約束の桜吹雪 ~桜の君と忘れえぬ画家(ヒト)・・・白狐亭で紡がれる、時を超えた愛の物語~
その夜、白狐亭に迷い込んだのは、人の子ではなかった。
桜色の、美しい振袖を纏った一人の娘。しかし、その肌は透き通るように白く、風に揺れる黒髪からは、満開の桜の香りが零れ落ちていた。彼女の名は、小夜。
千年を生きた、一本の山桜の精だった。
彼女は、人間ではありえないほどの長い時を、一つの丘の上で生きてきた。春には絢爛たる花を咲かせ、夏には涼やかな木陰を作り、秋には葉を染め、冬には静かに春を待つ。
幾千もの季節の移ろいを、ただ静かに見つめてきた。
人の世の営みなど、彼女にとっては、瞬く間に過ぎ去る、儚い夢のようなものだった。
しかし、七十年前の春。その静かな時は、破られた。
一人の若い画学生が、彼女の咲き誇る姿に魅せられ、毎日、丘に通ってきては、その姿をキャンバスに描き続けた。彼の名は、聡。
絵を描くこと以外、何もできないような、不器用で、しかし澄んだ瞳をした青年だった。
「君は、本当に美しい。まるで、魂が宿っているようだ」
聡は、桜の木である彼女に、そう語りかけた。
最初は、ただの独り言だと思っていた。
しかし、毎日語りかけられるうちに、小夜の心には、千年で初めての、不思議な感情が芽生え始めた。
それは、人間が「恋」と呼ぶものに、よく似ていた。
やがて、春が終わり、桜が散る季節が来た。
聡は、描き上げた一枚の絵を、彼女の幹にそっと立てかけた。
そこには、満開の桜の下で、一人の娘がはにかんで微笑む姿が描かれていた。それは、聡の目に見えていた、小夜の魂の姿だった。
「また、来年の春に、必ず会いに来るよ。それまで、どうか元気で」
それが、彼との最後の約束となった。
その夏、遠い地で戦争が始まり、聡が再び丘に現れることはなかった。
七十年。人間にとっては、人の一生にも等しい、長い時間。
しかし、千年を生きてきた小夜にとっては、ほんの瞬きのような歳月だった。
彼女は、来る年も、来る年も、聡との約束を信じ、彼のために、一年で最も美しい花を咲かせ続けた。
しかし、今年の春。彼女の命の源である桜の木が、寿命を迎えようとしていた。
幹には大きな洞が空き、枝は勢いを失い、咲かせる花の数も、めっきりと減ってしまった。もう、次の春を迎えることはできないだろう。
聡に、もう一度だけ、会いたい。
約束の桜の下で、もう一度。
その強い願いが、彼女を人の姿に変え、あてどない旅へと駆り立てた。
しかし、人の世はあまりに変わり果てていた。丘は切り拓かれて住宅地となり、聡の生家も、とうの昔になくなっていた。
手がかりを失い、自らの命の灯火も消えかかり、深い霧に包まれた山道を彷徨っていた時。
彼女は、あの朱色の鳥居を見つけたのだ。
からん、と引き戸を開けると、そこにいたのは、美しい白い着物の女将、白雪だった。
彼女は、小夜の姿を見るなり、すべてを悟ったように、静かに言った。
「ようこそお越しくださいました、桜の君。長き旅路、お疲れ様でございました」
白狐亭の中は、囲炉裏の火が温かく燃え、人の世とは違う、穏やかな時間が流れていた。小春と秋彦が、珍しい客人に興味津々な様子で、彼女の周りを飛び跳ねている。
食事として出されたのは、桜の花びらを浮かべた、甘く芳しい「桜湯」と、桜の葉で包まれた、上品な甘さの「桜餅」だった。
「……どうして、私が桜の精だと?」
小夜の問いに、白雪は静かに微笑んだ。
「その身から零れる、春の香りでわかりました。そして、その瞳の奥に宿る、長い、長い、待ち人の寂しさで」
その言葉に、小夜の心の堰が切れた。
彼女は、ぽつり、ぽつりと、聡との思い出と、果たされなかった約束について語り始めた。
七十年という歳月を、ただ一人の人間を待ち続けた、その切ない想いを。
「私は、もうすぐ消えます。この命が尽きる前に、もう一度だけでいい。彼に会って、伝えたいのです。
『あなたの描いてくれた絵は、私の宝物でした』と。
そして、『あなたの言葉が、私の千年の孤独を、温かいものに変えてくれました』と」
