こんばんは
「だからどうしてアンタはいっつもそうなのよ!」
お決まりの癇癪でその朝は始まった。
起きぬけの挨拶が気に入らなかったのか、そもそもここにラウヘルが居ること自体が気に入らないのか、その全てなのか、今日の妻はとても機嫌が悪かった。
そして、ラウヘルもまた機嫌が悪かった。
昨日、突然回された案件が上手く片付かなかったからだ。
「そんなに私が気に入らなければ、顔を合わせなければ良いだけでしょう」
機嫌の良さも悪さも表に出さないことを心がけているラウヘルだが、どうにも妻の葉子には伝わってしまうらしく、彼女はますます機嫌を損ねた。
「しょうがないでしょ! 一人で朝ごはん食べるの嫌なの!」
なんだその理由は。
今にも地団太を踏みそうな葉子は怒髪天を突かんばかりだが、ラウヘルの方も朝から頭に響く癇癪を聞かされてどこかに八つ当たりしたい気分だった。
だから、
「ではロッテンマイヤー達でも誘ってはいかがです? ああ、また悪戯をして怒られているんでしたか。あなたはこの家きっての問題児ですからね」
いつもの厭味に少しだけ悪意を混ぜた。
しかしそれは劇薬のごとく反応して葉子の怒りは頂点に達し、
ガリ!
――ラウヘルは顔に爪を立てられていた。
こういう日は毎回お義理にでも仕事へ向かうラウヘルの見送りに来る葉子の姿はない。
思いのほか深かったらしい顔の傷はすぐには治らず、痛みは引いたが痕は残ったままだった。
「――奥さまをあまり刺激なさらないでください」
表情の変わらないはずのロッテンマイヤーが呆れ顔で言った。
「昨夜はあまり眠れなかったようなのですよ」
昨日は上手くいかなかった案件のせいで帰りが遅くなったうえに、朝方まで書斎で領地の決済をしていて葉子の寝床に辿り着いたのは彼女が起きる一時間前だった。
――いつもならばラウヘルが彼女の悪夢を充分に食うのだが、それが足りなかったようだ。
黙り込んだラウヘルを見遣って、ロッテンマイヤーは続ける。
「ようやくこの屋敷に慣れてきたところなのです。どうぞ見守ってくださいませ」
それはまるで、
(猫の子だな)
爪を立てられた頬をなぞりながら、ラウヘルは仕事に出かけた。
あからさまに傷つけられた頬はその日ラウヘルに思わぬ効果をもたらした。
仕事が早く片付いたのだ。
来る人来る人、頬の傷に目がいってしまうらしく、仕舞いにはもう早く帰ってくれと部下に懇願された。
これでは仕事にならない。
自分で出来る仕事だけを片付けて執務室を出ると未だ夕方。
仕方なく屋敷へと帰ったラウヘルだったが、そこに居たのは大皿を持って驚いている妻だった。
その皿には黒や緑の丸い物体が乗っている。
(毒か?)
あの葉子に限ってそれはないかと近付くと、それは食べ物のようだった。
尋ねると彼女の母国のお菓子だという。
それもあのゲミュゼと作ったらしい。
ゲミュゼという男はおよそ人から離れた感覚の持ち主で、信じる物も頼る物も金だけにしか興味がない。そして彼は金がかかった仕事には完璧を目指すので、ラウヘルであってもそうそう彼の仕事に口出しはできないのだ。そのゲミュゼが、自分の職場である調理場に彼女を入れた。それだけでも驚きだというのに、一緒に菓子を作ったというのは驚天動地の出来事だ。
(明日は槍でも降るのか)
そんなことを考えていると、大皿を抱えた妻がラウヘルを伺いながらもじもじとしている。
黙って見ていると、呟くように彼女は口を開いた。
「――今朝、の」
「今朝?」
問い返すと再び葉子は黙り込む。
ラウヘルの方も、言葉を探して黙り込んでしまった。
彼女が言いたいのは今朝のことだろうか。
だとすれば、ラウヘルの方にも非はある。ラウヘルは彼女に八つ当たりしたのだ。悪意を持って。
「……これ、あげます」
何と言えばいいのか分からなくなったラウヘルに、おもむろに差し出されたのは一応食べ物だという菓子の乗った皿。
俯いた葉子の顔は分からない。
だが耳は真っ赤だった。
(――もしかして、謝っているつもりなのか)
この菓子をラウヘルのために作ったと、解釈してもいいのか。
どこか沈んでいた気分がふわりと軽くなり、ラウヘルは葉子からその大皿を取り上げた。
「ありがとうございます」
作り物ではなく、自然と口角が上がっていく。
(まるで子供のやりとりだな)
それがおかしくもあり、楽しくもあり。
笑いだしそうになるのを堪えていると、顔を上げた葉子が一瞬むっと顔をしかめたが、はっと何かに気付いて奥歯を噛むと、
「今朝は引っ掻いてごめんなさい!」
そう言って踵を返し、一目散に逃げて行く。
とうとう堪えきれずに大笑いしてしまうと、いつものように葉子がこちらを睨んだ。
それでもラウヘルに負い目があるためか全力では走って行かない。
「サンルームでお茶にしましょうか。一緒に食べましょう」
大分遠いが聞こえたはずだ。
葉子は振り向かず走っていったが、その方向は調理場。
きっとお茶を持ってサンルームにやってくるだろう。文句を言いながら。
(ああ、楽しい)
どうして彼女はラウヘルをこれほど楽しませるのだろう。
しばらくして、葉子は予想通りお茶を持ってサンルームに現れた。
ラウヘルが吸っていた煙管を取り上げ、窓を大きく開けて文句を言いながら、隣でお菓子を平らげていく。
彼女の作ったお菓子は見た目に反して甘く、美味しかった。
素直に感想を言うと、葉子は目を泳がせて、
「……また作りますよ。気が向いたら!」
幸せに味があるのだとすれば、きっとこんな甘い味なのだろう。




