ミスラブレターと番茄炒蛋(ファンチェチャオダン)
案の定、翌日もラブレターが一通増えていた。
その翌日も、そのまた翌日も、一通ずつ綴られた想いは増えていく。ラブレターが七通目に達したころから、千代は中身を確認しなくなった。
――どうして返事をくれないの? もう私に飽きちゃったの? あんなに好きって言ってくれたじゃん。
六通目の手紙に書いてあったことだ。怒りと悲しみの色を増していくラブレターは、疲弊した千代の精神をちくちくと刺す。
おそらく、ミスラブレターは愛想を尽かされたから返事がないと思っているのだろう。ロッカーを間違えているなんて微塵も思っていないはずだ。
ロッカーのメール穴に、「送る相手を間違えています」と書いた付箋でも貼っておこうかと考えたが、ほか社員の目にも入ってしまう。そうしたら、千代自身が質問攻めに遭うことだろう。嘘をつくのが下手くそな千代では、きっとすぐにミスラブレターのことがばれてしまう。そこからは面白いものが見つかったとばかりに、ミスラブレター探しが始まることなんて容易に想像できた。
同僚に相談しようとも考えたが、人の口に戸は立てられないという。どこからか話が漏れて、すぐに噂が広まるだろう。
この件の原因はミスラブレターだが、彼女自身が悪いことをしているわけではない。噂になったり、大勢に正体がばれてしまうことはできる限り避けたい。
千代はこめかみを押さえた。ラブレターの悩みは解決したいが、大事にはしたくない。そんな願いを網羅してくれる打開策があるだろうか。
「……ねぇ羊山さん、ちょっといいかな」
そう考えていると、隣から声をかけられた。仕事とは関係ないことで頭がいっぱいだったため、肩がびくりと跳ねてしまう。
「あっ、はい、どうしたんですか? 島さん」
千代の左の席にいる三十代ほどの男性――島は、目をうろうろと彷徨わせた。
「ちょっとした雑談というか、アドバイスをもらいたいんだけど」
「はい」
「えっと……女性って何をもらったら相手を許そうと思う?」
その質問に、千代はじとりと島を見つめた。
「何か悪いことしたんですか?」
「う……実はちょっと、彼女と上手くいってなくて……」
言葉を濁しているが、これは何が原因かわかっている顔である。理由があって詳細は話したくないのだろう。
千代だって同僚の痴話喧嘩に巻きこまれたくはない。あえて、深く追求しないことにした。
「素直に謝った方が一番楽だと思いますよ。謝罪のプレゼントって、嫌な女性はとことん嫌がりますからね。『こんなので私のご機嫌取れると思ったってこと?』とか言い出しますよ。おすすめはしません」
「やっぱりそうか……。ネットにも羊山さんが言ったことそのまま書いてあったよ」
島は疲れた顔で苦笑する。そしてすぐにため息をついた。
彼は、同じ職場から客先常駐エンジニアとして派遣されている千代の同僚である。島の方が年上であるため敬語を使っているが、勤続年数はまったく同じだ。
最近年下の女性と付き合い始めたと言って喜んでいたはずだが、もう雲行きが怪しくなってきたのか。
再度ため息をついた島に、千代は持っていたチョコレートを渡す。小さな声で感謝を述べた彼は、封を切っても口に含まず、またため息をついた。どうやら相当参っているようだ。
「……そういえば羊山さん、最近よくお菓子食べてるよね? 新作が出てたりするの?」
目の前の問題から目を背けたいのだろう、島は少々不自然に話を逸らす。それに対し、千代は机の上に置かれた様々なお菓子を眺めた。
チョコレート、たい焼き、バウムクーヘン、ラングドシャ。カロリーの高そうなものがずらりと並んでいる。見るだけで胸やけしそうなラインナップだ。
「とくに新作が出てるわけじゃないんですけど、食べてもすぐお腹が減っちゃうんですよね」
「え、病気とかじゃないよね?」
「違います違います! そんなまずい理由ではないです!」
