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忘れな草の絵本 ~スランプ絵本作家、迷い込んだ白狐亭で、おばあちゃんとの思い出と色彩を取り戻す~

インクと、プレッシャーの匂いがしない場所へ行きたかった。


葉月美緒はづき みお、三十二歳。絵本作家である彼女の世界から、色が消え始めていた。それは、じわじわと進行する病のように、彼女の魂を蝕んでいた。


デビュー作『おひさまパンと月夜のスープ』は、奇跡のような作品だった。温かく、どこか懐かしい水彩のタッチ。読む者の心を優しく包み込む、ささやかな言葉たち。その絵本は、まるで眠っていた子供たちの物語への渇望を目覚めさせたかのように、瞬く間に版を重ね、いくつかの栄誉ある賞にも輝いた。美緒は、一夜にして「時の人」となった。


しかし、その輝きは、長く濃い影を彼女の背後に落とした。


「先生らしさ、という言葉が、一番の呪いなんです」


担当編集者に、そう言って泣きついたのは、もう何度目だろうか。

彼は「期待しているからですよ」と励ましてくれるが、その期待こそが、鉛のように重かった。


「先生らしい、温かい物語を」

「読者は、次の『おひさまパン』を待っていますよ」。

その言葉の一つ一つが、彼女の創造の泉を、コンクリートで固めていくようだった。


描かなければ。


生み出さなければ。


もっと、素晴らしいものを。


その強迫観念は、やがて彼女の視界から色彩を奪い始めた。

赤はただの赤、青はただの青。

かつては、夕暮れの空のグラデーションに胸を震わせ、雨上がりのアスファルトの匂いに物語を感じていた心が、今は何も感じない。スケッチブックの真っ白なページは、彼女の空っぽになった頭の中を映す、残酷な鏡だった。それを見るたびに、息が詰まり、指先が冷たくなった。


その日も、締め切りに追われ、何一つ描けないまま夜が明けた。心が悲鳴を上げていた。もう、無理だ。彼女は、ほとんど無意識のうちに車のキーを掴むと、東京を逃げ出した。


あてもなく、ただひたすらに、西へ。


気づけば、見知らぬ山道に迷い込んでいた。夕暮れの光が木々の間から射し込み、長い、長い影を路面に落としている。追い打ちをかけるように、ぷすん、と頼りない音を立ててエンジンが止まった。ガス欠だった。携帯電話のアンテナは、一本も立っていない。


「どうして……どうして、こうなるの……」


ハンドルに額を押し付け、美緒は途方に暮れた。涙さえ出てこない。感情という井戸も、とうに枯れ果ててしまったようだった。深い霧が、まるで舞台の幕が下りるように、あっという間に辺りを包み込んでいく。


万事休す。

そう思った時、濃い霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。

それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、彼女をどこかへ誘っているかのようだ。

何かに憑かれたように車を降り、美緒はその光が導く石段へと、ふらふらと足を踏み入れた。


苔むした石段は、彼女の疲れた足取りを優しく受け止めてくれる。風にそよぐ笹の葉ずれの音、雨上がりの湿った土の匂い。その静寂が、ささくれ立っていた心を、不思議と落ち着かせた。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。

軒下には、古びた木の看板。「白狐亭」と書かれた文字は、まるで、遠い昔に読んだ物語の始まりを告げているようだった。


躊躇する美緒の目の前で、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。

中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。絹のような銀髪は、結い上げられ、一本の玉簪が月の光のように挿されている。雪のように白い肌。白い着物をまとったその姿は、この世のものとは思えなかった。


しかし、何より美緒の心を捉えたのは、その瞳だ。優しく細められてはいるが、その奥には、すべてを見透かすような、それでいて慈愛に満ちた深い静けさが湛えられていた。


「ようこそお越しくださいました。ずいぶんとお疲れのご様子。さあ、中へ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。その声は、心のささくれを一枚一枚、丁寧に剥がしていくような、不思議な優しさを持っていた。美緒は、まるで魔法にかけられたかのように、その言葉に従った。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、静かで温かい空間だった。磨き上げられた床柱、和紙を通した行灯の柔らかな光。それは、美緒が子供の頃に夢想し、絵本の中で何度も描いてきた、理想の「おうち」そのものだった。


「まあ、お客様!どうぞ、こちらへ!」


奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく美緒の荷物を預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その仕草の一つ一つが、無邪気な子狐を思わせる。


「まずは、温かいお茶と、ささやかなお菓子を」


白雪に促され、美緒は湯呑みを手に取った。芳しいお茶の香りが、こわばっていた心をゆっくりと解きほぐしていく。添えられたのは、小さな紅葉の葉をかたどった愛らしい和菓子だった。口に含むと、上品な甘さがじんわりと広がった。


