忘れ雪の贖罪 ~「人殺し」の烙印を背負った俺が、白狐亭で千の魂の悲鳴を聞いた夜~
その男、長谷川修一の背中には、決して消えない烙印が押されていた。
五年という歳月は、刑務所のコンクリートの壁を隔てていた世間との時間を埋めるには、あまりに短すぎた。彼は、五年前に犯した罪の償いを終え、シャバに戻ってきた。
しかし、彼の心は、あの日からずっと、冷たく暗い独房に囚われたままだった。
原因は、飲酒運転だった。
仕事のストレスから、つい深酒をしてしまった帰り道。一瞬の判断ミスが、横断歩道を渡っていた、一人の若い女性の未来を、そして命を奪った。
被害者の名前は、佐伯真奈、二十一歳。
看護師になるという夢を持った、笑顔の優しい女性だった。
裁判で、彼は深々と頭を下げた。遺族の前で、涙ながらに謝罪した。
しかし、真奈さんの父親から投げつけられた「人殺し」という言葉は、彼の魂に刻まれた消えない罪の刻印となった。当然だった。どんなに謝罪しても、償っても、奪われた命は二度と戻らない。
出所後、彼は日雇いの建設現場で、息を潜めるように生きていた。誰とも目を合わせず、必要最低限の言葉しか話さない。夜ごと、悪夢にうなされた。ブレーキの軋む音。悲鳴。
そして、彼を睨みつける、真奈さんの父親の絶望に満ちた瞳。
「お前が、代わりに死ねばよかったのに」
その声が、頭の中で何度も木霊する。その通りだ。死んで償うべきだったのは、自分だ。
しかし、彼には死ぬことさえ許されていない。生き地獄。その言葉が、彼の日々を的確に表していた。
その日、仕事で訪れた山間部の現場で、彼は作業中に足を滑らせ、崖から数メートル下に滑落した。幸い骨折はなかったが、全身を強く打ち付け、自力で這い上がることはできなかった。
夕闇が迫り、冷たい雨が降り始める。誰も助けには来ないだろう。
このまま、ここで死ぬのか。
そう思った時、不思議と安堵している自分がいた。これで、やっと、終わることができる。
意識が遠のき始めた、その時だった。
雨に煙る霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。
それは、連なる鳥居だった。まるで、地獄の入り口へといざなう鬼火のようだ。彼は、最後の力を振り絞り、這うようにして、その光が続く石段へと向かった。
苔むした石段を登り切った先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。
死ぬ前に見る、幻覚か。彼がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。
中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、この世のものとは思えなかった。そして、その深い瞳は、彼の背負う罪の重さと、その奥にある魂の叫びを、静かに見据えているようだった。
「ようこそ。…いいえ、お帰りなさいませ」
女は白雪と名乗り、亭の女将だと告げた。
その声には、彼の罪を断罪も肯定もせぬ、ただ絶対的な静寂があった。修一は、何かに導かれるように、その中へと足を踏み入れた。
亭の中は、いつものような温かい囲炉裏の火はなく、代わりに部屋の中央に、一つの大きな石臼が、どっしりと置かれていた。行灯の光だけが、その重々しい存在感を照らしている。
「お客様、お待ちしておりました!」
奥から、小春と秋彦が駆け寄ってきたが、その表情はいつもの無邪気なものではなく、どこか厳粛な面持ちだった。
「まずは、その傷の手当てを」
白雪に促され、修一は黙って手当てを受けた。不思議な薬草が塗られると、あれほど痛んだ打撲の痛みが、すっと引いていく。しかし、魂の痛みは、少しも和らぐことはなかった。
食事として出されたのは、いつもの「きつねうどん」ではなく、ただの白湯と、一つまみの塩だけだった。
「ここは白狐亭。人の世の理から外れた魂が、己が罪と向き合うための場所でございます」
白雪の言葉は、静かで、しかし裁判官の宣告よりも重く響いた。
