第1話 逢魔が時の烏城と、おやきを求める最強陰陽師
10話程度で完結予定です。
カクヨムでも掲載中です。
国宝・松本城。
別名『烏城』とも呼ばれるその漆黒の天守閣は、夕闇に沈みゆく茜色の空を背景にすると、まるで巨大な怪物がうずくまっているかのような威容を誇る。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り始める、逢魔が時。
観光客の波が引き始めた城下町の路地を、神代悠真は一人、とぼとぼと歩いていた。
「……あーあ。駅前のあのおやき屋、もう閉まってるじゃん。今日は絶対、野沢菜おやきの気分だったのに」
悠真は鞄のストラップを握りしめ、盛大に溜息をついた。
神代悠真、中学二年生。十四歳。
地元・松本では知る人ぞ知る、由緒あるがすっかり寂れきった『神代神社』の息子である。
父親は毎日電車に揺られて通勤するごく普通のサラリーマンだが、母親は厳格な神主。そして今は亡き祖父は、幼い悠真を連れて全国各地を「旅行」と称して連れ回す、かなり破天荒な人物だった。
そのおかげで悠真は、同年代の誰よりも日本地理とご当地グルメに詳しいという、無駄なスキルを身につけている。
本人は霊感ゼロのただの中学生だと思っているが――彼にまつわる『ある異常性』に、悠真自身だけが全く気付いていなかった。
次の店を探そうと、悠真が静かな路地裏へ一歩足を踏み入れた、その時だ。
「……あれ?」
ふと、耳を打つような不自然な静寂が世界を包み込んだ。
遠くから聞こえていた車のエンジン音も、下校する学生たちの笑い声も、一瞬にして消え失せた。
それだけではない。
路地を照らすはずのLEDの街灯が、チカチカと明滅したかと思うと、まるで松明の炎のように赤黒く揺らぎ始めたのだ。
コンクリートの壁が、泥と血に塗れた土壁へと変貌していく。
足元の側溝を流れる水は、まるで動脈から噴き出した血液のように赤く濁り、鼻を突くような鉄の匂いが、濃密な霧に乗って漂ってきた。
日常が、非日常に侵食される不気味な瞬間。
普通の人間であれば、恐怖で発狂してもおかしくない光景。
しかし、悠真は首を傾げた。
「なんか急に霧が出てきたな……。最近の天気、変わりやすすぎだろ。傘持ってないんだけど」
のんびりした声を漏らす悠真は、全く気付いていない。
彼の皮膚から、無意識のうちに放出されている『何か』が、周囲の禍々しい異界の空気をバチバチと弾き飛ばしていることに。
その時。
ドンッ! と、路地の奥から何かが倒れ込む鈍い音がした。
「……う……ぁ……」
赤黒い霧の中から、一人の少女が這い出してくる。
泥だらけになった豪奢な平安装束。長く艶やかな黒髪は乱れ、その白い肌には無数の傷が刻まれていた。
年齢は悠真と同じくらいだろうか。
「えっ、何かのコスプレ……?」
悠真が呆気にとられていると、少女――沙羅は、絶望に染まった瞳で悠真を見上げ、掠れた声を絞り出した。
「に、逃げて……! 巻き込まれ、る……!」
直後、沙羅の背後の空間が『ぐちゃり』と歪んだ。
這い寄るような悍ましい冷気とともに、巨大な黒い影が形を成していく。
それは、平安の時代から数百年の怨念を啜り続けてきた悪霊――『黒霧の貴族』だった。
『――クク……未来へ逃げたところで……無駄だ、巫女よ……』
脳に直接響くような、おぞましい呪詛の声。
黒霧は幾本もの鋭い触手へと姿を変え、沙羅の細い首を刎ね飛ばそうと、そして、邪魔な場所に突っ立っている悠真の身体を串刺しにしようと襲いかかった。
沙羅は思わず目を閉じた。
――終わった。この少年もろとも、私はここで死ぬのだ、と。
だが。
『ギ、ギャアアアアアアアアアアアッ!?』
路地裏に響き渡ったのは、沙羅の悲鳴ではなく、悪霊の絶叫だった。
「……なんだこのデカい虫。鬱陶しいな」
悠真の身体に触れようとした黒霧の触手は、彼から無意識に放たれている規格外の『霊圧』に触れた瞬間、ジュワッと音を立てて蒸発していたのだ。
悠真自身は、ちょっと羽虫を手で払った程度の認識である。
『バ、バカな……! なんだこの人間は!? これほどの霊力……神仏の類か!?』
平安を恐怖に陥れた大怨霊が、信じられないものを見るように後ずさる。
「……あー、面倒くさい。腹減ってんだよこっちは」
悠真は呆れたようにため息をつくと、学生鞄をゴソゴソと漁り始めた。
取り出したのは、和紙で綴じられた一冊の古びた『御朱印帳』。
「えーっと、ここなら……信州だし、やっぱり『彼』が一番近いよな」
悠真がペラペラとページをめくる。
沙羅は目を丸くした。あの少年は何をしているのだ。あんな紙切れで、この大怨霊に立ち向かうつもりか。
しかし、悠真が特定のページを開き、そこに記された墨文字を指で軽くなぞった瞬間――。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!
松本の夜空を切り裂き、鼓膜を破るような落雷の轟音が轟いた。
分厚い黒雲が渦を巻き、赤黒い異界の空気が、圧倒的な『神気』によって一瞬で吹き飛ばされていく。
現れたのは、身の丈十メートルはあろうかという、筋骨隆々の巨大な武神の幻影。
信州が誇る最強の軍神――諏訪大明神(建御名方神)であった。
『――呼んだか、我が主よ』
神々しい光を放つ武神は、悠真の圧倒的な力の底知れなさに敬意を払うように、恭しく頭を下げる。
その光景に、黒霧の貴族はガタガタと震え上がった。
『す、諏訪の……軍神だと!? なぜだ、なぜ神がただの少年に傅いて……ヒィィッ!』
「おじいさん、悪いんだけど、その黒いゴミ掃除しといて。俺、早く帰って飯食いたいんだわ」
『承知した』
悠真が適当に手を振ると、武神は無慈悲に巨大な矛を振り下ろした。
抵抗する間もなく、平安の大怨霊は「ギャアアアアッ」という断末魔と共に、光の奔流に飲み込まれ、チリ一つ残さず消滅した。
後には、静寂を取り戻したいつもの路地裏と、涼しい夜風だけが残されていた。
「よし、終わった終わった。やっぱり地元の神様は仕事が早いな。……で?」
悠真は御朱印帳を鞄に突っ込み直すと、へたり込んでいる沙羅を見下ろした。
「君、何かの撮影? 怪我してるみたいだけど、救急車呼ぶ?」
沙羅は、目の前のジャージ姿の中学生と、彼が鞄にしまった恐ろしい『神々の契約書』を交互に見つめ、口をパクパクとさせた。
「あ、あなた……一体、何者なの……?」
「俺? ただの中二だけど。……あーあ、絶対おやき屋閉まっちゃったよ」
世界を救うことになる最強の陰陽師と、時空を越えた巫女の出会いは、野沢菜おやきへの未練と共に幕を開けたのだった。