不安そうな表情を浮かべる島に、千代は慌てて首を振った。この過食は、もっと単純なことが理由だからだ。
空腹が続く原因――それはストレスである。昔からストレスが溜まると、過食で発散しようとするところがあった。胃腸が丈夫なことも相まって、体に入った食べ物は全て栄養に変わってしまう。だからこのふくよかな体型が作られたのだ。
気をつけなければいけないと思いつつも、目の前にあるお菓子につい手が伸びてしまった。
その日も千代は残業をしていた。ロッカーに溜まったラブレターは合計十五通になる。
今もなお、ミスラブレターの正体はわかっていない。
つい先日、待ち構えていればいいのではと思い一時間ほど早く出社したが、そのときにはもうすでに手紙が入っていた。出社していた社員も男女含めて十人ほどおり、誰がミスラブレターなのか目星をつけることも難しかった。
昨日は、灯台下暗しという有名なことわざに倣って身近なところから観察を始めてみた。千代の所属しているエンジニア部署にミスラブレターがいる可能性も無くはない、そう思ったのだ。だが、その推理はすぐにゴミ箱行きとなる。
エンジニア部署には彼女を含め十名の職員がいる。千代ともう一人の女性を除いて、ほかは全員男性だ。そうなると、焦点が当たるのは千代を除いた一人の女性のみ。しかし、その女性は既婚者だと聞いたことがある。不倫の線も無いわけではないが、おそらくミスラブレターは別部署の人だろうと結論を出した。その女性が休んでいた日も変わらずラブレターが届いていたからだ。
――つまるところ、何も解決していない。
千代はコンビニ弁当やお菓子の食べ過ぎでむくんだ顔を両手で覆った。
せめてミスラブレターの正体がわかれば次の行動も考えられるのに。今の状況ではただストレスとラブレターが募っていくだけだ。
「……帰ろ」
壁にかけてある時計を見ると、日が変わるまであと一時間しかないことを示している。
とくに急ぎの業務があるわけではないため、素早く業務机の上を片づけ、まだ残っている職員に挨拶して会社を出た。
コンビニのお弁当コーナーには、商品が一つも残っていなかった。千代のような疲れた社会人たちが購入していったのだろう。
お米が食べたかったけどしかたない、と千代はカップラーメンのコーナーに移動する。気になった味を全て買い物かごに入れてレジに向かった。
コンビニを出た千代は、星を眺める余裕すらなく歩を進める。すると、飲み会終わりらしい団体とすれ違った。みんなそれぞれ好きなことを話していて楽しそうだ。
何の気なしに見ていると、団体のうちの一人――覚束ない足取りの男性が千代にぶつかってきた。
「うわっ⁉」
バランスを崩した千代はそのままアスファルトの上に倒れ尻もちをついてしまう。勢いよくついた手のひらが、じんと痺れた。
「おお? あぁすみませんね」
運良く倒れなかった酒臭い男性は、心のこもっていない謝罪を残し仲間たちと去って行った。
「……え、」
呆然と、その背中を見つめる。今の千代にはそれしかできなかった。
自分は倒れたのか、あの男性がぶつかってきたせいで。
ようやく脳が理解した瞬間、アスファルトに打ちつけた臀部と手のひらが痛みを訴え始めた。視界の端に、レジ袋から出てしまったカップ麺が転がっている。
拾わなきゃ。そう考えて手を伸ばす。
もう日付が変わる時間だ、通行人なんてろくにいない。頭の片隅ではわかっているのに、なぜか周りを気にして羞恥を覚えてしまう。
ふらつきながらもどうにか立ち上がり、尻もちをついたことなどなかったように一歩踏み出した。
瞬間、バターのような香りが千代の鼻腔をくすぐる。
「いい匂いがする……」
足を止め、肺いっぱいにその香りを吸い込んだ。母にねだって作ってもらった、バターたっぷりのスクランブルエッグを思い出す。あのときはご飯が出てくるのが当たり前で、自分を思って作ってくれる料理がどれだけありがたいものか知らなかった。それを知ったのは家を出て、一人暮らしを始めてからだ。
