読書感想速報! 『騎士団長殺し』ってどうよ
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①タイトル 四つの魂を持つ少年
②分野 ホラー
③URL https://ncode.syosetu.com/n3576ev/
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警告:ネタバレに関する記述がありますので、読む場合は自己責任でお願いします。
さて、村上春樹新著『騎士団長殺し』を読了した。
本屋に行くと買いなさいと言わんばかりに目立つところに平積みされ、発売前から重版のニュース。
一方、アマゾンの書評では最高評価の五つ星の次に多いのが最低評価の一つ星。ネットの書評でもまさに賛否両論。権威ある評者のコメントは概ね好評だが、やたらほめていると思ったら、業界側のステマと推定されるサイトだったりする。
かくして『騎士団長殺し』は読むべきか読まざるべきか。買うべきか買わざるべきか。「なろう」ユーザーの中にも迷っている方も多いのではないだろうか(すでに読了した方、どれくらいいますか?)。
私の個人的結論を言えば微妙。読者の趣味で評価がわかれそうだ。
この作品を読んで私は、ツッコミどころ満載ながら「村上春樹は当代日本小説の最高級ブランド」だと確信した。つまりハルキブランドは”大吟醸小説”なのだ。だが飲みなれた自販の缶ビールの方が大吟醸より好き、という人の味覚を私は上から目線で否定できない。
以下、『騎士団長殺し』について言いたい放題の感想を書く。迷っている方がこれを読んで、読むべきか否かの参考にしてもらえれば幸いだ。
ちなみにこの小説で一番いいと感じたのは章のタイトルだ。章のタイトルがすべて文章になっているのが面白い(今後自分が小説を書く際、これはパクろうと思いました)。
1.まずはネタバレあらすじからどうぞ
『騎士団長殺し』とはどんなストーリーなのか。
主人公「私」は三十六歳、金持ち相手の肖像画専門の画家。建築会社に勤める妻ユズと結婚六年目で子なし。広尾のマンションに住んでいる。
ところがある日、ユズが離婚したいと言い出す。不倫して男ができたのだ。それを聞いて逆上した「私」は愛車プジョーに乗って家出する。財布とクレジットカード、洗面具は持参して東北から北海道まで半年かけて一人旅をする。夜はビジネスホテルに泊まり、食事はファミレスで済ます。エージェントに携帯で電話して、仕事の肖像画の依頼はすべてキャンセル。
この東北旅行中、二つのエロいエピソードがある。
ファミレスで東北訛りの若い女から逆ナンパされた「私」はラブホテルでベッドイン。朝になると女の姿はない。朝食をホテルのレストランで食べていると、白いスバル・フォレスターに乗った男が「私」を非難するように睨む。その男とは口も聞かず別れるが、以降、その男のおそろしい顔がどうしても忘れられない。女が自分を追っていると話したDV男ではないかと「私」は想像する。
また別のある日、別れたユズとエッチする夢を見る。あまりにリアルな夢なので日記にそれを記す。
ところが北海道でプジョーが壊れて廃車になる。途方にくれた「私」は美大の親友で資産家の息子、雨田政彦に電話してみる。
すると小田原の別荘兼アトリエが空き家なので、安い家賃で貸してくれることになる。また小田原駅周辺にカルチャーセンターがあり、「お絵かき教室」の講師のアルバイトを紹介してもらう。子供向けと主婦向けの教室を二つとも担当する。
「私」は教室の生徒で、二児の母、主婦四十歳(以下、ガールフレンド)と不倫関係になる。
実は政彦の父、雨田具彦は高名な日本画家だが、現在九十歳を越え認知症になり、伊豆の養護施設に入ったという。日本画家として現役時代、具彦はこのアトリエで創作活動をしていたのだ。
「私」は屋根裏部屋から一枚の日本画を見つける。タイトルは『騎士団長殺し』。モーツアルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』をモチーフにした絵だが登場人物は日本画風に飛鳥時代の装束を着ている。
