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縁結び(えにしむすび)の碁 ~パワハラ上司と蔑まれた俺が、白狐亭で「縁」を結び直すまで~

キーボードを叩く音だけが、静まり返ったオフィスに響いていた。

時刻は、まもなく午前二時を指そうとしている。


柴田健吾しばた けんご、三十五歳。

IT企業の中堅プロジェクトマネージャーである彼の日常は、モニターの青い光と、冷めたコーヒーの苦さで構成されていた。


健吾は、板挟みになっていた。

上司からは「期待している。君なら、この難易度の高いプロジェクトを成功させられるはずだ」という重圧をかけられ、部下からは「やり方が古い」「もっと具体的に指示してください」という無言の抵抗を受けていた。かつては優秀なプレイヤーとして、どんな難題も自らの手で解決してきた自負がある。だが、人を動かすことは、プログラムを組むこととはまったく違った。


「なぜ、俺ができたことが、あいつらにはできないんだ?」


「どうして、言われたことしかやらないんだ?」


焦りと苛立ちが、胸の中で黒い澱のように溜まっていく。部下を叱責すれば「パワハラ」と囁かれ、丁寧に教えようとすれば「マイクロマネジメント」と煙たがられる。正解がわからない。自分のやり方が、もはや時代遅れであるという事実は、薄々気づいていた。だが、それを認めることは、これまで築き上げてきた自分自身の否定に思えて、恐ろしかった。


その夜も、部下の残したバグの修正に追われていた。

心身ともに限界だった。このままでは、自分が壊れる。


翌朝、ほとんど無意識のまま、彼は会社に「体調不良」とだけ連絡を入れると、車のキーを掴んでいた。

どこへ行くというあてもない。ただ、この息苦しい東京から、コンクリートとガラスの檻から、逃げ出したかった。高速道路を走り、気づけば見知らぬ山道へと迷い込んでいた。濃い霧が、まるで彼の混乱した心を映すかのように、あっという間に視界を奪っていく。


「……最悪だ」


ハンドルに額を押し付けて呟いた、その時だった。


濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。それは、連なる鳥居だった。

まるで狐火の行列が、彼をどこかへ誘っているかのようだ。何かに導かれるように車を降り、健吾はその光が続く石段へと足を踏み入れた。


苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音、雨上がりの湿った土の匂い。

デジタルなノイズに汚染されていた五感が、ゆっくりと浄化されていく。

鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。

軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。


まるで、子供の頃に読んだ昔話の世界だ。躊躇する健吾の目の前で、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。


中から現れたのは、時が止まったかのような、美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、月の光そのものから生まれたかのようだった。

そして、その深い瞳は、すべてを見透かすような、それでいて慈愛に満ちた静けさを湛えていた。


「ようこそお越しくださいました。ずいぶんとお疲れのご様子。さあ、中へ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、疲弊しきった健吾の心を優しく包み込むような、不思議な響きがあった。彼は、まるで長い間彷徨った末にようやく安息の地を見つけた旅人のように、その言葉に従った。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、静かで温かい空間だった。磨き上げられた床柱、和紙を通した行灯の柔らかな光。そのすべてが、効率と成果だけを求められる日常とは、あまりにもかけ離れていた。


「お客様ですよー!」


「どうぞ、こちらへ!」


奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく健吾のジャケットを預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない笑顔に、何ヶ月も忘れていた「弛緩」という感覚が、健吾の心に甦った。


「まずは、温かいお茶をどうぞ」

白雪に促され、健吾は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から体中へと広がっていく。添えられた菓子は、小さな松ぼっくりの形をした、香ばしい胡桃入りの焼き菓子だった。


「あの……ここは、一体?」


「ここは、白狐亭。道に迷われた方が、一休みしていくための場所でございます」


白雪の答えは、あまりにシンプルで、けれど健吾が今一番必要としている答えのように思えた。

彼は、何も考えず、ただ囲炉裏の火を見つめていた。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。それは、ただ空腹を満たすための食事ではなかった。


