5.もう一人のウルフハンド
未だ腹痛に耐え続けている明け方。
集落である異変が起きていた。
昨日までウルフハンドを持っていた人々が、
普通の手に戻っていたのだ。
それは僕自身も同じだった。
左手は灰色の毛におおわれておらず、
爪も人間同様。さらに昨日まで僕の体を
支配していた、激しい欲さえもなくなっていたのだ。
しかし、靴や服はボロボロになり、
足が元の姿に戻った今、アスファルトの上に立つ足が、
強い痛みに襲われていた。
なにか、履きものはないだろうか。
ゴミを漁ってみたが、悪臭立ち込めるゴミの山から
何も見つけることができなかった。
仕方なく足の痛みに耐えながら、集落を歩き回ることにした。
あたりを見渡して気づいたことは、
どうやらウルフハンドを持つ人々は、皆ここに集まっていたようだ。
僕と同じように服の左腕部分が破れていたり、
靴が破れていたり、中には上着がすべて破れていたり、
全裸で道端にしゃがみこむ人の姿さえ目に映った。
皆何かに取りつかれているように、集落を徘徊し、
何もしゃべらぬまま通り過ぎていくのであった。
今のところ、ウルフハンドを持つ者以外は
ここにはいないようだ。
この集落は人里離れた隠れ家でもあるのだろうか。
ウルフハンドがそれを知っているのなら、
ここに集まるのも当然なのだが。
どうして突然こうなったのだろうか。
あまりに突然の出来事に、いまだに落ち着きが取り戻せていない。
どれくらい歩いていたかも忘れ、
足の痛みさえ感じなくなった頃に、一人の女が僕に話しかけた。
「あの、すいません。原 詩狼さんですよね?」
「・・・あぁそうだ。なんか用か?」
「はい、実は先日、あなたの血液からDNA検査をしたのですが、
その結果、あなたのDNAには狼の遺伝子が含まれていないという
結果が出ました」
「え?」
「はい、あなたには狼のDNAが含まれていないのです。
よって、あなたはウルフハンドではないのです。」
「いや、違うだろ。どう考えても俺はウルフハンドだ。
本能に身を任せる野生動物なんだ。」
「いいですか原さん、よく聞いてください。
総合病院に搬送された人々のDNAを検査していったのですが、
およそ3割の方から同じような結果が出ています。
狼の遺伝子を持たずに狼の姿へ変貌することも
ありうるということです。」
「・・・わけがわからない。じゃあ僕はなんなんだ。」
「その点についてはまだ研究中です。
でも、少なくともあなたはこの症状から解放される
見込みがあります。研究の続きを行いますので、
すぐについてきてください。」
「・・・わかった。」
わずかな期待と、爆発寸前の怒りを持ったまま、
女の車に乗ることにした。
―しばらくして、例の総合病院が見えてきた。
窓ガラスの一部が割れ、フェンスにはよじ登って
変形している部分が何か所かあった。
よく見ると地面には血痕がいくつかある。
恐らくけがをした警備員のものだろうか。
感情を抑え込んだまま、僕は病院の入口を抜け、
たどり着いたのは診察室だった。
そこには鉄格子もなく、白い壁と茶色い床に包まれた、
ごく一般的な診察室だ。
そこには、見覚えのある医者が僕を迎えていた。
名前もはっきり覚えている。こいつは「遺伝子科の関口」。
だが、昨日とは様子が違う。獣を見るような鋭い眼はしておらず、
暖かいまなざしでこちらを見ていた。
抑え込まれた感情さえも、このまなざしの前に引いていき、
ようやく冷静さを取り戻すことができた。
「昨日は災難でしたね、原さん。その様子だと、
だいぶ落ち着いてきたようですね。」
「はい、なんとか」
「では、昨日起きた事例をいくつかまとめたので、
報告いたします。―」
「―まずは、学生Fさんの証言です。
『学校から帰ってくる途中で突然左手に違和感を
感じて、見てみたら灰色の毛が生えていました。
それ以来、突然友達に怒ったり、授業が何も聞き取れず、
臭いが気になって食事がとりにくくなったりと、苦難の連続でした。
でも本当の悪夢はここからです。
家に突然病院の人が来たと思ったら、私を含め、
家族全員が病院に運ばれました。
そして待ち受けていたのは、牢獄のような診察室。
嫌な質問を何度も投げかけられ、怒り狂った私は
鉄格子を何度も壊そうと手をかけ、
それを見た医者はすぐに警備意を呼んで私を取り押さえ、
金具で固定したのです。
あまりの怒りに私は自我を失い、気が付いたら
全身が狼のような姿に変貌していました。
強い力を籠め、金具をあっさり破壊し、
病院からの逃亡を試みたようです。
本当は抵抗したくも逃亡したくもないのに、
体は勝手に動き続けていました。
それも4足歩行で、全速力で。
窓を割って外へ逃げ出しましたが、外にも
警備員が待ち構えていたため、逃げることも難しい状況に
追い込まれたかと思ったら、警備員の数が半分に減ったため、
何とか逃げ出すことに成功しました。
その後、疲れを感じないまま何分も走り続け、
体が向かった先にあったのは、不気味な集落でした。
そこには、私と同じ症状を持った人々が集まり、
ゴミ捨て場の食糧を求めて争っていました。
私は食糧にありつけず、空腹のまま夜を過ごしました。
次の日、私の体は元に戻っていましたが、
服を着ていないため、外を出歩くことが難しく
なっていました。しかし幸いにも、集落の中で
服を見つけたため、それを来て外を出歩いていたら、
病院の人に呼び止められ、病院へ戻ったのです。』」