲む約束があってね。作ってくれるとこ悪いんだけど...」


 後ろの方で、総司さんの小さく申し訳なさそうな声が聞こえてくる。普段はあまり飲みに行くことなんかないのに、珍しいこともあるものね。


「わかりました。気をつけて行ってきてくださいね」


「あぁ。それじゃあ、行ってきます」


 バタンッと扉が閉められた音が聞こえた。私は、自分の分の夕食を作って食卓に並べていく。今日はちょっとだけめんどくさかったから、冷凍食品を解凍しただけの簡単なものだ。唐揚げや、申し訳程度のサラダを作って席につく。


 大きくはないが、小さくもない。そんなテーブルに並べられた夕食。けれど、席に座っているのはたった一人。


「...いただきます」


 ...酷く虚しい味がした。何でだろう。今まで一人で食べてもここまで酷い味はしなかった。賞味期限でも切れていたのかな。


「..........」


 ガリッとサラダを歯で噛み潰した。ドレッシングはそれほどかけていないのに、とてもしょっぱく感じた。


 ...こんなことなら、晴大さんに誘われた時に一緒に食べてくればよかった。そうしたなら、こんな虚しい思いはしなかっただろう。


 晴大さんが羨ましい。実の母親ではないにしろ、私から見たそれは、どこからどう見ても仲の良い家族だった。恭治さんと咲華さんはきっと笑顔が絶えないだろう。そして、それを見て晴大さんは苦笑いをしながら、それでも見続けるんだろう。


 ...あぁ、なんだ。私はあの家族に触れて、羨ましいと思ってしまったのか。それで、この場所が耐えられなくなってしまったんだ。一人の時間が。


「..........」


 手を袖の中にしまいこみ、そのまま鼻の場所に持ってくる。すうっと深く息を吸いこんだ。懐かしい匂いだ。暖かい匂いだ。それが、私の中を少しだけ満たしていく。


「.....ちょっとだけ、なら怒られないかな」


 私が晴大さんに自分の携帯番号などを教えた時に、私も彼のものを教えて貰っていた。登録数の少ない電話帳から彼の名前を探し出して、少し迷ってから通話のボタンを押した。


 ぷるるるるる、と三度なった。そして次の時には携帯の向こう側から、彼の声が聞こえてきた。


『はい。橘花 晴大です。どんなご要件でしょうか』


「...私です。浪川 雪菜です」


『おう。どうした、何かあったか?』


「...いいえ。ただ、少しだけお話がしたいなって」


『なんだ。やけにしおらしい声だな。相談なら乗るよ?』


「...ありがとうございます」


 ほんの数分で終わらせるつもりだった。ただ、気がついたら時計の針は一周していて、私の中にあった虚しさは、なりを潜めていた。ベッドの上に倒れ込んで、それでも会話はやめずに彼と話し込んだ。どんな趣味があるのか。土曜日はどこに行くのか。何か面白い依頼はあったのか。他愛のない話で、私は盛り上がってしまった。


「..........」


 瞼が重たくなってきた。意識が軽く朦朧としていて、何を考えたらいいのかわからない。けど、不思議な幸福感に身を包まれていた。


『...どうかしたのか?』


 あぁ。彼の声が聞こえてくる。何か、返事を...しなく...ちゃ......


 ....................



『...眠ったのか?』


 電話の向こうからは少しだけ不安そうな声が響いている。はぁっと溜息を吐いた音が聞こえ、その次には、おやすみ、と優しい声が聞こえてきた。画面が黒くなって、通話終了の文字が浮かんでいる。だが、彼女は起きない。


 そのまま彼女は深い眠りに落ちていった。人生で初の寝落ち体験だった。




 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 今日はいつもと違っていた。とても、感情的だった。俺が殺しをする時に、感情なんてものはなかった。ただ、殺した後には、体の奥から這い上がってくる背徳感のようなものが非常に心地いい。だが、今日の俺は最初からある一つの感情を持っていた。


 例えるならそう、怒りのようなものだ。おかげで、今日は三人も殺ってしまった。もう売るルートなんてないのに。死体を残しておくと、色々と面倒だ。


 はぁっと、深く溜息を吐いた。だが、この後には至福の時間が待っている。俺は、こみ上げる衝動を抑えるようにしてゆっくりと廊下を歩いていく。そして、ある部屋の扉の前まで来ると、ゆっくりと扉を開いた。


 中はピンク色や黒色のものが多いように感じる。女の子の部屋だ。ベッドの上では、彼女が眠っている。


 浪川 雪菜。あの女と同じような顔をしている。犯してやったのなら、どんな声を上げるだろう。切ってやったら、あの女と同じような声を上げるのだろうか。それが知りたくて仕方が無い。けど...まだだ。まだもっと、ゆっくりと時間をかけて...


「......ッ!!」


 ガタンッと大きな音が聞こえた。小動物が出す音じゃない。もっと大きな音だ。人か。人がいるのか。ならば、ここにいるのはまずい。早々に逃げるとしよう。


 だが...あぁ。邪魔されたせいか、酷くイラついてきた。あともう一人か二人、殺しに行くとしよう。



 どうせ誰も俺を捕まえることなんで出来やしない。警察だろうがなんだろうが...浪川 鏡夜を捕まえることなんて出来ない。


「......ククッ」


 喉の奥から笑いがこみ上げてきた。路地の奥へ奥へと進んでいき、何度も曲がり角を曲がって、やがて一つの一軒家にたどり着いた。路地の奥の方へと向かわなければ辿りつけない場所。車は入ってこれない。


「クハッ、ハハハハ...!!」


 その一軒家の中で男は笑い続けた。誰にもわかるはずがない。隠れ家としてはうってつけだ。


 全身を覆うコートをはおり、目の部分だけが空いているマスクをかぶる。全身についた水滴を払い落とし、男はナイフを持って外に出た。


 未だ、雨は酷く降り注いでいる。あぁ、とても良い天気だ。殺人をするには絶好の天気だ。


 仮面の下で、男はニヤリと笑った。

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