その儚い願いを聞き、白雪は静かに目を伏せた。
「人の子の命は、桜の花よりも、さらに儚いもの。七十年という時は、彼らを遠い場所へ連れて行ってしまうには、十分すぎる刻でございます」
わかっている。聡が、もうこの世にいないことくらい、本当は、心のどこかでわかっていた。
それでも、認めたくなかった。
認めてしまえば、自分の七十年が、意味のないものになってしまう気がして。
「では、白雪様。あなたは、彼がどこにいるか、ご存知なのですか?」
「……ええ」
白雪は、静かに立ち上がると、奥から一つの古い巻物を持ってきた。
それは、生きとし生けるものの名と、その縁が記されているという「縁の帳面」だった。
「彼の魂は、とうの昔に、輪廻の輪へと還りました。今はもう、この世のどこにも、その欠片はございません」
残酷な、宣告だった。
小夜の瞳から、桜の花びらが散るように、はらり、と涙がこぼれ落ちた。全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
ああ、やはり、もう会えないのか。私の恋は、私の七十年は、ここで、終わりなのか。
絶望に打ちひしがれる小夜に、白雪は静かに語りかけた。
「ですが、彼の魂が遺した、一つの『想い』は、今も、この世に留まっております」
「……想い?」
「ええ。貴方様を、深く、深く、愛した記憶。そして、果たせなかった約束への、強い後悔の念。その想いが、一つの形となって、この近くの森を、ずっと彷徨っているのです」
その言葉に、小夜は顔を上げた。
「その『想い』は、もはや聡様ご本人ではございません。ただの、記憶の残滓。会えば、貴方様の悲しみは、さらに深まるやもしれませぬ。それでも、貴方様は、お会いになりたいですか?」
小夜は、迷わなかった。たとえ幻でもいい。もう一度、彼の気配に触れられるなら。
「はい。会いたいです」
白雪は、頷くと、小春と秋彦に目配せをした。
「では、お連れして差し上げなさい。約束の場所へ」
小春と秋彦は、小さな白い狐の姿に戻ると、小夜を先導するように、亭の外へと駆け出した。
深い霧の森を進んでいくと、やがて、一本の大きな桜の木の下にたどり着いた。
それは、小夜自身の体である、あの山桜だった。枝は枯れ、幹には大きな洞が空き、見るも無惨な姿をしていた。
その桜の木に、背を預けるようにして、一人の老人が座っていた。絵の具の染みがついた、古いベレー帽をかぶっている。
その老人の体は、月の光に透けて、向こう側が見えそうだった。
彼こそが、聡の「想い」が作り出した、幻だった。
「……聡さん」
小夜が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、深い皺が刻まれていたが、瞳は、七十年前に見た、あの澄んだ青年のままだった。
「……ああ、君か。ずっと、待っていたよ」
老人は、懐かしそうに微笑んだ。
「すまなかった。約束を、守れなくて。戦争で、片眼と、絵を描くための右腕を失ってしまってね。こんな姿で、君の前に現れるのが、恥ずかしくて……ずっと、ここから君を見ていることしか、できなかったんだ」
彼は、絵を描けなくなった後も、ずっと、この丘に通い続けていたのだ。
そして、この世を去った後も、その魂の欠片だけが、彼女への想いと後悔によって、この場所に縛り付けられていたのだ。
「いいえ」
小夜は、涙を流しながら、首を横に振った。
「私こそ、お礼を言わなくては。あなたの描いてくれた絵は、私の宝物でした。あなたの言葉が、私の長い孤独を、温かいものに変えてくれました。本当に、ありがとう」
二人は、言葉もなく、見つめ合った。
七十年という、長くて短い時を超えて、二つの魂が、ようやく触れ合った瞬間だった。
「もう、行かなくては」
老人の体が、足元から、光の粒となって、少しずつ消え始めていた。
「君に会えて、謝れて、よかった。これで、私も、心置きなく逝ける」
「聡さん……!」
