表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

縁側の陽だまり ~48歳、壁越えられません・・・孤独な私の陽だまりは、白狐亭が教えてくれた~

私の周りには、いつも見えない壁がある。



高橋静子たかはし しずこ、四十八歳。二十年近く続いた子育てという名の嵐が過ぎ去り、一人息子が大学進学で家を出て行って半年。ぽっかりと空いた時間と静寂の中で、彼女は改めて、自分の人生を縁取るその「壁」の存在を、ひしひしと感じていた。


夫は優しいが、仕事人間で会話は少ない。パート先のスーパーでは、同僚たちのランチの輪に、どうしても入っていけない。噂話や世間話の、どこからどこまでが本音で、どこからが社交辞令なのか。その境界線がわからず、当たり障りのない笑顔を浮かべているうちに、会話は終わってしまう。近所付き合いも、回覧板を回し、当たり障りのない挨拶を交わすだけ。


誰かと親しくなりたい。雑談に花を咲かせ、笑い合いたい。そう願う気持ちはあるのに、いざとなると、言葉が喉に張り付いて出てこない。相手にどう思われるか、嫌われたらどうしよう。そんな不安が先に立ち、結局、自分で建てた壁の内側に、そっと引きこもってしまうのだ。


「私の何がいけないんだろう?」


「どうして、普通にできないんだろう?」


自問自答は、答えのない迷路のように、彼女の心をぐるぐると巡るだけだった。

その日も、パート先で感じた疎外感を抱えたまま、彼女は車を走らせていた。どこへ行くというあてもない。ただ、この息苦しい日常から、少しだけ離れたかった。気づけば、見知らぬ山道に迷い込み、夕暮れの森は、深い霧に包まれ始めていた。


心細さが胸をよぎった、その時だった。


濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。


それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、迷子の彼女をどこかへ誘っているかのようだ。何かに導かれるように車を止め、静子はその光が続く石段へと、足を踏み入れた。

苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。その静寂が、不思議と心を落ち着かせた。


鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。

軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。

まるで、昔話の世界に迷い込んだようだ。


彼女がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。

中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。そして、その深い瞳は、静子が長年築き上げてきた、見えない壁の奥にある、本当の寂しさを、静かに見つめているようだった。


「ようこそお越しくださいました。さあ、どうぞ中へ。夜は冷えますゆえ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、彼女の心の壁を、そっと撫でるような、不思議な優しさがあった。静子は、促されるまま、亭の中へと足を踏み入れた。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。


「お客様ですよー!」

「まあ、どうぞこちらへ!」

奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、ぺこりとお辞儀をすると、かいがいしく静子のハンドバッグを預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない様子に、静子のこわばっていた心が、ほんの少しだけ解きほぐされた。


「まずは、温かいお茶をどうぞ」

白雪に促され、静子は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた体中へと広がっていく。添えられた菓子は、小さな菊の花をかたどった、上品な甘さの落雁だった。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。一口すする。優しい出汁の味が、空っぽだった体に染み渡っていく。美味しい、と感じた。誰の評価も気にせず、ただ純粋に「美味しい」と感じられたのは、いつ以来だろう。


食事を終え、ほうっと息をついた静子に、囲炉裏の向こうに座る白雪が静かに語りかけた。


「貴方様は、ご自分の周りに、ずいぶんと高く、頑丈な壁を築いてこられましたね」


どきりとした。何も話していないのに、見透かされたようだった。

静子は、いつものように曖昧に微笑んで、ごまかそうとした。


「いえ、そんなことは……。私は、ただ、人付き合いが少し、苦手なだけで……」


「苦手、ですか」白雪は静かに繰り返した。「それとも、ご自分を傷つけぬよう、大切に、大切に、守ってこられたのではございませんか?」


その言葉は、静子の心の奥底に、すとんと落ちた。


そうだ。私は、怖かったのだ。人にどう思われるかが、嫌われるのが、傷つくのが。だから、最初から誰も自分の内側に入れないように、高い壁を築いてきた。壁の内側は安全で、誰にも傷つけられない。でも、その代わり、ひどく孤独だった。


「……どうすればいいのか、わからないんです」

絞り出すような声だった。


「みんなみたいに、上手に話せない。楽しく笑えない。壁を壊したいのに、壊し方がわからない。壊してしまったら、きっと、もっと傷つくことになるから……」

涙が、ぽろぽろとこぼれた。

四十八年間、誰にも言えずに抱え込んできた、寂しさと不安。それを聞いた白雪は、ただ静かに頷いていた。その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも、静子の心を深く癒した。


やがて静子が落ち着きを取り戻すと、白雪は静かに立ち上がり、亭の縁側へと彼女を誘った。

縁側の向こうには、手入れの行き届いた、小さな日本庭園が広がっていた。苔むした石灯籠、白砂が敷かれた枯山水。そして、その庭の隅には、様々な種類の植物が、思い思いの姿で佇んでいた。


