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猿はどこへ行った      :約3500文字

作者: 雉白書屋

 夕方、町内放送のチャイムが鳴り、おれは足を止めて空を見上げた。全体に茜色が滲み始め、雲の底が夕日に鈍く照らされている。


『こちらは防災――です。現在、――公園付近にて猿の目撃情報がありました。見かけた方は近づかず、役場までご連絡ください』


 ……ほう、これは珍しいこともあるものだ。確かにこの町にはそこそこ大きな山があるし、畑も点在している。だが、猿が出たという話はこれまで一度も耳にしたことがなかった。

 子供の頃からずっとこの町で暮らし、就職を機に一度離れ、仕事の都合で戻ってきてからしばらく経つ。その間に聞いた獣の話といえば、せいぜいハクビシンやリスくらいなものだ。

 子供の頃は、どの山にも猿や猪がいるものだと漠然と思い込んでいた。だが現実はそうでもないと知ったとき、つまらなく感じたものだ。

 こうしてわざわざ町内放送が入るということは、やはり相当珍しい出来事なのだろう。

 いったいどこから来たのだろう。野生の猿なんて、これまで見たことがない。動物園の檻の中とは違う、生身の猿だ。そう思うと、妙にわくわくしてきた。前から一度、猿の脳みそを食ってやりたいと思っていたのだ。


 だからその夜、おれは網を持って猿を探すことにした。

 月明かりの下、猿が出たという公園へ向かう。アスファルトは昼間の熱をまだ抱え込んでおり、下からむんわりと温もりが昇ってくるような気がした。

 その公園からそう遠くない場所に山がある。もしかすると、そこに逃げ込んでいるのかもしれない――そんな可能性を頭の片隅に置きながら歩いていると、ふと妙なことに気づいた。


 どうも今夜は、いつもより人が多い。しかも、ただの夜の散歩や帰宅途中という雰囲気ではない。皆どこか目つきが鋭く、ぎらついた表情をしている。懐中電灯や網、金属バットを手にした者もいれば、工事現場用らしいヘルメットをかぶっている者までいた。

 いったいどういうことだ、と首を傾げながら歩いていると、コンビニの前を通りかかったとき、「猿が――」という言葉が、温い夜風に混じって耳に入ってきた。

 視線を向けると、黒い車の横で数人の若者がたむろしていた。おれは足取りを緩め、さりげなく距離を詰めると、車の影に身を潜めて彼らの話に耳を澄ませた。


 すると、面白いことがわかった。

 どうやらその猿は東京からここまで移動してきたらしく、行く先々で目撃され、そのたびに小さな騒ぎを起こしていたという。テレビのニュースでも取り上げられたらしい。畑の野菜を荒らし、スーパーの食品を盗み、洗濯物を持ち去り、自販機を壊し、子供に威嚇した――そんな被害があったという。挙句の果てには懸賞金までかけられたらしい。まるで指名手配中の逃亡犯だ。町全体が祭りの夜のように浮き足立っているのも無理はない。


 ――こうしてはいられない。先を越されてたまるか。


 おれはその場を離れ、目撃情報が出た団地の公園へ向かった。

 しかし現地に着いてみると、すでにいくつもの人影が集まっていた。懐中電灯の光があちこちへ飛び交い、闇をせわしなく切り裂いている。まるで白いコウモリの群れが飛び回っているかのようだ。これでは猿も警戒して姿を現さないだろう。

 おれはその光景を横目に見ながら、公園をそのまま通り過ぎ、団地の敷地内へと足を踏み入れた。


 それにしても、何度来ても団地という場所は落ち着かない。左右にそびえる棟は巨大な蟻塚のようで、整然と並んだ窓やベランダから、無数の目がこちらを監視している気がする。

 余所者だ……余所者……帰れ……カエレ……。

 そんな声が、コンクリートの壁から滲み出してくるように感じた。


 帰れ――。

 風が吹き、耳元で囁かれた気がして、おれは思わず立ち止まった。背筋を冷たいものが走り、息を呑んだ――そのときだった。

 すぐそこのゴミ置き場から、ガサッと乾いた音がした。今の風のせいではない。何かが動いた。

 おれは息を殺し、音のしたほうへそっと歩み寄った。闇の奥を凝視する。


 ――いた。


 猿だ。毛に覆われた小さな体に、赤い顔。毛はおそらく茶色なのだろうが、団地の外灯のぼんやりとしたオレンジ色に照らされ、煤けた灰色に見えた。そしてなぜか、頭には子供用らしい小さな帽子を、腰には男物のトランクスを履いていた。

