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真実(まこと)の姿見 ~「俺は中古の欠陥品」そう呟く社畜(25)が、白狐亭で「値札」を書き換えるまで~

その青年、平野和希ひらの かずきの世界は、常に傾いていた。


彼の首が、そして背中が、絶えず地面の方へと傾いているからだ。

二十五歳。彼の猫背は、単なる姿勢の悪さではなかった。それは、幼い頃から彼の魂に染み付いた、拭い去れない劣等感の物理的な現れだった。


彼は、自分という存在を構成するすべてが、中古の欠陥品のように思えてならなかった。

平凡な地方の家庭に生まれ、必死で勉強して都内の大学に入ったものの、それは世間では「三流」と切り捨てられる名前の大学だった。容姿は、鏡を見るたびにため息が出るほど凡庸で、特徴のない顔。コミュニケーション能力は著しく低く、気の利いた会話などできたためしがない。


その結果、彼は過剰なまでに他者の視線を気にして生きていた。

電車に乗れば、周りの乗客が自分のことを嘲笑っているような気がする。

コンビニで買い物をするだけで、店員の些細な表情の変化に「何かおかしなことをしただろうか」と、心臓が冷たくなる。

彼の世界は、無数の「他人の目」という監視カメラに、四六時中晒されている監獄だった。


だから、彼は他人の幸福を、心から祝福することができなかった。


スマートフォンの画面をスワイプすれば、友人たちの輝かしい人生が、ナイフのように彼の目を突き刺す。

『同期の山本、ついに課長昇進!最年少だって!』

『大学の友達、佐藤が結婚!相手はモデルみたいな美人!』

『後輩の鈴木、起業した会社がメディアに取り上げられた!』


「すごいな!」

「おめでとう!」


指先で、祝福のメッセージを打ち込みながら、彼の心の中では、嫉लानाのか、羨望なのか、それとも自己嫌悪なのか、判別のつかないどす黒い感情が、ヘドロのように渦巻いていた。


どうして、あいつらみたいにできないんだ。どうして、俺はこんなに空っぽなんだ。

その夜も、彼は友人の結婚式の二次会から、逃げるように帰ってきた。

幸せそうな新郎新婦、楽しげに笑い合う友人たち。その光景は、彼にとって、自分の惨めさを浮き彫りにする、あまりにも残酷なスポットライトだった。祝福の言葉を口にするたび、自分の心が嘘で塗り固められていくのがわかった。


「お前も、早くいい人見つけろよ」


友人の何気ない一言が、彼の心を深くえぐった。

無理だ。こんな俺を、好きになってくれる人なんて、いるはずがない。

アパートへの帰り道、ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、彼は愕然とした。

そこにいたのは、幽霊のように青白い顔で、背中を丸め、地面を睨みつけるように歩く、一人の見るからに不幸そうな男だった。


「……消えてしまいたい」


心の底から、そう思った。この体も、この心も、この人生も、すべて捨てて、どこかへ。


彼は、無意識のうちに、逆方向の電車に乗り込んでいた。


あてもなく、ただ遠くへ。

ガタン、ゴトンという単調な揺れに身を任せているうちに、眠ってしまったのかもしれない。

気づいた時、彼は、深い霧に包まれた、見知らぬ終着駅に一人、取り残されていた。


冷たい雨が、彼の薄いジャケットを濡らしていく。体温が奪われ、思考が鈍麻していく。

このまま、ここで朽ちていくのも悪くない。そう思った、その時だった。


濃霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。

それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、彷徨う魂を、どこかへ誘っているかのようだ。最後の力を振り絞るように、和希は、その光が続く石段へと、ふらふらと足を踏み入れた。


苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音。その静寂が、彼のささくれた心を、不思議と落ち着かせた。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。

まるで、夢の中にいるようだ。


彼がそう思った瞬間、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。


中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。そして、その深い瞳は、和希がその猫背の奥に隠している、無数の見えない傷跡を、静かに見つめているようだった。


「ようこそお越しくださいました。その背中、ずいぶんと重いものを背負ってこられましたね。さあ、中へ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、彼の心の奥底まで届く、不思議な浸透力があった。和希は、何も言えず、ただ頷くだけで、その後に続いた。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。


「お客様ですよー!」


「まあ、どうぞこちらへ!」


奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく和希の濡れたジャケットを預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その屈託のない優しさに、和希は戸惑い、どう反応していいかわからず、さらに背中を丸めた。


「まずは、温かいお茶をどうぞ」


白雪に促され、和希は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた心へと広がっていく。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。