「貴方様は、五年間、人の世の法によって罰を受けられた。ですが、貴方様の魂は、まだ何一つ、償いを終えてはおりませぬ」
図星だった。
刑期を終えたところで、彼の罪悪感は一ミリも軽くはなっていなかった。
「貴方様は、死んで楽になりたいと願っておられる。ですが、それは贖罪ではございません。ただの、逃避です。真の贖罪とは、生き続けること。その罪の記憶を、その痛みの一切を、その身に刻みつけて、それでもなお、生き続けるという、終わりなき苦しみの道です」
白雪は、部屋の中央にある石臼を指差した。その傍らには、山のように積まれた、真っ黒な石があった。一つ一つが、人の頭ほどの大きさがある。
「これは『忘却の石』。人の世で忘れ去られていく、悲しみ、苦しみ、無念の記憶が、固まってできたものでございます。夜が明けるまでに、貴方様の手で、この石をすべて、あの石臼で挽き、白い砂に変えていただきたいのです」
「……なぜ、俺が」
「貴方様が奪ったのは、一人の女性の命だけではございません。彼女がこれから生きるはずだった、未来。彼女が看護師として救うはずだった、幾百の命。彼女が誰かと結ばれ、産むはずだった、新しい命。貴方様は、そのすべての『可能性』という名の星々を、たった一瞬で、夜空から消し去ったのです。その罪の重さを、その身で知りなさい」
それは、あまりにも過酷な、しかし抗うことのできない要求だった。
修一は、黙って石臼の前に立った。
彼は、最初の一つの石を持ち上げた。ずしり、と腕にのしかかる重さは、まるで、彼が背負う罪そのもののようだった。
彼は、無心で石を挽き始めた。
ゴリ、ゴリ、と、石と石が擦れ合う、耳障りな音が、静かな亭に響き渡る。
最初は、ただの肉体労働だった。しかし、しばらくすると、不思議なことが起きた。
挽かれた石から、白い砂と共に、誰かの「声」が聞こえ始めたのだ。
『どうして、私だけがこんな目に……』
病で幼くして死んだ、子供の声。
『会いたい。もう一度だけでいいから、会いたい……』
戦で夫を亡くした、妻の声。
『悔しい。まだ、やりたいことがたくさんあったのに』
志半ばで倒れた、若者の声。
それは、この世に未練を残して死んでいった、無数の魂たちの、悲痛な叫びだった。修一は、その声を聞くたびに、胸が張り裂けそうになった。彼らの無念、悲しみ、絶望が、彼自身の罪悪感と共鳴し、彼の魂を苛んだ。
「やめろ……やめてくれ……っ!」
彼は耳を塞ぎ、叫んだ。
しかし、声は彼の頭の中に直接響いてくる。
その時、目の前に、一人の若い女性の幻影が立った。
佐伯真奈さんだった。
彼女は、何も言わず、ただ悲しい瞳で、修一を見つめていた。その瞳は、彼を責めているのではなかった。ただ、深く、深く、悲しんでいた。
(私は、生きたかった)
声にならない声が、修一の心に届いた。
(看護師になって、たくさんの人を助けたかった。お父さんやお母さんに、親孝行したかった。好きな人と結婚して、子供を産んで、温かい家庭を作りたかった。私の未来は、あなたがあの夜、お酒を飲んでいなければ、確かにここにあったのに)
修一は、嗚咽を漏らしながら、石を挽き続けた。
涙で視界が滲む。腕は感覚を失い、肩はちぎれそうだった。それでも、彼は手を止めなかった。止められなかった。
これは、罰なのだ。自分が奪った、数えきれない未来の重さを知るための、当然の報いなのだ。
小春と秋彦が、時折、彼に水を差し出し、汗を拭ってくれた。その無言の優しさが、かえって彼の胸を締め付けた。
夜が、永遠に続くかのように思えた。
最後の石を挽き終え、それが白い砂に変わった時、東の空が、わずかに白み始めていた。
修一は、その場に崩れ落ちた。体は疲労で限界を超えていたが、不思議と、心は静かだった。悪夢のように彼を苛んでいた、罪悪感の棘が、少しだけ、本当に少しだけ、丸くなったような気がした。
「ご苦労様でございました」
いつの間にか、白雪が隣に立っていた。彼女の手には、小さな白い布袋があった。中には、先ほど修一が挽いた、白い砂が入っている。
