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水面の月 ~他人の輝きに溺れた私へ・・・白狐亭の女将が教えてくれた、不格好な「私」の愛し方~


SNSを開けば、世界は煌びやかな成功と幸福で満ち溢れていた。


友人たちの、海外旅行の写真、昇進の報告、結婚式のきらびやかなスナップ。それに引き換え、自分は。


相田美咲あいだ みさき、二十九歳。

アパレルメーカーの企画職。彼女の日常は、常に誰かとの比較の上に成り立っていた。


同期の奈々は、ヒット商品を連発し、最年少でリーダーになった。


後輩の由香は、社内のエリートと婚約し、寿退社するという。


それに比べて、自分は。企画は通らず、恋人もおらず、家と会社を往復するだけの、色のない毎日。


「すごいね!」「おめでとう!」


笑顔で祝福の言葉を口にしながら、心の中ではどす黒い嫉妬と、惨めな自己嫌悪が渦巻く。

どうして、自分は彼女たちのようにできないのだろう。何が足りないのだろう。

SNSの画面をスクロールするたび、心はすり減り、自己肯定感という名の砂上の城は、音を立てて崩れていく。


その日も、会社の飲み会で、奈々の成功譚を延々と聞かされた帰り道だった。虚しさと焦燥感で、胸が張り裂けそうだった。まっすぐ家に帰りたくなくて、終電をやり過ごし、気づけば見知らぬバスに揺られていた。


終点で降りると、そこは深い霧に包まれた、静かな山の麓だった。

まるで、自分の先の見えない人生そのもののようだ。


もう、どうでもいい。


そんな投げやりな気持ちで、霧の中を彷徨い歩いていると、不意に、連なる朱色の光が目に飛び込んできた。鳥居だった。

その奥には、提灯の灯りが揺れる、一軒の古民家。「白狐亭」。

怪訝に思いながらも、何かに引かれるように、美咲はその引き戸に手をかけた。



【第一幕:水鏡の間】


中に入ると、そこはこれまでの訪問者が経験したような、囲炉裏のある温かい空間ではなかった。

薄暗く、静まり返った、広い板の間。壁も床も、鏡のように磨き上げられた黒漆喰でできており、行灯の微かな光が、無限に反射して揺らめいていた。部屋の中央には、水を張った大きな黒い水盤が、静かに佇んでいるだけ。


「……誰か、いませんか?」


声をかけると、その声さえも壁に反響し、幾重にもなって返ってくる。不安が胸をよぎった、その時。


「ようこそお越しくださいました」


声は、背後からした。振り返ると、そこに、あの白い着物の女将・白雪が、音もなく立っていた。

しかし、いつもの柔和な笑みはなく、その表情は能面のように無感動で、瞳は深い夜の湖のように、静まり返っていた。


「ここは『水鏡の間』。己が何者でもないことを知るための場所でございます」


白雪はそれだけ言うと、部屋の中央にある水盤を指差した。


「さあ、その水面を、ご覧なさい」


戸惑いながらも、美咲は水盤を覗き込んだ。

すると、水面には、自分の顔ではなく、同期の奈々の顔が、自信に満ちた笑顔で映し出された。


「なっ……!?」


驚く美咲の横で、白雪が静かに語りかける。


「貴方様は、この方になりたいのでございますね。彼女のように、仕事で成功し、皆に認められたい、と」


「……はい」


「では、この方になりなさい」


白雪がそう言った瞬間、美咲の体は強い力で水盤の中に引きずり込まれた。


息ができない。もがくうちに、意識が遠のく。


次に目を開けた時、美咲は、奈々になっていた。


自分の企画が大ヒットし、社長賞を受け取るステージの上。鳴り響く拍手、同僚たちの羨望の眼差し。上司からの「君は我が社の宝だ」という賛辞。脳が痺れるような、圧倒的な高揚感。これだ。私が欲しかったのは、この輝きだ。


しかし、その夜。一人になった豪華なマンションの部屋で、奈々(になった美咲)は、言いようのない孤独感に襲われた。枕元には、睡眠薬の瓶。机の上には、次の企画へのプレッシャーで埋め尽くされたメモ。

