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はぐれ星のコンチェルト ~「お兄ちゃんだから」って言うな! 星をなくした僕が、白狐亭で星紡ぎの力に目覚めるまで~


僕の名前は、斉藤悠人さいとう ゆうと。中学二年生。


僕の家には、太陽が一つと、その太陽の周りを回る惑星が二つ、そして、その惑星たちの軌道から遠く離れた場所を、誰にも気づかれずに漂う、名もない小惑星が一つある。


太陽は、三歳年下の弟・拓海。生まれつき体が弱く、入退院を繰り返している。

惑星は、母と父。

そして、小惑星は、僕だ。


僕たちの宇宙の中心は、いつだって拓海だった。

母の愛情、関心、時間、そのすべては「病弱な拓海」という強力な重力に引かれて、彼にだけ降り注ぐ。


父は仕事という名のブラックホールにほとんどの時間を吸い取られ、たまに顔を見せても、母の軌道に従って拓海の周りを回るだけ。


僕は、健康だった。手がかからなかった。だから、僕という星は、誰の注意も引かなかった。

「お兄ちゃんなんだから」


その言葉は、僕の存在を消すための、便利な呪文だった。


食卓には、拓海の好きなハンバーグやエビフライが並ぶ。

僕が好きな生姜焼きは、リクエストしても「拓海が食べられないから」という理由で、食卓に上ることはない。


拓海の誕生日は、家中に飾りがつけられ、大きなケーキと山のようなプレゼントで祝われる。

僕の誕生日は、小さなショートケーキが一つ。


「お兄ちゃんだから、これでいいわよね」と母は言い、時には、拓海の発熱で、その小さなケーキさえも忘れ去られた。


学校のテストで百点を取っても、サッカーの試合で決勝ゴールを決めても、母の口から出るのは

「すごいじゃない」という、心のこもらない短い言葉と、「それより、拓海がまた熱を出して……」と

いう、ため息混じりの報告だけ。


僕は、母に褒められたくて、認められたくて、必死で「良い子」を演じ続けた。

でも、どんなに頑張っても、僕の光は、太陽である拓海の輝きには、到底かなわなかった。


僕は、いつしか感情に蓋をするようになった。

嬉しい、楽しい、悲しい、悔しい。そんな感情を表に出せば、母を困らせる。

「手のかかる子」になってしまう。だから、僕は自分の心を無重力状態にした。

何も感じなければ、傷つくこともない。僕は、この家で「透明人間」になることを選んだ。


弟の拓海を、憎んでいるのか。自分でもわからなかった。彼の青白い顔、苦しそうな呼吸を見るたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。でも同時に、彼がいなければ、母の愛は僕のものになったのだろうか、という黒い考えが、毒蛇のように頭をもたげる。

