スナック夢半とチャラ男の店主
千代の仕事は、保険会社のサイトを問題なく運営できるようにすること――簡単に言えばエンジニアだ。毎日のように客先から不具合修正や改良を求められる。パソコン画面に浮かぶ様々な英字を読み解くために集中力が必要な仕事だが、今の千代はその集中を維持できなかった。ふとした時にミスラブレターのことを考えてしまうのだ。そして普段よりも遅くなった作業スピードについて注意を受け、急かされることが苦手な彼女は余計にミスを起こしてしまう。
どうにか指示された分の業務を終えたころ、社内にはほとんど人がおらず、日付も変わっていた。
千代はあくびを噛み殺しながら、残っている社員に声をかけ会社を後にする。電車を乗り換え、何度も船を漕ぎ、やっと最寄り駅に着いた。
重い体を引きずるようにして歩いていると、かわいそうな音で胃が空腹を訴えてくる。
……家に何か食べるものあったっけ。
千代の住むアパートは住宅街に存在するため、近くにファミレスの類はない。コンビニならあるが、この時間のコンビニ弁当はできる限り避けたかった。二十八歳にもなると、深夜にコンビニ弁当を食べた翌日は殴られたのかと思うほどぱんぱんに顔がむくんでしまう。
もっとお母さんが作ってくれるような家庭料理が食べたい。
そんなことを思っていると、醤油のような香りが千代の鼻腔をくすぐった。次いで香るのは焼き鮭の匂い。ほんのり混じる焦げた香りも食欲を刺激する。
「……っ」
一瞬にして、千代の口内は唾液でいっぱいになる。疲れ切った体は匂いにつられ、帰路とは別の道を歩み始めた。
どれほど歩いただろうか。似たような家が建ち並ぶ住宅街から大通りに出て、業務用スーパーの隣にある細い路地を進んで行く。――そしてそれは隠れるようにひっそりと佇んでいた。
スナック夢半。
「……ゆめ、なかば」
白く鈍い光を放つ看板。そこに書かれている店名を口に出す。
この辺りに引っ越して三年近く経つが、見たこともなければ聞いたこともない。そもそも会社と自宅の往復しかしていない出不精の千代にとって、駅と反対方向のこちら側へ来るのは初めての経験だった。時たま漏れ聞こえる笑い声に尻ごみしながらも、未知のものを発見した子どもように心が躍る。
変わらず食欲を刺激し続ける匂いを肺いっぱいに吸い込み、千代は生まれて初めてスナックへ足を踏み出した。
「いらっしゃーい!」
木製の扉を開けると同時に、居酒屋のようなはきはきとした男性の声に歓迎される。
スナックに入るのは初めてだったため様々な想像をしていたが、内観は至ってシンプルだった。千代から見て左側にカウンター。右側にテーブル席。そして奥に数十年近く昔のカラオケ機材が置かれていた。モニターもブラウン管である。誰一人歌っていないところを見ると、もう古すぎて動かないのかもしれない。きれいに手入れしてあったが、もはやオブジェのようだ。
「お一人様? ならこっちどうぞー」
暖色のライトに照らし出されたミディアムウルフカットの男性は、人懐っこい笑みを浮かべカウンターを手のひらで指し示した。千代は案内されるまま革のカウンターチェアに腰を下ろす。
「何にします? だいたい何でもありますよっ、メニュー表以外なら」
「あ、えっと、」
メニュー表がないのであれば、何を頼んでいいのかわからない。ほかの客が頼んでいるものを参考にしようと、千代は辺りを見渡した。酒、おつまみなど、スナックでは当然の品がテーブル席に広がっている。しかしその中でも、千代の目を引くものが一つだけあった。男性が器に口をつけてかきこんでいるもの、それは――
「――あれ、お茶漬けですか?」
スナックには似合わないどんぶり。思わずこぼれてしまった千代の質問に、男性はうなずいた。
「正解っ! スナックでは珍しいっしょ?」
「そうですね。スナックってお酒を飲むところだと思ってました。お茶漬けもメニューとして存在するんですね」
「おねえさんのその認識が正解だよん。これはただうちが変わってるだけ。うち――スナック夢半は、お酒よりもご飯系の方が多いスナックなんだ」