「……僕なんかが、こんな良いものを……すみません」


思わず、謝罪の言葉が口をついて出た。彼の人生は、常に謝罪と共にある。


「なぜ、謝るのですか?」


囲炉裏の向こうから、白雪が静かに問いかけた。


「貴方様は、ご自分のことを、ずいぶんと安く見積もっておられるようですわね」


その言葉に、和希の心臓がどきりと跳ねた。


「いえ、そんなことは……。僕は、本当に、何の価値もない人間ですから」


自嘲気味に呟いた。それは、彼が長年、自分に言い聞かせてきた「真実」だった。


「そうですか」白雪は静かに頷いた。

「では、その『価値』とは、一体誰が決めるものでございましょう?」


その問いに、和希は答えられなかった。世間か、他人か、それとも、自分自身か。


「……僕には、何もありません。学歴も、才能も、容姿も……全部、人より劣っている。友達は、みんな僕よりずっとすごくて、輝いて見える。それに比べて、僕は……」


堰を切ったように、言葉が溢れ出した。それは、初めて他人に吐き出す、彼の魂の叫びだった。


「みんなの幸せそうな報告を見るたびに、胸が苦しくなるんです!おめでとうって、素直に思えない、醜い自分が嫌で嫌で……!本当は、不幸になればいいのに、なんて、最低なことを考えてしまう……!僕みたいな人間は、生きている価値なんて、ないんです……っ!」


彼は、床に突っ伏し、子供のように声を上げて泣いた。

二十五年分の劣等感と、自己嫌悪と、孤独が、涙となって溢れ出した。


白雪は、ただ静かに、彼の言葉を、彼の涙を、彼の魂の告白を、その深い瞳で受け止めていた。

が泣き疲れて、嗚咽だけが静かな亭に響く頃。


白雪は、静かに立ち上がると、奥から一つの大きな、黒漆の姿見を持ってきた。

それは、縁に繊細な銀細工が施された、年代物の美しい鏡だった。


「これは『真実まことの姿見』。ただ姿を映すだけではございません。その者の魂に貼られた、すべての『値札』を映し出すのです」


白雪は、その鏡を和希の前に、すっと置いた。


「さあ、ご自分の姿を、よくご覧なさい」


和希は、恐る恐る、鏡を覗き込んだ。

そこに映っていたのは、いつもの猫背の自分。

しかし、その姿には、無数の、白い紙の値札タグが、びっしりとぶら下がっていた。


彼は、息を呑んだ。


その値札に書かれた文字を、読んでしまったからだ。


彼の頭には、『三流大学卒:特価品』。

彼の顔には、『平凡な容姿:B級品』。

彼の手には、『特別な才能なし:価値ゼロ』。

彼の口には、『コミュニケーション能力:欠陥あり』。


そして、彼の心臓のあたりには、『嫉妬深い性格:不良品』という、ひときわ大きな値札が、重そうにぶら下がっていた。


それは、彼が自分自身に下してきた、残酷な評価のすべてだった。


「ああ……ああ……」


彼は、絶望に打ちのめされ、その場に崩れ落ちそうになった。やはり、自分は、欠陥だらけのがらくただったのだ。


「では、次はこちらをご覧なさい」


白雪が、そっと鏡に手をかざすと、水面が揺らぐように、鏡の中の景色が変わった。


そこに映し出されたのは、彼が羨んでいた、同期の山本だった。颯爽とスーツを着こなし、自信に満ちた表情をしている。彼の体にも、値札がぶら下がっていた。

『一流企業・課長:プレミアム価格』。


やはり、そうだ。彼と俺とでは、元々の価値が違うんだ。

和希がそう思った瞬間、白雪が、その値札をすっと裏返した。

裏には、こう書かれていた。

『代償:月150時間の残業、すり減った胃、孤独な食卓』。


「え……?」


次に鏡に映ったのは、結婚したばかりの友人、佐藤だった。美しい妻と腕を組み、幸せそうに笑っている。

彼の値札には、『幸福な結婚:時価(最高値)』と書かれていた。


しかし、その裏には。

『代償:妻の両親からの過干渉、諦めた海外転勤の夢、自由時間の剥奪』。



和希は、言葉を失った。

自分が見ていたのは、彼らの人生の、輝かしい「表側」だけだったのだ。その輝きを維持するために、彼らがどんな「代償」を払い、どんな「影」を背負っているのか、考えようともしなかった。


「おわかりになりましたか」


白雪の声が、静かに響いた。


「誰もが、光と影の両方を抱えて生きております。貴方様は、他人の光と、ご自身の影だけを比べて、勝手に絶望していたに過ぎませぬ」


白雪は、もう一度、和希自身の姿を鏡に映し出した。


そこには、相変わらず、無数の残酷な値札をぶら下げた、惨めな自分が立っている。


「そして、その値札を貼ったのは、他の誰でもございません」


白雪は、和希の胸を、指先でとん、と突いた。


「貴方様ご自身の、その心なのです」


その瞬間、和希の心に、電流が走った。


そうだ。僕を「価値なし」と決めつけていたのは、僕自身だった。

僕が、僕を一番、見下していた。軽蔑していた。


「……どうすれば、いいんですか……」


震える声で尋ねる和希に、白雪は、一本の、真っ白な羽根ペンをそっと手渡した。


「値札を貼ったのがご自身なら、それを書き換えることができるのもまた、貴方様だけ。さあ、その羽根ペンで、ご自分の値札を、書き換えてごらんなさい。貴方様の、優しい手で」


