ある日の午前の出来事。
一つ伸びをしながら窓の外に広がる景色を眺める、葡萄の葉が早朝の陽光を浴びて青々と輝く。
「さて、行きますか」
クリストフェルは剣を帯びると自室を出る。
クリストフェルがヴァーリフェルト伯が治める地に滞在して早ひと月。クリストフェルの日課は早朝の剣の稽古。朝食を終えると、午前中はリッツァと共に領内を巡る。昼食をはさんで、午後はエドガーの執務の補佐。夕食前にヴァーリフェルト伯屋敷の周辺を巡回。夕食後はクリストフェルの自由の時間となるが、剣の鍛錬と屋敷にある書物を読むので一日はすぐに過ぎていく。
ここでの生活は都での生活とはまた違う充実したものであった。
屋敷の庭の一角にある稽古場にクリストフェルが足を向けると、すでに先客が剣の稽古を始めている。ヴァーリフェルト親子である。そして稽古場の傍らにはミカルが控えていた。
初めてこの稽古場の光景を目にしたときに驚いたのが、ヴァーリフェルト親子が剣の稽古をしていることであった。
エドガーが鍛錬しているのなら不思議でもなんでもないことだが、娘リッツァも細身の剣を片手にある時は形を、ある時はエドガーに稽古をつけてもらいながら、毎朝欠かすことなく稽古に励んでいた。
「おはようございます」
クリストフェルは稽古場にいる一同に声をかけると、柔軟運動をして体をほぐす。
「おはよう、クリストフェル殿。今日は一つお相手願いたく」
木剣の素振りをしていたエドガーがクリストフェルに声をかけた。
「喜んで。ミカル立ち合いを頼む」
クリストフェルは憧れていたエドガーとまさか、毎日稽古できるなんて夢のようだと思う。鑓の使い手だと思っていたがエドガーはその剣の腕前も冴えたるものであった。
剣豪が集まる近衛騎士団でもクリストフェルの剣の腕前は皇国一の騎士団長に次ぐものだと言われていた。そのクリストフェルをエドガーは子ども扱いである。この人が鑓を持ったらどうなるのかいつか手合わせしたいと強く思う。
それまでに鍛錬し、すこしでも畏敬の念を抱くエドガーに近づけたらと思う。
「今日はエルミナの泉に参りましょう、クリストフェル様」
穏やかな朝食の時間を過ごしたあとは、領内を巡る時間である。領内の案内役はリッツァである。乗馬用のブラウスにズボンにブーツというリッツァの出立ち。白金の髪を一つにまとめて、化粧っ気もなく、麦で編んだ帽子を被っているその姿も健康的な少女の美しさを引き立てていた。
始めの内は、クリストフェルとどう接していいかわからずに、案内役を務めるのに戸惑ってリッツァ。ひと月もすると徐々にクリストフェルと打ち解け始め、自然な笑顔を見せながら楽しそうに領内を案内している。
本当にリッツァこの土地を愛しているのだろうと、クリストフェルは感じていた。
「エルミナの泉は領内でもここから距離があるので、今日は騎馬で参りましょう。クリストフェル様も早く準備なさってね!」
リッツァの横に並びながら、馬を駆る。クリストフェルが驚いたのはリッツァが馬を操ること。剣の稽古に励む姿を目にしたときも驚いたが、上手に馬を操る彼女をみてさらに驚いた。
リッツァは笑いながら、馬に乗るのは田舎では普通のこと。元騎士の子だから、ちょっと上手に馬に乗れるのよ。と何でもないように言っていた。
しかしその馬術はかなりのもので、騎乗している馬との息もぴったり合っていた。
「エルミナの泉とは領内でも有名なのですか?リッツァ殿」
「ええ、言い伝えでは月の女神ルミナ様の涙が泉になったと言われています。とてもきれいな泉なのですよ。滾々と水が湧いて、泉の水を飲んだら10年寿命が延びるのだそうです、クリストフェル様もぜひ試してみてくださいね。」
馬の手綱を繰りながら、リッツァはクリストフェルに説明する。一生懸命説明するリッツァの姿にクリストフェルは好ましく思う。
「あれがエルミナの泉ですわ、クリストフェル様」
林道をすすむこと一刻あまり。道沿いに流れる小川を遡上すると、眼前に輝く水面が広がる。澄んだ水をたたえ、美しい色合いを持つ泉であった。