まるで案内でもされているかのように、千代の足はバターらしき香りを目指して進んで行く。
「……っ」
歩を進めるうちに、だんだんと唾液の量が増えてくる。何度も唾を飲み込みながら、匂いが濃くなる方へ向かった。
流れていく視界。そこに映る風景には見覚えがあった。少し前にも、今日と同じようにおいしそうな匂いにつられ、千代はこの道を歩いたことがある。
住宅街から大通りに出て、業務用スーパーの隣にある細い路地を進む。千代の求めている場所はそこにあるはずだ。まるで隠れるように、ひっそりと。
「あった……!」
誰に向けたものでもないその言葉。その声には喜色が浮かんでいる。
――スナック夢半。
鈍い光を放つ看板と、外まで香るおいしそうな匂い。そして漏れ聞こえる客たちの笑い声。
温度の無いはずのそれらにどこかあたたかさを覚えながら、千代は木製の扉を開けた。
「――いらっしゃ……って、残業のおねえさんじゃん!」
視界に飛び込む特徴的なカシスピンクの髪。低すぎないトーンの耳に馴染む声。
「あらぁ、しばらく~。元気にしてた?」
おそらく「しばらくぶり」の略語なのだろう。妙な切り方をされているが、不思議と違和感は感じない。むしろ彼の雰囲気に合っており安心すらしてしまう。
「……こんばんは、与一さん」
「『さん』なんてかしこまりすぎっ。もっと砕けて呼んでよ」
「与一……くん?」
「いーねぇ、同級生みたい」
そんな話をしながらも、彼は慣れた動作でカウンターへ案内してくれる。年甲斐もなく、覚えていてくれたことにうれしくなってしまった。
「いたっ」
カウンターチェアに座ろうとしたそのとき、手のひらに忘れていた痛みが走る。しみるような、じくじくとした痛みだ。
思わず手のひらに視線を向けると、ところどころ擦り剝けて血が滲んでいた。先ほどの男性とぶつかったときに擦りむいたのかもしれない。
手だけ洗わせてもらおう。そう思った千代はお手洗いの場所を尋ねようと顔を上げた。
「すみません、注文の前にお手洗い借りてもいいですか? 手を洗いたくて」
「おっけー! お手洗いならそこの扉入って……」
はきはきとした与一の声は、尻すぼみに小さくなっていく。
どうしたのだろうか。不思議に思った千代が声をかけるより先に、力強く手をつかまれた。
「え、あ……え⁉」
自分のものよりも一回り以上大きい骨ばった手の感触。男性らしさを嫌でも感じてしまう。
異性と触れ合うなんて高校生以来のため、異様なほど狼狽する千代。そんな彼女とは反対に、与一は千代のふっくらとした手を凝視している。
数秒の沈黙。しかし、千代にとってはもっと長く感じられた。
手汗もかいてしまっている、早く放してくれ。痛みすら忘れてそう一心に願っていると、
「――怪我してんじゃんっ‼」
よく通る声がスナック夢半中に響いた。
「ちょ、こういうことは早く言ってよ! 救急箱救急箱……あれ、救急箱ってどこあったっけ」
レジ周りを探し始める与一を千代は止める。
「大丈夫ですっ! 大丈夫ですから! これくらいどうってことないですから!」
「いや擦り傷って舐めてかかると痛い目見るかんね! 俺っち中学んときの怪我を砂利が入ったまま放置して膿んだから! 痛いわ、治りは遅いわ、大変よ!」
すると、ほかの客たちも「何だ何だ」と千代の周囲に集まり出した。注目を浴びることに慣れていないため、緊張して肩に力が入ってしまう。
「どうしたんだい、よっちゃん」
「え? 怪我? そりゃ放っといちゃいけねぇや」
「誰かー! この姉ちゃんが怪我してるみたいなんだ。絆創膏とか持ってないか?」
「絆創膏はねぇけど、消毒液ならあるぞ」
「さっすが、関根のおじさん! 用意よすぎ! 早速お借りしますっ!」
千代が口を挟む間もなく、常連客らしき男性から消毒液を借りた与一は、彼女の手の傷に処置を施していく。