彼女は、常に「次」を期待され、決して失敗が許されないという、見えない鎖に繋がれていた。その輝きは、あまりにも重く、脆いものだった。


ふと、美咲は再び水の中に引き戻された。


息を切らして水面から顔を出すと、そこは、元の水鏡の間だった。


水盤には、今度は後輩の由香が、幸せそうに微笑む顔が映っていた。


「今度は、この方ですか」白雪の声は、相変わらず感情がない。


「愛する人に選ばれ、守られて生きていきたい、と」


「……そうです」


「ならば、なりなさい」


再び、水の中へ。


目を開けると、美咲は由香になっていた。高級レストランでの、ロマンチックなプロポーズ。友人たちに囲まれた、華やかな結婚式。何不自由ない、専業主婦としての穏やかな毎日。

もう、仕事のプレッシャーに怯える必要はない。誰かと自分を比べる必要もない。満たされている。

幸せだ。


しかし、ある日。夫が言った。

「君は、家にいて楽でいいよな」。その一言に、由香(になった美咲)の心は凍りついた。

自分は、この人の庇護がなければ、何もできない存在なのだ。

自分の価値は、この人の妻であることだけ。その事実は、彼女の心を静かに蝕んでいく、甘い毒だった。


三度、水の中へ。


息も絶え絶えに水面から顔を出すと、白雪が、氷のような瞳で彼女を見下ろしていた。


「おわかりになりましたか。貴方様が羨む『輝き』は、その輝きと同じだけの『影』を必ず伴っているのです。貴方様は、他人の輝きだけを欲しがり、その影から目を背けていた」


