#2 日常の中で (1)
ある日の夜、霧村夕は自分の家の前にいた。門を開け、玄関の前に来た。取っ手に手を掛けて、引く。扉がガチャリと開いた。夕は控え目に、
「ただいまぁ〜」
と呟く。すると、ドタドタと足音が聞こえてきた。
夕は「はぁ」と頭に手をやった。
それとほぼ同時に幼い少女が姿を現した。
「おとーさん!!」
その女の子はそう叫び、夕に抱きついた。
夕は仕方なさそうに、しかし、嬉しそうに、頭を撫でる。
「よしよし。いい子だったか? ソフィー」
ソフィーと呼ばれた女の子は満面の笑みで頷いた。
「うん!!」
ソフィーの力強い答えに夕は微笑む。
そして、家に上がる。
「そうかそうか。いい子だな。ソフィーは」
「〜♪ 〜♪」
ソフィーは嬉しそうに鼻歌を歌っている。
アホ毛も踊っている。
「おとーさん!! ごはん食べよっ! ごはん!!」
ソフィーは夕の手を引いてダイニングテーブルまで走り出す。
ダイニングテーブルには、ラップのしてある料理が並んでいた。夕はなんとなく聞いてみた。
「待っててくれたのか?」
「うん!! 今日は帰って来る日だからっ!」
ソフィーの邪気の無い答えを聞いて、にこりと笑った夕はラップを取り、料理を電子レンジの中に入れる。
「そうかぁ。ありがとうな。この料理は紅葉?」
紅葉とは、幼馴染の名だ。
「うん。くれはだよ。でもでも、ソフィーも頑張ったんだよ! 手伝ったの! これとかこれとか!」
ソフィーがテーブルに乗っているサラダをピョンピョン飛び跳ねながら指差す。
「へぇ、そりゃ美味そうだな。ハハ、綺麗に盛り付けたな」
夕はソフィーの頭をワシャワシャと撫でる。
ソフィーは嬉しそうに目を細めている。
「えへへ」
料理が温まったので、電子レンジから取り出して、改めて並べる。色どり豊かでとても美味しそうだ。つい唾を飲み込んでしまう。
「美味しそうだなぁ。いただきます」
夕がそう言うと、ソフィーも手をぺたんと合わせる。
「いただきまーす」
夕とソフィーは食事しながらいろいろ話をした。
何しろ一年ぶりの再開なのだ。話すことはたくさんある。まぁ、夕はほとんど聞き手に徹していたのだが。
ごはんも食べ終わり、食器を食洗機に入れ、一段落つく。ソファーでぐだぁ〜っとしていると、ソフィーが夕の服を引っ張る。
「ん〜? どうした? ソフィー?」
「お風呂〜。お風呂入ろ〜」
むーっと力を込めて引っ張るソフィー。
「一人で入れるだろう?」
「むぅ。はいれるけど、入りたいの! ねぇ、おとーさん〜。はいろ〜よ〜」
「はぁ。はいはい。分かった分かった。ほら行こうか」
夕はソフィーの背中を押しながら風呂まで連れていった。
わしゃわしゃわしゃわしゃ。
夕がソフィーの煌めく銀髪を洗っている。
今更だが、ソフィーは、銀髪で、目の色は淡い紫色だ。
夕はシャワーを持つ。
「ほら〜、目ぇ瞑っとけよ〜」
シャワーから出るお湯が泡を流していく。
輝かんばかりの銀髪、きめ細かい白い肌、クリッとした目。
そして、愛嬌のあるアホ毛。
「まだ8歳だけど、身内の贔屓目も多少はあるかもだけど、将来有望なんだろうなぁ。うーむ。ソフィーが大きくなって、『私たち、真剣に愛しあっているの』とか言う奴連れて来たら俺どんな反応するんだろうなぁー」
夕がうーんうーんと唸っていると、ソフィーが浴槽からお湯を掛けてきた。
「おとーさん。お風呂に入らないの〜? かぜひいちゃうよ?」