「静子様、あの庭をご覧なさい」

月明かりに照らされた庭を、静子はぼんやりと眺めた。


「あちらに咲いているのは、椿でございます」

白雪が指差したのは、凛として一輪だけ、深紅の花を咲かせている椿の木だった。


「椿は、他の花と群れることを好みませぬ。ただ、己の信じる美しさを、己の時が来た時に、凛と咲かせる。その孤高の美しさに、人は心を惹かれるのです」


次に、白雪は、岩陰にひっそりと寄り添うように咲く、小さなすみれを指した。

「菫は、決して己を主張しませぬ。ただ、静かに、健気に咲いている。しかし、その慎ましやかな姿に、気づいた者の心は、ふと温かくなる。大きな花にはない、安らぎを与えるのです」


そして、白雪は、縁側のすぐそば、陽だまりのような場所に、ぽつんと生えている、小さなタンポポを指差した。


「あのタンポポは、どうでしょう。豪華でもなく、珍しくもない。けれど、あの場所が、あの子にとって一番心地よい場所なのです。誰にも邪魔されず、お日様の光を一身に浴びて、のびのびと葉を広げている。あの子は、自分がどこで咲くべきかを、誰よりもよく知っているのです」


静子は、その言葉を、一つ一つ、心に刻むように聞いていた。


「貴方様は、無理に、他の花になろうとしておられるのではございませんか?」


白雪の声は、優しく、しかし確信に満ちていた。


「向日葵のように、いつも太陽を向いて、明るく咲かなければならない、と。薔薇のように、華やかな輪の中心にいなければならない、と。ですが、貴方様は、向日葵でも、薔薇でもない。貴方様には、貴方様だけの、咲くべき場所と、咲き方があるのです」


壁を壊すのではない。


他の花の輪に、無理に入るのでもない。


「大切なのは、ご自身にとって、一番心地よい『距離』と『場所』を見つけること。それは、あの縁側の陽だまりのような場所かもしれません。誰かと少しだけ距離を置き、けれど、その温かさは感じられる、貴方様だけの聖域サンクチュアリ


静子の脳裏に、パート先の休憩室の光景が浮かんだ。いつも輪の中心で話している人たち。その少し離れた席で、一人、静かに本を読んでいる年配の女性がいた。彼女は、輪には入らないが、誰かが話しかければ、にこやかに応じる。孤立しているのではなく、自ら「孤独」を選んでいるように見えた。あの場所が、彼女にとっての「陽だまり」なのかもしれない。


「無理に話す必要はございません。ただ、そこにいて、にこりと微笑むだけでいい。貴方様のその穏やかな佇まいに、安らぎを感じる人が、必ずおります。嵐のような会話に疲れた人が、羽を休めにやってくる、止まり木のような存在に、貴方様はなれるのです」


その言葉は、静子の心を、温かい光で満たしていった。


私は、そのままで、よかったのだ。変わる必要なんて、なかったのだ。ただ、自分に合った場所と、人との距離感を、見つければよかっただけなのだ。





朝が来た。

白狐亭を去る時、静子は白雪に深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。私……自分の咲く場所が、わかった気がします」

白狐亭を去る時、彼女はお代を払おうとした。しかし、白雪は静かに首を横に振った。


「お代は結構です」白雪は微笑んだ。

「その代わり、お願いがございます。これから先、ご自分のための、心地よい陽だまりを見つけてください。そして、もし貴方様の陽だまりに、誰かがそっと近づいてきたなら、その時は、ただ黙って、隣の席を空けてあげてください。それが、私どもへのお代でございます」





現実の世界に戻った静子は、変わった。

いや、正確には、変わろうとすることを、やめた。


翌日、パート先の休憩室で、彼女は、いつものように輪から少し離れた席に座った。しかし、以前のような劣等感はなかった。ここは、私の陽だまりだ。そう思うと、不思議と心が落ち着いた。


彼女は、持参した文庫本を開き、自分の世界に浸った。誰かが笑う声が、遠くに聞こえる。それはもう、苦痛な雑音ではなく、心地よいBGMのように感じられた。

すると、一人の若い同僚が、おずおずと彼女の隣に座った。


「高橋さん、いつも何を読んでるんですか?その作家さん、私も好きなんです」

静子は、驚いて顔を上げた。そして、白雪の言葉を思い出し、にこりと微笑んだ。


「ええ、そうなの?この人の書く文章、なんだか落ち着くのよね」


会話は、それだけだった。でも、それは、静子にとって、大きな、大きな一歩だった。

彼女は、無理に自分を変えようとはしない。

輪の中心に入ることは、今でもない。


でも、彼女の周りには、不思議と、人が集まるようになった。彼女の穏やかな雰囲気に、癒やしを求めて。彼女が作り出す、静かで心地よい「陽だまり」に、惹かれて。


静子は、もう孤独ではない。


彼女は、自分だけの咲き方で、自分だけの場所で、静かに、しかし確かに、そこに在る。


縁側の陽だまりに咲く、一輪のタンポポのように。


そのささやかな存在が、誰かの心をそっと温めていることを、彼女はまだ知らない。

白狐亭で交わした、あの月夜の約束が、今、確かな温もりとなって、彼女の世界を照らし始めている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