ここではないどこかから -cargo cult
ここではないどこかへ行きたいと思うことが誰にでもあると思う。
少なくとも今、僕はそう思っている。照りつける日差し、アスファルトに揺らめく陽炎、どこまでも続く田舎道、果てしなく重たいリヤカー。
とめどなく汗が噴きだしてくる。このまま全てを放り出して家に帰ることを何度も検討しては諦めた。やりきるしかなかった、それがどれほど未来のないことであっても、僕はこれを運んで帰るしかない。
背後のリヤカーにはスペースの許す限界を越えて荷物が詰まれている。ジャガイモ。米。人参、玉ねぎ。鶏卵。それにこまごまとした調味料など。
どうしてこんなことになったか。何故僕はこんなことをしているのか。全ては自分の力が足りないのが悪いのだ。
僕は一年と少し前、とあるスポーツ強豪高校に推薦入学した。柔道の実力が認められてのことだ。ところが、その場所で僕の実力は全く通じなかった。補欠にすら入れず一年以上を過ごした結果がこのザマである。
試合に出ることなど全くなく、部の雑用ばかりを押し付けられて過ごしている。居場所があるだけありがたいと思うべきかもしれないと思うことすらある。我ながら立派な負け犬根性だ。
僕が今やっているのは、近隣の農家を回って野菜や卵を安く販売してもらうお仕事だ。長年この土地で合宿を行っている我が母校は、周辺農家に強力な食料調達のネットワークを有している。そこを回るのは、僕のような将来を見捨てられた生徒たちだ。こんなことをやらせる理由ははっきりしている。「辞めろ」ということだ。出来れば部活をではなく、高校もろとも。
「有精卵よぉ、美味しいわよ!」
先ほど立ち寄った養鶏所では、予定の倍数ほどの鶏卵を無理やりおしつけられた。おかげでリヤカーはバランスのギリギリまで物が積み上げられている。アスファルトの平らな道を進むのにすら神経を使う始末だ。
そもそも無理がありすぎる。これだけの量を数キロに渡って運搬するなら、常識で考えてもっと人員が必要だ。
部活を辞めることを考える度、田舎の両親の顔がちらつく。北海道の片田舎で、ジャガイモやとうもろこし、それに砂糖大根なんかを栽培して生計を立てている僕の両親。言うまでもないが、生活は楽ではない。
僕の両親は毎年冬の終わりにお金を借りる、農協からだ。それで種苗を買い入れるのだ。秋の収穫のあとに借金を返す。その繰り返しだ。時にはそのルーチンさえ上手く回らないこともあった。その結果は借金として僕の実家にずっしりと圧し掛かっている。
部活を辞めれば学費の減免措置は止まる。学生寮費も請求されるようになる。私立高校の学費を満額工面することを両親に求めることは出来ない。何があろうと僕は柔道部に居残るしかない。今だってお情けで部に籍を置いてもらっている状態なのだ。文句を言えた筋合いは無い。将来のことを考えれば勉強をして大学進学を考えるべきなのだろうが、この状態ではその時間もない。
僕は十七歳で人生のどん詰まりに来てしまったようだった。
くそったれと毒づいた時、リヤカーのバランスが崩れた。一番上に積んであった鶏卵の箱がなすすべなく落下した。ぐしゃり小さく、そして絶望的な音を立ててダンボールがひしゃげる。そこから、割れた卵の液体がどろりと染み出してアスファルトを汚した。
畜生。僕はリヤカーを投げ出して箱に駆け寄った。手遅れだった。
路肩に放り捨てて帰るか、いや駄目だ。確実に誰かに見つかる。こんな人の少ない田舎町で鶏卵の箱が一つ打ち捨てられていればいやおうにも人目につく。犯人はあっという間に割れる。
一度帰ってから戻ってきて片付けるしかない。しかし、それも厳しい話だ。僕はこの後、合宿の食事作りをしなければならない。
宿の従業員だけでは大所帯の柔道部員の腹を満たすには労働力が不足するのだ。そこで、僕のような補欠以下の部員が労働力として駆り出される。相撲部屋のちゃんこ番みたいなものだ。当然、それに遅れれば部員にも顧問にも叱責されることだろう。
畜生。たかが卵の一箱でと思うが涙が止まらなかった。僕はリヤカーを路肩に寄せて地面に座り込んだ。色んなことが頭の中で一杯に混ざり合ってぐちゃぐちゃになった。
『そもそも食事当番は持ち回りの筈なのに何故僕らにだけ押し付けられているのか』
『これだけの量の荷物を一人で運ぶのは土台無理ではなかったか』
『ここじゃないところに行きたい?』