ソフィーの言葉で我に返って、夕はお風呂にざぶんと浸かる。そして、ソフィーのアホ毛を弄ってみる。その後に、ペチペチとソフィーの頭を軽く叩く。
「むぅ。おとーさん? どうしたの?」
「いや別に、一人で入るよりだいぶマシだなぁっとね……」
「じゃあ、あしたはくれはもいっしょにはいる?」
「……。俺はいいかな……」
「むぅ。ざんねん」
ぷくりとむくれるソフィー。
夕はよしよしと頭を撫でる。夕が浴槽に背中を預け、あぐらをかいていると、その上にソフィーがちょこんと座り、夕の腹に背中を預けてきた。
「どうしたの急に? お風呂は広いよ?」
「ソフィーがしたいの。だからいいの」
「ははは。そうかぁ」
だからいいのって、俺の意見は? と思いつつも、そのままにしておく。夕は基本的にソフィーに甘いのである。
いくらか時間が過ぎた。ソフィーがうつらうつらしている。
夕はソフィーを抱えあげる。
「あがるぞ〜」
「……。うん」
夕は湯冷めする前にソフィーの体を拭く。
「むぅ。ねむい」
「おうおう。よしよし、歯磨きしたらな」
寝ぼけなまこのソフィーに歯磨きをさせて、布団の中に入れる。
夕は電灯を消した。
「おやすみ、ソフィー」
「……おとーさん」
ソフィーが出て行こうとしていた夕を呼び止める。
「ん? なんだい?」
「わがまま……いっていい?」
「あぁ、いいさ。俺の出来る範囲ならね」
「ソフィーの……となりにいて……ほしいの……。ねるまで……でいいから……。おねがいだよ……。おとーさん……」
「そんなことかい。全然いいよ。それくらいならね。ほら、横にいるから。安心して寝なさい」
ソフィーは安心したかのようにため息をついた。
「うん。ありがとう……。おとーさん」
そして、ソフィーは目を瞑った。
寝息が聞こえるまで、十分とかからなかった。
夕は優しげに微笑んで立ち上がる。その時、ソフィーが苦しそうに呻いた。
「うぅ……」
夕はまた座り込み、心配そうにソフィーの頭を撫でる。
「パパ……。ママァ……。おねえちゃん……」
夕は悔しそうに俯き、部屋の壁に背中を預ける。
「うぅぁぁ……。パパァ……。ママァ……。おねえちゃん……」
ソフィーがよりいっそう苦しそうに呻く。
「ソフィー……」
夕はソフィーの横に行って床に寝転がり、ソフィーの顔の前にある手を握ってやる。
「ソフィー。お前は一人じゃない。俺が……俺がいるからな」
すると、少しずつソフィーの呻き声が小さくなっていく。
「ソフィー。お前はまだ……」
ソフィー。フルネームはソフィア=フェンドーバルツ。8歳。もちろん、血は繋がっていない。
しかし何故、夕のことをおとーさんと呼ぶのか。
答えは簡単だ。夕が育てたからだ。
どういうことか。
家の前に2歳のソフィーが捨てられていたのを拾ったのだ。拾って養うことを決めたのは夕の父、霧村一なのだが、基本的に家にいないため、夕が養育することになった。
つまり、夕が父親といっても過言ではないのだ。
しかし、一年前、夕が中三になるとき、留学が決定してしまった。
もちろんソフィーは一に懐いていないため、世話なんて出来るわけがない。
だから夕は幼馴染の紅葉にお世話を頼んだ。紅葉とて、懐いているわけではないが、一に比べると断然マシだ。
というわけで、一年ぶりの再開なのだ。夕も嬉しかったし、ソフィーも喜んでいた。
夕はソフィーを見守りながら、横になっていた。