そんな自分を、心底軽蔑した。兄なのに、弟に嫉妬するなんて、最低だ。


僕には、たった一つだけ、秘密の宝物があった。

それは、五年前に亡くなった祖父がくれた、古い天体望遠遠鏡。少し錆びていて、レンズにも傷がある、


年代物の望遠鏡。祖父は、星を見るのが好きな人で、よく僕を膝に乗せて、星座の物語を話してくれた。


「悠人、お前はあの一番星だ。周りがどんなに暗くても、自分の力で光り続ける、強い星だよ」


その言葉だけが、僕の存在を肯定してくれる、唯一のお守りだった。


夜中、家族が寝静まった後、ベランダにこっそり望遠鏡を出し、遠い星を眺める時間だけが、僕が僕でいられる唯一の瞬間だった。星々は、何も言わない。

でも、確かにそこにいて、僕のことを見てくれているような気がした。



その日、僕の宇宙は、完全に崩壊した。


学校から帰ると、僕の部屋から、ガシャン、という嫌な音が聞こえた。

慌てて駆け込むと、そこには、無残にも三脚が折れ、レンズが砕けた望遠鏡と、泣きじゃくる拓海の姿があった。


「お、お兄ちゃんの真似して、星を見ようと思ったら……倒れちゃって……」


僕の頭の中で、何かがぷつりと切れた。生まれて初めて、僕は拓海に怒鳴った。


「なんで触ったんだよ!僕の宝物だったのに!」


その声を聞きつけ、飛んできた母は、砕けた望遠鏡には目もくれず、泣きじゃくる拓海を抱きしめた。

そして、鬼のような形相で、僕を睨みつけた。


「拓海は悪くないでしょう!興味を持っただけじゃない!」

「そんな大事なものを、弟が触れるような場所に置いておく、あなたがいけないのよ!」

「なんて子なの!お兄ちゃんなのに、病気の弟を泣かせて、許してあげることもできないの!?」


違う。違う。違う。


僕の心の叫びは、声にならなかった。

母の言葉が、巨大な隕石のように、僕の心を粉々に砕いていった。


ああ、そうか。


僕は、この家にいらないんだ。

僕が何を失っても、誰も悲しまない。僕がどんなに傷ついても、誰も気づかない。

僕という星は、初めから、この宇宙に存在しないのと同じだったんだ。

僕は、無言で部屋を飛び出した。

背後で母が何か叫んでいたが、もう何も聞こえなかった。

制服のまま、財布も持たず、ただひたすら走り続けた。


あてもなく電車を乗り継ぎ、終着駅で降りた。

そこは、深い霧が立ち込める、静かな山の麓だった。


冷たい雨が降り始め、制服がじっとりと肌に張り付く。

体温が、急速に奪われていく。


もう、どうでもよかった。このまま、消えてしまおう。

誰にも気づかれずに、この冷たい雨に溶けて、なくなってしまおう。

意識が遠のき、膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。


濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。

それは、連なる鳥居だった。

まるで狐火の行列が、死に場所を探す魂を、どこかへ誘っているかのようだ。

最後の力を振り絞り、僕は、その光が続く石段へと、ふらふらと足を踏み入れた。


苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。

その静寂が、僕の空っぽの心に、不思議と染み渡った。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。

軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。

まるで、祖父が話してくれた、星の神様が住む社のようだ。


僕がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。


中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。

白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。

そして、その深い瞳は、僕が心の奥底に封じ込めた、十四年分の孤独と、愛情への渇望を、静かに見つめているようだった。


「ようこそお越しくださいました。ずいぶん遠いところから、よくいらっしゃいましたね。さあ、中へ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。

その声には、拒絶されることに慣れきっていた僕の心を、そっと受け入れるような、不思議な温かみがあった。

僕は、何も言えず、ただ頷くだけで、その後に続いた。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。磨き上げられた床柱、和紙を通した行灯の柔らかな光。それは、僕が今まで知らなかった、無条件の安らぎに満ちていた。


「お客様ですよー!」


「まあ、ずぶ濡れじゃない!大変!」


奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく僕に乾いた手ぬぐいを渡し、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない優しさに、僕はどう反応していいかわからず、ただ小さくなるだけだった。


「まずは、温かいお茶をどうぞ」


白雪に促され、僕は湯呑みを手に取った。

じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた体中へと広がっていく。

添えられた菓子は、小さな流れ星の形をした、甘い琥珀糖だった。


「あの……僕、お金、持ってません……」


か細い声で言うと、白雪は悪戯っぽく微笑んだ。


「心配ご無用。この亭では、お代は、その方がお持ちの、一番大切なものをいただくことになっておりま

すので」


一番、大切なもの。それは、もう壊れてしまった。

僕には、もう何も残っていない。そう思うと、また胸が苦しくなった。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。湯気と共に立ち上る、優しい出汁の香り。僕は、おずおずと一口すすった。

優しい出汁の味が、空っぽだった胃に、そして心に、じんわりと染み渡っていく。

美味しい・・・

その純粋な感覚が、僕の心を震わせた。


「僕なんかのために……すみません」


思わず、謝罪の言葉が口をついて出た。僕のために、誰かが何かをしてくれる。その状況に、慣れていなかった。


「貴方様は、ご自分のことを、そうやっていつも後回しにしてこられたのですね」


囲炉裏の向こうから、白雪が静かに問いかけた。その瞳は、すべてを見透かしていた。


「ご自分の輝きを、ご自分で消してしまわれている。本当は、貴方様も、誰よりも強く輝きたいと願っているのに」


その言葉が、僕の心の奥底に突き刺さった。僕が、輝きたい?違う。僕は、ただ、ここにいてもいいと、誰かに言ってほしかっただけだ。


「……僕なんか、輝けませんよ」

自嘲気味に呟いた。


「僕は、太陽じゃない。ただの、石ころみたいな、小惑星ですから。いなくなっても、誰も気づかない」


その時だった。僕の目から、自分でも気づかないうちに、一筋の涙がこぼれ落ちた。

それは、長い間、心の奥底に閉じ込めてきた、悲しみの結晶だった。


「……僕だって」

嗚咽が漏れた。


「僕だって、お母さんに、見てほしかった……!僕のこと、ちゃんと、見てほしかったんだ……っ!」


堰を切ったように、言葉と涙が溢れ出した。

十四年間、心の銀河に漂っていた、孤独、寂しさ、悔しさ、嫉妬、罪悪感。そのすべてが、濁流となって僕の中から流れ出していく。


「お兄ちゃんだからって、我慢するの、もう嫌なんだ!僕だって、辛い!寂しい!僕の誕生日だって、祝ってほしい!僕が頑張ったこと、すごいねって、頭を撫でてほしい!なんで、僕だけ、ダメなんだ……っ!」