『そもそも、僕は柔道をやるためにここにいるのだ、何故こんなことをしているのだ。こうしている間にも部員たちは稽古を積んでいる。実力の差など詰まりようがない』
『ここじゃないところに行ってみたいと思わない?』
『僕はもう駄目なのか、人生はやり直せないのか』
『ねぇ、聞いてよ。ほら、どうせダメならやり直そうよ、別の場所で。気分も変わるよ!』
思考の中に何かが混ざりこんだ。
ついに頭までおかしくなったかと僕は苦笑した。声が響くのだ、自分の耳の奥から。それはどこかで聞いたことがあるような子どもじみた声で、くすくすと耳障りに笑った。
『君の実力を試せる場所があるっていったら、君は行く?そこで君は求められているんだ、とてもとても切実に』
三十度を越す気温、疲労、追い詰められた精神、照りつける日差し。帽子すら被らず数キロもリヤカーを引いた後だ。幻聴の一つくらいは聴こえてもおかしくはない。
『決断のチャンスは一度しかないよ。こういっちゃなんだけど、君はもうどんづまりだ。間違ったね、人生の選択を。自分を過信した、そうだろ』
うるさい、そんなことはわかっている。と心の中で毒づく。幻聴が聴こえる程に追い詰められている割には頭の中がクリアだ。誰に聴かれるわけでもないだろうが、口に出さず心に想って応えた。
『わかってるなら決断だよ。時間を巻き戻すことは出来ない、でもここではないどこかへ行くことは出来る』
『これは一般論だけどね、先延ばし癖は大体に於いて事態を悪化させるだけだ。君にどんな未来がある?』
黙れ黙れと声に出した。幻聴はどんどんと音量を上げている。今やまるで耳をつんざかんとするようだ。
「俺だってどこかに行きてえんだよ!どうやって行けばいいかわかれば行くんだよくそったれ!」
言葉に出して叫んだ。
『じゃあ行こう。確かに聞いたよ、君は行きたい』
『連れて行くよ!君の未来にたくさんの幸せがあるといいね!』
『未来は希望に満ちている!未来は君に託された!あはははははは』
視界がぐにゃりと歪んだ。夏の暑さが一瞬にして去り、全身をおぞましいほどの寒気が包んだ。空気は痛いほどに乾いていた。そして僕の視界は闇に包まれた。
*
「さむっ!」
暗闇の中で僕は自分の身体を抱え込んだ。
周りは何も見えない、見渡す限り真っ暗闇だ。だが、音は聴こえる。人の声だ、低く小さく何かをつぶやき続けるたくさんの人の声。何かを唱和している人々がいる。それもかなりの数だ。この暗闇は人の気配に満ちている。
僕がパニックを起こす前に、燭台に火が点された。そこに人の顔がぼんやりと浮かぶ、真っ白な髭を長くたくわえた老人だ。喜びとも恐怖ともつかない表情を浮かべている。
「お越しじゃあああああああ!」
どこからそんな声が出るのかという大声量で、老人は叫んだ。
周囲から一つ、また一つと灯りが灯された。
僕は、石造りのステージのような場所にいた。その前には、二十人ばかりの人々が頭を地面にこすりつけるようにして拝礼の姿をとっている。彼らの唱和の声は絶えずに続いた。
「ペルナ様、よくぞお越しになられました」
老人は僕の前に跪いた。僕はあっけにとられて事態の成り行きをみていることしか出来なかった。老人は顔を上げ、僕の目をじっと見た。彼の皴の間に埋もれた小さな目には一杯の涙が浮かんでいた。
気がつけば、唱和の声はすすり泣きに変わっていた。人々はまだ頭を上げない。しかし、唱和の声はどんどん大きくなっていった。
「ちょっと待ってください、どういうことですかこれは」
思わず口をついて出た言葉はそれだった。老人は呆気に取られたという風情で、じっと僕を見ている。
「ペルナ様、我々に何か至らぬことがございましたでしょうか?」
僕は周囲を見渡した。僕と老人は、やはり小さなステージのような場所にいる。足より低い場所にいる人々はぽつりぽつりと頭を上げて、おそるおそるといった風情でこちらに目線を送っている。
後ろを振り返ると、先ほどまで僕が曳いていたリヤカーがそのまま鎮座していた。荷物もそのままだ。その後ろ、ステージの背景に当たる場所はむき出しの岩壁である。どうやら、ここは洞窟のどん詰まりに作られた祭壇みたいなものらしい。
祭壇の下に並ぶ人々は老若男女入り混じっている。僕は、一歩歩み出て、祭壇の下を見下ろした。そこには、長い髪の女の子が一人倒れていた。首筋からどす黒い血が流れ出している。
「おい、あの子はどうしたんだ?血が出てるぞ!」
