まずは飯を食え -in the soup
玉ねぎを刻んだ。分厚いまな板の上にみじん切りの玉ねぎが積みあがっていく。
女たちに混ざって、僕は忙しく立ち働いた。女たちは有能だった、十歳にもならない童女から枯れ木のような年寄りまで、彼女たちは皆器用に料理をこなした。この村では料理は女の仕事らしい。
どうやら、玉ねぎ、人参、米、そのいずれの食材も彼女たちには見覚えがないようだ。おまけに共同炊事場の熱源は薪で、水は井戸から汲んだ。ここはどこなのか、何故今の時代にこんな暮らしをしているのか、疑問は山のようにあったが僕はその全てを放り捨てた。
僕の祖父がよく言っていたように、「まずは飯を食え」ということだ。
大鍋を玉ねぎで満たし、水を加える。本当は飴色になるまで炒めると良いのだが、この緊急事態にそんなことは言っていられない。おまけに、この村には一滴の油もなかった。あったものと言えば、僅かばかりの岩塩と何種類かの干した香草。種類はわからないが、香りはバジルやオレガノ、それにタイムやローズマリーを連想させるものがあった。少々入れてアクセントをつけても良いかもしれないが、今日のところは必要ないだろう。
村の共同炊事場は人が入れ替わり立ち代りした。人々は僕が働く姿を一目見ようと、次から次へと訪れた。
「いいから黙って外で待ってろ!料理が出来る奴は来い!手伝え!玉ねぎを刻め!皮を剥いてみじん切りだ、出来るか?」
僕がそう叫ぶと、男たちは引き下がった。しかし、炊事場の周りで彼らはずっと料理が仕上がるのを待っていた。次第に、冷え切った空気の中に煮込まれる野菜の甘い温気が漂い始める。
僕はそんなに強いわけではないにしても、柔道家だ。全ての柔道家がそれをするわけではないが、僕には減量の経験がある、それも数週間自らを飢餓状態に追い込むような強度の減量を経験している。それは、そこまでしても結果を出せなかったという悲しい話でもあるのだが。
しかし、今はその経験が生きた。彼らに普通に炊いた米や焼いた卵など食わせようものなら、最悪の場合殺してしまうことになるだろう。
僕自身が減量明けに食い物をかっこんで大変な目にあったことがあるのだ。
衰弱しきった身体を元に戻すには、とても長い期間が必要になる。医者にもこっぴどく叱られた、減量明けにいきなり重たいものを食べたことも、成長期に無茶な減量を行ったことも。
卵の使用は避けた。たんぱく質は、まだ彼らの身体には重過ぎる可能性がある。本来なら薄い薄い粥から始めると良いのだが、それではいかにも味気ない。それに重湯を作る時間的余裕もない。
そこで、人参と玉ねぎと米をじっくりやわらかく煮込むことにした。粥というよりは米のスープだ。ダシの出る食材でもあれば最高なのだが、この村のどこを探してもそんなものは存在しないだろう。探すまでもない。
野菜が煮込まれる鍋に、木のコップで米を放り込む。量は控えめだ。研いだ方がいいんだろうが、そんな手間をかけてはいられない。
大鍋に三つばかりが煮込まれた。その間に老人は二度膝から崩れ、三度起き上がった。誰かに支えられて様子を見に来る度に僕は「寝てろ!」とどやしつけることになった。しかし、鍋の中で煮える食い物に、老人は精気を取り戻しつつあるように見えた。
最後の仕上げだ。塩を放り込む、これは神聖な作業と言える。人間はどれほど飢えていても、塩気のないものを受け付けない。(これも祖父の受け売りだ)塩加減は薄めが良いだろうが、もちろん薄すぎてもいけない。貴重であろう塩を使いすぎないように、丁寧に一鍋ずつ仕上げていく。柔道部の合宿で散々やった作業だ。豚汁、カレー、肉じゃが…塩加減を間違えば罵声が飛んで来た。僕は、合宿の度にたった一つの存在理由を繋ぎとめようとしていたのだ、悲しいほど必死だった。おかげで料理には自信がある。
女達は僕の目を盗んでちょこちょこと野菜の切れ端を口に運んでいたが、見ないことにした。鍋に匙を突っ込む不心得者はいなかった。
「出来たぞ!皿を持って並べ!」
僕が叫ぶと、村人は一斉に共同炊事場に列を成した。僕は、木の匙で彼らの皿にスープを盛り付けた。一人ひとりの体格を見て量を加減する。不平を言うものはいなかった。
村人は、自宅から皿と匙を持参していた。いずれも木製だ。女達も同じ作業を続けた。誰もが皿にじっと目を落とし、今にも食らいつきそうな表情で耐えていた。僕は彼らの食欲を押し留める程に信仰される立場にあるらしい。
「全員座って聞け!大事な話だ!」
僕は叫んだ。
「いいか、ゆっくりゆっくり一口ずつよく噛んで食べろ、聞こえてるか!いいか、一口三十回噛め!絶対だぞ!」
村人は一斉に「はい」と叫んだ。
「食ったらすぐに家に帰って寝ろ!右側を下にして、とにかくゆっくり休め!無駄に動くな!明日も食い物はたっぷりある、何も心配せず寝ろ!」
村人の喜びに満ちた返答が返ってくる。
「よし、いただきます!さぁ、食え!」
村人たちの匙が一斉に皿に突き刺さった。一匙、また一匙と口に運び、律儀によくよく咀嚼する。沈黙。咀嚼音。誰もが涙を流していた。
「爺さん、うまいか?」
老人は匙を口に突っ込んだまま固まっていた。そのまま後ろに倒れそうになったので慌てて支える。その身体は、悲しくなるほど軽かった。背骨の出っ張りが掌に触れる。どれだけの間何も食わずに過ごしたのかわからないほどのやせ衰え方だ。