「美しいな」
クリストフェルの口から素直な心の声がこぼれる。クリストフェルとリッツァは馬を下り、近くにあった幹に手綱を括り付けた。馬に水をやり、ぽんと首のあたりをなでてやる。
「でしょ、私の好きな場所ですわ。静かで優しい空気に包まれている感じがとっても気持ちいいの。」
リッツァはそういうと水際近くに腰を下ろす。
「お隣、失礼しますよ、お嬢様」
クリストフェルは冗談めかして、その隣に腰を下ろした。
静かな時間が二人を包む。クリストフェルは目を閉じ、草むらにそのまま寝転がる。
「都にはない、静けさだね」
隣に座っていたリッツァも寝転がる。
「この間は聞きそびれてしまったけれど・・・なぜ、クリストフェル様はここへいらっしゃったのですか?わたくしたちの結婚の後にいらっしゃってもよかったのに」
仰向けだったクリストフェルは、顔だけをリッツァの方に向ける。リッツァは目を閉じ仰向けになっている。
「そうだね、一言でいえば、貴女のことを知らないまま結婚するのは失礼だなと思ったから。」
「えっ?」
リッツァはクリストフェルの方に顔を向けた。一瞬二人の視線が絡まる。リッツァのほうが照れたのか、頬を赤く染めて、空を仰ぐ。
「それにね、こちらになることが決定事項なら、早く来て、貴女を知り、この土地を知ろうと思った。なんて言っているけれど、本当は結婚など早いと思っていたんだ。近衛として陛下のお傍に仕えることが誇りでもあったから、辞めるという選択が出来ないのではと思っていた。」
「では、なぜ?」
リッツァは問う。クリストフェルは笑いながら、
「わからないんだ。でも、貴女とのことはちゃんとしなくてはいけないと思った。そう思ったら、善は急げ。陛下のお傍を離れて、ここに来ていた。」
「クリストフェル様・・・」
リッツァは突然起き上がり、正座をしてクリストフェルのほうを向いた。
「わたくしも、ちゃんとします。本当はわたくし、クリストフェル様とお会いできなければいいのにって思っていました。そうしたら、結婚の話は進まないだろうって。結婚する覚悟もありませんでした。ごめんなさい。」
クリストフェルも起き上がり、リッツァと向かい合う。クリストフェルはうなだれているリッツァの頭をなでた。
「リッツァ殿は素直だな。私はここにきてリッツァ殿を少し知りましたよ。素直で元気だ。そして侍女のベリトや信頼置く者の前では口調が砕ける。自分をわたくしではなく私と言っていたりね。」
リッツァが顔を上げて、クリストフェルを見つめる。
「ちゃんとリッツァ殿の信頼を得て、私の前でも自然な貴女であってほしい。」
クリストフェルの目の前にいるリッツァの頬がまたも赤く染まる。その頬をリッツァは手で押さえる。
「わ、私もクリストフェル様に信頼していただけるよう・・・その、努めます・・・」
思わずクリストフェルはリッツァの背中に手をやり、自分の胸に引き寄せた。首筋まで真っ赤になったリッツァは恥ずかしさから、クリストフェルの腕の中から逃れようとしていた。
クリストフェルはリッツァを逃すまいと、リッツァを抱く腕に少し力を込めた。
「あ。あの、クリストフェル様、そろそろ・・・」
しばらくクリストフェルの腕の中に囚われていたリッツァが訴える。
「そろそろ?」
「泉の水を飲みに行きましょう。そろそろ、行かないと帰りが遅くなります。」
クリストフェルは笑いながら、リッツァを解放した。
「では、水の湧いているところに行きましょう。」
リッツァはクリストフェルを水場に案内する。ぎくしゃくと動くリッツァの姿を見て、クリストフェルは笑みを浮かべる。少し悪いことをしたと反省しながら、泉に向かった。
都を出た時にはどうなるかと思った生活も、思ったよりも自分に向いているかもしれない。クリストフェルはそう思いながら帰途に就いた。
ここまでのご拝読ありがとうございます。
歩みの遅い物語ですが、これからもがんばって書き進めていきたいと思います。
誤字・脱字等、気が付いたことがありましたらご連絡ください。