そんなある日、昔のエージェントから電話がある。「私」を指名して肖像画を依頼するクライアントが現れたという。しかも破格のギャラで。
クライアントは免色渉五十四歳。いわゆるIT長者の成金で、会社を売却して現在、悠々自適の生活だ。
免色は谷間を挟んで、「私」のアトリエの向かい側の豪邸に住んでいた。
免色は肖像画のモデルになるべく、「私」のアトリエに通う。
実は「私」の家の庭に石の祠があり、毎晩鈴の音が聞こえる。免色に相談すると、土木工事会社を雇い、祠を撤去してくれる。すると大きな穴が見つかり、中に鈴が落ちている。「私」は鈴をアトリエに置いておく。
それからしばらくして、ある晩、アトリエから鈴の音が聞こえる。「私」が行ってみると『騎士団長殺し』に描かれていた騎士団長そっくりの小人がいた。
騎士団長は「私」に、自分の姿が見えたり、自分の声が聞こえるのは「私」だけだから、自分のことを人に話すと狂人と思われるから注意せよ、と言い残して消える。その後、ときどき騎士団長が現れ、「私」に有効なアドバイスをくれる。騎士団長は予知能力があるようなのだ。
免色の肖像画を完成させると、今度は秋川まりえ十三歳の少女の肖像画を描くよう免色は「私」に依頼する。提示したギャラはやはり高額だった。
まりえは叔母の笙子と近所に住んでおり、「私」の絵画教室の生徒だった。免色の話では、まりえの亡くなった母は昔の自分の恋人で、諸事情から推理するとまりえは自分の生物学的な娘かもしれないとのことだったが、このことはまりえに内緒にするように言われた。
かくしてまりえも肖像画のモデルとして「私」のアトリエに通うようになる。
だがある日、まりえが行方不明になる。そんなとき政彦から電話がある。父、具彦が危篤だから来てほしいとのことだった。
「私」が政彦と具彦の病室に行くと政彦の携帯が鳴り、政彦は病室を出る。すると騎士団長が現れ、まりえを見つけたければ、自分を殺すよう指示する。「私」は出刃包丁で騎士団長を刺し殺す。すると病室の隅に穴が開き、穴から「顔なが」が現れる。
「顔なが」は日本画『騎士団長殺し』の左端に描かれた謎の男で「私」が勝手に「顔なが」と命名していた。
「私」は「顔なが」が現れた穴の中に入る。中はファンタジーワールドだった。気がつくと「私」は自宅の庭にある穴の中にいた。免色が穴の外にいて、腕を引っ張ってもらって穴の外に出た。
免色の話ではまりえは自宅に戻ったという。
「私」はまりえと二人になり、どこへ行っていたのか話しを聞いた。実はまりえは家出をして、四日間、免色の豪邸の中にいたとのことだった。ところでまりえも騎士団長が見えた。騎士団長の指示に従って、行動していたとのことだった。
その後、「私」はユズと復縁し、再び東京に戻ってきた。ユズは妊娠していた。「私」が東北旅行中に身ごもった子だから、物理的に自分の子ではない。だがユズとエッチした夢を見た日に身ごもったのだ。あの日、「私」は生霊となって、東北から東京にテレポートしてユズとまぐわったのではないか。
やがて女の子が生まれた。名前はむろ。「私」は寝ているむろに「騎士団長はほんとうにいたんだ」と語りかけ、物語は終わる。
2. 春樹がアスリートなら”基礎体力”や”身体能力”がすごい
まず「なろう」感想的に「良い点」から。
春樹の場合、アスリート的に言えば、小説家としての”基礎体力”や”身体能力”が飛び抜けてすごい。ここでいう”基礎体力”や”身体能力”は、文章力、描写力、構成力のことであり、これはジャンル作家としての専門知識や専門的テクニックと対極にある技能だ。
評論、エッセー、詩歌、戯曲、シナリオではなく、小説という形式の散文を執筆するとき、基礎的創作能力となるのは、上記の文章力、描写力、構成力だ。
時間の流れの描き方もすごい。過去、現在、未来の時間軸に沿って単純に小説を進行させるのでなく、フラッシュバックのように、過去のあるストーリーを複数回別の角度から語る、というテクニックを使っている。
たとえば東北の行きずりの女との性交シーンだが、最初に全体のストーリーを紹介し、別のストーリーに飛んだ後、かなり後になってフラッシュバックのように、あのときSM的プレイをしたことが紹介される。