千代は相槌を打ちながら、説明してくれる男性を観察する。
きれいに染められたカシスピンクの髪。無地のロングティーシャツの上に、かぼちゃがプリントされた薄手の柄シャツ。つり眉とは正反対の方向に垂れた大型犬のような目。フランクな話し方。
彼を一言で例えるとしたら、「チャラ男」が当てはまるだろう。
胸につけられたネームプレートの「与一」という弓の名武将を彷彿とさせる名も、ホストが持つ源氏名のようなものなのではと思ってしまう。
彼がこのスナックのオーナーなのだろうか。やけに若い気もするが……。
そう思いながらも、まずは注文をしてしまおうと千代は口を開いた。
「あ……では、わたしもお茶漬けをお願いします」
「鮭茶漬けだけどアレルギーとかへーき?」
「大丈夫です」
「おっけおっけ! ちょーっち待っててね、すぐできるから」
与一という名の男性は準備のために背を向けた。彼には少し低いであろう棚からどんぶりを取り出す。
焼き鮭の匂いがしていたのは、鮭茶漬けを提供していたからだろう。ただの茶漬けではなく鮭が乗っているなんておいしさが倍だ、と考えていると忘れていた空腹感が蘇り、唾液があふれ出す。
千代は気を紛らわすために「ほうじ茶、ご自由にどうぞ」と書かれているステンレスピッチャーに手を伸ばした。すぐ横に重ねて置かれたコップを一つ取り、ほうじ茶を並々注いで一気にあおる。ほんのりとあたたかく体に優しい、乾ききった体にじんわりと沁み渡っていく感覚。
「……はぁ」
息をもらして、何の気なしに与一の背を見つめた。
彼はきっと陽キャラ――略して陽キャと呼ばれる類の人間だろう。学生時代からパソコンに向かい、今でもその延長線上にいる千代とは一生交わり合うことのない人種だ。
……ミスラブレターも、そういうタイプの女性なのかも。
不意に頭をよぎったその考えに、ほうじ茶のおかげでほぐれていた心が重くなる。
そうだ、明日もまた差出人不明のラブレターがロッカーに増えていることだろう。千代の眉間にしわが寄ったそのとき、目の前に優しくどんぶりが置かれた。
「お待たせしましたっ。俺っち特性の鮭茶漬け、ご飯が汁吸っちゃう前にめしあがれ」
与一は満面の笑みで告げる。そう言われてしまえば、千代の意識は嫌でも鮭茶漬けに向いた。
鮭はほぐれ切っておらず、大きな塊のままつやつやと輝くご飯の上に鎮座している。唾を飲み込んだ音がやけに大きく聞こえた。
「……いただきます」
お礼を言って渡された箸を受け取り、手を合わせる。左手でどんぶりを持ち口元に近づけると、お茶特有の葉の香りと鮭の香りが鼻腔をくすぐった。
「……っ!」
マナーが悪いとわかっているが、この香りを前に我慢することなど千代にはできなかった。どんぶりの縁に口をつけ、冷ますことすら忘れて勢いよく鮭茶漬けをかき込む。
ものすごく熱い。当たり前だ、熱々のお茶と白米が一緒になって口内になだれ込んだのだから。
それは一瞬のうちに喉元を過ぎ去って、食道を流れ落ちていく。
「――ッはぁ!」
一口目をまるで飲料水のように飲んだ千代は息を吐き出した。
「おい……っしい、ですっ!」
顔を上げて与一の方を向く。数秒驚いたような表情を浮かべた与一だったが、垂れた目を細めて破顔した。
千代は二口目、三口目と鮭茶漬けをかき込む。塊の鮭に箸を沈めれば、ほろほろと崩れた。
「おねえさん、幸せそうに食べるね~。俺っち感激っ」
一口目とは違いしっかり鮭とお茶の旨味を味わっている千代に、そんな言葉が投げかけられる。
「こんな時間にご飯食べるってことは夕飯食べてなかったの? 残業?」
カウンター越しに首を傾げて尋ねてくる与一に、千代は咀嚼を終えてからうなずいた。
「大変ね~。根性なしの俺っちじゃ無理だわ。おねえさん頑張ってんね」
その言葉に、千代はそうでもないのではと思ってしまう。時間はともかく、彼はこうしてしっかり働いているのだ。残業が多いことと頑張っていることは比例しない。そもそも、千代が今日残業になったのは集中できていなかった自分のせいだ。