「さよなら、私の桜。どうか、来年の春も、美しい花を咲かせておくれ」
そう言い残し、聡の幻は、春の夜風に溶けるように、完全に消え去った。
後には、一枚の、色褪せたスケッチが残されているだけだった。
そこには、満開の桜の下で、はにかんで微笑む、小夜の姿が描かれていた。
約束は、果たされた。
しかし、小夜の胸には、喜びと共に、どうしようもないほどの、深い空虚感が広がっていた。
彼を解放してしまったことで、自分と彼を繋ぐ、最後の絆さえも、失われてしまったのだ。
彼女の体もまた、桜の花びらが散るように、足元から、ゆっくりと透き通っていく。
ああ、私も、ここで消えるのか。聡さんと同じ場所へ、行けるのだろうか。
そう思った時、背後から、白雪の声がした。
「貴方様の旅は、まだ終わりではございませんよ、桜の君」
白狐亭に戻ると、白雪は、一つの小さな盃を小夜の前に差し出した。
中には、月の光を溶かし込んだかのような、清らかな水が満たされている。
「これは『命の水』。これを飲めば、貴方様の枯れかけた命は、再び瑞々しさを取り戻しましょう。そして、もう千年、生き長らえることも叶いましょう」
その言葉に、小夜は戸惑った。
「なぜ……。私はもう、待つべき人もいないのに。これ以上、一人で生き続けて、何の意味があるというのですか」
「意味なら、ございます」
白雪は、静かに、しかし力強く言った。
「貴方様は、聡様の『想い』を、この世で唯一、受け取られた方。貴方様が生き続けることこそが、彼がこの世に生きた、何よりの証となるのです。彼の愛を、彼の優しさを、彼の芸術を、未来へ語り継ぐ。それこそが、貴方様に残された、新たな役目なのではございませんか?」
そして、白雪は、聡が遺したスケッチを指差した。
「それに、貴方様はもう、独りではございません。貴方様の心の中には、彼との思い出と、この美しい絵が、永遠に生き続けるのですから」
その言葉が、小夜の心の空洞を、温かい光で満たしていった。
そうだ。私は、独りじゃない。
彼の記憶と、この絵と共に、生きていける。彼の分まで、これからの季節の移ろいを、美しさを見届けていくのだ。
小夜は、決意を固めると、盃の水を、一気に飲み干した。
すると、彼女の体から、眩いばかりの桜色の光が放たれた。
気がつくと、彼女は、元の桜の木に戻っていた。
しかし、その姿は、以前とは比べ物にならないほど、若々しく、生命力に満ち溢れていた。
枯れていた枝には、瑞々しい若葉が芽吹き、幹の洞も、すっかり塞がっている。
その根元には、聡が遺した一枚のスケッチが、まるで宝物のように、そっと置かれていた。
白狐亭を去る時、小夜はお代を払おうとした。
しかし、白雪は、いつものようにそれを断った。
「お代は結構です。その代わり、お願いがございます。これから先、貴方様が咲かせる花びらの一枚一枚に、彼の物語を乗せて、風に届けてください。そして、丘を訪れる人々の心を、その美しさで、そっと癒してあげてください。それが、私どもへのお代でございます」
小夜は、枝を揺らし、感謝の気持ちを伝えた。
それから、長い、長い年月が流れた。
あの丘は、今では「約束の丘」と呼ばれ、美しい一本桜の名所として、多くの人々が訪れるようになった。特に、春になると、その桜は、まるで魂を燃やすかのように、絢爛たる花を咲かせ、訪れる人々の心を魅了した。
人々は知らない。
あの桜吹雪の一枚一枚に、遠い昔の、一人の青年と桜の精の、切なくも美しい恋の物語が、込められていることを。
そして、桜の精・小夜もまた、知っている。
自分が咲かせる花びらが、風に乗り、丘を訪れる恋人たちの心を結び、絵描きたちの創造力を掻き立て、疲れた人々の心を癒していることを。
彼女はもう、孤独ではない。
彼女は、聡との約束を、彼の愛を、未来へと繋ぐ、語り部となったのだから。
満月の夜には、丘の上の桜は、ひときわ美しく輝くという。
それは、白狐亭の女将への、感謝の光なのかもしれない。
遠い昔の恋人を想う、永遠の愛の光なのかもしれない。