僕らの未来に明日はない
さてと。
徒然なるままに、五月。
春らしさが香る、という、まぁいってしまえば鬱陶しいほどの新年度の周囲の変化は、もうこうなってしまえば、恒例とも言える。
つまりは、五月。
そして俺?
そう、俺は高校三年生。
花の青春、薔薇の高校生活も、ついに最終学年を向かえ俺らもいよいよ青春の終わりが見え始めたといった具合で、なんともいえない焦燥感に苛まれる。
ああ、終わっちまったな。
みたいな。
終わりほど呆気ないとはこのことで、案外、永遠に続くだろうと思っていた高校二年生が終わってしまった。
永遠なんて、あるはずもないのに。
ラノベで最も主人公に起用されやすい高校二年生という年代は、正に人生の中で青春と位置づけることが出来るだろう。
しかし、その青春が終わったって、人生は終わらない。
物語は終わらない。
世界は終わらない。
しかし、だからといってその後が消化試合かと言われると、もちろんそんなことはない。
人生は死なない限りは続くし、物語はめでたしめでたしの続きがあるし、世界はお前なぞどうでもいいと言わんばかりに続いていくだろう。
そんなものだろう。
ははぁん、じゃあお前はつまり青春の高校二年生がとても懐かしくあって、やれるものならもう一度繰り返したいと、そう思っているんだな?
と、思っている方には、悪いが、そうでもないと思う。
こう見えても、未来はちゃんとあるんだ。
いや、でも少しは名残惜しくはあるのだろう。
例えば、新年度恒例、初日の教科書配布に当たって、まずは名前を書き込むわけだが、その時に間違えて昔の学年と組を書き込んでしまうような。
あれは、そういうことだろう。
これがまぁ、劇的な変化、例えば高校卒業となれば、こういった何ともいえない消失感に襲われることもないだろう。
進学、あるいは就職すれば、友達とは離れ離れになり、気持ちに区切りは付くだろう。
でも、進学によりクラスが互い違いになることで交流が薄れていくのは、ちょっと気まずいものがあるだろう。
普通の恋愛でも、愛情でも、ロミオとジュリエットのように確実な何か、この場合では溝だが、そんなものが存在するならば、劇的に、喜劇的になるのと同じで。
どうせなら、どんなことでも何かしらの決着が、結末があるとしたら、それは後腐れなく終わることが出来るだろう。
って、そういえば、受験勉強もあるじゃん。
中学生の時は、やろうやろうと思っていてもいまいち捗らなかったのをまだ覚えている。
あーあ。
退屈な毎日。
今はそう断言できるが、確かあの時の俺、つまり高校二年生の時もこんなことを考えていたと思う。
日常は、“日々”の中に“常”にそこに有るものだから、有り難味なんて感じることは出来ないかもしれないが。
日常は、有限なのだ。
……おいおい、つまり何が言いたいんだお前?
と呟いてもらっても、困るのは実のところ俺なんだ。
俺だって、何が言いたいかは分からないんだから。
だから、まぁ、こんなわけの分からない文章になってしまっている次第だ。
ちなみに、読み返して校正するつもりはない。
過ぎ行く日々の中で振り返ってみることは出来るが。
観測は、終わってからでない意味がない。
その渦中にある中では、どうしても主観的になってしまい、客観性に欠けてしまうからだ。
そして今、こんな青春が終わってしまったけれども。
いつかはあの青春を笑って誰かに語ることが出来る日が来るのだろう。
何もかもが思い出になってしまうのだろう。
だから、その日まで、あの青春を嫌味ったらしく覚えているのだろう。
だから。
だから。
何が言いたいかというと
――ありがとう。
何か一つでも共感出来ることはありましたか?
ありがとうございました。