和希は、震える手で羽根ペンを握りしめ、鏡の中の自分に向き合った。


彼は、まず『三流大学卒:特価品』という値札に、ペンを走らせた。

『……必死で勉強して、掴み取った合格通知』


次に、『平凡な容姿:B級品』という札。

『……亡くなった、優しい祖母にそっくりな目元』


『コミュニケーション能力:欠陥あり』の札は、『人の話を、じっくり聞くことができる』に。


『嫉妬深い性格:不良品』の札は、『……誰よりも、輝きたいと、強く願っている』に。


一つ、また一つと、値札を書き換えていくたびに、彼の心から、重い鎖が、ジャラリ、ジャラリと外れていくような気がした。

短所だと思っていたものは、見方を変えれば、個性になる。

欠点だと思っていたものは、自分を構成する、愛おしい一部になる。


すべての値札を書き換え終えた時、鏡の中の自分が、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。

そして、何十年も丸まっていた背筋が、すっと、数ミリだけ伸びた気がした。


和希の目から、温かい涙が、とめどなく溢れ出した。


それは、自己嫌悪の涙ではなかった。


生まれて初めて、ありのままの自分を、ほんの少しだけ、受け入れることができた、歓喜の涙だった。



朝が来た。


白狐亭を去る時、和希は白雪に深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。僕……もう少しだけ、自分を信じてみようと思います」


彼はお代を払おうとしたが、「お代は結構です」と、白雪は微笑んだ。


「その代わり、お願いがございます。これから先、鏡を見るたびに、ご自分の値札を、ご自身の優しい手で書き換えてあげてください。そして、いつか他人の輝きに目がくらみそうになったなら、その光の裏にある影にも、思いを馳せてあげてください。世界は、貴方様が思っているよりも、ずっと公平で、ずっと優しい場所なのやもしれませんよ」


別れ際に、小春と秋彦が、小さな丸い手鏡を彼に手渡した。


「お兄ちゃんへのお守り!時々、ちゃんと見るんだよ!」


現実の世界に戻った和希は、まず、アパートの洗面台の鏡に向き合った。

そこに映る自分を見て、彼は、ため息をつく代わりに、ぎこちなく、ほんの少しだけ、口角を上げてみた。


その日から、彼の世界は、劇的に変わったわけではない。


会社の飲み会では、相変わらず気の利いたことは言えないし、友人の成功を、百パーセントの笑顔で祝福できるわけでもない。猫背も、すぐに治るものではなかった。


でも、何かが、確実に変わっていた。


電車の中で、周りの視線が気にならなくなった。他人は、自分が思うほど、自分のことなど見ていないのだと、ようやく気づけたからだ。


友人のSNSを見ても、以前のような激しい嫉妬は湧き上がってこない。

「この人も、見えないところで、頑張っているんだろうな」

そう、自然に思えるようになっていた。


ある日、会社で後輩が大きなミスをして、ひどく落ち込んでいた。

周りの先輩たちは、「だから言ったじゃないか」と彼を責めている。

和希は、おずおずと、その後輩の隣に行った。


気の利いた慰めの言葉は、出てこない。

でも、彼は、かつて白雪が自分にしてくれたように、ただ黙って、隣に座り、コーヒーを差し出した。

「……俺も、去年、もっとでかいミスしたから。大丈夫だよ」


後輩は、驚いたように顔を上げ、そして、ほっとしたように、小さな声で「ありがとうございます」と言った。


その瞬間、和希の心の中に、今まで感じたことのない、温かい光が灯った。

誰かと比べて得られる優越感ではない、誰かに寄り添うことで得られる、ささやかな、しかし確かな幸福感だった。


彼は今も、時々、劣等感という名の古い亡霊に、心を苛まれる夜がある。

でも、そんな時は、胸のポケットに入れた、あの丸い手鏡にそっと触れるのだ。


そして、鏡の中の自分に、語りかける。

「お前は、お前のままで、いいんだよ」と。


彼の背筋は、まだ、完全には伸びていないかもしれない。

けれど、彼の視線は、もう、地面だけを向いてはいない。


ほんの少しだけ顔を上げ、不器用な足取りで、自分だけの価値が記された、明日へと、まっすぐに歩き始めている。

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