一口すするたびに、体の細胞一つ一つに染み渡るような、滋味深い味わい。


健吾は、自分が食事の味をきちんと感じたのが、いつ以来だろうと考えた。

いつもは、デスクでパソコンを見ながら、五分でかき込むだけの「燃料補給」だった。


夢中で食べ終え、ほうっと息をついた健吾に、囲炉裏の向こうに座る白雪が静かに語りかけた。


「貴方様は、とても上手に人の期待に応えてこられた。けれど、その分、ご自分の心の声を聞いてあげるのを、お忘れになっていたのではございませんか?」


どきりとした。何も話していないのに、見透かされたようだった。健吾は反射的に、いつものように虚勢を張った。


「いえ、そんなことは。仕事は順調です。部下も、まあ、少し手がかかりますが、それもマネージャーの仕事ですから」


「そうですか」白雪は静かに頷いた。


「では、貴方様は、今、お幸せですか?」


その問いに、健吾は言葉を失った。幸せ……。

その言葉が、ひどく空虚に響いた。成功、昇進、高い評価。


それらを手に入れるために、何を犠牲にしてきただろう。自分の時間、健康、そして心の平穏。


「……わかりません」

絞り出すように言った。それは、三十五年の人生で、初めて他人に漏らした、正直な弱音だった。


「期待に応えなければ、自分の価値はないと思っていました。だから、どんな無理な要求も引き受けてきた。部下も、育てなければならない。自分がそうだったように、彼らも成長させなければ、マネージャー失格だと思っていました。でも……もう、どうすればいいのか……」


堰を切ったように、言葉が溢れ出した。部下への不満。上司への恐怖。誰にも理解されない孤独感。

すべてを吐き出すと、涙が滲んできた。

男が、ましてや人前で泣くなど、みっともない。そう思うのに、涙は止まらなかった。


白雪は、ただ黙って彼の言葉を受け止めていた。

その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも、健吾の心を深く癒した。


やがて健吾が落ち着きを取り戻すと、白雪は静かに立ち上がり、奥から一つの箱を持ってきた。それは、美しい木目の、古びた碁盤だった。そして、白と黒の、艶やかな那智黒石と蛤の碁石。


「よろしければ、一局、お付き合い願えませんでしょうか」


「碁、ですか。私は、あまり……」


「これは、ただの碁ではございません。『縁結えにしむすびの碁』と申します。

勝ち負けを決めるのではなく、石と石との『縁』を結んでいくためのものでございます」


戸惑う健吾の前に、白雪は碁盤を置いた。

そして、こう言った。


「黒石が、貴方様。そして白石が、貴方様を取り巻く人々。上司の方、部下の方々……。さあ、どうぞ、お好きなところに石を置いてみてください」


健吾は、促されるままに黒い石を一つ、盤の中央に置いた。すると、不思議なことが起きた。石は、置かれた場所で、淡く、しかし力強い光を放ち始めたのだ。


「では、次は私が」白雪は白い石を一つ、少し離れた場所に置いた。その石もまた、穏やかな光を灯した。


「さあ、貴方様の思うように、陣地を広げてみてください」


健吾は、無意識のうちに、いつもの仕事のやり方で碁を打ち始めた。

自分の石(黒)を次々と置き、白石を囲い込み、支配下に置こうとする。

効率的に、最短で、最大の成果を。

それが彼の信条だった。


しかし、彼が黒石を攻撃的に置くと、周りの白石だけでなく、彼自身の黒石さえも、その輝きを失い、ただの冷たい石ころになっていくのだ。


「な……ぜだ?」


何度やっても、同じだった。

攻めれば攻めるほど、盤上から光が消え、ただの殺風景な石の羅列になる。健吾は、焦りと苛立ちで、額に汗を滲ませた。それはまるで、今の自分のプロジェクトチームの状況そのものだった。


「少し、お休みいたしましょう」


白雪の声に、健吾ははっと我に返った。


「健吾様。石には、石の置かれたい場所がございます。光には、光の届きたい方向がある。それを無理に捻じ曲げ、ご自身の思い通りにしようとすれば、石も光も、その命を失ってしまいます」


そう言うと、白雪は盤上の石をすべて片付けた。


「今一度、やってみましょう。ですが今度は、陣地を広げるのではなく、一つ一つの石が、最も美しく輝ける場所を探してあげてください。ご自身の石も、私の石も」


健吾は、半信半疑のまま、再び黒石を手に取った。

彼は、石を置く前に、じっと盤上を見つめた。

そして、自分の心の声ではなく、石の声に耳を澄ますように、集中した。

ここに置けば、この石は喜ぶだろうか。そんな、今まで考えたこともないようなことを考えながら、そっと石を置いた。


すると、黒石は以前よりも、温かく、力強い光を放った。


次に、白雪が白石を置く。その手つきは、まるで石と対話しているかのようだった。

健吾は、白雪の打ち方を真似て、石を置いていった。自分の石の隣に、白石を置く。すると、二つの石は反発するどころか、互いの光を増幅させ、より一層輝きを増した。黒と白が、敵と味方ではなく、互いを引き立て合うパートナーのように見えた。