「あの……車が動かなくなってしまって。お電話を、お借りすることはできますか?」


現実的な問題を口にすると、白雪は困ったように、けれど優しく微笑んだ。


「あいにく、この亭には俗世と繋がる道具はございません。ですが、ご心配なく。夜が明ければ、霧は晴れ、道もまた現れましょう。今宵は、旅のお疲れを癒すことだけをお考えくださいませ」


その言葉には、不思議な説得力があった。あれほど焦っていた心が、今は穏やかに凪いでいる。美緒は、この不思議な場所の流れに身を任せてみることにした。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。空腹だったこともあり、美緒は夢中で箸を進めた。それは、ただ美味しいという言葉では表せない、体の細胞一つ一つに染み渡るような、滋味深い味わいだった。空っぽだった胃が満たされると同時に、心の中の空洞も、少しだけ埋まったような気がした。


食事を終え、ほうっと息をついた美緒に、囲炉裏の向こうに座る白雪が静かに語りかけた。


「貴方様は、物語を探しておられるのですね」


どきりとした。何も話していないのに、見透かされたようだった。


「ですが、探せば探すほど、物語は姿を隠してしまいます。それはまるで、臆病な森の生き物のようですわ」


「……どうすればいいのか、わからないんです」


美緒の声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。


「昔は、ただ描くことが楽しかった。世界が、キラキラして見えて、伝えたいことがたくさん、たくさん、あったんです。道端の石ころにも、雲の形にも、物語が宿っているように思えた。でも今は……何も見えないんです。何を見ても、心が動かない。真っ白な紙を前にすると、息が苦しくなる。私の中は、もう、空っぽなんです……」


堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。

嗚咽が漏れ、視界が滲む。都会の孤独の中で、誰にも言えずに抱え込んできた痛みが、涙となって、次から次へと頬を伝った。


白雪は、ただ黙って美緒の言葉を受け止めていた。その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも、彼女の心を深く包み込んだ。小春と秋彦が、そっと寄り添い、小さな手で彼女の背中をさすってくれた。その純粋な温かさが、また涙を誘った。


しばらくして美緒が泣き止むと、白雪は静かに立ち上がり、奥から小さな香炉を持ってきた。それは、透かし彫りが美しい白磁の香炉で、中には、小さな花の蕾のような形をした、不思議なお香が置かれていた。

「物語は、生み出すものではございません。見つけるもの。……いいえ、思い出すもの、なのです」


白雪が囲炉裏の火でお香に火を移すと、ふわりと甘く、どこか懐かしい香りが亭の中に満ちていった。

それは、古い本の匂いにも、雨上がりの土の匂いにも、陽だまりの匂いにも似ていた。


「貴方様の世界にも、心の中にも、物語は今も溢れておりますのに、聞こえなくなって、見えなくなってしまっているだけ」


「これは『夢見の香』。忘れてしまった、貴方様だけの大切な物語を、夢の中で見せて差し上げましょう。さあ、目を閉じて、その香りに心を委ねてごらんなさい」


抗いがたい眠気が、優しい波のように美緒を襲う。香りに導かれるように、彼女の意識は深く、深く、温かい記憶の海へと沈んでいった。


夢を見ていた。


目の前には、今はもうない、祖母の家の小さな庭がある。

彼女は、小さな子供の姿で、縁側に座っている。隣には、しわくちゃの優しい手で、彼女の頭を撫でてくれる、大好きだったおばあちゃん。


「美緒、見てごらん。雨上がりのお庭は、宝物でいっぱいだよ」


おばあちゃんの指差す先を見ると、地面には、虹色の油膜が浮かんだ水たまり。葉っぱの陰では、ダンゴムシの行列が進んでいる。蟻が、自分より大きな花の蜜を、一生懸命に運んでいる。そこには、壮大な冒険と、小さな命の、健気な営みがあった。


「あのね、美緒」おばあちゃんは、古い絵本を開きながら、囁くように言った。


「物語っていうのはね、すごいお城や、きれいなお姫様だけがお話じゃないんだよ。このお庭みたいにね、私たちのすぐそばに、いーっぱい隠れているんだ。悲しくて泣いているお月様や、迷子になった風の子や、寂しがり屋の雨粒さん。そういう、小さくて、誰にも気づかれないような心の声を聞いてあげて、絵にしてあげるのが、本当の魔法使いなんだよ」


場面が変わる。


縁側で、おばあちゃんが、その古い絵本を読んでくれている。その声は優しく、物語は不思議な世界へと彼女をいざなった。お姫様も魔法使いも出てこない。ただ、森の動物たちが、木の実を分け合ったり、迷子の子を探したりする、ささやかなお話。けれど、その世界はどこまでも温かく、優しさに満ちていた。

そうだ。


思い出した。


私の始まりは、ここだった。

誰かを驚かせる派手な魔法じゃない。日常の中に隠された、小さな奇跡。誰かの悲しみにそっと寄り添う、ささやかな優しさ。私が描きたかったのは、そういう物語だったはずだ。


