さようなら
警戒の滲んだ瞳に映った時、ラウヘルは笑いだしそうになるのをこらえなければならなかった。
君島葉子という女性は、取り立てて目を惹く女性ではない。
子供のような顔立ち、痩身というには起伏のない体、女性にしては少しだけ高い背だけが特徴といえば特徴だが、それもともすれば少年のような印象からは実に平凡に見えた。
それでもなお、彼女はラウヘルの目を惹いた。
それはこれまでずっと、魔術を介して彼女を追いかけてきたということもある。
久しぶりに彼女を前にしてまず気になったのは、実際の彼女が思っていたよりも痩せていたということだった。
儚げな少年のような見た目に反して、元気を余りあるほど持ち合わせているということも知っていたが、北城宰相の執務室で対面した彼女にラウヘルは思わず声をかけそうになった。
―――元気だったか。怪我がなくて良かった。
記憶よりも短くなった髪を撫でてやりたくなったが、ラウヘルを警戒して毛を逆立てているような彼女に自分から近づくことはできなかった。
そんな自分にまた苦笑して、ラウヘルは妻となる葉子を迎えた。
葉子という女性は、平凡だが不思議な女性だ。
何が優れているわけでもなく、飛びぬけて才能があるわけでもない。
だが時々、とんでもないことをやってのけた。
それは主に、命の危険にもさらされるような緊急事態に発揮される。
彼女はどんなに優れた人であっても、思わず躊躇してしまうようなことを軽く選択してしまう。
それが危なっかしくもあり、奔放な様は輝いても見える。
王との謁見を終えてから連れ帰った彼女は、その生来の奔放さをいかんなく発揮した。
「奥さま! 奥さま!」
ラウヘルの書斎を侍女たちが大声を上げながら過ぎて行く。
いつもならばラウヘルの別邸は少ない使用人たちのお陰で静寂に保たれているが、ここ数日というもの、使用人たちの怒声が止まない。
いずれもラウヘルの妻となるべく連れてこられた葉子を探すものだ。
どうやら花嫁衣装の仮縫いをまた逃げ出したらしい。
書斎の椅子に腰かけたまま展開させた探索魔術の端々に、葉子を探す人々の嘆息が伝わってくる。
先日、無理を言って呼びだした針子が特に酷い。
しばらく大人しくしていた葉子だったが、花嫁衣装が白い生地だと分かると途端に暴れ出したという。
葉子が逃げ出した際に針子は顔を引っ掻かれたらしい。気の毒に。
伝統的に、東国の婚礼衣装は花嫁が白、花婿が黒と決まっていて、生地の優劣に関わらず色は変わらない。
異世界からの迷い人である葉子には分からないかもしれないが、東国は伝統を大切にする国柄だ。
これは言って聞かせなければならないか。
屋敷の端まで巡らせた探索魔術にすっかり見慣れた反応を見つけて、ラウヘルは書斎を出た。
葉子は、ラウヘルの屋敷で実によく跳ねまわる。
先日は屋敷を抜け出そうとしたらしく、屋敷の周りの森で夜まで迷子になり、冷徹な侍女長のロッテンマイヤーをこれ以上ないほど辟易させた。
貴族としては狭いとはいえ、百以上ある部屋を持つ屋敷の中で彼女が迷うのはもはや日常茶飯事だ。
最近ではロッテンマイヤーが彼女の後ろを幼子を見張る乳母のようについて歩いている。
その様子に、今まで特別不満などなかったはずの使用人たちが溜息をついているのは知っていた。
主であるラウヘルの妻は、彼らにとっては第二の主となる。貴族の妻に求められるのは、夫と同等の知識と手腕だ。
だが、今まで自由に旅をしていた葉子にその教養はない。
そして、ラウヘルが妻とすると決めた今でも彼女に教育を施そうとしていないことが不満なのだ。
しかし、使用人たちには悪いがラウヘルは葉子に何かしらの義務を課そうと思っていなかった。
探索魔術の反応を辿ると、一室に辿り着いた。
使わなくなって久しいその部屋は、主を失って魔術の錠で閉じていたはずだ。
だが、ノブを回すと鍵が開いている。
「……ああ! 助かった!」
ぱっと飛びつくようにラウヘルが開けたドアに声がすがりついた。
しかしそのままドアを閉じてしまうと、「あー!」と非難がラウヘルに振りかかる。
カーテンが閉じられている部屋は薄暗い。
いずれも魔術で開閉する様式なので、記憶にある壁の紋章に触れる。
すると静かにカーテンが開き、部屋の有様がラウヘルの目にも明らかになった。
―――案の定、探していた妻が部屋の真ん中でうずくまっている。
床に座り込んで恨めしげにラウヘルを睨んだかと思えば、大きく溜息をついて膝を抱えてしまった。仮縫いの白い衣装が汚れているのも構わずに。
しかし、いつものように怒鳴らないのは珍しいことだった。
不思議に思ってラウヘルが彼女を覗き込むと、葉子は口を尖らせている。
「どうしたんですか。葉子」
「……ドアが開かない」
ラウヘルから顔を背けたまま、葉子はぼそりと呟いた。
「ドアが? なぜです」
「どうしてかは分かりません! 入る時は開いたのに出ようと思ったら出られなくなったの!」
やけっぱちに叫んだ葉子を見遣って、ラウヘルは改めて部屋の構造を思いだして「ああ」と一人頷いた。
