『空っぽの絵本』と、『心映し(こころうつし)の絵の具』~毒親の巻~
世界は、灰色だった。
結城詩織、十七歳。彼女の見る世界には、彩度というものが存在しなかった。すべてが、濃淡の違うグレーのグラデーション。それは、彼女の心が母親・美津子によって色を奪われてしまったからだ。
美津子は、娘を自分の最高傑作だと信じていた。あるいは、自分の果たせなかった夢を投影する、完璧な人形だと。
「詩織、あなたのためを思って言っているのよ」
その言葉は、娘のあらゆる「好き」を封じ込める、優雅で残酷な呪文だった。
学業成績は常にトップクラスであること。髪は肩より長く、決して染めないこと。読む本は母が選び、聴く音楽はクラシックのみ。友人関係はすべて報告義務があり、少しでも「詩織に悪影響」だと判断されれば、即座に関係を断ち切られた。詩織の部屋は、美津子の理想を詰め込んだショールームで、彼女自身の意思が入り込む隙間は、どこにもなかった。
詩織には、たった一つだけ、秘密の宝物があった。それは、幼い頃に今は亡き祖母がくれた、小さなスケッチブックと12色の色鉛筆。夜中、家族が寝静まった後、クローゼットの奥に隠れて、こっそりと絵を描く時間だけが、彼女が呼吸をできる唯一の瞬間だった。空想の動物、夢で見た風景、名もない花の絵。その時だけ、彼女の世界には、ささやかな色が灯った。
高校二年の秋、そのささやかな聖域も、侵された。
進路を決める三者面談を前に、詩織は震える声で、初めて自分の夢を口にした。
「私……美術大学へ、行きたいです」
その瞬間、美津子の表情から、すっと能面のように感情が消えた。
その夜、家は嵐のようだった。
「何を馬鹿なことを言っているの!絵描きになって、どうやって生きていくというの!」
「私がどれだけあなたに時間とお金をかけてきたと思っているの!」
「私たちの顔に泥を塗る気なの!」
罵声が、ガラスの破片のように詩織に降り注いだ。
そして、とどめを刺すように、美津子は彼女のクローゼットから、あのスケッチブックを見つけ出した。
「こんなくだらないものを描いているから、おかしくなるのよ!」
美津子は、詩織の目の前で、彼女が描いた一枚一枚の絵を、びり、びりと音を立てて破り捨てた。それは、詩織の心を、魂を、引き裂く音だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
詩織は、ただそう繰り返すことしかできなかった。
その夜、詩織の世界から、最後の色が消えた。心が、死んだ。
もう、どうなってもいい。消えてしまいたい。この家から、この世界から。
深夜、彼女はパジャマの上にコートを羽織っただけの姿で、家を飛び出した。あてもなく電車に乗り、気づけば終着駅にいた。そこは、深い霧に包まれた、静かな山の麓だった。冷たい雨が、彼女の薄い服を濡らしていく。体温が奪われ、意識が遠のいていく。これで、終われる。そう思った、その時だった。
濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。
それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、死に場所を探す魂を、どこかへ誘っているかのようだ。何かに憑かれたように、詩織はふらふらと、その光が続く石段へと足を踏み入れた。
苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。その静寂が、彼女の空っぽの心に、不思議と染み渡った。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。
まるで、破り捨てられたスケッチブックの中に描いた、空想の家のようだ。躊躇する詩織の目の前で、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。
中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。そして、その深い瞳は、詩織が心の奥底に封じ込めた、色褪せた夢の欠片を、静かに見つめているようだった。
「ようこそお越しくださいました。ずいぶんと道に迷われたようですね。さあ、中へ」
女は白雪と名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、拒絶されることに慣れきっていた詩織の心を、そっと受け入れるような、不思議な温かみがあった。詩織は、何も言えず、ただ頷くだけで、その後に続いた。
亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。磨き上げられた床柱、和紙を通した行灯の柔らかな光。それは、彼女の無菌室のような部屋とは違う、生命の温もりに満ちていた。