 おそらく、人間の真似をして拾ったものを身につけているのだろう。昔、そんな猿の話を聞いたことがある。

 光を反射して、一瞬猿の目がぎらりと鋭く光ったように見えた。おれに気づいたのだろうか。


「お前か……」


 おれは喉の奥で呟き、ゆっくりと網を構えた。唾を飲み込み、飛びかかられても即座に動けるよう腰を落とす。足裏に意識を集中させ、音を殺しながらじりじりと距離を詰めていった。

 もう少し近づきたい。あともう少し、もう一歩――今だ。

 そう思い、手と足先に力を込めた、その瞬間だった。


「……お前もか」


「えっ」


 おれは完全に動きを止め、硬直した。心臓が一拍、大きく跳ね上がり、思考までも一瞬止まった。


 ――お前もか。


 今、確かに聞こえた。耳の奥にはっきりと残っている。

 猿が喋った? いや、そんな馬鹿な話があるはずがない。ありえないだろう。だが、それ以上に猿の言葉の意味が胸に引っかかっていた。

 そのまま見つめていると、猿はゆっくりと立ち上がった。そして、二本の後ろ足で歩き出した。ひょこひょこと、しかし迷いのない足取りで。おれのすぐ横を通り過ぎると、猿はちらりと振り返った。暗がりの中で赤い顔が一瞬だけ浮かび、また前を向く。少し進んでは、また振り返った。まるで『ついて来い』と言っているかのように。

 おれは声を失ったまま網を下げ、猿の後を追った。


 やがて猿は小さな公園の前で立ち止まった。団地の敷地内だが、先ほどとは別の小さな公園だ。ひっそりとしており、誰の姿もない。猿は中へ入ると、ブランコに腰を下ろした。鉄の鎖が揺れ、きい、とわずかに軋む音が夜気に溶けていった。


「あの……」


 おれは喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。猿はちらりと顔を上げたが、何も言わない。また視線を落とし、静かにブランコを揺らし続けた。


 お前もか――あれはどういう意味なのだろう。……いや、聞くまでもない。おれの手の中で、網の柄の感触がやけに生々しく主張してくる。

 おれは夜空を見上げた。


 ……おれも、彼らと同じだ。面白がり、非日常に浮かれ、お祭り気分で猿を追い回す。見つけたら意気揚々とマスコミのインタビューに応じ、スイーツを味わうように高揚感に浸る。毎日猿の動向を気にし、怖がり、怒り、正義感に駆られて外に出てみて、結局はそれを娯楽として消費する。

 猿はただ、猿として生きているだけだというのに。

 たかが猿一匹、放っておけばいいじゃないか。それを大勢で追い詰め、恐怖を与え、逃げ場を奪っている。

 猿とはなんだ。人間とはなんだ。

 猿はどっちだ。


「……そういうことなんですよね?」


 おれは猿に問いかけた。だが、返事は返ってこなかった。猿が喋らないからではない。ブランコの上に、もう猿の姿はなかった。ただブランコだけが小さく揺れ、やがて静かに止まった。

 おれは短く息を吐き、再び夜空を仰いだ。星々が冷ややかに瞬き、夜風が頬を撫でていった。


 なんだか、いい夜だ――


「お前か? お前だな!」


「えっ、あっ!」


 荒々しい声が背後から叩きつけられ、振り返った瞬間だった。腕を後ろ手に掴まれ、足を払われた。体が宙を浮き、次の瞬間、顎を地面に打ちつけた。息が詰まり、視界に白い閃光が一瞬走った。

 もがきながら見上げると、数人の男たちの顔が外灯の光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。どれも土気色で、険しい表情のまま固まっており、まるで祭りの面のようだった。


「お前だろ! 最近この辺をうろついてる不審者は!」

「防犯カメラに映ってたんだよ!」

「宮本さんとこに盗みに入ったのもお前だな!」

「くせえ……ホームレスか」


 ――お前も“追われている”のか。


 あのとき、猿はそう言いたかったのかもしれない。

 おれは、通報を受けて駆けつけた警官にそのまま連行された。


 猿はその後、九州へ向かったという。

 ほどなくして町では『猪出没』の報せが流れ、猿の話題が再び出ることはなかった。

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