『俺は、死んだ』について
私がなろうで他の方々の作品を読んでいて、いつも引っかかることがあります。
『俺は、死んだ』みたいな終わり方──
確かに臨場感はあります。
バケモノに迫られて、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなって……
一人称ならではの、語り手に自分の目を重ねての、死を間際にした恐怖がリアルに押し迫ってきます。
でも──
『俺は、死んだ』
そんなふうに語られると──
『じゃあこの文章、誰が書いてるの?』
『死にながら書き遺したの?』
そんなふうに思ってしまって、急にそれまでの緊迫感が消え、嘘臭くなってしまいます。
『死んじゃったんなら、どうやって死んじゃったひとが語ってるの!?』
細かいことにうるさいなと言われるかもしれませんが……
どうにもそこで白けてしまうんです。
こういうのってゲームの影響なんじゃないかって思います。
ゲームでは自キャラ(アバター?)が死んでも、プレイヤーも死ぬわけではありません。
コンピューターゲームが普及する以前は、もしかしたらこんな描写はなかったかもしれません。少なくとも私は読んだ覚えがありません。
昭和以前の一人称小説といえば、少なくとも文学と呼ばれる作品では、書き方は過去の出来事を振り返りながら記す『叙述』か、あるいは『日記形式』だったように思います。
なろうの一人称はそのほとんどが現在進行形の『実況』です。
エンターテイメント小説には昔のものでも実況形式はあったような気がしますが、それでも『俺は、死んだ』みたいなのがあった記憶がありません。語り手が死んでしまっては物語が続かなくなるからです。
もしそういうものをご存知でしたらお教えください。
──とか、書いといて
じつは自分でもたまに書きます。『俺は、死んだ』みたいな終わらせ方。
説得力のある『俺は、死んだ』エンドはできないかな? 挑戦してみよう! みたいな感じで。
ただ、そのまんま何の工夫もなく『俺は、死んだ』で終わられるのは、少なくとも私は抵抗があります。
せっかく没入してたのに、そこで『嘘でしたぁー www』みたいに突き放されるような感覚がある。
ゲームにあまりハマって来なかったからでしょうか……。
皆さんはどうですか?
語り手が死んで終わっても、違和感ないですか?
『じゃあ、この文章、誰が書いてるの?』ってなりませんか?