僕は祭壇から飛び降りて、その子に駆け寄った。僕が飛び降りると、観衆は後ろに退いた。ところどころからは悲鳴も上がった。
「おい、大丈夫か!」
その子の肩に手をやった時、僕は思わず嘔吐しそうになった。喉からせりあがる吐き気をこらえるだけで必死だった。
薄暗い上、祭壇の陰になってわからなかったが、女の子の首は半ばを過ぎる場所までぱっくりと切れ目が入れられていた。そこからは生々しい肉と、白い骨が見えた。触れた彼女の肩はまだ温かく、ほんの僅か前まで彼女が生きていたことがわかった。
「どういうことだ!」
僕は叫んだ。僕の目線の先にいた人々がまた一斉に散った。勢い余って洞窟の外に走り出して行った者もいた。僕自身もパニックを起こしていた。なにがなんだか全く理解できない。
「ペルナ様、どうぞ怒りをお鎮めください」
老人は身体をずり落とすように祭壇から降りると、再び僕の前に跪いた。
「どうぞ、我らをお救いください」
老人は地面に頭をすりつけて懇願した。
「我らは飢えております。どうぞ、どうぞ、お恵みを与えください。我らは飢えておるのです」
老人は僕の手を両手で掴み、なおも懇願した。涙がぽたぽたと手に落ちた。それはとても温かかった。
なにとぞ、なにとぞ、と老人は繰り返した。脂のない、古木の枝のようなかさついた手だった。彼の目は落ち窪み、頬はげっそりとそげている。一目でわかる、彼は死に掛けている。
「わかった。食い物はあるよ」
老人の剣幕に押し切られた。
僕がそう言うと、老人は膝から崩れ落ち、誰に憚るでもなく泣き始めた。嗚咽が洞窟に反響して、人々のすすり泣きと混ざり合って空間を満たした。
僕の周りの人垣はすっかり小さくなっていた。取り囲まれていると言ってもいい状態だった。人々の目は血走り、誰もが一目でわかる飢餓の状態にあった。僕は恐怖に駆られた。彼らの理性は決壊寸前に見える。
「もうわかった、とにかく食い物だな!」
僕がそう叫ぶと、人々は一斉に喚声を上げた。狂喜で洞窟全体が震えたような気さえした。
「爺さん、起きてくれ。食い物はあるが、全部調理しなきゃ食えないものばかりだ。それと説明も必要だ」
「ペルナ様、ありがとうございます。ありがとうございます」
泣きながら老人は僕の手を再び取ろうとした。僕は腹を括って彼の手をがっちりと握り、顔をぐっと近づけて話しかけた。
「爺さん、落ち着いてくれ。いいか、確かに食い物はある。だが、状況が全くわからない。まずは説明をしてくれ」
「せっ…説明と申さ…されましても」
老人が目をしばたかせた。彼もパニック寸前の状態にあるらしい。
「わかった、とにかくここを出よう。どこでもいいから料理の出来る場所に案内してくれ」
「は、はい。かしこまりました」
気がつくと、僕と老人を取り巻く人垣は息もかからんほどの距離まで縮んでいた。お恵みを、お恵みを、と彼らはすがりついてくる。
僕の頭の中の線がぷつんと切れた。たまりに溜まったストレスのせいか、それともパニックが限界を越えるとそうなるものなのか、僕は何も考えずに叫んでいた。目の前に腹が減ってる奴がいるならとりあえずメシを食わせてやる、そんな気分だ。誰だってそう思うものだろう。
「腹いっぱいメシ食わせてやるからおまえら、そこのリヤカーから箱を一つずつ持ってついて来い!全員分あるから心配すんじゃねえ!」
僕がリヤカーを指差すと、おそるおそるといった体で人々はリヤカーに近づき、箱を持ち上げようとした。しかし、彼らは驚くほど非力だった。十キロの箱一つ一人で運ぶことも出来ない。
飢えはここまで人を衰えさせるものなのか。結局彼らは一箱を数人がかりで持ち上げ、なんとか運び出した。しかし、三十キロの米は彼ら数人がかりでも持ち上げることが出来ず、結局僕が一人で担ぎ上げて運んだ。紙袋を破られでもしたらたまったものではない。
僕は確かに恵まれた体型をしているし、腕力もある。しかし、たかが三十キロの米袋を持ち上げたくらいで悲鳴交じりの喚声が上がるというのは奇妙だった。
女の子の躯を彼らがうやうやしく担ぎ上げ、運ぶのを見て僕は言い知れぬ恐怖に駆られたが、それは飲み込んだ。三十キロにも満たないであろう女の子の躯一つ運ぶのにも、彼らは三人がかりだった。彼女の首があらぬ方向にだらりと垂れるのを見て、僕は必死に嘔吐感を押し殺した。彼女の足を持ち上げていた男の子が大声で泣き始めた。
それは僕にとって救いだった。