あの世への引っ越し準備
「お久しぶりでーす。この間の休日に旅行に行きまして、そのときのお土産を今日は持ってきました」
どうぞ、と夏は、気温の高さで汗ばんだ手を青木さんに差し出す。その手にはしっかりと紙袋が握られていた。
「あらぁ、良いの? 私、お土産もらうのなんて久しぶりだわぁ」
青木さんは嬉しそうに目を細める。その瞬間暑さが和らぎ、蝉の鳴き声も静まった気がした。
青木さんの笑顔は、夏にとって特別なのだ。彼女が笑うと、日々の生活で出来た心の傷が癒されるような、そんな感覚になる。
彼女は、今年で73歳を迎える、白髪頭が似合うお婆さんだ。夏海と同じハイツに住む住人でもある。
そして、夏がそんな彼女の笑顔にどこかホッとしているのには、理由がある。
それは、彼女が夏海の祖母にどことなく似ているからだった。ただ勘違いしないで欲しい。似ているのは顔もそうだが、特に立ち振舞いや雰囲気である。
ちなみに、夏の祖母は夏が小学生の頃に病で亡くなっていた。
「ありがとう」
青木さんは、更に目を細くしながら紙袋を受け取った。
夏はその表情に懐かしさを噛み締める。
「そうそう。最近ね、ここ辺りで泥棒とか空き巣とかが増えているらしいのよ。夏も戸締まりはしっかりね」
心配そうに顔を覗き込む姿は、まさに夏の祖母そっくりであった。
その事にまた少し驚きながらも、夏はぎこちなく頷く。
「はい、気を付けます」
頷いた夏を見て安心したのか、青木さんは他の話題を振りだした。
「そういえばねぇ、また小学生が夜中にやって来たのよ。本当に困るわぁ。あんな時間に悲鳴あげるんだもの」
このハイツは、小学生の子曰く「お化け屋敷」のようなもののようで、夏になると夜に肝試しに来る子供達が後を絶えなかった。肝試しということだからか、子供達は決まって悲鳴をあげ、逃げて行く。
だが、小学生の子はここを「お化け屋敷」なんて言っているが、見た目は築10年ぐらいのものだ。まぁ、リフォームを繰り返した築30年のハイツではあるけれど……。
コクコクと頷いて、夏は相槌をうつ。
確かに、悲鳴をあげるのは勘弁して欲しかった。
夜寝ているときに外で悲鳴が聞こえたら、当然目を覚ます。
このアパートに住み始めてまもない頃は、夏も子供達の悲鳴が聞こえる度に外まで行き、確認したものだった。今は、慣れからか流石にそこまではしない。
「でも、子供達が肝試しに来るほどこのハイツって古く見えるでしょうか」
思っていた疑問を口にする。
「そうよねぇ、築三十年って言ってもリフォームしてるし」
青木さんはため息をついた。
リフォームで塗装などもしているからか、そこまで古い感じはしないはずだ。また、そんなに暗い感じもしない。電灯も多く設置してあるからだ。
「あ、誰かが来たみたい。そろそろおいとましますね!」
夏は階段を上がってくる足音を聞き、慌てて扉を閉めた。そして、逃げるように自分の部屋に入る。夏の部屋も、青木さんと同じ二階なのだ。
しばらくして、夏はそっとドアを開けるが、そこには誰もいなかった。
おおかた、自分の部屋に行ったのだろう。
夏はその事に安心して、また扉を閉める。夏は人が大の苦手なのだ。
買い物袋からレトルト食品を取りだし、電子レンジで温める。夕御飯としてそれを食べたら、お風呂に入り、寝る。
これが夏の日常であった。
けれど、夏の間だけ特別にやっていることがあった。
それは、ベランダから星を観察することだった。夜風に当たりながら、真っ暗な夜空に浮かぶ、輝く星を眺めるのは、夏の1つの楽しみでもある。
そして今日も星空を眺めていると、例の小学生がやって来た。
また悲鳴をあげて逃げて行くに違いない。そうしなかったことは1度もないからだ。
下の方から声が聞こえてくる。
