心の繭と羽化の朝
星野凪、十三歳。彼女の部屋は、深海だった。
分厚い遮光カーテンは、太陽の光も、世界の音も、すべてを遮断している。ベッドという名の小さな潜水艇の中で、彼女はただ、息を潜めていた。時間の感覚はとうに失われ、昼と夜の区別も曖昧だった。ここだけが、彼女にとっての唯一の安全な場所だった。
学校へ行かなくなって、三ヶ月が経つ。
最初は、ただの風邪だった。しかし、熱が下がっても、ベッドから起き上がれなくなった。制服を見ようとすると、激しい頭痛に襲われる。玄関のドアノブに手をかけようとすると、吐き気がこみ上げてくる。医者は「心因性のものだろう」と曖昧な言葉を口にするだけだった。
原因は、わかっていた。
特定の誰かに、殴られたり、物を隠されたりしたわけではない。もっと、たちの悪いもの。それは「空気」という名の、目に見えない暴力だった。
中学に入り、クラスの中にできた、いくつかの女子グループ。その中で、常に誰かの顔色を窺い、裏表のある会話に愛想笑いを浮かべ、SNSでは「いいね」を押し合い、絶えず繋がっていなければ仲間外れにされるという、息苦しいルール。凪は、そのすべてに、順応できなかった。
決定打は、親友だと思っていたはずの、美咲の言葉だった。
トイレの個室に隠れていた時、聞こえてしまったのだ。
「凪ってさ、なんかノリ悪いよね。こっちが気ぃ遣うんだけど」
「わかるー。真面目っていうか、つまんないっていうか」
笑い声が、壁を突き抜けて、凪の心臓を直接刺した。
その日から、世界は色を失った。教室の喧騒は、意味のないノイズになった。誰もが、自分を嘲笑っているように見えた。自分が、この場所にいてはいけない、異物なのだと、はっきりと悟った。
だから、彼女は自分だけの深海に、逃げ込んだのだ。
両親は、心配してくれていた。
「凪、何があったの?話してごらん」
「いつまでも、こんなことしてちゃだめよ。お母さん、心配で……」
優しい言葉のはずなのに、その一つ一つが、彼女を責め立てる棘のように感じられた。話せるわけがない。どうせ、誰もわかってくれない。私が弱くて、我慢が足りないだけなんだ。罪悪感が、鉛のように心を重くしていく。
「消えてしまいたい」
その衝動が、限界に達した、ある雨の日の午後。
凪は、まるで夢遊病者のように、ベッドから抜け出した。母親がパートに出かけ、家には誰もいない。彼女は、傘もささずに、ふらりと外へ出た。
冷たい雨が、彼女の薄いパジャマを濡らしていく。でも、不思議と寒さは感じなかった。心が、とっくに凍てついていたからだ。
あてもなく歩き続け、気づけば見知らぬバス停にいた。来たバスに、吸い寄せられるように乗り込む。ガタン、ゴトンという単調な揺れ。窓の外を流れていく景色を、ぼんやりと眺めているうちに、眠ってしまったのかもしれない。
「お客さん、終点ですよ」
運転手の声で目を覚ますと、バスの中には自分一人だけだった。
外は、深い霧に包まれた、静かな山の麓だった。雨は上がっていたが、空気はしっとりと湿り気を帯びている。
途方に暮れ、立ち尽くす彼女の目に、その光は飛び込んできた。
濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと灯る、朱色の光。
それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、彷徨う魂を、どこかへ誘っているかのようだ。何かに導かれるように、凪は、その光が続く石段へと、ふらふらと足を踏み入れた。
苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。その静寂が、彼女の張り詰めていた心を、ほんの少しだけ、緩ませた。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。
軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。
まるで、昔、祖母の家で読んだ、古い絵本に出てきたような家だ。
彼女がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。
中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、この世のものとは思えなかった。そして、その深い瞳は、凪が幾重にも重ね着した心の鎧の、その奥の奥にある、小さな、震える魂を、静かに見つめているようだった。
「ようこそお越しくださいました、迷い子さん。ずいぶんと、重たいものを背負ってこられましたね。さあ、中へ」
女は白雪と名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、拒絶されることに慣れきっていた凪の心を、そっと受け入れるような、不思議な温かみがあった。凪は、何も言えず、ただ頷くだけで、その後に続いた。
亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。
「お客様ですよー!」
「わあ、お姉さん、ずぶ濡れ!こっちこっち!」
奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。
小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく凪に乾いた手ぬぐいを渡し、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない優しさに、凪は戸惑い、どう反応していいかわからず、さらに背中を丸めた。
「まずは、温かいお茶をどうぞ」
白雪に促され、凪は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた体中へと広がっていく。
やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。ずっと、まともな食事をしていなかった。食欲など、あるはずもなかった。
しかし、湯気と共に立ち上る、優しい出汁の香りが、彼女の閉ざされた食欲の扉を、そっとノックした。
おずおずと、一口すする。優しい出汁の味が、空っぽだった胃に、そして心に、じんわりと染み渡っていく。美味しい。その純粋な感覚が、彼女の心を震わせた。
食事を終え、ただぼんやりと囲炉裏の火を見つめる凪に、白雪が静かに語りかけた。
「貴方様は、ご自分を守るために、たくさんの『鎧』を着込んでこられましたね。そうしているうちに、鎧が重くなりすぎて、身動きが取れなくなってしまった」
その言葉は、凪の心の状態を、あまりにも的確に表していた。
彼女は、何かを話そうとした。でも、できない。喉の奥に、何か硬いものが詰まっているようで、声にならない。ただ、首を横に振るのが精一杯だった。
「言葉にするのが、お辛いのですね。承知しております」
白雪は、無理に話させようとはしなかった。
彼女は、静かに立ち上がると、奥から、一つの小さな箱を持ってきた。その中には、手のひらに収まるほどの、灰色で、ごつごつした、石のようなものが置かれていた。それは、まるで、何かの生き物が作った、硬い繭のようだった。
「これは『心の繭』。貴方様が、ご自分を守るために作り出した、たくさんの殻が、固まってできたものでございます。『嫌われたくない』という殻。『普通でいなければ』という殻。『私が我慢すればいい』という殻。その一つ一つが、貴方様を、その中に閉じ込めているのです」
白雪は、その冷たい繭を、そっと凪の手に乗せた。ずしり、と、見た目以上の重さが、彼女の小さな手のひらにのしかかった。
「この繭は、ただの力では壊せません。唯一、この繭を溶かすことができるのは、貴方様の、本当の涙だけです」
「……涙?」
かろうじて、かすれた声が出た。
「ええ。誰かに見せるための涙でも、悲劇のヒロインになるための涙でもない。貴方様が、貴方様ご自身のために流す、初めての、真実の涙」
白雪は続けた。
「ですが、無理に泣く必要はございません。お辛いことを、思い出す必要もございません。ただ、一晩、この繭を、その手で、温め続けてあげてください。それは、貴方様が、ご自身の心を、抱きしめてあげるということなのですから」
凪は、言われるがままに、その冷たい繭を、両手でそっと包み込んだ。
囲炉裏のそばの座布団に座り、彼女は、ひたすら繭を温め続けた。
最初は、何も感じなかった。ただ、冷たくて、重いだけ。
時間が、ゆっくりと流れていく。
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てる。小春と秋彦が、時折、心配そうにこちらを見ている。白雪は、少し離れた場所で、静かに機を織っている。その穏やかな時間が、凪の頑なな心を、少しずつ、少しずつ、ほぐしていった。
どれくらいの時が経っただろう。
繭を握る彼女の手に、微かな、本当に微かな、振動が伝わってきた。
そして、声が聞こえ始めたのだ。それは、外から聞こえる声ではない。繭の中から、彼女自身の心の中から、直接響いてくる声だった。
『……本当は、嫌だった』
美咲の話に、無理に笑って合わせていた時。
『行きたくなかった』
グループの皆で行くと言い出した、カラオケ。
『ひとりになるのが、怖かった』
だから、自分の意見を、いつも飲み込んできた。
『どうして、わかってくれないの?』
親に、先生に、友達に、そう叫びたかった。
『疲れた……もう、疲れたよ……』
それは、今まで彼女が、心の奥底に押し殺してきた、悲鳴だった。
