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「母上、リカルドです」

 リカルドの上げた声に、扉の向こうから小さく「どうぞ」と声が聞こえた。


 ラウーヤは、この街一番の高級宿だと記憶している。憧れの宿だと記憶しているそれを裏切り、今の私には古めかしさを感じるだけだった。

 世界が変われど、時代のようなものが違えど、ホテルの受付は似たようなものだった。リカルドは上客なのか、従業員が揃って礼を尽くしている。

 厚手のフェルトのようなものが敷かれた廊下を進み、普段使用している階段よりもその踏面の広い階段を上り、二階の一室の前に立つ。今まで通り過ぎてきた部屋の扉とはその装飾が違う。どの扉よりも豪華なその重そうな扉をリカルドが自分の名を名乗りながらノックすれば、間を置かず内側に開いていく。

 侍女が一人待機していた内玄関のような場所を通り過ぎ、いくつかある扉のうちのひとつを再びリカルドがノックした。今度は「母上」と呼びかけながら。


 同じように内側に開いていった扉のその先、クラシカルな長椅子に腰掛けた、やはりクラシカルなドレスを着た、まさに貴婦人がそこにいた。どうやらそれがリカルドの言う母上なのだろう。

「あら、そちらの方は?」

 寛いでいる様子なのに、その背はすっと伸び、どこか静寂な空気を纏ったその貴婦人の声は、その雰囲気と同じでとても静かで澄んだものだった。

「エルザの魂を持つ者です」

 その言葉に僅かに目を瞠った彼女は、小さく「なるほど」と呟いた。


 この清らかな雰囲気の彼女が、あの欲に塗れた領主の正妻だとは到底思えない。リカルドの母親ということは、あの領主の正妻だとわかってはいるものの、目の前の彼女を見る限り、それはとても信じ難いことだった。

「初めまして、(わたくし)はエミリア。あの男の妻でした」

「あっ、あの、私は……あの、有紗です」

 あまりの衝撃に言葉が上手く出てこない。恥ずかしくて俯きそうになってしまう。それでもなんとか、エルザの記憶にある礼の姿勢をとった。

 どう考えてもあの領主よりもこの貴婦人は高貴な方だ。そんな方に先に名乗らせてしまった。その事実に更に動揺する。

「ごめんなさいね。エルザの魂を持つあなたは、私になど会いたくはなかったでしょうに……」

「いえ、そんな……」

 あの館にいた妾の誰とも雰囲気がまるで異なる彼女は、その場ですっと立ち上がり、腰を落としその頭を垂れた。それは最上の礼の姿勢。かつて教会で教わった、高貴な人が謝罪の時にしかとらない姿だ。

「申し訳ございません」

 驚いているうちに彼女からもたらされた謝罪の言葉。有り得ない事態にどうしていいのかわからなくなる。

「そんな! やめてください!」

 思わず彼女の前に駆け寄り、膝をつき、高貴な方の体に触れていいものか一瞬躊躇しつつも、そっと彼女の肩に触れ、その体を起こす。

「ですがあの館に私がいたなら、あの様なことは起きずに済んだかもしれません」

 後悔を滲ませた彼女の言葉に、慌てて全身で否定する。

「そんなことありません。私を死に追いやったのは……」

「黒髪の女だね」

 後ろから聞こえたリカルドの確信めいた声に、はっとして振り向き彼を見上げる。


 そう、エルザは知らないまま死んでしまった。裏で全ての糸を引いていたのは、あの艶やかな黒髪を持つ美しい女。あの記憶を第三者の目で見ると、その端々にその邪な糸の存在が見え隠れする。

 エルザはお人好しすぎた。あんな女、追い出せば良かったのに。


「やはりな」

 私の表情を見たリカルドが小さくそう呟いた。その顔は怖いくらいに険しい。

 エミリアとリカルドに促され、エミリアが座っていた長椅子の正面にあった同じようにクラシカルな肘掛け椅子に腰を下ろす。待ちかねていたかのようなタイミングで、静かにお茶が猫足のコーヒーテーブルに並べられていく。


 リカルドは、どう見ても毒殺されたエルザの死に疑問を持ち、その死の原因と背景を数年に渡って調べていたらしい。

「数年、ですか? 十数年じゃなくて?」

「ああ、エルザが死んで今年で四年目となる」

「たった四年?」

 時間の流れが違うのだろうか。それとも時間とは関係なく、たまたまこのタイミングでここに来てしまったのだろうか。

「君は、アリサは、七歳の時にエルザの記憶を取り戻したのだろう?」

 どうして知っているのか、思わず目を瞠る。

 リカルドは私に関する秘密を知りすぎている。どういうことかがわからず、混乱する頭をなんとか落ち着かせようとしていると、リカルドがその理由をあっさりと教えてくれた。

「お告げがあった。エルザの死、エルザの魂を持つ君の存在、そして黒髪の女。母上は元巫女でね。婚姻の際巫女の座からは降りたはずなのに、その母上に三年ほど前に直接お告げがあった」