みんなが見守る中で進んで行く治療の工程。居心地は悪かったが、心配してくれていることは痛いほど伝わった。
「よっし、オペ完了っ! もう平気だよん!」
思っていたよりも早く終わりを告げた与一に、周りの客は拍手を送る。
千代の手からは消毒駅特有の匂いがしていた。そのうえ、何のマスコットかわからないキャラがプリントされている絆創膏まで貼ってある。
「すみません、ありがとうございました……! 与一くんも、みなさんも」
全方位に頭を下げると、客たちは朗らかに笑って席に戻って行った。
やっと落ち着いた千代は、先客たちが食べているご飯を観察する。スクランブルエッグにベーコン、茶碗蒸し、卵かけご飯など、今日のメインは卵料理のようだ。
「あの、卵焼きってできますか?」
スナック夢半にはメニュー表が無い。それを覚えていた千代は、先に食べたいものを絞ってから問うことにした。
その質問に与一は大きくうなずく。
「できるよっ。そしてなんと、和風と洋風かも選べちゃいますっ」
「うーん、では洋風でお願いします」
「おっけおっけ。ちょっち待っててね~」
前回と同じように、背を向けた与一は卵焼きの準備に取り掛かった。その姿を見て、この前浮かんだ疑問が頭をよぎる。
なぜ、与一はスナックを経営しているのか。
思えばこのスナックには、彼に合わないものがたくさんある。身長に対して低いレジ台に食器棚。与一が産まれる前からあったような古いカラオケ機器など。まるで誰かからそのまま借りたような場所なのだ、ここは。
余計な詮索は失礼にあたると思いながらも、気になり始めたら色々なものが目についてしまう。
……話したくないようだったらすぐに謝ろう。
そう決めた千代は、好奇心に抗えず口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「ん? どーぞ」
「与一くんは、どうしてスナックをやろうと思ったんですか?」
与一のたれ目が肩越しに千代を捉える。
やっぱり聞いたらまずいことだった……!
そう思った千代はすぐに頭を下げた。
「ごめんなさ――」
「――やる気は無かったんよね」
「…………え?」
先ほどまでと変わらない声のトーンで告げた与一は口角を上げた。
「元々このお店って俺っちのばあちゃんのものでね。今はこんなでかい顔してるけど、三ヶ月くらい前まではまったく関係ない人だったんよ、俺」
「そ、そうだったんですか」
「そうなの」
小さくうなずいて、与一は話を続ける。
「俺っちの前職はスナックとまったく関係ない職種だったんだけど、ちょっと色々あって辞めてさ。あ、円満退職ね。んで、次の仕事どうしよっかな~とか思ってたらばあちゃんが事故に遭っちゃって。幸い命に別状はなかったんだけど、もういい歳だから骨折っちゃったんよね。全治六ヶ月よ? やばいよね。それで店どうするってなって、ちょうど暇ぶっこいてたし、俺っちやっちゃう? みたいな?」
かしゃかしゃ、とボウルに割った卵を混ぜる音が聞こえ始めた。
「現状、常連さんのおかげでどうにか続けさせてもらってる感じかな。ま、だから代理オーナー的存在なのよ、俺っち。というわけで、今後ともよろしくお願いしますっ」
手を止め振り向いた与一は、千代に向かって頭を下げた。たしかに、一度社会人を経験したことがあるお辞儀の深さだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
座ったままだが、千代もお辞儀を返す。カウンター越しに頭を下げ合うという妙な構図になってしまった。
「そういえば……おねえさんの名前、失礼じゃなければ聞いてもいい? うち一応スナックだからさ、お客様の名前は把握してるのよ」
頭を上げた与一がそう告げる。そこで初めて、千代は自分が名乗っていないことに気づいた。