僕は、子供のように泣きじゃくった。

白雪は、ただ静かに、僕の言葉を、僕の涙を、僕の魂の叫びを、その深い瞳で受け止めていた。

小春と秋彦が、そっと僕の両脇に座り、小さな手で背中をさすってくれた。その温かさが、僕の凍てついた心を、少しずつ、少しずつ、溶かしていく。


僕が、すべてを吐き出し、泣き疲れて静かになった頃。

白雪は、静かに立ち上がると、奥から一つの不思議な道具を持ってきた。それは、美しい黒曜石で作られた、古い天球儀だった。表面には、銀河や星雲が、螺鈿細工のように繊細に描かれている。


「これは『星紡ぎ(ほしつむぎ)の天球儀』。ただ夜空を映すだけではございません。覗く者の心にある、本当の願いや感情を、星として輝かせるのです」


白雪は、その天球儀を僕の前に置いた。


「さあ、この天球儀に、そっと触れてごらんなさい」


僕がおずおずと触れると、天球儀の内部が、ぼうっと光り始めた。しかし、そこはほとんど真っ暗で、数えるほどの、弱々しい星が点滅しているだけだった。僕の心の中そのものだった。


「貴方様の心には、本当は、数えきれないほどの星が眠っています」


白雪が、静かに語りかけた。


「けれど、貴方様が『これは自分のものだ』と認め、名前を与えてあげない限り、星は輝くことができないのです。さあ、思い出してごらんなさい。貴方様が、心の奥底にしまい込んでしまった、貴方様だけの感情の星々を」


僕は、促されるままに、記憶の銀河を遡った。


最初に思い出したのは、サッカーのことだった。ボールを蹴っている時だけは、何もかも忘れられた。

(サッカーが好きだ)

そう心で呟いた瞬間、天球儀の中に、燃えるような、青い星が一つ、力強く輝き始めた。


次に思い出したのは、壊された望遠鏡のこと。あの時の、胸が張り裂けそうなほどの、悔しさ。

(悔しかったんだ、僕は)

すると、赤く、針のように鋭い光を放つ星が、閃光のように現れた。


一人で、ベランダで星を見ていた時の、静かな時間。

(寂しかった。でも、あの静けさは、好きだった)

白く、儚げに点滅する星が、そっと灯った。


弟への、複雑な気持ち。

(拓海が、羨ましかった。でも、弟が苦しそうに咳をしていると、代わってあげたいとも思った)

緑と黒が混じり合った、不思議な色合いの星が、ゆっくりと回り始めた。


嬉しい、楽しい、悲しい、腹が立つ、誇らしい、恥ずかしい……。

僕が、自分の感情を一つ一つ認め、受け入れていくたびに、天球儀の中には、色とりどりの星が、次から次へと生まれていった。それはまるで、僕が失っていた色を、一つずつ取り戻していくような作業だった。


やがて、天球儀の内部は、息を呑むほど美しい、満天の星空で満たされた。僕の心の中に、こんなにもたくさんの輝きが眠っていたなんて、知らなかった。


「見事な星空ですね」白雪が微笑んだ。

「では、最後に、その星々を繋いで、貴方様だけの星座を作ってごらんなさい。誰のものでもない、貴方様の物語を」


僕は、震える指で、星と星を繋ぎ始めた。


青い「好き」の星と、赤い「悔しさ」の星を繋ぐと、それはサッカーボールを蹴る僕の姿になった。

白い「孤独」の星と、金色の「誇り」の星を繋ぐと、それは一人で星を見上げる僕の姿になった。


それは、僕が主人公の、僕だけの物語だった。誰にも認められなくても、確かに僕は、僕の人生を生きてきたのだ。


星を繋ぎ終えた時、僕は、天球儀の中心に、ひときわ大きく、しかし弱々しく燃える、太陽のような星があることに気づいた。その周りを、他のすべての星が、衛星のように回っている。

(これは……お母さんに、愛されたい、という僕の気持ちだ)


そして、その太陽のすぐ隣に、小さく、しかし決して消えない、強い光を放つ、月のような星があった。

(これは……拓海を、兄として守ってあげたい、という気持ちだ)