健吾は、気づいた。自分は、部下を「管理」し、「コントロール」しようとしていた。自分のやり方を押し付け、自分の型にはめ込もうとしていた。彼らの個性や意志を、完全に無視していたのだ。


「人を導くということは、人を支配することではございません」


白雪が、静かに語りかけた。


「その人が持つ本来の輝きを信じ、その輝きが最も生きる場所を、そっと照らしてあげること。そして、それぞれの輝きが繋がり、響き合うことで、一人では決して作れない、大きな美しい模様が生まれる。それこそが、人を束ねる者の、本当の喜びなのではございませんか」


健吾の脳裏に、部下たちの顔が浮かんだ。


いつも黙々と作業をするが、実は誰よりも丁寧な仕事をする若手。

突飛なアイデアを出すが、実行力に欠ける新人。

皮肉屋だが、誰かが困っていると必ず手を貸すベテラン。

彼らは、決して無能なのではない。自分が、彼らの輝きを見ようとしていなかっただけだ。

彼らを信じず、自分の物差しでしか測っていなかっただけなのだ。


上司の期待も同じだ。

彼は、期待に応えようとするあまり、勝手にプレッシャーを増幅させ、一人で抱え込んでいた。できないことはできないと正直に伝え、助けを求めることも、「信頼」の形の一つだったのかもしれない。


打ち終わった時、碁盤の上には、勝ち負けのない、ただ美しい光の模様が広がっていた。黒と白の石が、互いに支え合い、一つの星座のように輝いていた。健吾は、その光景を、涙で滲む目で見つめていた。


「……ありがとうございました」


彼は、深々と頭を下げた。それは、囲碁の指南に対する感謝だけではなかった。

失いかけていた、人としての道を示してくれたことへの、心からの感謝だった。




翌朝、健吾は驚くほど晴れやかな気持ちで目を覚ました。

体の芯に残っていた鉛のような疲労は、嘘のように消え去っていた。


白狐亭を去る時、健吾は白雪にお代を払おうとした。しかし、白雪はいつものように、それを優しく手で制した。


「お代は結構です。その代わり、お願いがございます」


「なんでしょうか」


「貴方様の周りにおられる、一つ一つの石の輝きを、信じてあげてください。そして、貴方様が結ぶ『縁』によって、美しい模様を描いてください。それが、私どもへのお代でございます」


健吾は、力強く頷いた。「はい。必ず」と。


帰り道、霧はすっかり晴れ渡っていた。まるで、彼の心の中のように。


週明け、オフィスに出社した健吾は、別人になっていた。

彼はまず、プロジェクトのメンバー全員を集めた。そして、深々と頭を下げた。


「今まで、すまなかった。俺は、自分のやり方を押し付け、君たちの声に耳を傾けていなかった。このプロジェクトは、俺一人のものじゃない。君たち一人一人の力が必要だ。力を貸してほしい」


戸惑う部下たち。しかし、健吾の表情が、いつになく真摯で、穏やかだったことに、誰もが気づいていた。


その日から、健吾のやり方は変わった。


彼は、指示を出す前に、まず聞いた。「君ならどうする?」「何かいいアイデアはないか?」と。

部下の意見を尊重し、良いところは素直に褒めた。失敗は責めずに、一緒に原因を考えた。

上司には、プロジェクトの現状を正直に報告し、必要な人員の増強を願い出た。


もちろん、すべてがすぐに好転したわけではない。

しかし、チームの空気は、確実に変わり始めた。部下たちは、徐々に自発的な発言や提案をするようになり、お互いに助け合うようになった。オフィスには、以前のような殺伐とした雰囲気はなくなり、活気のある会話が交わされるようになった。


健吾は、マネージャーという仕事の本当の喜びを知った。それは、人を自分の思い通りに動かすことではない。それぞれの個性が響き合い、一つの目標に向かって進んでいく、美しいオーケストラの指揮者のような喜びだった。


今も、健吾は多忙な日々を送っている。しかし、彼の心は穏やかだ。仕事に追われる夜、ふと窓の外を見ると、月明かりの中に、朱色の鳥居が連なっているような幻を見ることがある。そして、心の中で呟くのだ。


「見ていてください、白雪さん。俺たちの描く模様は、きっと、あなたの碁盤の上の星空にも、負けないくらい美しいものになりますから」


彼の胸の中には、あの「縁結の碁」の盤面が、今も温かい光を放ち続けている。

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