「出るって本当か?」
「おう、本物らしいぜ。菅原達も見たって言ってたし」
「菅原? アイツってここに住んでんじゃねーの?」
毎日のように代わり番子で来る小学生に夏はうんざりする。折角の静かな雰囲気が台無しだ。
「ああ、そうらしいな。でも、菅原は、そこの部屋には誰も住んでいないって言ってる」
「そ、そ、それ、ガチなヤツじゃん。つ、憑いたりしないよな!」
「いや、憑いたって言ってるヤツはあんまいないし、大丈夫だろ」
鮮明に聞こえてくる少年達の声に、夏はいつものように腹立たしさを感じる。
……私の時間を邪魔しないでよ。
その時、片方の男の子がこちらを見上げる。
「で、でででで、で、出たぁーー!!!!!」
突然、耳をつんざくような悲鳴をあげ、少年達は蒼白な顔でハイツの敷地内から出ていった。
「……また悲鳴?」
会社から帰ってテレビを見ていると、決まったように悲鳴が聞こえてくる。
気になって外を見に行ったこともあるが、事件のような気配はしなかった。だから、最近はそれを聞いてため息をつく。また? と。
だが、上田はいつものように聞こえてくるこの悲鳴が何なのか気になっていた。
話に聞くと、このハイツは「お化け屋敷」として近所の小学生の間で密かに有名になっているらしい。
だが、上田にとってこのハイツはそう古く見えなかったので、ちょっと不思議だ。そういえば、何年か前にリフォームをしたとは聞いているが。
そして、小学生の間の噂には続きがあった。夜、それも真夜中にハイツの敷地をうろついていると、誰も住んでいないはずの部屋のベランダから女性が顔を出している、と。年齢は二十代くらいで、かなり若いらしい。
上田は元々、オカルト系は苦手なのだが、今回は自分の住んでいるハイツの話というのもあって気になっていた。小学生にわざわざ聞きに行ったのもその為だ。
「いや、噂だし、そんな事あるわけないよな」
そう、今日は確かめてみようと思ったのだ。
何を?
もちろん、このハイツにまつわる噂ついてだ。
震える足で玄関に向かう。
パチン。
電気を消そうとすると、突如そんな音が聞え、部屋の電気が消えた。自分で消したのではない。
驚いた上田は、部屋を振り返る。
突如現れた、禍々しい雰囲気。だが、特に電気が消えただけで部屋に異常はない。そう、上田以外には誰もいないのだ。
誰も居ないことに安心したのか、それとも恐怖したのか。いや、はたまたその両方なのか。
玄関から部屋を出た上田は、ゆっくりと噂の場所へと近づいて行く。
そして、着いた。
ゆっくりとハイツの全てのベランダを見渡す。
目に入った電灯は、チカチカと点滅して、今にも消えそうになっている。
「やっぱり、いるわけないよな…………うん……………………、アハハ……。こんな歳したおっさんが何して…………………………ふぇ!?」
ぼんやりとベランダを眺めていると、チカチカと点滅する電灯が二○二号室のベランダの女性を照らしていた。
見間違いかと思って二度見するが、どうやら本当にベランダに立っているらしい。いくら見ても女性は居なくならなかった。
「で、………………出やがった………」
腰が抜けたのか立ち上がることが出来ない。自分の恐怖体験への耐性の無さを嘆いたが、今更どうしようもなかった。
上田は、ただ口をパクパクと開閉しながらベランダを見つめるだけだ。
すると、何故かベランダにいる幽霊の方から話しかけてきた。
「……大丈夫ですか?」
え? 今なんと。
まさか、お化けが人の心配を?
「すみません。腰が抜けてしまったようで」
何言ってんだ、俺。幽霊相手に。
だが、そいつは心配そうにベランダの手すりから身を乗り出したあと、こっちに向かうためか、部屋に引っ込んでしまった。
こっちに来る?