「お客様ですよー!」
「わあ、お姉さん、濡れてる!大変!」
奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく詩織に乾いた手ぬぐいを渡し、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない優しさに、詩織は戸惑い、どう反応していいかわからず、ただ俯くだけだった。
「まずは、温かいお茶をどうぞ」
白雪に促され、詩織は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた体中へと広がっていく。添えられた菓子は、小さな葉っぱの形をした、甘い砂糖菓子だった。
やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。湯気と共に立ち上る、優しい出汁の香り。詩織の喉が、ごくりと鳴った。
「太るから、夜九時以降は水以外口にしては駄目」という母の声が、頭の中で響く。しかし、目の前のうどんは、そんな呪いを解くかのように、あまりにも魅力的だった。
おずおずと、一口すする。優しい出汁の味が、空っぽだった胃に、そして心に、じんわりと染み渡っていく。美味しい。その純粋な感覚が、彼女の心を震わせた。夢中で食べ終えた時、詩織は自分が泣いていることに気づいた。美味しいものを美味しいと感じて、涙が出たのは、生まれて初めてだった。
「……貴方様は、ご自分の『好き』という気持ちを、どこかに置き忘れてしまったのですね」
囲炉裏の向こうから、白雪が静かに問いかけた。その瞳は、すべてを見透かしていた。詩織は、何も答えられない。好き、という感情が、どんなものだったか、もう思い出せなかったからだ。
白雪は、そんな彼女の前に、一つの古い本をそっと置いた。それは、革の表紙が擦り切れた、何の変哲もない絵本だった。そして、その隣に、小さな木のパレットと一本の絵筆を置いた。パレットの上には、十二色の絵の具が並んでいたが、そのどれもが、ただの無色透明な水滴のように見えた。
「これは『空っぽの絵本』と、『心映し(こころうつし)の絵の具』でございます」
白雪は、静かに語り始めた。
「この絵の具は、貴方様の心が、本当の意味で『好き』『美しい』『愛おしい』と感じた時にだけ、その色を取り戻します。さあ、この絵本に、貴方様だけの物語を描いてごらんなさい。上手下手は、関係ありません。ただ、貴方様の心が動いたものを、貴方様の思うままに」
絵を描く。その言葉に、詩織の心臓が凍りついた。破り捨てられたスケッチブックの残像が、瞼の裏に焼き付いている。
「描けません……。私が描いたって、どうせ、くだらないものしか……」
「くだらないものなど、この世にはございませんわ」
白雪の声は、穏やかで、しかし揺るぎなかった。
「貴方様の心が感じたものすべてが、貴方様だけの大切な宝物。さあ、勇気を出して。まずは、この亭の中で、何か一つ、心惹かれるものを探してごらんなさい」
詩織は、促されるままに、震える手で絵筆を取った。彼女は、恐る恐る、亭の中を見渡した。そして、その視線は、囲炉裏の中でぱちぱちと爆ぜる、一つの小さな火の粉に留まった。懸命に燃え、一瞬だけ強く輝いて、消えていく。まるで、自分のようだ、と思った。
彼女は、絵本の最初のページに、その小さな、小さな火の粉を描いた。
その瞬間、奇跡が起きた。
パレットの上の一つの水滴が、燃えるような、鮮やかな朱色に変わったのだ。
「……あ……」
息を呑む詩織に、白雪が微笑む。
「ご覧なさい。貴方様の一つ目の色が、戻ってまいりましたよ」
その朱色は、今まで詩織が見てきたどんな赤よりも、力強く、美しかった。彼女は、吸い寄せられるように、他の「好き」を探し始めた。
窓の外に目をやると、霧の晴れ間に、瞬く星が見えた。遠い、遠い場所で、独りで光っている星。彼女は、夜空に浮かぶその星を描いた。すると、パレットの一滴が、吸い込まれそうなほど深い、瑠璃色に変わった。その隣に、寄り添うように小さな星を描くと、別の水滴が、優しく瞬く金色に輝いた。
「きれい……」
呟いた瞬間、彼女の心が「きれいだ」と震えたことに反応して、パレットの上の水滴が、きらきらと光の粒を散らした。
小春と秋彦が、おやつにと、つやつやした木の実を持ってきてくれた。その丸い形、滑らかな手触り。詩織は、その木の実を丁寧に描いた。すると、絵の具は、温かい土の色と、若葉のような瑞々しい緑色に変わった。
「ありがとう」と、小さな声でお礼を言うと、二人は嬉しそうに笑った。その笑顔を描くと、絵の具は、ひまわりのような、明るい黄色になった。
詩織は、夢中になった。