「大丈夫か?食えるか?すりつぶして飲めるようにするか?」
「い、いえ、申し訳ありません。おい、美味しいです。美味しいですああああああありが…」
「わかった、爺さん落ち着け。な、まず食おう。ゆっくりよく噛んで。一口ずつだ」
僕は彼の背を支えたまま、口に匙をもっていってやった。懐かしい気分だった。祖父の最期を看取ったことを思い出す。僕はお祖父ちゃん子だったのだ。
「いいから、食え」
拒もうとする彼を黙らせて、口に匙を運ぶ。老人は静かに咀嚼を始めた。歯が少ないので、とても時間がかかる。
「うまいだろ」
彼は、こくんと頷いた。
僕は自分が微笑んでいることに気づいて驚いた。
村の男が椅子を持ってきたので、老人はそこに座らせた。彼は、片手で皿を持ちもう片一方の手で匙を持って、ゆっくりゆっくりとスープを口に運んだ。自分で食えるようになれば大丈夫だろうと僕は胸を撫で下ろした。
人々は皿に残った最後の米の一粒まで食べた。子どもたちは、空になった皿を舐めまわした。お代わりをさせてやりたいのはやまやまだが、まだ腹いっぱい食わせるわけにもいかない。
僕も自分の皿を平らげた。
うむ、とても美味いといえたものではないが、たっぷり入れた玉ねぎと人参のお陰で甘みは出ている。塩加減も薄いが、こんなものだろう。なにせ、村全体でたった数キロほどの塩しか無かったのだ。めいめいの家から持ち寄った塩を全て合わせてそれだ。
素朴で心和む味わいと言い張っても良いだろう。僕自身、腹が減っていたので、皿はあっという間に空になった。
さて、と思う。炊事場の天井を見上げる。がっしりとした木で組まれた梁は、長い時間の間に煤けて濃密なブラウン色に変化している。何十年も村の生活を支えて来たのだろう。石造りの竈も、柱の一本一本も全てが年月に晒されている。
壁はない。巨大な東屋みたいなものだ。雨を凌ぐ屋根はあるが、風は吹きさらしだ。
寒い、と僕はやっと気づいた。恐慌と熱気が去り、腹も満ちて僕には考えるべきことがあまりに多かった。少なくとも、ティーシャツにハーフパンツ、それにサンダル履きで耐えられる気温ではない。竈の火から離れると、途端に寒さが訪れる。
日はとっくりと暮れていた。どう見ても真夜中だ。
洞窟から村までの数百メートルを移動したときは洞窟が真っ暗だったこともあって疑問を抱かなかったが、どう考えても時系列がおかしい。僕が最期に時計を見たのは午前九時、それから食材を集めて帰り昼食を作る予定だったのだ。
僕は共同炊事場を出た。寒々とした光景が広がっていた。足元にはコンクリートの舗装などなく、丈の低い草が生い茂っている。それもほんの僅かの範囲だけで、その外には真っ暗な闇を孕んだ森林が果てしなく続いている。
この村は、森林地帯の真ん中にぽっかり浮かぶ小島のようなものらしい。
「ペルナ様」
十歳くらいの女の子に肩を支えられて、老人が僕のところにやってきた。老人の皿はまだ半分残っていた。半分食べられれば上出来かもしれない。老人の手にしかと握られた皿に、女の子の目線がちらちらと移る。
「その子にスープをやっちゃ駄目だ。食べ過ぎると最悪身体を壊す」
僕はなるべく冷たい声を出すように意識して言った。彼らの表情を見ただけで何を言いたいかはわかる。
「申し訳ございません、ペルナ様。ティト、諦めておくれ」
「長老、私は大丈夫。それは長老が食べて」
「明日になればちゃんと食べられる。だから今日は我慢して寝るんだ。いいか、右側を下にしてよく休むんだよ」
「わかりました、ペルナ様」
がりがりに痩せこけた女の子だ。細い腕には紙を貼ったような皮膚が張り付いているだけで、後は骨しかない。しかし、とても利発そうな目をしている。栗色の長い髪をおさげに結わえ、白い肌は雪のようだ。つんと伸びた形の良い鼻、そして一際目を引くとがった耳。そう。この村の住人は皆、この耳の形をしている。
どこから何を質問すれば良いのだろうか。女の子の死体、歪んだ時系列、僕の(おそらくは)瞬間移動。ここはそもそもどこで、彼らは一体何なのか。
言葉は通じる、しかしところどころ通じない単語もある。「米」や「人参」という単語を彼らは理解しない。しかし、「みじん切り」や「竈に火を起こしてくれ」のような指示は的確に理解する。わかりあえない単語があるだけだ。
「ペルナ様、今夜はどこにお宿りになるのでしょうか」
長老が僕に尋ねた。
「あてが無いんだ。僕はどこに行けばいいんだろう」
「それでは、むさくるしい家ではありますが私の家にお越しください」
「それは助かる。ありがとう長老」
「そんな恐れ多い…」
「そうだ、ティトも来てくれないか?」
思い立って僕は言った。ティトは、怖じることなく「はい」と答えた。賢い、そして強い子だと思った。
僕は空を仰いだ。そして、乾いた笑いがこみ上げた。ティトと長老が怪訝な顔をしたが、僕はこみあげる笑いを抑えることが出来なかった。
なるほど、こいつはすごい。一目で理解出来る。
冷たく晴れ渡った空には青白い月が浮かんでいた。それも三つ。まん丸な月、少し欠けた月、三日月。
二つまでなら何かの間違いかもしれない。そういう自然現象もあった気がする。一晩ぐっすり寝れば一つに戻ることもあるかもしれない。しかし、三つもあったならこれはもうどうしようもない。