心臓が跳び跳ねた。
いや、ヤバイって。幽霊がこっちに近づいて来てるってことだろ? たまったもんじゃないぜ?
逃げようとするが、体が思うように動かない。
そうだ、俺、腰抜けてるんだった……。
そうこうしている間に、例のヤツはこっちへと近づいて来た。
「……大丈夫ですか?」
大丈夫なわけあるかっ!
と、思ったのだが、近くで見るヤツは、普通の女性にしか見えなくて……、上田は少しずつ冷静を取り戻していった。
「…………だ、大丈夫です」
まだ立つことも出来ないが、社交辞令のようにそう答える。
「……私じゃあなたを家まで運ぶことも出来ませんよね……」
悲しそうにうなだれる彼女は、本当に普通の女性のようだった。
何故ベランダで見たときは幽霊だと思ったのだろう。小学生が幽霊だと言っていたからかもしれない。
「君、二○二号室の子?」
気になって聞いてみる。あそこの部屋で今まで人の出入りしているところを見たことはないが、本当はこの子が住んでいたのかもしれなかった。確かに誰かが住んでいるような気配は以前からあったのだから。
すると彼女は小さく頷く。
住んでいたのか。
幽霊ではなかった。その事に、上田はホッとした。
それから一ヶ月が経ち、上田とその子、つまり夏は、そこそこ仲が良くなっていた。それは、夏の通っている大学が、上田の通っていた大学と同じだったからだ。勉強について聞かれたり、大学について聞かれたりと、それなりによく話す。
だが、しばらくして上田は二階に住む青木さんに話しかけられることとなる。
「あなた、夏ちゃんと結構お話しするのね」
いつもにこやかな感じで挨拶を交わしてくれる青木さんは、この時だけは固い表情をしていた。
それにつられ、上田も背筋をピンと伸ばす。
「はい」
嘘をつく理由もないので素直に肯定する。
何故こんなに固い表情の青木さんと話しているのだろう。
そんな疑問が生まれる。
それから、青木さんが「夏ちゃん」と彼女の名前を呼ぶのだから、青木さんもまた、彼女と仲が良いに違いない。そう上田は推理する。
「……あの子とは、あまり話さない方が身のためよ。会話は最小限に留めて?」
突然のお願いに、上田は目を白黒させた。
何故そんなことを赤の他人に言われなければならない?
「失礼ですが、何故そのようなことを仰るのです?」
少しばかり声をきつくさせ、青木さんに問う。
すると、青木さんはここでは話せないから、と家の玄関に上田を招き入れた。もちろん上田は戸惑う。
「……その、ねぇ。あの子はもう…………××××××。だから、そっとしておいてくれないかしら」
その後も話は続き、それを聞きながら上田は目を見開いた。
膝がガクガクと震えて、頭が真っ白になるのを感じる。
「……青木さんは…………青木さんは大丈夫なのですか?」
唇の震えを必死に抑えて、上田は青木さんに尋ねる。
「私は大丈夫よ。もう年齢的に長くないしねぇ」
上田は、ホホホと笑う青木さんを強い人だと思った。
それからたった一週間後、原因不明の死を遂げた青木さんが、このハイツで見つかった。彼女はあの笑顔を顔に讃えたまま、穏やかな様子で亡くなっていたらしい。不謹慎だとは思うが、なんとも彼女らしい死に顔だと上田は思った。
葬式に行った際に、上田は参列者の話を耳にする。
「青木さん、お孫さんの写真を握り締めて亡くなっていたそうよ。そのお孫さん、今生きていたら大学生かしら。きっと綺麗な子になってたでしょうね。……残念ね。青木さん、あのこの子の事、凄く大事にしてたから。きっと成人式も見たかったはず……」
そう言って女性はハンカチを目元に当てる。
生前、青木さんと仲が良かった人なのかもしれなかった。
青木さんのお孫さんは、とうに亡くなっていたらしい。そして、お孫さんの写真を握り締めながら亡くなったということは、お孫さんのことを考えながら亡くなったということ。それほどお孫さんを愛していたということだった。