白雪の着物の、雪のような白。磨き上げられた床柱の、深いこげ茶色。湯呑みから立ち上る湯気の、柔らかな銀色。
一つ、また一つと、彼女の「好き」が、失われた色を呼び覚ましていく。そのたびに、灰色の世界に、鮮やかな色彩が戻ってくるようだった。彼女は、自分がこんなにもたくさんの「好き」を持っていたことに、驚き、そして胸がいっぱいになった。
やがて、絵本は最後のページを残すだけとなった。パレットの上にも、あと一つだけ、無色透明の水滴が残っている。
ここに、何を描こう。
詩織の筆は、ぴたりと止まった。
脳裏に、母親の顔が浮かんだ。あの、怒りと失望に歪んだ顔。彼女を描けば、この最後の絵の具は、どんな色になるのだろう。憎しみの黒か、悲しみの灰色か。
彼女は、恐ろしくて、筆を動かせなかった。
「何を描くか、迷っておられるのですね」
白雪が、そっと隣に座った。
「ですが、最後のページに描くべきものは、もう決まっているのではございませんか?貴方様が、一番目を背けてきた、一番大切にすべき、たった一人のひとの姿を」
一番、目を背けてきた、大切なひと。
それは……。
詩織は、震える手で、再び筆を取った。そして、最後のページに、描き始めた。
それは、母親の顔ではなかった。
鏡に映る、自分自身の顔だった。
泣きはらした赤い目。怯えにこわばった唇。けれど、その瞳の奥に、ほんの小さな、希望の光を宿した、十七歳の少女の顔。
彼女が、その顔を描き終えた、まさにその瞬間。
パレットに残った最後の水滴が、ぱあっと、眩い光を放った。
そして、それは、一つの色ではなかった。赤、青、黄、緑……すべての色が溶け合った、美しい、美しい虹色に輝き始めたのだ。
「……これが、私の、色……」
悲しみも、苦しみも、喜びも、希望も、恐れも、勇気も。そのすべてを内包した、彼女だけの、魂の色。
詩織の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、絵本の上にぽたりと落ちた。それは、虹色に輝く、美しい雫だった。
「おめでとうございます」
白雪の声が、優しく響いた。
「貴方様は、ご自分の色を、ご自分の物語を、取り戻されたのです」
朝が来た。
白狐亭を去る時、詩織は白雪に、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。私……生きていけます」
亭の入り口で見送ってくれる白雪に、詩織は財布を差し出した。しかし、白雪は静かに首を横に振った。
「お代は結構です」白雪は微笑んだ。
「その代わり、お願いがございます。貴方様が描き始めた、その絵本を、これからも描き続けてください。誰のためでもない、貴方様ご自身のために。貴方様の『好き』で、すべてのページを埋め尽くしてください。それが、私どもへのお代でございます」
詩織は、虹色の絵の具が輝くパレットと、描きかけの絵本を、宝物のように胸に抱きしめた。
「はい。必ず」
現実の世界に戻った詩織は、変わった。
家に帰ると、母親は相変わらずだった。しかし、その言葉はもう、以前のように彼女の心を深く傷つけることはなかった。彼女には、虹色の盾があったからだ。
彼女は、母の目をまっすぐ見て、静かに、しかしはっきりと告げた。
「お母さんの言う通りにするのが、良い子だと思ってた。でも、それは、私を殺すことだった。私は、絵を描きたい。それが、私なの。お母さんの人形じゃないの」
美津子は激昂したが、詩織はもう、その嵐に飲み込まれはしなかった。
彼女は、学校の美術の先生に相談し、美大受験の準備を始めた。母親との関係は冷え切ったが、父親が、初めて彼女の味方になってくれた。「お前の人生だ。父さんは、応援する」。学校にも、少しずつ話せる友人ができた。彼女が描く絵の、鮮やかな色彩に惹かれて。
数年後。
パリの、小さなアトリエ。
窓から差し込む柔らかな光の中、一人の若い日本人女性が、大きなキャンバスに向かっていた。結城詩織だ。彼女の描く絵は、生命力に満ち溢れ、見る者の心を温かくする、不思議な力を持っていた。
彼女の傍らには、一冊の古い絵本が置かれている。すべてのページが、色とりどりの絵で埋め尽くされていた。猫、花、カフェオレ、街角の風景、友人たちの笑顔……。彼女の「好き」が、ぎっしりと詰まっている。
時折、霧深い夜には、彼女は筆を置き、遠い日本の森を想う。
あの朱色の鳥居と、囲炉裏の温かさ。そして、自分に「色」を返してくれた、美しい女将と、小さな狐たちの笑顔を。
彼女は、もう孤独ではない。
彼女の心の中には、虹色の絵本がある。
これから先、どんな困難があっても、どんなに道に迷っても、その絵本を開けば、いつでも「自分」に帰ることができる。
彼女は、自分の手で描き上げた、世界に一冊だけの物語を、これからも生きていく。
鮮やかな、虹色の人生を。