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快速精神

作者: 雨月銃後郎

「馬鹿野郎!」と、怒鳴った声は届かない。南風原はえばるあるみは苛立っていた。

 留年がかかったレポート課題の提出期限は昨日の十時、そのことをふと思い出したのは今朝だった。慌てて教授に電話して、架空の家族の架空の葬儀をでっちあげた結果なんとか明日の十時まで期限を延長してもらったのだ。「古代中国大陸における都市国家領域範囲内の金属加工技術及び一次産業下における特殊合金の有効利用についての基礎概説」という狂ったような長い講義のレポートだったので、無論内容要求も狂ったように過酷だ。二万字の原稿を一晩でゼロから打てるわけがない。けれどやるしかなかった。南風原は留年だけはなんとしても避けねばならなかったのだ。

 しかし、その存在さえすっかり忘れていたような講義について、下調べも準備もしてあるはずはない。闇雲にそこらじゅうの参考資料をかきあつめ始めたのはその朝からだが、図書館は間の悪いことに休館日である。同じ講義をとっている菅家地丹すがや ちたんに無理やり資料を貸してもらうことをとりつけて、すぐさま菅家の家に向かった。自転車をどれだけかッ飛ばしても三十分はかかる距離を、南風原は大腿部の筋肉がはじけるように断裂する音を聞きながら走る。五分で道のりの半分までを走破した。通常の三倍のスピードだ。焼けるように肺も足も痛み、アルミ製の細いスポークがみりみりと限界を越えて歪んでいた。チェーンは考えられないような形状に変形し、それでも南風原はペダルを緩めない。とにかく菅家の家に到達しさえすれば、到達しさえすれば彼の資料を手に入れられ、運が良ければ原稿だってコピーさせてもらえるかもしれない。そうすれば、多少の手直しで十分に間にあう。その僅かな希望だけが、悲鳴を上げる南風原の心臓を駆り立てるのだ。

 しかしなんということだろうか。平日の昼間から歩道に座りこむ不良女子高生共を蹴散らした瞬間、前輪が強烈によじれ、はじけるのを南風原は薄い意識の中で認識した。限度を超えた運用に、苦節十年を共にしたボロチャリのすべては耐えきれなかったのである。前かがみに加速していた南風原もろとも車体は吹き飛び、彼女と自転車は生垣に投げ出される。強烈な衝撃と痛み、急速にホワイトアウトする視界の中で南風原は自転車をなんとか立ち上がらせた。だが、どうやら自転車はすさまじい速度でパンクしたために、フロント部分がダンプカーに撥ねられたあとのように歪みきっていた。もはや収拾不可能である。

「馬鹿野郎!」

 叫ぶ声を聞く者はない。閑静な住宅街の昼間、人影はほとんどなく、先ほど撥ねかけた女子高生共もどこかへ逃げだしていた。やるせない怒りを南風原はアスファルトにぶつける。

「間にあわねえッッ!」

 繰り出した右拳が殴った路面はもちろん堅く、拳が真っ赤に腫れあがるまでに時間はそう要さない。

「――ッッッ!」

 呻き声もむなしく、嫌みたらしく晴れた青空に消えていく。

(単位ッ……ここまでかッ)

 彼女はしかし立ち上がる。まだあきらめるわけにはいかないのだ。提出期限まではあと二十三時間、まだまだじゅうぶん、やれるはずだ。

「シャオラッ!」

 気合一発、自転車を捨てて走りだした彼女は一路、わき目も振らず菅家の家へ向かう。既に喉は干上がり、汗はびっしょりと肌の全面を覆っていた。心臓はツーサイクル・エンジンのシリンダヘッドのように甲高い鼓動音を奏で続け、両足に至っては感覚がすでにない。毛細血管の隅々にまで充満した乳酸が、感覚神経を麻痺させているのだ。

 なにかに躓いて南風原は転んだ。しかし今度は動じない。動じるような余裕はもうないのだ。そのまま前回り受け身の要領で華麗に立ち上がり、しかし電柱に頭を叩きつけてしまった。

「ふおッ! おおおおおッ」

 それでも南風原は立ち止らないのだ。視界が狭まり、既に自分が走っているのか、それとも眠っているのか、今は何日なのか、自分は人間なのかさえ、わからなくなった。しかし足はそんな停止した脳髄に反して加速を続けている。

「――ッ! やったッ」

 菅家の家が見えた。菅家の家は豪邸で、住宅街の真ん中にどっかり聳えている。だからそのシルエットを認識できたからといって、まだまだ気を抜くわけにはいけない。しかし、ゴールが眼前に見え始めたことが、南風原の心に僅かながら余裕を生んだ。

 それが油断だったのである。彼女がひたすらにその高い一軒家を見据えて走る、眼の前には停車中のタクシーがあった。それに気付かずラストスパートをかけた南風原は、なんの減速も遠慮もなくトランクに突っ込む。

「うおおおおおおおおおおおッッッ」

 全身に走る圧力を理解した瞬間には、彼女の視界は完全に消滅していた。もとより運動不足の駄目大学生の体力が、こんな激しいダメージについてこられるはずもなく……南風原は意識を失った。


 ぴんぽーん。

「あれ、南風原さんいないのかな。かなり焦ってたっぽいけどなあ……」

 南風原がひっくりかえって泡を吹いているその瞬間、菅家が南風原の下宿のチャイムを鳴らした。菅家は大学生ながら親に購入してもらったマツダのロードスターを持っており、最近はもっぱらこれによる移動が主だった。純然たるスポーツモデルのこの車なら、十分とかからずに南風原の下宿に到着できる。

「いないんならしかたないなあ……一応俺の原稿も持ってきてたけど、データ端末だから盗まれちゃまずいし、ポストに入れとくのもいやだな……うん、またとりに来るだろ」

 そう言ってきびすを返した彼は、いつもと違う回り道をして帰ることにきめた。こんなにいい天気の日に、馬鹿正直に家のなかにいるのもつまらない。

 ぽかぽかとした日差しの穏やかな、五月のとある静かな日のことだった。


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