3.その左手は自分のもの
たどり着いたのは、あの医者が話していた
総合病院だった。
周りの者たちは、既にわかっていたかのように
僕の行動に対処し、ここに連れてきたのだ。
周りを見渡すと、僕と同じように左手が灰色の毛に
覆われ、爪が鋭く尖り、中には
尻尾のようなものが見え隠れするものも
存在した。
ここはまるで動物病院のように
ウルフハンドの症状を持つ者たちが
たくさんいたのであった。
僕はそのうちの一人となりかけているのだろうか。
あまりにも唐突な今の現状を、すべて呑み込めている
わけではない。それでも確かに目に入る情報を頼りに、
自己解釈が勝手に進んで行っている。
これもウルフハンドの影響なのだろうか。
かつてはストレスのせいかと思われていたそれらは、
今やウルフハンドのせいであると確信が持ててしまっていた。
連れて行かれた先にいたのは、
檻越しにこちらの様子を伺う数人の医者だった。
もはや牢獄に近いその部屋は、
僕の存在を危険な生物と認識するかのように
僕の存在を取り囲んでいた。
すると、医者の一人がゆっくりと口を開いた。
「こんにちは、原 詩狼さん。遺伝子科担当の関口です。
まず、本日は大変つらい出来事に巻き込んでしまい、
深くお詫び申し上げます。」
「看護師の留野です。こちらからいくつか
質問を行いますので、答えられる範囲で
お答えください。」
答える気すら起こらないはずが、体は
ゆっくりとうなずいていた。
「ではまず一つ目の質問です。今回あなたの左手に起こった
症状は、いつから起こり始めましたか?」
「・・・・4日前です。」
「わかりました。では次の質問です。
症状が出る前に、今までに左手に違和感を
感じたことはありますか?」
「・・・・ありません。」
「はい、では次。家族や身内が
似たような症状を受けていましたか?」
「・・・・いいえ。」
「はい、では次・・・・―」
延々と繰り返される質問たち。
体は勝手に返事をしているが、心は必死にそれらを
止めようとしている。
その時、突然体が止まった。
「・・・原さん?どうかなされましたか?」
そんな声さえほとんど耳に入らず、
そのまま意識を失った―――。
次に目が覚めたのは、ベッドの中だった。
ベッドの横には両親がこちらの様子を見ていた。
朦朧とした意識の中で、ようやく
親の声が聞こえてくるようになった。
「ついさっき電話があって会社を抜け出してきたんだ。
何があったのかは医師から聞いたぞ。」
「大丈夫?無理はしなくていいよ。そのまま安静にしていて」
声は聞こえてきたが、まだ返答する意識が戻っていない。
”あまりにも唐突すぎる環境の変化に耐え切れず、
ストレスによって意識を失った”
そのことを知ったのは、意識を取り戻して数分後、
医者がこの部屋に来た時だった。
しばらく安静にするようにと言われたので、
何も感じずにベッドで横になり続けていた。
その夜、暗闇の地は満月に照らされていた。
涼しげな風が部屋へ吹く中、ある動物の声が鳴り響いた。
ウオオオォォォォン
この声は現実で聞いたことはないが、
よくテレビで聞いたことならある。
そう、これは
「狼の遠吠え」
そしてこの病院から、その声につられるかのように、
いくつもの遠吠えが鳴り響いた。
僕の左手がかすかに反応している。
それでもまだ人間としての理性が、
この遠吠えに答える本能を抑え込んでいたのであった。
僕はこれからどうなるのだろうか。
テレビでよく見る狼のように、野生の動物として
生き続けるのだろうか。
そうなれば、僕の人間としての生活はどうなるのだろうか。
様々な不安と悲しみが感情を支配する中、
その一夜が過ぎたのであった。
次の日、いつものように仕事に向かおうと
足を下ろしたら、床が妙に冷たかった。
そうか、ここは病院の中か。
一夜にしてあの不安が消えてなくなっていた。
体の疲れもそこまで深刻ではなく、
いつでも歩ける状況だったので、
何となく病院内を徘徊することにした。
薬の臭いが立ち込める廊下をたどりつつ、
まっすぐ進んだ先は行き止まりだった。
すぐに引き返し、今度は階段を上へ上へと
登っていった。
だが屋上へ通じる階段の手前には、
「関係者以外立ち入り禁止」の文字が刻まれていた。
やはり、病院の屋上へそんなに
簡単に入れてくれるはずもないか。
徘徊をそれなりに終えて
部屋に戻ろうとしたそのとき、
通りかかった部屋の中から
大きな音が鳴り響いた。
医療器具が落ちる音だった。
その瞬間、部屋から1人の人間・・・いや、
1匹のワーウルフが4本足を使って
部屋から逃げ出していった。
必死に追いかける医者たちだが、
4本足で走るワーウルフに到底追いつけるはずもなく、
すぐに内線で連絡を取っていた。
でもそんなことはどうでもいい。
部屋に戻り、何も考えない時間を過ごすことにしたのであった。