これらの時間の流れのテクニックは、映画やテレビドラマの手法から来ているのだろうか。それとも現代前衛文学である程度確立された方法論なのだろうか。
まりえが免色の邸宅内に潜伏するというストーリーは全編のクライマックスシーンの一つだが、三人称小説で書かれる。全編は一人称小説だが、「私」にまりえが語ったストーリーとして、かなり長い三人称小説が挿入されるのだ。考え方によっては、これも前衛的手法である。
だが春樹の場合、実験小説と思わせない天衣無縫の完成度があり、読者は小説の方法論など意識することなく、自然に読めるだろう。
全編で一番面白かったのは、東北にいる「私」が生霊になり、東京にテレポートしてユズと性交してはらませてしまうシーンだ。
全編に渡り18禁性描写が出てくる。賛否両論は出そうだが、プラトニックな恋愛小説からポルノ的性描写まで自在に描写できるレパートリーの広さも、春樹の作家としての実力をうかがい知ることができる。
万年ノーベル賞候補作家の面目躍如といったところか。
3. メタファーの使い過ぎは”ヤメタファー”がいい
次に「悪い点」すなわち、ハルキ殺し、ハルキスト殺しを執行しよう。
騎士団長や「顔なが」などのファンタジー的ほのぼのキャラクターは小説全体をぶち壊している感がある。超常現象を登場させること自体は賛成だが、もっとモダンホラー色を出した方がよかったのでは。
またこうしたキャラクターが哲学を語るのもどうかと思う。
4. 静謐で孤高の空間こそハルキワールドの神髄か
十三歳で亡くなった妹のコミ、コミの面影を持つ妻のユズ、娘のむろ、『騎士団長殺し』に描かれたドンナ・アンナ、そして全編のヒロイン役、秋川まりえ。
これらの貧乳ロリコン美少女キャラは複数のキャラクターながら、春樹が意図的に同一のイデアで統一したキャラクターなのだろう。
これが何を意味するのか、私にはわからない。文芸評論家のコメント待ちである。
乗っている自動車のブランドで人物描写をする、というアイデアも貧乏人の私には嫌味だが、オリジナル性の強い春樹ならではの手法だ。
お金持ちの免色と政彦はそれぞれジャガーとボルボ。「私」は以前はプジョー、金のない今はカローラのワゴン。おばさんたちはミニやプリウス。そしてラスボスキャラがスバル・フォレスター。
再三登場する「白いスバル・フォレスターの男」だが、果たして実在するかどうかもわからない。「私」が脳内で勝手に作り上げたラスボスキャラかもしれない。このへんにも何か春樹の意図があるのだろうか。
小田原の山に佇む邸宅で一人籠って絵を描く。こうした静謐で孤高の空間こそハルキワールドであり、またここに戻って来たなという独特の安堵と至福の感覚が、読書中、ハルキストたちに訪れる。
5. で、『騎士団長殺し』は読むべきかスルーすべきか
アマゾンの五つ星評価で採点すると、『ノルウェイの森』は4~5星、『風の歌を聴け』は3~4星、そして『騎士団長殺し』は3~5星、それ以外の作品は3星以下。これが私の個人的評価だ(ただし初期作品しか読んでいません)。
『ノルウェイの森』は道を歩いている人をランダムに選んで読ませたら、30%くらいの人が面白いと思うのではないか。これに対し、『風の歌を聴け』は少しクセがあり、10%くらいに下がる。ハルキストでない人にはついて行きづらい世界なのだ。
『騎士団長殺し』の場合、作家の力量がすごいことはわかるが、最後まで読んで面白いかといわれると微妙。オチがつまらないのだ。
ではどうしたら、『騎士団長殺し』は面白くなるのか。
以下、自分が『騎士団長殺し』の改良案を考えてみた。
①もっとポルノ風にする
秋川まりえの肖像画を描くとき、服を脱がしてヌードモデルにしてしまうのはどうか。それを免色が軍事式双眼鏡で覗き見するのだ。
実はロリコン変態オヤジの免色が「私」に高額ギャラを餌に近づいた本当の目的はこれだった......。
これだけ性描写が激しい小説だから、まりえを”食わない”手はない。だがまりえは十三歳、児童ポルノ法に引っかかる。これではノーベル賞はもらえなくなる。
だから春樹はまりえに手を出さなかったのか。打算のために、得意のエロ描写を捨てるとは情けなや......と思うあなたはエロキスト?
