縁側の陽だまり ~48歳、壁越えられません・・・孤独な私の陽だまりは、白狐亭が教えてくれた~
私の周りには、いつも見えない壁がある。
高橋静子、四十八歳。二十年近く続いた子育てという名の嵐が過ぎ去り、一人息子が大学進学で家を出て行って半年。ぽっかりと空いた時間と静寂の中で、彼女は改めて、自分の人生を縁取るその「壁」の存在を、ひしひしと感じていた。
夫は優しいが、仕事人間で会話は少ない。パート先のスーパーでは、同僚たちのランチの輪に、どうしても入っていけない。噂話や世間話の、どこからどこまでが本音で、どこからが社交辞令なのか。その境界線がわからず、当たり障りのない笑顔を浮かべているうちに、会話は終わってしまう。近所付き合いも、回覧板を回し、当たり障りのない挨拶を交わすだけ。
誰かと親しくなりたい。雑談に花を咲かせ、笑い合いたい。そう願う気持ちはあるのに、いざとなると、言葉が喉に張り付いて出てこない。相手にどう思われるか、嫌われたらどうしよう。そんな不安が先に立ち、結局、自分で建てた壁の内側に、そっと引きこもってしまうのだ。
「私の何がいけないんだろう?」
「どうして、普通にできないんだろう?」
自問自答は、答えのない迷路のように、彼女の心をぐるぐると巡るだけだった。
その日も、パート先で感じた疎外感を抱えたまま、彼女は車を走らせていた。どこへ行くというあてもない。ただ、この息苦しい日常から、少しだけ離れたかった。気づけば、見知らぬ山道に迷い込み、夕暮れの森は、深い霧に包まれ始めていた。
心細さが胸をよぎった、その時だった。
濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。
それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、迷子の彼女をどこかへ誘っているかのようだ。何かに導かれるように車を止め、静子はその光が続く石段へと、足を踏み入れた。
苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。その静寂が、不思議と心を落ち着かせた。
鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。
軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。
まるで、昔話の世界に迷い込んだようだ。
彼女がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。
中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。そして、その深い瞳は、静子が長年築き上げてきた、見えない壁の奥にある、本当の寂しさを、静かに見つめているようだった。
「ようこそお越しくださいました。さあ、どうぞ中へ。夜は冷えますゆえ」
女は白雪と名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、彼女の心の壁を、そっと撫でるような、不思議な優しさがあった。静子は、促されるまま、亭の中へと足を踏み入れた。
亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。
「お客様ですよー!」
「まあ、どうぞこちらへ!」
奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、ぺこりとお辞儀をすると、かいがいしく静子のハンドバッグを預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない様子に、静子のこわばっていた心が、ほんの少しだけ解きほぐされた。
「まずは、温かいお茶をどうぞ」
白雪に促され、静子は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた体中へと広がっていく。添えられた菓子は、小さな菊の花をかたどった、上品な甘さの落雁だった。
やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。一口すする。優しい出汁の味が、空っぽだった体に染み渡っていく。美味しい、と感じた。誰の評価も気にせず、ただ純粋に「美味しい」と感じられたのは、いつ以来だろう。
食事を終え、ほうっと息をついた静子に、囲炉裏の向こうに座る白雪が静かに語りかけた。
「貴方様は、ご自分の周りに、ずいぶんと高く、頑丈な壁を築いてこられましたね」
どきりとした。何も話していないのに、見透かされたようだった。
静子は、いつものように曖昧に微笑んで、ごまかそうとした。
「いえ、そんなことは……。私は、ただ、人付き合いが少し、苦手なだけで……」
「苦手、ですか」白雪は静かに繰り返した。「それとも、ご自分を傷つけぬよう、大切に、大切に、守ってこられたのではございませんか?」
その言葉は、静子の心の奥底に、すとんと落ちた。
そうだ。私は、怖かったのだ。人にどう思われるかが、嫌われるのが、傷つくのが。だから、最初から誰も自分の内側に入れないように、高い壁を築いてきた。壁の内側は安全で、誰にも傷つけられない。でも、その代わり、ひどく孤独だった。
「……どうすればいいのか、わからないんです」
絞り出すような声だった。
「みんなみたいに、上手に話せない。楽しく笑えない。壁を壊したいのに、壊し方がわからない。壊してしまったら、きっと、もっと傷つくことになるから……」
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