『今生きていたら大学生かしら』
女性の言葉が上田の頭に蘇った。大学生というと、夏と同じぐらいだ。
──やはり、犯人は……。
上田は自分の部屋に戻り、一息ついた。
頭が混乱して上手く働かない。ただ、青木さんがどんな気持ちで最期を迎えたのかを考えているだけで。本当に幸せだったのだろうか。
そんなことを考えていると、どこからか不気味な笑い声がした。
「……やっと見つけました。私のお友達」
やっときたか。
ささやくような声にヒヤリと背中に冷たいものが流れる。視界がユラリと揺れる。動悸を感じる。
死んでいながらも、死んでいない振りをして人に近づいた彼女。彼女が探しているものは、あの世に持っていく荷物だった。だが、それは普通の荷物ではない。人間も然り、だ。
青木さんは言っていた。
「あの子は一緒にあの世へ連れていく人を探しているのだと思う。だから、私があの子と一緒にいくわ。……だって、あの子は亜季にそっくりなんだもの。……ええ、この世に後悔はありません。娘もちゃんと独立してるもの」
亜季とは、恐らくお孫さんの事だ。
けれど、今何故彼女がここにいるのだろう。青木さんだけでは満足できなかったのか……?
上田は身震いする。そんな事があるわけがない。もしあったら……。
考えるだけでもおぞましい事が待っている。同居人であった友人が、つい最近この部屋から出ていったことが、今は痛い。今ここに友人がいたら、精神的にも少しはましだったはずだ。
「さぁ、付いてきてください」
どこからか聞こえる声は、どこか喜びを秘めている。
やっとあの世に行ける喜びか?
拒否しなければ。
そう思った次の瞬間、上田は今までにない禍々しさを感じた。
「………………あの…………世…………………………マ…………デ」
ゆっくりと途切れ途切れの声が耳元で聞こえたのだ。吐息が耳にかかるほど近くで。
飛び上がるように聞こえてきた方を向くが、そこに彼女の姿はない。
「ど、どこにいるんだ? だ、だ、誰だぁ!! ……お、俺は、俺は君と一緒になんかいかんぞ!?」
相手は分かっている。けれど、叫ばずにはいられなかった。震える声は、鈍く部屋に響くだけ……。
そして、上田が叫ぶのと同時に床が揺れ始める。一緒に行きたくないと言う上田に、彼女が怒っているかのようだった。
ガシャンッ!!
仲の良い同僚と二人で買ったグラスが、音をたてて落ちる。その他にも棚から物が落ちたり、写真立てが落ちたりする。
「……や、やめろっ! そんなの、君の自己満足じゃないか!!」
多分話さないようにするのが遅すぎたのだろう。彼女は上田に先輩としての好意を持っていた。
「……自己満足だろ? 本当はそんな事、自分が一番わかってるんじゃないのか!?」
その時、床の揺れがピタリとおさまった。
「……アナタ、は、……ジブン、ひとりデ…………トモダチもイナイ…………しらナイ……トコロへいけるノ…………?」
泣いている幼子のような声に、上田はハッとする。
彼女は寂しかっただけ。友達なしであの世にいくのが。
自分が死ぬとき、自分は寂しくないと言えるか?
答えはノーである。やはり誰か友達と一緒にいたいと思うに違いない。
だけど、その答えを飲み込んで、勇気を出し、上田は答える。
「い、行けるさ! どんなところにだって、一人で!」
上田がそういうと、途端に空気がすぅッと柔らかくなった。
だから、上田はなにもかもが終わったのだと安心のだった。
ところが翌日、上田が仕事に向かうため車に乗ろうとすると、どこからか恨めしげな声が聞こえた。
「……お前のせいだ。お前が一緒にいかなかったせいで……私は」
──彼女は今日も探している。
夏のホラー2016にて、16ポイント頂きました。投票頂き、本当にありがとうございました。