 元巫女。なるほどと思えるほど、エミリアの持つ雰囲気は清麗だ。


 巫女は教会に務める女性を指す言葉だ。神の声を感じることができる未婚の女性が、巫女として教会に務める。時に神の声を聞くこともあると云われている。

「既に黒髪の女は捕らえられ、処刑された。あの女は魔女だった」

「えっ? 魔女って、あの魔女? ですか?」

 言われてみれば、彼女はその瞳も黒かった。

「そうだ。聖水を浴びて正体を現し、捕らえられた」

 エルザのいた世界には、稀に魔女が姿を現す。

 現代で言われているような懐疑的な存在ではなく、本物の魔女で、巫女とは対局の存在だ。

 その姿は一見美しく、だがその性質は邪悪だ。聖水を浴びると美しかった姿が本来の醜悪な姿に戻ると云われている。

 滅するにはその首を一瞬で落とすしかなく、この世界のギロチンはまさに魔女のためだけに存在する。

「では、あの、エルザの婚約者だった彼は……」

「すでに心を狩られていた」

 どこか苦しそうなリカルドのその言葉に、エルザの記憶が悲鳴を上げる。


 魔女は心を狩る。まるで死神が持つ鎌のようなもので人の心を狩る。その狩り取った心を使って、妖術を行使しているとも、美しい姿を保つとも、単に養分として摂り込んでいるとも云われている。

 心を狩られた人は、魔女の傀儡となり、それは死をもってしか解放されない。

 ああ、きっと。エルザの死の知らせを受けた瞬間に、彼は心を狩られたのだろう。

 思い付いたその答えに、エルザの記憶が慟哭した。エルザは死して尚、彼を愛している。


 エルザの感情に揺さぶられそうになり、何とか己を保つ。私はエルザじゃない、有紗だ。

 目を閉じ、エルザの感情が収まるのを待つ。

 こんな風にエルザの記憶が感情のように揺らぐことなど今までなかった。まるで自分の中にエルザという存在が同居しているかのようだ。


 目を開けた瞬間に飛び込んできた、リカルドの労るような眼差しに、どうしてか泣きたくなる。

「君は、元の世界で夢を見ているような状態だ。元の世界の体が目覚めると、意識も元の世界に戻ると云われている。これもお告げでわかっていることなのだが、ただ、一体いつ元に戻るのかまではわからない。明日なのか、十日後なのか、数年後なのか」

 ことさら優しく聞こえるよう意図してかけられた言葉。気遣ってもらっている。それがわかった途端、自分の中の有紗が背筋を伸ばした。


 戻れることがわかってほっとする。それと同時にいつ戻れるかわからないことを不安に思う。それまでどうやって過ごせばいいのか。

「あなたの身は私がお預かりするつもりです。ですが、やはりお嫌でしょうか?」

 リカルドと同じように、優しく聞こえるエミリアの声。その申し出に、ありがたく思いこそすれ、嫌だなんて思わない。

「よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げれば、その必要はないのだとエミリアは言う。

「あなたにとっては迷惑なことでしょうが、私にとっては償いのようなものです」

 エミリアが償わなければならないことなど何もない。あの領主の正妻だと聞いても、エミリアに対しては怒りも憎しみも湧いてこない。エルザの記憶の中からも彼女に対する感情は何も見えてこない。

 とは言え、それに反論できるような雰囲気ではなく、結局曖昧に頷くことで、その場を誤魔化すことしかできなかった。


 リカルドたちはもうこの街での用は済ませたそうで、彼らの住む王都に向けて明日の早朝に立つそうだ。

「アリサは馬車に乗ったことは?」

「ありません。私のいたところは馬車ではなく、それに代わるもので移動しています」

 リカルドの言う馬車は箱馬車のことだろう。私だけじゃなくエルザも箱馬車に乗ったことは一度しかない。箱馬車に乗るのは貴族くらいだ。平民は荷馬車か幌馬車だ。

「なるほど。馬車に代わるもの、か。明日の道中、アリサが住む場所のことも色々訊かせてもらえるだろうか?」

 頷けば、リカルドに柔らかく笑いかけられた。それを目にした途端、顔に熱が一気に集まる。


 よく見れば彼の顔立ちはとても整っている。エミリアに似たのだろう。どこからどう見てもあの領主の息子だとは思えない。あの領主は、脂ぎった、まさにエロオヤジという風貌で、とてもエミリアのような清楚な妻や、リカルドのような精悍な息子とは結びつかない。