すると、急に旅の疲れがどっと押し寄せてきて、眠くなる。
「ここで寝るか。おやすみ、ソフィー」
夕は床で自分の腕を枕にして眠る。
明くる朝、夕は身動きが取れないでいた。犯人は幼馴染である、小野田紅葉だ。
「おい? どうしてこうなった!!」
どういう状況かというと、こうだ。
寝技を完全に決められているのである。
寝技でも 女と思えば 悪くない
いや、川柳を詠んで現実逃避している場合でもない。
「おい……、おい……?」
「……」
返答がない。
「なんか言えよ! 怖いだろうがっ! ていうかとりあえず放してくれ!」
夕はとりあえずコミュニケーションをとろうとする。これ、人間関係の基本ね。大事なことだ。
「いやなんだよ。まだまだ続きがあるんだよ」
「え? マジ? これ序章?」
「うん。まだ始まったばっかりなんだよ。プロローグ的な」
紅葉は、不穏なことを言ったかと思うと、次の瞬間、関節技に移行し、完全にキメにかかってきた。
「うわああぁっ! ちょっと待て!! 待って‼︎待ってくださいィ!? 俺、お前になんかしたかよ! 絶対何もしてないからな! ってにこやかに無視してんじゃねぇぇぇっっっ!」
「ったくもう。夕はうるさいんだよ。大人しく私にやられとけばいいんだよ。夜は夕にやられっぱなしだったから、今度は私の番なんだよ」
「俺は昨日の夜は普通に寝たぞ!!」
「じゃああれは無意識だったの?! 馬みたいな夕に私は……私は……」
見えないが、紅葉はヨヨヨと泣き崩れる。
チャンスじゃね? 割とチャンスじゃね? 脱出出来たりするんじゃねぇ?
夕はぬるりと脱出しようと体を動かす。
が、抜け出せなかった。
「甘いんだよ、夕は。昔から」
「とりあえず話をしよう。な? 落ち着け?」
夕は宥めるように話しかける。
「……。うん、分かった」
「……」
「……」
「放してくれないの? 紅葉」
「どうして放さなきゃいけないの?」
「は? いや、話しにくいというか……」
「戯言はいいんだよ。私の貞操を奪った言い訳を……」
「嘘つけぇっ‼︎」
夕はあらん限り叫ぶ。
「いや、ありえんから! なんで! 俺が! お前を!?」
すると、紅葉はあっけらかんと言い放つ。
「いやまぁ、嘘なんだけど……」
「だろうなぁ! 俺寝たもん!普通に寝たもん!」
しかし、夕の叫び声を搔き消すほど冷たい一言が放たれる。
「私のソフィたんと一緒に寝るとか許さない……」
「…………。は?」
「!? 何普通に年端もいかない幼女と一緒に寝てるのよ! 私が移動させるためにどれだけ気を使ったか分かる?」
紅葉は「しくじったぁっ」みたいな顔をして、誤魔化すように一気にまくし立てる。夕からは表情は見えないが。
あっ、ホントだ。移動してる。ん?
「ん? あれ? お前さっきと」
「ロリコン! 変態! 幼女趣味! 学校で広めてやるんだからっ」
「ちょぉっと待てぇっ?!」
は? は? いや、は?
「何よ。なんか言い訳でもあるの? ずるい……。ソフィたんと添い寝……」
紅葉は夕に喋らせずに叫ぶ。最後に本音が垣間見えた様な気がするが……
「紅葉?」
「夕がそんな見境い無しだったなんて!! ブツブツブツブツブツブツブツ……」
紅葉はすっかり自分の世界に入り込んでいる。気づけば、夕ゆうへの関節技もすっかり緩んでいる。
チャァンスゥゥッッ!!
夕は一気にヌルッと抜け出した。あれ? 簡単すぎん? 何で?
