おはよう
その原因は、あまりにもくだらなかった。
朝の挨拶がうっとうしいだの、食事の味付けが気に入らないだの、気がつけばそういうどうでもいいことを口にしていて、珍しく反論してきた彼の白い頬を引っ掻いた。
それはもう見事に三本の赤い爪痕が残るほど。
引っ掻いてから気がついた。
自分は、まるで怯える猫のようだと。
死を恐れる、ただの子供のように。
葉子が落ちてきたこの世界では、人の死は当たり前だ。
――いや、どの世界であっても人は争うものだし、生き物である以上死は運命に組み込まれているのかもしれない。
それを恐れる心も。
葉子はこの世界で長い旅をした。
旅の中で多くの人と出会い、別れた。
それは死を伴う別れも多く、大切な人の大半をかの運命が連れ去った。
長い旅の中で、思い返せば不思議なこともたくさんあった。
ほとんどが女の一人旅であったにも関わらず、彼女がこの物騒な世界で他人に害されることは、ほとんど無かったのである。
いや。
葉子の波乱続きの出来事を思えば、命の危機はたくさんあった。
しかし、それは概ね大きなうねりの一部、たとえばそう、物語の起点になるような事柄であって、日常的に荒くれ者などが横行する旅路にあってそういった者たちに襲われるといったことは一切なかったのだ。
物を盗まれることも無ければ、女と見てその身を狙われることもない。大酒を飲んで酒場で寝過ごしても、葉子はその身どころか財布さえ無事に東国まで辿り着いた。
いくら普段は少年のような装いだったとはいえ、幼いとみれば侮る者も少なくなかったはずである。
だが、葉子は重大な傷一つ負わずに旅を続けたのだ。
(よくもまぁ、悪運だけは強いこと)
不思議なことは旅を終えても続いている。
例えば、大酒飲みで面倒くさがりのお前では結婚は一生望めないと家族に太鼓判を押されていたにも関わらず、金持ち貴族と結婚してしまったこととか。
―――そう。めでたく結婚してしまったのである。
しかし。
「だーかーらー! 食べたい物があるんですよ!」
「説明していただければ私がお作りいたします」
かれこれこのやりとりを一時間ほど繰り返している。そろそろ葉子の胃は限界だった。だが、青白い顔の料理長は頑として自分の城に葉子を踏み入れさせようとはしなかった。
「料理やる人が他に居ないんだから、私も何かやりますって!」
先日、屋敷の使用人のほとんどを解雇に追いやったのは葉子自身だ。
もちろん再就職先はちゃんと用意させてもらったが、貴族として何も知らない葉子を常に小馬鹿にするような顔つきの人々と共に生活は出来なかった。
このちっぽけなプライドのために他人の運命を左右させてしまったのだから、何でもやるつもりだったのだが。
「奥さまともあろうお方に掃除や食事の用意をさせようという者はおりません」
にこりともしないこの料理長はゲミュゼという。
青い顔にクリーム色の髪、灰青色の目は死んだ魚のようで動いていることが不思議なほどだというのに、清潔なチャリムとエプロンを身につけたひょろりとした長身は厨房の出入り口に立ち塞がって動こうともしない。
すでに昼も近くなり、そろそろ食事の用意をしなければならない時間だが、彼の方も葉子が隙あらば入り込もうとするので動けないのだ。
睨みあって、すでに半刻は経つだろうか。
どちらも譲らないので、どちらも動けず、そろそろ昼飯時だというのに何一つ出来ずにいる。本末転倒とはこのことである。
やがてやってきたロッテンマイヤーに叱られて、葉子とゲミュゼの攻防はひとまず幕を閉じたが、昼食が終わってからも葉子は厨房へと乗り込んだ。
その様子に呆れたのはゲミュゼの方で、仕方なく厨房の端へと葉子を招いた。
葉子の粘り勝ちである。
「――それで、何を何のために作りたいのですか?」
「………」
ようやく厨房に入った葉子だったがゲミュゼの青白い顔に「うっ」と唸って口を噤み、
「……言わなきゃダメですか」
「理由をお聞かせいただけないのであれば、今すぐつまみ出します」
およそ女主人への態度ではないが、葉子は冷や汗すら流しそうな顔で苦い顔をした。
言いたくないのだ。理由は。
「……私が作りたいのは、お菓子です。ご飯…サルを丸めて、きな粉とかあんこをまぶすやつで、私の生まれ故郷の伝統的なお菓子です」
「キナコ? アンコ?」
「こちらにはありませんか? 甘くて、お菓子になるような、ジャムみたいなもので、サルに合うもの」
「サルにねぇ…」
ゲミュゼは思案顔で顎をさすったので、理由の話題は反れたと葉子はほっと息をついたが、
「それで、そのお菓子を作りたい理由を教えていただけませんか」
病弱で気弱そうな顔でまったく動じないゲミュゼの様子に、葉子は溜息をついた。
――結局、そのお菓子、おはぎはちゃんと出来上がった。
ゲミュゼと共にああだこうだと言いあっているうちに、豆を甘く煮たものであんこもどきを作り、乾燥した豆をひいてきな粉にするということをやって、ごはんに塩を少しだけ混ぜると美味しくできるということを発見して、葉子の曖昧なレシピは形になったのだった。
「――では、お楽しみください」
幾らかの試食品をとってから、ゲミュゼは青白い顔をわずかににやにやとさせて葉子を厨房から見送った。
(だから言いたくなかったのに!)