「描かなければ」じゃない。「伝えたい」だった。


「見せなければ」じゃない。「一緒に見たい」だった。


「先生らしさ」なんかじゃない。おばあちゃんが教えてくれた、「小さくて、誰にも気づかれない心の声を聞く魔法」だった。


夢の中で、幼い美緒がくるりと振り返り、大人になった彼女に向かってにっこりと笑った。その笑顔は、おひさまパンのように温かく、そして、その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。


「おばあちゃんに、会いたかったね」

幼い彼女の声が、聞こえた気がした。


ふと、鳥のさえずりで目が覚めた。障子の向こうは、朝の光で白く輝いている。囲炉裏の火は消え、夢見の香の残り香が、まだかすかに漂っていた。


頬が、濡れている。涙の跡だった。

でも、その涙は、悲しい涙ではなかった。

忘れていた宝物を、ようやく見つけ出した、温かくて、愛おしい涙だった。


信じられないほど、体が軽い。そして、心が。あれほど重くのしかかっていた靄が、嘘のように晴れ渡っていた。世界が、再び色鮮やかに見えた。

柱の木目、畳の匂い、障子に映る木々の影。

そのすべてが愛おしく、物語の種のように思えた。


美緒は衝動的に、そばに置いてあったスケッチブックを開いた。震えることも、ためらうこともなく、鉛筆を握る。そして、夢中で描き始めた。


描いたのは、囲炉裏のそばで楽しそうにお茶を運ぶ、子狐の姿に戻った小春と秋彦。

二匹は小さな着物を着て、少し大きなお盆を一生懸命に運んでいる。

その周りには、キラキラとした光の粒が舞っていた。義務じゃない。評価のためでもない。

ただ、この愛おしい瞬間を留めておきたくて、心が勝手に動いたのだ。


「……素晴らしい絵ですわ」

いつの間にか、白雪が背後に立って、スケッチを覗き込んでいた。


「ありがとうございます。あなた方のおかげです」

美緒は、涙で濡れた瞳のまま、心からの笑顔で振り返った。


「私、思い出しました。私が本当に描きたかったものを。物語は、もう、私の中にちゃんとありました」


「ええ。ずっと、貴方様が気づいてくれるのを待っていたのですよ」

白雪は満足そうに頷いた。



別れの時が来た。


亭の入り口で見送ってくれる白雪に、美緒は財布を差し出した。

しかし、白雪は静かに首を横に振った。


「お代は結構です。その代わり、お願いがございます」


「はい」


「貴方様が紡ぐ物語で、どうか、夜道に迷う誰かの心を、そっと照らしてあげてください。星の光のように、ささやかで構いませぬ。それが、私どもへのお代でございます」


その言葉は、呪いではなく、温かい祝福のように美緒の心に染み渡った。


「はい、必ず。……それから、これは、私からのお代です」


美緒は先ほど描いたスケッチを破り、白雪に差し出した。

「もし、よろしければ……」


白雪は驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑むと、その絵を両手で大切そうに受け取った。

「まあ……。これは、亭の宝物にいたします。ありがとうございます、美緒様」

その時、初めて名前を呼ばれたことに、美緒は少しだけ頬を染めた。


鳥居をくぐり、参道を戻る。

振り返ると、白狐亭はすでに朝靄の中に溶け始めていた。

まるで、初めから何もなかったかのように。


車に戻ると、キーを回すまでもなくエンジンがかかった。

ガソリンメーターの針は、なぜか半分以上を指している。

霧は完全に晴れ渡り、目の前にはどこまでも続く青空が広がっていた。


東京に戻った美緒は、すぐに新しい絵本の制作に取り掛かった。

それは、霧深い森の奥、朱色の鳥居をくぐった先にある不思議な茶屋を舞台にした物語。

そこでは、狐の兄妹がお客様をもてなし、美しい女将が、疲れた旅人に温かいスープと、忘れてしまった夢を見せてくれるのだ。


そして、その物語の語り手は、今は空の上にいる、優しいおばあちゃんだった。


半年後に出版されたその絵本『霧の森のきつね亭』は、多くの人々の心を打ち、美緒の新たな代表作となった。子供たちはもちろん、生きることに少し疲れた大人たちの心にも、静かな灯りをともした。


美緒はもう、物語を探して彷徨うことはない。


世界は美しい物語で満ち溢れており、自分の心の中にも、尽きることのない泉があることを知ったからだ。そして、時折、窓の外を眺め、あの霧深い山の向こうに想いを馳せる。


いつかまた道に迷うことがあっても、きっと大丈夫。


心の中のスケッチブックには、あの温かい亭と、優しい狐たちの笑顔、そして、何よりも大切な、おばあちゃんの言葉が、いつまでも色鮮やかに描かれているのだから。


彼女は、その宝物を胸に、これからも、小さくて、誰にも気づかれない心の声を聞く、「魔法使い」として、生きていく。

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