とりあえず、夕は紅葉の頬をつつく。
「あの? 紅葉さーん?」
「私なんてまだ……。うるさい。黙って」
物凄く睨まれた。怖い。すごく怖い。夕は縮こまるしかなかった。
「あっはい。ごめんなさいごめんなさい……」
「分かればよろ……って、あれ? 夕! いつの間に!」
そういえば、紅葉と会うの久しぶり……。
「相も変わらず元気そうだねぇ。紅葉」
改めて、小野田紅葉。割と幼馴染。髪は艶やかな黒髪で、ロングポニーテール。体型はスレンダー。胸元は少し……寂しい……。顔はいいのに、っていうか素晴らしくいいのに、天然な所があり、ただの運動バカ。
そんな可愛い女子高生である。
「誰が運動バカよ!」
「あれー。語尾が普通だー」
あれー。心読まれたー? 夕は戦慄し、なるべく考えないようにしようと誓った。
「当たり前よっ!! あんな恥ずかしいこといつまでもやれないわよ!」
「自覚あったんならなんでやるの!?」
「えっ、いやだって、キャラ濃ゆくしとこうかな〜と思って」
「多分初手から俺に絡みついてボコボコにしようとしてる時点で十分だと思うよ……」
「なっ⁉︎ じゃ、じゃあ、私の努力は水の泡……ってこと……?」
「いや、大成功だろうよ……」
いい意味で、とは限らんけどな。
「で?」
「で? って?」
「どうしてここにいるんだ? 俺、メールした気がするんだけど? 昨日帰って来たから、今までお世話ありがとうって」
「あぁ、来たわね。それが?」
紅葉が心底意味がわからないという風に首をかしげる。
「いや、普通は依頼終わったんだなぁ〜とか思わない?」
「何よ? 用がなくなったからポイってわけ!?」
本当は今まで起きているソフィーしか見たことがなくて、夕がいる今なら安心して寝ているであろうソフィーの寝顔が見れるのではないかと思っていたとか言えない。
「えっ? 言い方悪くない?」
「とにかくっ! ソフィたんの寝が……じゃなくて、起こしに行くわよ!」
「くれは?」
「うわおぅっ⁈」
紅葉がビビッて、バッと後ろを振り向くと、眠たげに目をこするソフィーがいた。
「起きちゃった……の?」
紅葉はガクリと膝から崩れ落ちた。
「うん。くれはうるさかったから」
紅葉はさらに崩れ落ちたが、寝起きのソフィーを見て、少し落ち着いたのか、すっきりした顔で立ち上がった。
「今日は寝起きの顔、明日は寝顔。よし」
紅葉がグッと拳を握る。
「え? 明日も来るの?」
「え? ダメなの?」
「だって、俺帰って来たし」
「ほ、ほら、料理とか、家事とか……」
「かじ……。きとう?」
ソフィーが首をかしげる。アホ毛も一緒にかしげている。
加持祈祷って、何でお前はそんな難しい言葉を知っている……。ソフィーよ……。まぁ、いいや。
「……。俺、あっちで一人暮らしだったけど」
「いや、そうだけどぉっ! あっ、そうだ! 料理美味しかったでしょっ!? ねっ?」
紅葉さんが必死すぎて怖いです。
「そりゃまぁ……」
「うん! おとーさんのごはんよりおいしかった! くれはのごはん! ソフィーはくれはのごはんがいい! あさごはんまだ!?」
ソフィーがぴょんぴょん跳ねて自己主張する。アホ毛もぴょんぴょん跳ねて自己主張する。
マジか……。このアホ毛って一体……?
「おっおう……。そうか……。ソフィーがそこまで言うならいいけど……」
ソフィーとアホ毛のあまりの勢いにしどろもどろになりつつ、暗に自分の料理が美味しくないと言われ、ガッカリする夕。
それを見て紅葉は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「くれは? あさごはんは?」
「あっうん! 今から作るからちょっと待っててね〜」
「うん!」