「良い子」でいるために。「普通」でいるために。「嫌われない」ために。彼女が、無視し続けてきた、自分自身の、本当の気持ちだった。
ああ、私、嫌だったんだ。
苦しかったんだ。
悲しかったんだ。
疲れていたんだ。
自分が「我慢強い」のではなく、ただ、自分の感情に蓋をして、麻痺させていただけなのだと、彼女は、この時、初めて気づいた。
その瞬間だった。
彼女の目から、堰を切ったように、熱い涙が溢れ出した。
それは、誰かに同情を引くための涙ではない。自分を可哀想だと思う涙でもない。
今まで、無視してきてごめんね、と。よく、一人で頑張ったね、と。
自分の心を、ようやく抱きしめてあげることができた、初めての、真実の涙だった。
ぽたり、ぽたりと、涙が、繭の上に落ちていく。
すると、奇跡が起きた。
涙が触れた部分から、あの硬い繭が、しゅわしゅわと音を立てて、少しずつ、少しずつ、溶け始めたのだ。
「う……うわああ……あああああっ!」
凪は、声を上げて泣いた。
十三年間、一度も、本当の意味で泣いたことのなかった彼女が、魂の底から、泣きじゃくった。
涙を流すたびに、繭は溶け、心は軽くなっていく。涙を流すたびに、自分を縛り付けていた、たくさんの見えない鎖が、一つ、また一つと、切れていくようだった。
やがて、繭は完全に溶けて、なくなった。
彼女の手のひらに残されていたのは、一つの、小さな、小さな、傷だらけの蝶の蛹だった。
それは、まだ美しい緑色をしていて、時折、ぴくり、と微かに動いている。生きているのだ。
それは、たくさんの殻の下で、息を潜めていた、彼女の本当の魂の姿だった。
夜が明け、朝の光が、障子を通して、虹色の光の帯となって差し込んできた頃。
凪は、疲れ果てて、しかし、生まれて初めて感じるほどの、深い安らぎの中で、眠っていた。その手には、小さな蛹が、大切そうに握られている。
白雪は、その蛹を、優しく凪の手から受け取ると、彼女の胸の上に、そっと置いた。
「ご覧なさい。これが、貴方様の本当の姿。今はまだ傷つき、眠っておりますが、ちゃんと、生きております」
いつの間にか目を覚ましていた凪に、白雪は微笑みかけた。
「この蛹が、いつか美しい蝶となって羽ばたくかどうかは、貴方様次第。焦る必要はございません。無理に飛ぶ必要もございません。まずは、ご自分のために、温かい場所で、ゆっくりと休むのです。蛹には、蛹の時間が必要なのですから」
そして、白雪は、凪の目をまっすぐに見て言った。
「学校へ行くことだけが、世界のすべてではございませんよ」
その言葉は、凪を縛り付けていた、最後の、そして最も重い呪いを、解き放ってくれた。
白狐亭を去る時、白雪は、お代の代わりに、一つの約束を求めた。
「これからは、ご自分の心の声に、誰よりも一番に、耳を澄ませてあげてください。泣きたい時は、思いきり泣きなさい。休みたい時は、心ゆくまで休みさない。貴方様の心が、本当に『行きたい』と願う場所が、貴方様がこれから進むべき道なのですから」
凪は、涙を浮かべながら、しかし、はっきりと、力強く、頷いた。
現実の世界に戻った凪。彼女はまだ、学校には行けなかった。
しかし、彼女の心の中には、確かな変化が生まれていた。あれほど彼女を苛んでいた、罪悪感が、薄らいでいた。
朝、彼女は自ら、部屋のカーテンを開けた。
差し込む光が、少しだけ、眩しく、そして温かく感じられた。
母親に「もう少しだけ、休ませてください」と、初めて、自分の言葉で伝えることができた。母親は、驚いたように目を見開いたが、娘の表情に、今までなかった穏やかな光が宿っているのを見て、ただ黙って頷いてくれた。
それから、凪は、近所の小さな図書館に通い始めた。
たくさんの本に囲まれている時間だけは、心が、不思議と安らいだ。
ある日、彼女は、図書館の片隅で、古い植物図鑑を手に取った。そのページに描かれた、一枚の、美しい蝶の絵に、目を奪われた。瑠璃色の、繊細な翅を持つ、オオルリアゲハ。
その時、彼女の中に、本当に、本当に久しぶりに、一つの衝動が生まれた。
(……描きたい)
家に帰ると、彼女は、何年も開けていなかった机の引き出しから、小さなスケッチブックと、色鉛筆を取り出した。
そして、真っ白なページに、震える手で、一本の線を描き始めた。
彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。
心の中の蛹が、いつ羽化するのかは、誰にもわからない。明日かもしれないし、一年後かもしれない。
でも、もう大丈夫。
彼女は、自分の心の声を聞く方法を、知ったのだから。
凪は、窓の外の青空を見上げた。
いつか、あの空を、自由に飛べる日が来るだろうか。
彼女は、その希望を、祈りを、一筆一筆に込めながら、ただ静かに、一羽の蝶を、描き続けていた。
それは、彼女の魂が、再び羽ばたくための、静かで、しかし、力強い助走だった。