ごきげんよう 1
その日はラウヘルにとって憂鬱な日だった。
せっかくとった休暇の途中で、部下からの急な呼び出しを受けたのだ。
異世界からやってきた愛する妻への楽しい語学教育に専念していたというのに、蜜月が台無しになった。
ラウヘルの出仕を知った葉子の輝くような笑顔も気に入らない。
滅多に見られない満面の笑みが、ラウヘルに向けられたものではなくラウヘルの授業からの解放感からくるものなのは分かりきったことだったからだ。
だから、ラウヘルの見送りに引っ張り出された葉子と二人して何となく不機嫌な顔でその日は出掛けたのだった。
そうして不機嫌に出かけたラウヘルを待っていたのは、うんざりするような雑務だけだった。
治水工事に福祉事業、税の不正に賄賂疑惑、次から次へと舞い込んでくる雑事は頭が痛くなるほど切りが無い。
書類を運んでくる部下が不機嫌なラウヘルの顔色を窺う様子もうんざりだった。
どうしてこんなくだらない世の中が存在しているのかと無用な争いの一つも起こしたい気分にもなってしまう。
実際、この手にある書類の武器密輸の組織にラウヘルが言葉一つかければすぐにでも内乱の一つぐらいは起きるだろう。
誰にも悟られない自信もあるし、もしも誰かに突きとめられたとしても策を弄した駆け引きで負ける気もしない。
(……まぁ、そんなことをしている暇はないが)
今のラウヘルは、妻と時間を共にすることで忙しい。
目を離せばどこへ飛んでいくのか分からない妻のことである。
正直言って、ラウヘルの手に余るほどのお転婆な彼女を繋ぎとめておくだけで自分の手段は使い尽くしているといってもいい。
放っておけば何をしでかすのか分からない彼女を少しでも大人しくさせるための、語学授業でもあるのだ。
慣れない言葉を考えさせている間は静かなものなので、普段は葉子を怒鳴り散らして過ごしているロッテンマイヤーは落ち着いて仕事が出来ると珍しく感謝された。
そもそも葉子は物覚えは悪くない方だった。
言葉を教えれば数日のあいだで単語を幾つも覚えるし、他国の文化も教えてやればやるほど覚えていく。
これなら会話には困らないほどの言葉を教え込ませることができるな、と踏んでいたところへの部下からの呼び出しだ。
楽しいゲームを途中で中断させられたようなものだった。
いよいよラウヘルの機嫌が悪くなってきたのを見越したのか部下の一人が帰宅を勧めてきた。
「あとの処理はお任せください。休暇中にお呼び立てして申し訳ありませんでした」
黒髪も相まって無表情に拍車のかかった部下の一人が鉄面皮を崩さないままそんなことを言うので、ラウヘルは執務椅子の背もたれに大きく体を預けて煙管を取りだした。刻み煙草をつめて火をつけると執務室に紫煙が広がる。
「休暇中に呼び出すなんて何事かと思いましたよ。――それで、私を呼び出した者は見つかりましたか?」
鉄面皮の部下の後ろに控えていた幾人かの下っ端がラウヘルの視線に身を震わせたが、黒髪の部下は態度を変えることなく「申し訳ありません」とだけ答えた。
まるで木偶の坊のように顔色を変えないこの男は、それでいて部下の中では一番仕事が出来る男だ。
今も、ラウヘルが話を切り上げようと煙管を離したところを見計らって灰皿を差し出してきた。
しかし彼はラウヘルの起こした政変のお陰で散々な目に遭っている。ラウヘルを恨んでいてもおかしくはないのだ。実際、今現在ラウヘルの元についている部下のほとんどは、先頃の改革で何の因果かラウヘルと敵対していた貴族と縁深い役人ばかりだった。
「君がなぜ私の部下になったのか不思議でならないよ」
そうラウヘルが笑うと鉄面皮は変わらない顔で、
「あなたの元で働くよう辞令が出ましたので」
それ以上もそれ以下でもない、と役人らしい答えを返してくる。
彼にこれ以上の解答を求める気もないので、ラウヘルは灰皿に煙管の灰を落として席を立つ。
「では、お言葉に甘えて先に帰らせてもらいますよ」
しかし今日は後ろから追いかけてきた黒髪の部下がすかさずドアを開けてくる。見送りなどまずしないというのに「車溜まりまでお供いたします」と着いてきた。手には書類がまとめられているから、他部署への連絡のついでだと知れたのだが。
「――先ほどのご質問ですが」
廊下に誰も居ないことを確認したからか、おもむろに鉄面皮が口火を切った。これも珍しいことなのでラウヘルが視線で先を促すと、
「伯父の政敵であった貴方の元で働くことは、確かに憂鬱でしたが最近ではそうでもありません」
「ほう。それはなぜです?」
「貴方は大罪人と呼べるほど残酷な方だが、悪魔のように優秀で無駄がない。問題に向かう姿勢は真摯で理にかなっています。自領などで領主生活を送るよりも今現在、役人であって良かったと思えるほど貴方の手腕を目の当たりにして良かったと思っています」
「……率直だが、褒められているのかけなされているのか分からない答えだな」
苦笑交じりにラウヘルが肩をすくめると、鉄面皮が少しだけ口元を緩ませた。
「お気づきでないようですが、結婚されてからの貴方は少し変わりました。機会があるのなら、貴方を変えた奥方にお目にかかりたいものです」
こんな風に喋る彼も珍しい。物珍しい鉄面皮の様子にラウヘルも少し目を丸くしたが、ふんと鼻で笑った。
「嫌だよ。まだしつけ中なんだ」
可愛い盛りのお転婆を誰が見せてやるものか。
じゃあな、と手を振ったラウヘルの様子を今度は鉄面皮の方が目を丸くして見送っていたが、ラウヘルの後ろ姿に慌てたように礼をとった。
――案の定、家に帰る途中で木に登っていたらしい妻が落ちかけていた。
どうやら庭を遊び回っているうちにどういうわけか木に登っていたらしい。使用人たちが木を囲んでいたが、それでは間に合わない。
竜車から飛び降りて駆け、軽い体を抱きとめるまでラウヘルは生きた心地がしなかった。
「ぎゃあ! 攫われる!」
抱きとめられてようやく夫に抱きとめられたと気付いたらしく、懐かない猫のように葉子はじたばたともがき始める。
「それだけ元気なら怪我もなさそうですね」
腕の中で無駄な抵抗を続ける葉子を宥めすかしながら、ラウヘルは笑う。
(誰が見せるものか。こんな可愛い――猫のような妻を)