そう考えていると、与一が空になっていたコップにほうじ茶を注いでくれる。
「あ、ありがとうございます、よい……オーナーさ……いや、パパって呼ばないとマナー違反ですかね?」
「え? パパ? なんで?」
「スナックではオーナーさんのことをママと呼ぶって聞いたことがあったので……てっきりそういうものかと」
「……あぁ、なるほど、そういうね……ふっははっ」
千代の言葉に目を丸くしていた与一だが、弾かれたように笑い出す。
「え、え、何ですか? わたし何かまずいこと言っちゃいましたか……?」
「いやそうじゃなくて、ふふっ、いーねぇおねえさん……その考え、俺っち超好き」
与一はひとしきり笑った後、呼吸を整えるように長く息を吐いた。
「はーっ、笑った笑った。んで、呼び方の話ね。たしかにスナックではオーナーのことをママって呼ぶけど、それはだいたい女性限定かな。男性はマスターとか、オーナーとか、その辺りかね。理由は……ごめん、ちょっとわかんない。まぁでもこの店では、みんな俺っちのことを『よっちゃん』とか『与一くん』て呼ぶかなぁ。ちなこれ本名ね、かっこいーっしょ?」
「武将みたいでいいと思います……」
名前といえど、真正面から「格好いい」と言うのは少々恥ずかしい。千代は言葉を濁し、同意を示した。
「おっ、目の付け所がシャープ。おねえさんが言った通り、この名前は那須与一っていう弓の名手から取ったらしいよ。うちの父親、めーっちゃ武将好きだったんよね。ま、俺っち弓道とか一度もやったことないんだけど。中高茶道部だし」
「そうだったんですね」
見た目通り、よく喋るチャラ男だ。千代のパパ発言から部活の話にまで飛躍してしまった。だが、不思議と不快感はない。話し上手なのだろう。
そして何より声のトーンが心地いい。体にゆっくり沁み込むような、そんな感覚だ。
思わず誰にも話す気がなかった悩み事まで言ってしまいそうになるが、千代は努めて口を噤んだ。悩み事とはもちろんミスラブレターのことである。しかし、急にそんな話をされたところで与一も困るだろう。彼は今日会ったばかりの人で、友人でも家族でもないのだから。
そう思った千代は、数口分残っていた鮭茶漬けをかき込んだ。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
最初と同じく手を合わせ、軽く頭を下げる。満腹というわけではないが、胃がぽかぽかとあたたかく満足感に包まれていた。この辺りで止めておいた方が後悔しないと、千代は二十八年の人生で学んだのだ。
会計をお願いし、再度おいしかった旨を伝える。すると与一は照れくさそうに顔を背けた。
「えへ、そう何度も言われると恥ずかしくなっちゃうから勘弁してっ」
暖色のライトでわかりにくいが、頬がほんのりと色づいている。どうやら嘘ではないようだ。
出口である扉をわざわざ開けてくれた与一にお礼を言う。
「すいません、ありがとうございます」
「いーえっ。こちらこそたくさん褒めてくれてありがとうございました! 次はおねえさんの話も聞かせてね。愚痴でも、悩み事でも、結論がない話でもいいからさ」
そう言って、与一はまるで子どもように大きく手を振った。
「またのお越しをお待ちしておりますっ」
無視するのも悪いと思い、千代も小さく手を振り返す。こんなことをするのは高校生以来だ。
少し、恥ずかしいかも……。
そう思ったとき、ふと、なぜ彼のようなチャラ男がスナックを経営しているのか気になった。どちらかといえば、バーやホストクラブで働いていると言われた方が理解できる。
そこまで考えて、千代は頭を振った。余計な詮索は失礼にあたる。明日以降も増えていくであろうラブレターの対処を考えた方がよほど賢明だ。
千代はまだあたたかい胃の辺りを撫でながら、冷たくなり始めた十月の風を浴びた。
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