「あ、すみませんっ。申し遅れましたが、羊山千代といいます」
「ぜーんぜん謝ることじゃないよんっ。よろしくね、お千代さん」
時代劇のような呼び方に、千代は思わず笑ってしまう。
さっきまで星を見る余裕すらなかったのに、こんなに自然に笑えるなんて。
千代は自分自身に驚いた。今日を含めてまだ二回しかこのスナックに来ていないが、どうやら自分の中で相当落ち着ける場所になったようだ。
「お千代さんは今日も残業だったの?」
「はい」
「大変だねぇ。この前もそうだったじゃん?」
「そうですね。でもこれはしょうがないんですよ。仕事に集中できてないわたしが悪いので」
千代が苦笑しながらそう告げる。すると、調理に戻っていた与一は顔だけ千代の方へ向けた。
「え、そうなの? 集中できないって何かあった感じ?」
心配そうなその眼差しに千代は首を振ろうとして、ふと、この人になら話してもいいんじゃないかと思った――ミスラブレターのことを。
彼は友人でも家族でもない。普通であれば遠慮する場面である。しかし、擦り傷一つをあんなに心配してくれた彼に、聞いてもらいたいと思ってしまったのだ。
千代は小さくうなずいた。
「……あの、職場であったことなんですけど、聞いてもらえますか」
緊張で掠れてしまった千代の言葉。それに、与一は「もちろん」と告げた。
千代はミスラブレターのことを話した。間違えて投函されるラブレター。「鎌倉幕府くらいわかる」という何の手がかりもない内容。毎日一通ずつ増えていくそれのことばかり考えてしまって、仕事に身が入らないのだと。
与一は作業する手を止め、最後まで茶化さずに聞いてくれた。
「――と、いうわけなんです」
話し終えた千代は一つ息をつく。伝えるだけでだいぶ肩が軽くなった。だが、与一は何かを考えるように一点を凝視している。
面白い話ではないし、やっぱり迷惑だったかもしれない。
そう思った千代が声をかける前に、与一が口を開いた。
「ねぇお千代さん。急で申し訳ないんだけど、注文を卵焼きから変更してもいい?」
想像していなかった言葉に、千代は一瞬呆然としてしまう。
「え、ええ、大丈夫ですけど……何で急に?」
「うーん、ちょっとね、思いついたことがあって」
新レシピを閃いたということだろうか。よくわからないが、ここは与一にお任せしよう。
千代が再度承諾の旨を伝えると、与一は冷蔵庫からトマトを取り出した。慣れた手つきでヘタを取り除き、くし切りにしていく。
一体何ができるのか。子どものように心を躍らせた千代は、カウンター越しに座ったまま背伸びした。
次に、与一は棚から砂糖、塩、片栗粉を取り出す。それらを水と混ぜ、ボウルに解きほぐしてあった卵には胡椒を加えた。そして油を入れて熱したフライパンに、解いた卵、トマト、水に溶かした砂糖や片栗粉を順番に入れていく。最後に冷蔵庫から出したみじん切りされたネギを投入し、とろみと一緒に卵をほぐした。
「うん、これで完成っ!」
そう言った与一は、大きめの平皿にフライパンを引っ繰り返した。
「えっと、これは……」
「番茄炒蛋ですっ」
「ふぁ、ふぁんちぇ、ちゃおだん?」
目の前に置かれた番茄炒蛋という料理を観察する。見た目は、トマトと卵の炒めものというところだろうか。
「うん、中国や台湾の家庭料理らしいよ。材料が多いわけでもないし、簡単にできるところが人気なんだって。前職の同僚に教えてもらったんだ」
「たしかに、調理時間が短かったですね」
千代は口内にあふれ出した唾液を飲み込む。
「……おいしそう」
そうつぶやいた千代に、お椀に盛られた白米と箸が差し出された。
「どうぞ、めしあがれっ」
「い、いただきます……!」
くたくたのトマトとふんわりとした卵をつかみ、とろみのある汁に浸してから口に運ぶ。咀嚼するたびに、トマトの旨みがあふれ出した。シンプルな味付けがよりトマトを際立たせている。