この部屋は特殊な構造で、鍵を開けて入っても出るときは錠にまた魔力を注がなくては開かないのだ。
(そうだった)
この葉子という妻は、魔力がないという特異体質だったのだ。
貴族の屋敷のほとんどは、誰もが持つ微量な魔力で機能するように出来ている。
魔力のない彼女では、ドア一つ開けることさえ叶わない。
「―――私が来たからもう大丈夫ですよ。仮縫いに戻りましょう」
「……どうでもいいんですけど、この花嫁衣装の色はどうにかならないんですか」
ラウヘルが差し出した手を軽く払って、彼女は嫌そうに衣装の裾をつまんだ。
葉子に妻としての教育を課さないのは、彼女が貴族として満足な生活ができないということもあったが、彼女に今、教育が必要ではないからだ。
本当に必要なのは、
「……うう」
休養だった。
布団をきつく掴んだまま体を丸めている彼女の額をゆっくりと撫でてやる。
そうすると、苦しげに歪んでいた眉間が幾らか緩んで安らかになった。
魔術を介してラウヘルが葉子に施していたことと同じことをしてやると、彼女はようやく寝息を整えて眠ってくれるのだ。
婚前のラウヘルでは、表立って彼女と床を共にできない。だから、こうして彼女が寝静まってからベッドの隣で宥めている。
今夜も細い指がラウヘルのチャリムの袖を辿り、幼い子供のように握りしめていた。
彼女は、後遺症で未だに悪夢を見続けている。
葉子は異世界で出来た家族を失い、ショックで一度記憶を失くしている。
人格を逃避させるほどの喪失をしたというのに、強引に元の人格へと呼び戻された弊害で精神の齟齬が起きていた。
以前と記憶が合致したように見えて、小さな溝のような記憶のすれ違いにつまずいては、こうして一人で居ると泣きだしたり、怒りだしたり、時に体が動くことを拒否して物を落としてしまったりする。
治療には長い時間が必要で、その治療が出来るのは今のところラウヘルだけだった。
恐らく、彼女の養い親である伯爵の元でも治療は出来た。
だが、そのために彼女は辛い記憶もカウンセリングのために話さなければならない。
それは後遺症の残るほどの深い傷口を無遠慮になぞる行為に他ならなかった。
きっと彼女は耐えるだろう。
けれど、ラウヘルの方が耐えられない。
ラウヘルはずっと彼女の旅を見てきた。
だから、痛みや苦しみなど全部取り上げてしまいたかった。
手の平におさまるほどの額に手を当てながら、ラウヘルはいつものように静かに瞑目する。
葉子の身に起こった大半のことは、ラウヘルの計画が遠因だ。
彼女を殺そうとしていたことも、赦して欲しいとは思わない。
(けれど)
どうか、彼女の悪夢が消えますように。
幸い、今の彼女は自分の悪夢のことなど知らない。
一時的とはいえ、ラウヘルが記憶ごと持ち去っているからだ。
彼女の心が落ち着けば、少しずつ戻していくことになるだろう。
「奥さま!」
ロッテンマイヤーの怒声が廊下を走っている。
今日も何かしでかしたらしい。
ラウヘルは煙管に火を入れたまま、シガールームのドアを開けてやる。
ドアの横では、逃げてきたらしい妻が色気のないだぶだぶのチャリム姿で困り果てていた。
「今日は何をしでかしたんですか」
煙をくゆらせたまま尋ねると、葉子はムッと顔をしかめる。彼女は煙草の煙が嫌いだ。
しかし、遠くからロッテンマイヤーの声が近づいてくると、さすがに背に腹は代えられなくなったようで、
「どうでもいいから匿って!」
ラウヘルを押しのけてシガールームに滑り込んでくる。
部屋の椅子の影に慌てて隠れる様子を見送って、ついでやってきたロッテンマイヤーにどうしたのかと尋ねてみた。
「……本日は、厩舎の騎竜を持ちだして脱走しようとなさいまして」
他の侍女ではらちが明かないとロッテンマイヤーが駆り出されてしまったようだ。
常ならばどんなことにも顔色一つ変えないロッテンマイヤーをここまで怒らせるのは、一種の才能だ。
「面倒をかけたね。仕事に戻っていい」
ラウヘルが目配せすると、察しのいいロッテンマイヤーはこの部屋に葉子が逃げ込んだことに気がついたようだったが、これ以上は徒労になると知ってかシガールームを何も言わずに辞していった。
「―――脱走とは穏やかではありませんね」
椅子の影を覗き込んでやると、葉子は顔をしかめて膝を抱えていた。
「……脱走しようとしたんじゃなくて、森に行こうとしたんです」
言い訳をしているようで、ロッテンマイヤーに迷惑をかけたと自覚はあるらしい。先ほどから彼女はラウヘルを睨もうとしない。
「婚礼が終わればいくらでも連れて行ってさしあげますよ。今は、屋敷の中で存分に冒険してください」
冒険という言葉に顔を上げた彼女に、ラウヘルはふわりと煙草の煙を燻らせる。
すでに屋敷の大半を魔力が無くても使えるように差し替えた。
ほとんどの雑用を魔術で行っていた使用人たちはさらに不満を濃くしたが、そんなことを葉子に教えるつもりはなかった。
「ああ、もうホントに最悪!」
そう言って、シガールームの窓を遠慮なく開け放つ彼女に笑い転げていればいいのだから。