「貴方様は、この一夜で、千の魂の悲しみに触れました。ですが、それでもなお、貴方様が奪ったものの重さには、到底及びもつきませぬ」
その言葉は、厳しかった。しかし、続けて白雪は言った。
「ですが、その痛みを、その重さを、その身に刻んで、なお生き続けると決めた貴方様の魂は、確かに、贖罪への第一歩を踏み出されました」
白雪は、その白い砂の入った袋を、修一に手渡した。
「お代は、結構です。その代わり、これをお持ちなさい。そして、これから先、貴方様の人生を、この砂を蒔くことに使いなさい」
「……蒔く?」
「ええ。貴方様がこれから出会う、誰かの悲しみに、苦しみに、その砂をそっと蒔いてあげるのです。それは、慰めでも、同情でもございません。ただ、その痛みに寄り添い、その重さを共に背負う、という誓いの証。貴方様が奪った命の代わりに、貴方様が救える命が、一つでもあるかもしれない。…いいえ、貴方様は、救わねばならないのです。それが、貴方様に残された、唯一の生きる意味であり、生涯をかけた、贖罪なのですから」
その言葉は、修一の魂に、深く、重く、そして確かな光として刻み込まれた。死ぬことよりも、遥かに困難で、茨に満ちた道。
しかし、その先にしか、彼の魂の救済はないのだと、彼は悟った。
現実の世界に戻った修一は、変わった。
彼は、日雇いの仕事を続けながら、週末になると、小さな白い布袋を手に、街へ出た。そして、公園のベンチでうなだれる老人、駅のホームで涙を流す若者、誰にも助けを求められずにいる人々の元へ行き、ただ静かに、隣に座った。
何も言わず、ただ、彼らの話に耳を傾けた。そして、別れ際に、そっと砂を一つまみ、その人の足元に蒔いた。
「あなたの痛みが、少しでも和らぎますように」と、心の中で祈りながら。
もちろん、誰もが彼を受け入れたわけではない。不審がられ、罵倒されることもあった。それでも、彼はやめなかった。それが、自分に課せられた、生涯をかけた使命だと信じていたからだ。
数年が経ったある春の日。
彼は、とあるホスピスのボランティア募集の張り紙を目にした。死を間近にした人々の、最期の時間に寄り添う仕事。彼は、迷わず応募した。
そこで、彼は多くの人々の「死」に立ち会った。そのたびに、彼は、あの白狐亭での一夜と、自分が奪った命の重さを思い出した。そして、患者の手を握り、彼らの恐怖や後悔、感謝の言葉に、ただ耳を傾けた。
ある日、彼は、末期癌を患う、一人の老人を担当することになった。その老人は、修一の顔を見るなり、目を見開いた。
「……お前は」
それは、佐伯真奈さんの父親だった。
時が、止まった。修一は、その場に凍りついた。逃げ出したかった。しかし、足が動かない。
老人は、最初は彼を罵った。憎しみの言葉を、すべて吐き出した。修一は、ただ黙って、その言葉を全身で受け止めた。
何日も、何日も、そんな日々が続いた。
しかし、老人の最期が近づいたある夜。彼は、弱々しい声で、修一を呼んだ。
「お前が……お前が、真奈の代わりに、こんなところで、人のために尽くしていたとはな……」
その声には、もう憎しみはなかった。ただ、深い疲労と、諦観があった。
「……真奈は、優しい子だった。きっと、お前のこと……もう、赦しているだろうよ……」
その言葉を聞いた瞬間、修一の目から、何十年分もの涙が、とめどなく溢れ出した。それは、赦されたことへの安堵の涙ではなかった。自分が犯した罪の、あまりの深さと、それでもなお、人の心が持つ、不可思議な温かさに触れた、魂の涙だった。
数日後、老人は、静かに息を引き取った。その手を、修一は最後まで握りしめていた。
彼の贖罪の旅は、まだ終わらない。これからも、一生続くのだろう。
しかし、彼の背負う罪は、もう、彼を闇に引きずり込むだけの、冷たい重りではなかった。それは、彼の進むべき道を照らし、彼が出会う人々の痛みに寄り添うための、温かい道標となっていた。
時折、彼は胸の内にしまっている、小さな白い布袋に触れる。
そして、霧深い森の奥にある、あの不思議な亭に想いを馳せる。