「どうでしょう?」
ごくり、と千代の嚥下した後、与一はそう尋ねた。
「おいっしい……ですっ!」
嚥下を終えた千代は満面の笑みで告げる。
番茄炒蛋の味が口内に残っている、そんな中で白米をかき込むと多幸感に包まれた。二口目、三口目と、すさまじい速度で箸が進む。
そんな千代に、与一はある問いを投げかけた。
「ね、お千代さん。トマトは別名毒リンゴって呼ばれてた話、知ってる?」
「ど、え……毒?」
「うん」
「トマトに?」
「そう」
千代は手を止めて記憶を漁るが、そんな話は聞いたことがない。
「いえ、知らないです。今も呼ばれてるんですか?」
「今は呼ばれてないよ。そう呼ばれてたのも十五、六世紀のことらしいしね。いやー昔の人は中々ロックな名前で呼ぶよね~」
どうしてそんな名で呼ばれていたのかと尋ねれば、
「トマトの酸で食器に使われた鉛が溶けて食べた人が鉛中毒になったからとか、毒があるベラドンナとかいう植物に似てたからとか言われてるね。まぁ諸説ありだけど、ある意味ジェネレーションギャップ的な?」
と、教えてくれた。
人を見た目で判断してはいけないが、チャラ男風の出で立ちに似合わない博識な一面に感服する。きっと学生のころも優秀だったのだろう。少年の与一を勝手に想像し、千代は何だか微笑ましい気持ちになる。
「そういえば、どうしてわざわざこの話を?」
たしかに、かつてのトマトはそう呼ばれていたのかもしれないが今は違う。であれば、この話題を振ってきた意味がわからない。
そう思っていると、「これは予想なんだけど……」と前置きして与一は言葉を紡ぐ。
「ミスラブレターも、トマトと同じなんじゃない?」
「……どういうことですか?」
千代が聞き返すと、与一は人差し指を立てた。その姿はさながら探偵のようだ。
「ミスラブレターの手紙に書いてあった鎌倉幕府についてだけど、成立年がいつだか覚えてる?」
鎌倉幕府の成立年。それなら簡単だ。学生時代、語呂合わせで覚え、テストに臨んだのだから。
「『イイクニ作ろう鎌倉幕府』だから、一一九二年ですよね」
自信を持ってそう答えると、背後から「えっ」と驚きの声があがった。
「一一八五年……じゃないんですか?」
千代の後ろにあるテーブル席に座っていた若い男性。首を傾げていた彼は、すぐさま頭を下げた。
「あっ、すみません! 急に話に入っちゃって! 僕が小学生のころは『イイハコ作ろう鎌倉幕府』で覚えたものですから、何だか変な気がしちゃって」
「いえ、全然大丈夫ですよ。それより、今の学校では一一八五年って教えてもらうんですか?」
千代が尋ねると、その男性は大きくうなずく。
「はい。自分は今ハタチですけど、教科書もテストも一一八五年って書いてあったと思います」
……今の教科書はそうなってるんだ。
そう思った瞬間、与一が先ほど言っていた「ミスラブレターはトマトと同じじゃないか」という言葉が頭をよぎる。
十五、六世紀ごろ、トマトは毒リンゴと呼ばれ、食用ではなかった。それが今では健康にいい野菜としてテレビで紹介までされている。
千代が小学生のころは、鎌倉幕府は一一九二年に成立したと教えられた。しかし、若者の間では一一八五年になっているらしい。
手紙には、鎌倉幕府くらいわかると書かれていた。何を言っているのか意味がわからなかったが、今なら少しわかる気がする。
時代遅れな文通を始めるにあたって、ミスラブレターの想い人は彼女にある問題を出したのではないだろうか。その問題とは、ロッカーの番号だ。どんな理由かわからないが、素直に教えず、鎌倉幕府の成立年だとヒントを出した想い人。学校で一一八五年だと学んだミスラブレターは、間違えているとは微塵も思わず一一八五番――つまり、千代のロッカーに毎日手紙を投函し続けた。
「つまりミスラブレターが本当に届けたかったのは、一一九二番のロッカーの人……?」
「うん、多分ね」
眉を下げて苦笑する与一。