舌打ちしたい気分で厨房を後にした葉子の手にはおはぎを乗せた皿。
出来あがったのは良いことだ。
今は亡き祖母のおはぎが大好きだった葉子にとっては懐かしい味なので、出来れば一人で平らげたい。
(……やっぱり一人で食べようかな)
無駄に広い廊下を一人でとぼとぼと歩きながら、葉子は皿のおはぎに視線を落とす。
(だって私は悪くないし)
悪いのはあいつだ。
つまらないことを言って葉子を怒らせ、からかっては満足そうな顔をするあの悪魔が悪い。
「――何を一人で妙な顔をしているんです?」
「ぎゃあ!」
皿を落としそうになって、慌てておはぎが落ちていないか確認する。――良かった。無事だ。
「夫の声を聞いて、蛙が潰れたような声を上げないでください」
呆れたように溜息をつくので、葉子の頭に一瞬で血が昇る。
誰のせいだと思っている!
そう鼻息荒く振り返ったが、湧きあがりかけた怒りが空回りする。
顔をしかめた葉子の目の前で見慣れてしまった悪魔が不思議そうな顔で首を傾げている。
そのやけに白い頬には目立つ三本の傷痕が。
――今朝、葉子が爪で引っ掻いた傷痕だ。
ぐっと言葉に詰まった葉子を後目に、眼鏡の悪魔は彼女の手にある皿に向かって興味深そうに首を伸ばした。
「何ですか、これは」
「……おはぎです」
辛うじて応えた葉子だったが、悪魔の方は首を傾げるばかりで、
「おはぎ?」
「……私の故郷の伝統的なお菓子です。さっきゲミュゼさんと作りました」
「ゲミュゼと? よく彼が厨房に人を入れましたね」
ゲミュゼの気難しさは主人であるはずのラウヘルにも届いているようだ。
よく粘ったものだ、と葉子の方も内心自分に感心した。
「それで、それを食べようとしているんですか? 一人で」
葉子が手にしている皿は大皿で、一人で食べるには多すぎるほどのおはぎが乗っている。
幾つかはゲミュゼやロッテンマイヤーたちに食べてもらおうと厨房に置いてきたが、それでも多い。葉子一人で食べるには。
「――今朝、の」
「今朝?」
何でもないような様子のラウヘルに、葉子の方がイライラとして思わず顔を上げてやっぱり顔をしかめた。彼の白い顔には自分のつけた爪痕がしっかりと残っている。
私は悪くない、と葉子は呪文のように心で唱えた。
(でも)
引っ掻いてしまったのは、葉子の落ち度だ。
くだらないことで怒って喚くのはいつものことで、それをラウヘルはほとんど笑ってからかうが、今日のように言いあいになることもある。
それでもほとんど場合、ラウヘルの方が折れてくれる。
そのため葉子はほとんどの場合、自分が子供だと意識させられ、みじめになって終わる。
「……これ、あげます」
……いきなり皿を差し出して、何をどうしろと。
俯いた葉子にもラウヘルの当惑が伝わってくるようだ。
だが、
「――ありがとうございます」
ふわりと皿が浮いて、釣られて葉子も顔を上げる。
傷痕のついた顔が苦笑していて、いつもの癇癪が揺れたがそれを我慢させて、葉子は奥歯を噛んだ。そして、
「……今朝は、引っ掻いてごめんなさい」
早口で言ってから、逃げた。
その背中へ、少し遅れて悪魔の笑い声が聞こえてくる。
また舌打ちしたい気分になった葉子だったが、
「サンルームでお茶にしましょうか。一緒に食べましょう」
待ってますよ、と小さく聞こえても葉子は振り返らなかった。
絶対行かないとすぐに返せばいいものの、それは出来なかった。
ラウヘルはへらへらとしているようで、言った言葉は覆さない。
サンルームで待っていると言うのなら、いつまでも待っているのだろう。
葉子が行くまで。
(……あの悪魔め!)
悪態をつきながらも、葉子は茶を用意するべく走っている方向を厨房へ変えるのだった。