美咲は、何も言い返せなかった。


「他人の人生を生きることは、他人の苦しみを生きることでもある。貴方様に、その覚悟はおありでしたか?」


白雪の言葉が、鋭い刃となって突き刺さる。美咲は、ただ震えることしかできなかった。



【第二幕:名無しの間】



「では、参りましょう。次のお部屋へ」


白雪に導かれ、美咲は隣の部屋へと通された。


そこは、先ほどとは対照的な、障子に囲まれた、真っ白な部屋だった。家具も、装飾も、何もない。ただ、がらんとした空間が広がっているだけ。


「ここは『名無しの間』。己が何者であるかを、思い出すための場所でございます」


そう言うと、白雪は部屋の隅に置かれていた、一つの古い木箱を開けた。

中には、色も形も様々な、たくさんの木片が入っていた。積み木のような、パズルのピースのような、不思議な欠片たち。


「これらは、魂の欠片。貴方様が、これまでの人生で『これは自分ではない』と捨ててきた、貴方様自身です」


白雪は、一つの欠片を拾い上げた。それは、ざらざらとした手触りの、不格好な石ころのような欠片だった。


「例えば、これは『不器用』。貴方様は、要領の良い奈々さんとご自分を比べ、この欠片を捨てた」


次に、小さなガラス玉のような、脆い欠片を拾う。


「これは『臆病』。貴方様は、愛されることに自信が持てず、この欠片を捨てた」


「飽きっぽい」「頑固」「人見知り」「涙もろい」……。


白雪は、次々と欠片を拾い上げては、その名を告げていく。

それは、美咲が、短所だと思い、欠点だと信じ、恥ずかしいと蓋をしてきた、自分の一部だった。


「さあ、これらの欠片を使って、ご自分の姿を作ってごらんなさい。貴方様が捨ててきた、すべての欠片を使って」


美咲は、戸惑いながらも、床に散らばった欠片を集め始めた。それは、苦しい作業だった。

自分の嫌な部分、見たくない部分と、一つ一つ向き合わなければならないからだ。


不器用だからこそ、一つの企画にじっくり時間をかけられる。

臆病だからこそ、人の痛みに敏感になれる。

涙もろいからこそ、映画や小説に心から感動できる。


欠片を組み上げていくうちに、美咲は気づき始めた。

短所だと思っていたものは、見方を変えれば、長所にもなりうるのだと。

そして、それらすべてが合わさって、初めて「自分」という、唯一無二の存在になるのだと。


何時間かかっただろう。美咲は、ついに、すべての欠片を使って、一つの歪な、しかしどこか愛おしい、人間の形を作り上げた。

それは、誰かと比べるまでもなく、不完全で、未熟で、けれど、紛れもない「自分」の姿だった。


その姿を見つめる美咲の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


その時、がらんとしていた部屋の障子に、ぼうっと、柔らかな光が灯り始めた。



【第三幕:縁側の月】



「さあ、こちらへ」


障子が開くと、そこは、月明かりに照らされた、静かな縁側だった。

いつの間にか、白雪の表情は、いつもの慈愛に満ちたものに戻っていた。そして、その隣には、小春と秋彦が、温かいお茶とお菓子を持って、にこにこと立っていた。


「お疲れ様でございました。さあ、どうぞ」


美咲は、夢見心地のまま、縁側に腰を下ろした。出されたお茶は、今まで味わったことのないほど、深く、優しい味がした。添えられた菓子は、まんまるな月とうさぎの形をした、可愛らしい干菓子だった。


庭には、小さな池があり、その水面に、満月がくっきりと映っていた。


「美咲様」

白雪が、静かに語りかける。


「あの水面の月を、ご覧なさい」


「はい」


「水面の月は、本物のように美しく見えます。ですが、それは月そのものではございません。ただの、光の反射。本当の月は、遥か天上に、ただ一つ、静かに輝いているだけです」

白雪は、続けた。


「貴方様が羨んでいた、他人の輝きも、それと同じ。SNSの画面や、人伝に聞く話は、すべて水面に映った、月のようなもの。その人の一部分だけを切り取った、虚像に過ぎませぬ。その虚像と、ご自身のすべてを比べて、心を痛めることほど、愚かなことはございません」


美咲は、はっとした。


そうだ。自分は、奈々の苦悩も、由香の孤独も知らず、ただ切り取られた「幸せそうな瞬間」だけを見て、勝手に落ち込んでいたのだ。


「貴方様は、水面に映る、たくさんの偽りの月を追いかけるのをやめ、ご自身の内なる、ただ一つの真実の月を、見つめる時が来たのです」


白雪は、そう言うと、先ほど美咲が作った、木の人形をそっと彼女の膝に乗せた。


「不器用で、臆病で、涙もろい。けれど、それが貴方様という、世界にただ一つの、美しい月なのです。他の誰かになろうとしなくていい。ただ、貴方様は、貴方様のまま、ご自身の軌道を、静かに歩んでいけばよいのです」


その言葉が、美咲の心の奥深くまで、じんわりと染み渡っていった。

彼女は、膝の上の、不格好な自分自身の姿を、愛おしそうに抱きしめた。


別れの時、白雪は言った。

「これから先、誰かと比べてしまいそうになったなら、水面の月ではなく、天上の月を、そして、ご自身の胸の中にある、その不格好で愛おしい人形のことを、思い出してください。それが、私どもへのお代でございます」


現実の世界に戻った美咲は、まず、スマートフォンのSNSアプリをすべて削除した。


最初は不安だったが、数日もすると、驚くほど心が軽くなっている自分に気づいた。他人の情報が入ってこないだけで、世界はこんなにも静かで、穏やかだったのか。


彼女は、仕事のやり方を変えた。

ヒットを狙うのではなく、自分が本当に「良い」と思えるものを、不器用でも、じっくりと時間をかけて形にするようになった。その企画は、すぐには通らなかったが、彼女の表情には、以前のような焦りや劣等感はなく、静かな充実感が満ちていた。


ある週末、彼女は一人で、プラネタリウムに出かけた。

満天の星空が映し出された時、彼女は、隣のカップルも、前の席の家族連れも気にせず、ただ、その美しさに心を震わせた。そして、解説員の、こんな言葉を聞いた。


「夜空の星々は、それぞれが違う色、違う大きさ、違う光を持っています。そして、そのどれ一つとして、同じ輝きはありません。だからこそ、夜空はこんなにも、美しいのですね」


その言葉を聞いた瞬間、美咲の目から、温かい涙がこぼれ落ちた。

彼女の人生は、まだ、大きくは変わっていないかもしれない。

けれど、彼女はもう、水面に映る偽りの月を追いかけて、心をすり減らすことはないだろう。


なぜなら彼女は、知ってしまったのだから。


自分の胸の中にも、不格好で、いびつで、けれど、誰にも真似できない、唯一無二の美しい月が、静かに輝いていることを。


そして、その月に気づけたことこそが、何よりも尊い、幸福なのだということを。

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