文芸評論家から点数を稼ぐには、フランス文学風恋愛小説にまとめるのが一つの手だ。つまり官能的表現を多用しながらポルノそのものでなく、何らかのメタファーをテーマにしたフランス文学風純文学作品にもっていくのだ。だがいかんせん春樹はフランス文学には疎そうだ。春樹の専門は英米文学。それも純文学だけでなくエンターティメント系もフォローしている。
②もっとモダンホラー風にする
騎士団長や「顔なし」は、ファンタジー的ほのぼのキャラはやめて、チャイルドプレイに出てくる人形のような怖いキャラにした方がいい。哲学的会話はやめ、騎士団長たちは、普段は猛獣のように唸るだけだが、どきどき単語をしゃべる。その単語をヒントに「私」は行動する、というのはどうか。
全編、モタンホラー小説に書き換えるのだ。春樹はモダンホラーにも造詣が深いはずだ。
そもそもスティーブン・キングの文学性を最初に指摘した日本人が春樹だったのでないか。原書で『シャイニング』を読み、「ジェットコースターなみに面白い」と春樹がエッセーに書いたのが80年代。それまでキングはホラー映画の原作小説の作家というぐらいしか日本人には認識がなかったが、春樹が絶賛して以降、多くの日本の評論家がキングを評価するようになったのだ。
③もっとハードボイルド風にする
まりえが免色の邸宅に潜入するときの描写を読んだとき、私はロバート・R・マキャモンの「マイン」を思い出した。これは私の中でベストのアクション小説だ。
性描写がこれだけ書けるなら、これにアクション描写が加われば、極上のハードボイルド小説になる。
「私」と「顔なが」の格闘シーンは出てくるが、「顔なが」が弱々しいキャラなので、これでは迫力がない。どうせなら「白いスバル・フォレスターの男」のような強くて悪くて怖いキャラと格闘すべきだろう。そうでないとハードボイルドワンダーランドにならない。
免色が破格のギャラで「私」に肖像画を描かせたのは裏があった。実は暗黒街の大物だった免色は殺人事件のアリバイ工作や、株の不正取引工作に「私」を利用したのだ......。
「誰がおまえのような三文画家を高額ギャラで雇うか。おまえはおれに利用されただけ。もう用済みだから、口封じに死んでもらう」
絶体絶命のピンチに追い込まれた「私」は超人的な活躍で窮地を脱し、悪の権化、免色をやっつけ、めでたしめでたし、というストーリーにしてはどうか。
はたして『騎士団長殺し』は読むに値するかどうか。それはあなた自身が上記のエッセーを読んで決めていただきたい。
(了)
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「龍 vs 春樹 比較”村上”文学論」
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「ポルノか文学か 村上春樹 vs 渡辺淳一」
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