「お千代さん、一一九二番ロッカーの人に心当たりある?」
「……同僚です。同じ部署の」
一一九二番のロッカーは、同僚の島が貸与されていたはずだ。
記憶を探り当てた千代は、そういえば、とあることを思い出す。この間、彼女と上手くいっていないと話していた。もしかしたら、手紙を無視されていると思った彼女――ミスラブレターが怒ってしまったのかもしれない。
「その同僚さんに聞けば、多分解決するんじゃないかな」
「そうですね……」
箸を持ったまま、千代は宙を仰いだ。
「…………はぁぁ、与一くんに聞いてもらってよかったぁ」
それは誰に向けたものでもなく、ただこぼれてしまった千代の本心。まるで霧が晴れるように、今までの悩みが消えていく。
「お千代さんがそう思ってくれたように、ミスラブレターちゃんも間違えた相手がお千代さんでよかったなって俺っちは思うよ」
どうしてそう思うのだろう。千代が視線を向けると、与一はおだやかな表情を浮かべていた。
「だってさ、ミスラブレターちゃんが噂になったり、文通が周りにばれたりしないように、誰にも相談しなかったんでしょ? 相手を慮る、それってすごいことだよ」
「質問攻めに遭うのが嫌だっただけですよ」
「いいの、どんな理由でも。少なくとも俺っちは『あ、優しい人だなー』って思ったよ」
「……」
まっすぐ向けられた言葉がくすぐったくて、口を噤む。
増えていくラブレターを見るたびに、どうにか解決したいと思った。だが、質問攻めに遭ったり、ミスラブレタ―が噂になることは避けたかった。
ただの自己保身。大事にしたくなかっただけ。
目的はあるけど手段は選びたい、なんて面倒くさい注文をする客――それが今回の件における千代のポジションだ。
でも、そんな面倒くさい自分も捨てたものじゃないのかもしれない。
優しい人――なんてたった一言で、そう思ってしまった。
単純だ、呆れるくらいに。
箸を持ち直し、番茄炒蛋を口に含む。少し冷めてしまったが、おいしさは一口目と変わらなかった。
「島さん、鎌倉幕府って一一八五年に成立したそうですよ」
翌日、千代は会社のフリースぺースに島を呼び出しそう告げる。近くに誰もいないことは確認済みだ。
「え、一一九二年じゃないの……って、何で急にそんな話を?」
「自分のロッカーの番号、鎌倉幕府の成立年って教えたりしませんでした? 二週間くらい前に」
数秒、島は口を開いたまま固まった。
「た、たしかに、彼女に教えたけど……」
「今時の子は『イイハコ作ろう鎌倉幕府』って教わるらしいですよ。彼女さん、ずっとわたしの一一八五番ロッカーにラブレターを入れてたんです」
事態を理解した様子の島はみるみるうちに青ざめ、「だからどれだけ待っても手紙が入ってなかったのか」と小さくつぶやいた。
「手紙は全部保管してあるので、相手の子にちゃんと説明と謝罪をしてから取りに来てください。きっと、愛想尽かされたんじゃないかって不安だと思いますから」
最初の何通か読んだだけでも、島のことが大好きであることは伝わった。そんなミスラブレターにはぜひとも報われて欲しい。
「わ、わかったよ」
「ありがとうございます」
これで言わねばならないことは言えた。あとはなるようになるだろう。
会話を終えた千代と島はフリースペースを後にする。自席があるフロアに戻るためエレベーターを待っていると、島は「そういえば」と口を開いた。
「羊山さん、どうしてこんなに詳しくわかったの? も、もしかしてエスパー?」
見当違いなことを言い出す島に、千代は首を振って口角を上げた。
――あぁ、思い出すだけでお腹が減ってしまう。
「チャラ男拝んでご飯食べただけです」
この度は本作「チャラ男拝んで飯を食う」読んで下さり誠にありがとうございます!
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