四十八年間、誰にも言えずに抱え込んできた、寂しさと不安。それを聞いた白雪は、ただ静かに頷いていた。その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも、静子の心を深く癒した。
やがて静子が落ち着きを取り戻すと、白雪は静かに立ち上がり、亭の縁側へと彼女を誘った。
縁側の向こうには、手入れの行き届いた、小さな日本庭園が広がっていた。苔むした石灯籠、白砂が敷かれた枯山水。そして、その庭の隅には、様々な種類の植物が、思い思いの姿で佇んでいた。
「静子様、あの庭をご覧なさい」
月明かりに照らされた庭を、静子はぼんやりと眺めた。
「あちらに咲いているのは、椿でございます」
白雪が指差したのは、凛として一輪だけ、深紅の花を咲かせている椿の木だった。
「椿は、他の花と群れることを好みませぬ。ただ、己の信じる美しさを、己の時が来た時に、凛と咲かせる。その孤高の美しさに、人は心を惹かれるのです」
次に、白雪は、岩陰にひっそりと寄り添うように咲く、小さな菫を指した。
「菫は、決して己を主張しませぬ。ただ、静かに、健気に咲いている。しかし、その慎ましやかな姿に、気づいた者の心は、ふと温かくなる。大きな花にはない、安らぎを与えるのです」
そして、白雪は、縁側のすぐそば、陽だまりのような場所に、ぽつんと生えている、小さなタンポポを指差した。
「あのタンポポは、どうでしょう。豪華でもなく、珍しくもない。けれど、あの場所が、あの子にとって一番心地よい場所なのです。誰にも邪魔されず、お日様の光を一身に浴びて、のびのびと葉を広げている。あの子は、自分がどこで咲くべきかを、誰よりもよく知っているのです」
静子は、その言葉を、一つ一つ、心に刻むように聞いていた。
「貴方様は、無理に、他の花になろうとしておられるのではございませんか?」
白雪の声は、優しく、しかし確信に満ちていた。
「向日葵のように、いつも太陽を向いて、明るく咲かなければならない、と。薔薇のように、華やかな輪の中心にいなければならない、と。ですが、貴方様は、向日葵でも、薔薇でもない。貴方様には、貴方様だけの、咲くべき場所と、咲き方があるのです」
壁を壊すのではない。
他の花の輪に、無理に入るのでもない。
「大切なのは、ご自身にとって、一番心地よい『距離』と『場所』を見つけること。それは、あの縁側の陽だまりのような場所かもしれません。誰かと少しだけ距離を置き、けれど、その温かさは感じられる、貴方様だけの聖域」
静子の脳裏に、パート先の休憩室の光景が浮かんだ。いつも輪の中心で話している人たち。その少し離れた席で、一人、静かに本を読んでいる年配の女性がいた。彼女は、輪には入らないが、誰かが話しかければ、にこやかに応じる。孤立しているのではなく、自ら「孤独」を選んでいるように見えた。あの場所が、彼女にとっての「陽だまり」なのかもしれない。
「無理に話す必要はございません。ただ、そこにいて、にこりと微笑むだけでいい。貴方様のその穏やかな佇まいに、安らぎを感じる人が、必ずおります。嵐のような会話に疲れた人が、羽を休めにやってくる、止まり木のような存在に、貴方様はなれるのです」
その言葉は、静子の心を、温かい光で満たしていった。
私は、そのままで、よかったのだ。変わる必要なんて、なかったのだ。ただ、自分に合った場所と、人との距離感を、見つければよかっただけなのだ。
朝が来た。
白狐亭を去る時、静子は白雪に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。私……自分の咲く場所が、わかった気がします」
白狐亭を去る時、彼女はお代を払おうとした。しかし、白雪は静かに首を横に振った。
「お代は結構です」白雪は微笑んだ。
「その代わり、お願いがございます。これから先、ご自分のための、心地よい陽だまりを見つけてください。そして、もし貴方様の陽だまりに、誰かがそっと近づいてきたなら、その時は、ただ黙って、隣の席を空けてあげてください。それが、私どもへのお代でございます」
現実の世界に戻った静子は、変わった。
いや、正確には、変わろうとすることを、やめた。
翌日、パート先の休憩室で、彼女は、いつものように輪から少し離れた席に座った。しかし、以前のような劣等感はなかった。ここは、私の陽だまりだ。そう思うと、不思議と心が落ち着いた。
彼女は、持参した文庫本を開き、自分の世界に浸った。誰かが笑う声が、遠くに聞こえる。それはもう、苦痛な雑音ではなく、心地よいBGMのように感じられた。
すると、一人の若い同僚が、おずおずと彼女の隣に座った。
「高橋さん、いつも何を読んでるんですか?その作家さん、私も好きなんです」
静子は、驚いて顔を上げた。そして、白雪の言葉を思い出し、にこりと微笑んだ。
「ええ、そうなの?この人の書く文章、なんだか落ち着くのよね」
会話は、それだけだった。でも、それは、静子にとって、大きな、大きな一歩だった。
彼女は、無理に自分を変えようとはしない。
輪の中心に入ることは、今でもない。
でも、彼女の周りには、不思議と、人が集まるようになった。彼女の穏やかな雰囲気に、癒やしを求めて。彼女が作り出す、静かで心地よい「陽だまり」に、惹かれて。
静子は、もう孤独ではない。
彼女は、自分だけの咲き方で、自分だけの場所で、静かに、しかし確かに、そこに在る。
縁側の陽だまりに咲く、一輪のタンポポのように。
そのささやかな存在が、誰かの心をそっと温めていることを、彼女はまだ知らない。
白狐亭で交わした、あの月夜の約束が、今、確かな温もりとなって、彼女の世界を照らし始めている。