僕は、はっとした。


僕は、母という太陽の光を求めるあまり、自分の心の中にある、他の無数の星々の輝きを、見ようとしていなかったのだ。そして、弟を憎んでいると思っていた心の奥底に、こんなにも強く輝く、兄としての愛情の星があったことに、初めて気づいた。


「太陽の光が強すぎると、他の星の輝きは見えなくなってしまいます」

白雪の声が、静かに響いた。


「ですが、星は消えてしまったわけではございません。ただ、そこに在るのです。貴方様は、もう、一つの太陽だけを見上げて嘆くのをやめ、ご自身の内なる、この満天の星空そのものに、目を向ける時が来たのです」


僕は、涙で滲む目で、自分の作り上げた星座を見つめた。それは、剣を掲げ、星々を従えて立つ、一人の少年の姿だった。孤独で、傷だらけで、でも、決して諦めない、勇者の姿。


「この星座に、名前をつけてあげなさい」


「……『はぐれ星の勇者』」


僕がそう呟いた瞬間、天球儀はひときわ強く輝き、その星座の形を、僕の胸に焼き付けた。




朝が来た。


白狐亭を去る時、僕は白雪に深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。僕……自分の星を見つけました」


「お代は結構です」白雪は微笑んだ。

「その代わり、お願いがございます。貴方様がこれから見つける、新しい星の一つ一つを、大切になさい。そして、いつか弟君が道に迷い、自分の星を見失ってしまったなら、今度は貴方様が、彼の夜空を照らす、一番星になってあげてください」


それは、僕にとって、何よりも重く、そして誇らしい約束だった。


「はい。必ず」


現実の世界に戻ると、僕の失踪は、家族に大きな波紋を広げていた。

家に帰ると、憔悴しきった母が、僕を見るなり駆け寄ってきた。


「どこに行ってたの!どれだけ心配したと……!」


以前なら、その言葉に罪悪感を感じて、縮こまっていただろう。

でも、今の僕には、胸に「はぐれ星の勇者」の星座が輝いていた。


僕は、母の目をまっすぐに見つめ、静かに、しかしはっきりと告げた。


「心配してくれて、ありがとう。でも、僕は家を出たかった。少し、一人になりたかったんだ」

そして、こう続けた。


「僕、自分の部屋が欲しい。勉強したり、星を見たりする、僕だけの場所が。それから、壊れた望遠鏡の代わりに、新しいのを買いたい。僕のお年玉で買うから」


初めての、明確な自己主張だった。

母は、絶句していた。父も、驚いた顔で僕を見ていた。


その時、弟の拓海が、おずおずと僕の前に進み出て、小さな箱を差し出した。中に入っていたのは、彼のお小遣いをすべて使って買ったであろう、小さな星座早見盤だった。


「お兄ちゃん……ごめんなさい」


拓海の瞳には、怯えだけでなく、純粋な尊敬の光が宿っていた。僕は、初めて、彼の頭をそっと撫でた。


「ありがとう、拓海。今度、一緒に星を見よう」


僕らは、その時、初めて本当の「兄弟」になれたのかもしれない。


その日を境に、僕の家の宇宙は、少しずつ、本当に少しずつだが、変わり始めた。


僕は、自分の部屋を手に入れ、新しい望遠鏡を買った。母は、相変わらず拓海中心だったが、時折、僕の顔色を窺うようになった。父は、僕と話す時間が増えた。それは、地殻変動のような、ゆっくりとした、しかし確実な変化だった。


僕は、自分の感情を大切にするようになった。サッカーで悔しい思いをすれば、声を上げて悔しがった。面白い本を読めば、友人と夢中で語り合った。僕の周りには、僕という星の引力に引かれて、自然と仲間が集まるようになった。僕はもう「透明人間」ではなかった。



数年後、高校生になった僕は、自分の部屋で、あの時よりもずっと大きな望遠鏡を覗いていた。隣には、すっかり健康になった弟の拓海がいる。


「お兄ちゃん、あれが夏の大三角?」


「ああ、そうだ。あの白鳥座のデネブはな、昔々、はぐれ星の勇者が、道に迷った人のために掲げた、希望の灯火なんだってさ」


僕は、教科書には載っていない、僕だけの物語を、弟に語って聞かせる。


白狐亭での一夜は、夢だったのかもしれない。


けれど、僕の胸の中には、あの満天の星空と、天球儀の冷たい感触が、今も鮮やかに残っている。

僕はもう、誰かの太陽に照らされるのを待つ、孤独な小惑星ではない。

僕自身が、無数の喜びと悲しみの星々を抱きしめる、広大で、静かで、そしてどこまでも美しい、夜空そのものになったのだから。

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