 今までそんな風に男の人に笑いかけられたことなどない。思わず赤くなっているであろう顔を隠すように俯いてしまった私に、リカルドは気を悪くするでもなく、自ら私の部屋を用意してもらってくると言い置いて、扉の向こうに消えた。


「その姿では人目をひきます。着替えましょう」

 エミリアが侍女の一人を呼び、私の服を用意するよう言いつける。

 その侍女に着たままだったリカルドのフロックコートを「失礼いたします」と声をかけられ、するっと脱がされた。上から下までじっくり眺められ、何かに満足したのか小さく頷いたあと、とても綺麗な礼をして扉の外に出て行った。もしかして、あの侍女は見ただけで服のサイズがわかるのだろうか。そんな感じの眺め方だった。

 その侍女と入れ替わるように別の侍女がやって来て、目の前のテーブルにあったカップを下げ、新たにティーカップを音も無く置いた。折角用意してくれていたのに、口を付けなかったことへの申し訳なさから思わず謝れば、黙ってにこやかに笑いかけられながら小さく首を横に振られた。

「一息入れましょう」

 エミリアの声に、目の前の紅茶のようなものを口に含む。紅茶のようでいて紅茶とは少し違う、すっとした喉越しの、何とも肩の力が抜けるような柔らかなお茶だった。ハーブティーのようなものかも知れない。思わずほっとして口元がほころぶ。

「いいお味でしょ。私の今一番のお気に入りなのよ」

「はい。なんだかすっとして、心が落ち着きます」

 ふふっと笑いながら、エミリアもお茶を口に含む。その所作は本当に美しく、まるでお姫様みたいだ。


 しばらく無言でゆっくりとお茶を楽しんでいると、リカルドが戻り、先程まで同じ場所に腰を落とし、すかさず目の前に用意されたお茶を同じように口に含む。こちらも男性にしては美しい所作だ。

「俺の隣の部屋、この部屋の斜め向かいがアリサの部屋だ。既に衣装なども届けられているはずだが、夕食まで少し休む?」

 言われて初めて、自分がひどく疲れていることに気付いた。

「いいですか?」

「ああ、色んなことが一度に起こって疲れただろう? 夕食前に呼びに行くから、それまで寛ぐといい」

 リカルドに柔らかな笑顔でそう言われ、思わずその笑顔に見とれてしまう。

 リカルドの言葉を受けた侍女に「ではこちらへ」と声をかけられ、用意された部屋まで連れて行かれる。


「こちらがお嬢様の衣装となります。間に合わせですのでお体に馴染まぬかと存じますが、ご容赦ください」

 渡されたそれは、エルザが着たこともないような高価なものだった。

「いえ、こんなに直ぐに用意して頂いて、ありがとうございます。着方を教えてもらえますか?」

「畏まりました。直ぐにお召し替えなさいますか? 先に湯をお使いになり、しばらくおくつろぎになった後に致しますか?」

「あ、そうですね。先にお風呂に入った方がいいのかな。いいですか?」

 ここではお風呂は夕食前に済ますのが普通だ。いつもは寝る前に入っていたから、こんなに早くお風呂に入るのは初めてかもしれない。

「ではこちらへ」

 浴室に案内されると、既に湯は張られていた。


 一人で入ることができると告げると、必要以上に干渉しないよう気遣ってくれているのか、一礼して侍女が出ていった。ゆっくりと浅い湯に浸かる。

 こちらのお風呂は欧米のお風呂と同じだ。バスタブにお湯を少なめに溜め、その中で体や頭を洗う。日本のように洗い場はない。ここのような高級宿にはお湯の出る蛇口やシャワーが付いているが、一般家庭には給湯設備どころか、水道設備すらない家も多い。

 エルザの家には井戸に繋がっている水道設備が有り、お風呂は屋外の小屋に大きなたらいがおいてあるだけの簡素なものだった。数日に一度のお風呂の度に、何度も台所で沸かしたお湯をたらいに運び、少ないお湯で全身を洗っていた。普段は清拭するだけだ。

 体が温まったところで髪を洗い、体を洗う。いい香りのする泡立ちのいい石鹸は、ここではとても贅沢なものだ。


 用意されていたガウンを羽織って、浴室から出ると、先程の侍女が髪を布で丁寧に乾かしてくれた。その心地よさに次第に意識が薄れ始める。

 髪が乾いたところで、ベッドに横になるよう促され、言われるがままベッドに横になり、そのまま眠りに落ちていった。






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