繰る糸相思
蒲公英の綿毛の如く金色の髪が宙を舞っていた。
白いシャツを着た少年が、睫に触れたそれを優しく掴んで手繰る。引いても引いても、終わりは訪れない。柔らかな手応えが掌で膨れ上がっていく時間は、永久に続くようだった。と、糸を繰る手が止まる。少年から伸びる金色の先には、何かが浮遊していた。
踏み潰された蛾。
体液を撒き散らして潰れた死骸のイメージが、少年の脳を蝕んだ。彼の目前には、ケロイド状のぬらりとした一対の羽根と、付け根に付随した腫瘍らしきものがある。下水から漂うような強烈な腐臭に顔を背けた少年を引き止めたのは、彼の手を幾重にも回る糸だった。糸先を辿り肉塊を視線で撫でた少年は、腫瘍が人間であることに気がついた。骨が皮膚を突き破りそうな程にやせ細った人間の胴体の上に、不釣合いに小さい頭部が置かれている。遠ざかろうとさらに一歩下がる少年に引かれた髪の毛が
ねちゃっ
と、音を立て頭部を引き抜いた。翼をもたない頭部は、何故か浮かんだまま、少年に寄り添う。巻きつく糸を解くこともかなわず、引きちぎろうとすれば、細く細く伸びて、より念入りに巻きつかれる。諦めて歩き出す少年の後を、頭は犬のように追った。彼が二歩前進すればその分進み、立ち止まれば同時にぴたりと止まる。始めからそういうものであったかのような、自然な動きだった。
ぶちゅっ、と、肉が押し潰される音が響き、視覚で認識できそうな濃厚な悪臭が辺りを覆った。黄土色の飛沫が少年の白いシャツを汚し、ゆっくりと垂れる。頭部を失った胴体が、動き出していた。蜜柑の皮が剥かれるように内側から盛り上がり、人体が裏返される。食道が外気にさらされ、皮膚だったものが内側へと埋もれていくさまに、少年は恐怖し走り出した。
「おーい、お前も散歩か。」
黙々と走り続けていた少年は、公園に面した道を走り抜ける際、聞きなれた声によびかけられた。噴水の傍に立った青年が、少年に手を振っていた。
「ワンッ。」
青年の足元で吠えた犬は、少年のやって来た方をしきりと気にしている。つられるように来た道を振り返った少年は、地面が脈動する様子を目にすることとなった。目を擦り、再びみつめようとした少年は、始めて少年の動きに逆らった頭部によって、動きを阻まれた。ぐいぐいと力任せに引かれては、公園から遠ざかる意外にない。
「すいません、孝之さん。また後で。」
言い切るより先に、頭部が腕を引いたため、青年には、少年の言葉は途切れたように聞こえた。
ワンワンワンワンっ
吠え続ける犬の声は、少年に届いていた。だがそれも数秒のことであり、人の悲鳴が長く伸び、途絶えると同時に、止んだ。
少年は未だ、走り続けている。彼は自らの手を引くこの頭部に、不思議と愛着を抱き始めていた。腐臭と醜悪な外見に嫌悪感しか抱かないはずが、なぜか沸き起こってしまう愛しさを、少年は疑問に思っていた。ただ、自分に起きたこの異変について、尋ねられる相手などもはや存在しないことは既に理解していた。走りながら何度も振り返って見た地面は、揺れ動いてなどいなかった。地面と空を覆いながら広がるそれのあまりの大きさに、大地が揺れ動いていると勘違いしただけだったのだ。
ケロイド状の物体が、沸き立つ赤い管や白い糸を食い込ませながら脈打つその様子には、見覚えがあった。何より足を少しでも止めようものなら鼻の先に漂ってくる生臭い匂いと湧き上がる吐き気は、間違えようのないものだった。だから、彼は走り続けている。それでも段々と息が上がってきていた。荒い息を吐く彼には、一つの予感があった。
自分はじきに立ち止まってしまうだろうという、柔らかい予感が。




