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呪縛(じゅばく)の人形~毒親の巻~


その声は、頭蓋骨の内側に直接響く。


高村翔太たかむら しょうた、二十四歳。


彼の世界は、母親・佳代子の声によって支配されていた。

それは、電話線や電波を介さずとも、四六時中、彼の思考を検閲し、行動を縛り付ける、見えない呪いだった。


「翔太、あなたのためを思って言っているのよ」


「私がいないと、あなた、本当に何もできないんだから」


「どうして、お母さんを悲しませるようなことばかりするの?」


一流企業に就職し、端から見れば順風満帆な人生。しかし、その内実は、母親が描いた設計図の上を歩かされる、意思のない操り人形だった。


朝、着ていくネクタイの色から、付き合う友人、果ては昼食のメニューに至るまで、佳代子の承認なしには何も決められない。決めようとすると、頭の中の声が鳴り響くのだ。


「そんなことをして、お母さんががっかりしたらどうするの?」という、罪悪感という名の警報が。


彼は、愛されているという実感を知らなかった。

彼が知っているのは、条件付きの承認だけだ。百点を取れば「よくできました」。

九十八点を取れば「なぜ、あと二点取れなかったの?」。

成功は母の手柄。

失敗は、すべて翔太の無能さのせいにされた。

彼は、母の機嫌を損ねないように、母が満足するように、ただ息を潜めて生きる術だけを身につけていった。


その日、事件は起きた。


翔太が担当していたプロジェクトで、彼のケアレスミスが原因となり、大きな損害が出た。上司からの厳しい叱責。同僚からの冷たい視線。そして、何よりも恐ろしかったのは、その夜、帰宅した彼を待ち受けていた、母親の尋問だった。


「一体どういうことなの!私の顔に泥を塗って!だから言ったでしょう、あなたはじっくり確認するということができない子だって!本当に、情けない!」


佳代子の甲高い声が、ナイフのように翔太の心を抉った。彼は、何も言い返せない。


ただ「ごめんなさい」と、床に向かって呟くことしかできなかった。

その夜、自室のベッドで、彼は暗闇に問いかけた。

(俺は、何のために生きているんだろう?)


答えはなかった。


ただ、頭の中で「お前はダメな子だ」という母の声が、エコーのように繰り返されるだけ。もう、限界だった。消えてしまいたい。この声が聞こえない、どこか遠い場所へ。


衝動的に、彼は車のキーを掴んでいた。夜中の高速道路を、当てもなく疾走する。涙で滲む視界の中、彼はただアクセルを踏み続けた。

気づけば、雨が降りしきる、見知らぬ山道にいた。

そして、まるで彼の心が力尽きたのを待っていたかのように、車はぷすん、と音を立てて止まった。


深い絶望と静寂の中、彼はハンドルに額を押し付けていた。そ

の時、雨に煙る霧の向こうに、ぽつり、ぽつりと朱色の光が灯っているのが見えた。


それは、連なる鳥居だった。まるで狐火の行列が、死に場所を探す彼を、どこかへ誘っているかのようだ。何かに憑かれたように車を降り、翔太はその光が続く石段へと足を踏み入れた。


苔むした石段、風にそよぐ笹の葉ずれの音、雨上がりの湿った土の匂い。デジタルなノイズと母親の声に汚染されていた感覚が、少しずつリセットされていく。鳥居をいくつもくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。

軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。


まるで、御伽噺の世界に迷い込んだようだ。躊躇する翔太の目の前で、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。


中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、まるで月の光そのものから生まれたかのようだった。

そして、その深い瞳は、翔太が分厚い心の鎧の下に隠している、幼い頃からの深い傷跡を、静かに見つめているようだった。


「ようこそお越しくださいました。ずいぶんと重いものを背負ってこられましたね。さあ、中へ」


女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。

その声には、彼の心の奥底まで届く、不思議な浸透力があった。


翔太は、生まれて初めて、誰かに自分の存在そのものを肯定されたような気がして、抗うことなく亭の中へと足を踏み入れた。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。磨き上げられた床柱、和紙を通した行灯の柔らかな光。それは、彼が今まで知らなかった、無条件の安らぎに満ちていた。


「お客様ですよー!」


「どうぞ、こちらへ!」


奥から、おかっぱ頭の女の子と活発そうな男の子が駆け寄ってきた。小春と秋彦と名乗った子供たちは、かいがいしく翔太の濡れた上着を預かり、囲炉裏のそばの座布団へと案内してくれた。その無邪気な笑顔は、常に人の顔色を窺って生きてきた翔太の心を、少しだけ、本当に少しだけ、解きほぐした。


「まずは、温かいお茶をどうぞ」


白雪に促され、翔太は湯呑みを手に取った。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先から、感覚を失っていた心へと広がっていく。添えられた菓子は、どんぐりの形をした、素朴な甘さのクッキーだった。


やがて運ばれてきた夕餉は、黄金色の出汁が美しい「きつねうどん」と、ふっくらとした「稲荷寿司」だった。一口すする。優しい出汁の味が、空っぽだった体に染み渡っていく。


美味しい、と素直に感じた。

だが、その瞬間、頭の中であの声が響いた。

「こんなところで油を売っていていいの?明日の仕事の準備はしなくていいの?」


途端に、うどんの味は消え、ただの熱い汁と麺の塊になった。翔太の箸が、ぴたりと止まる。


「……その声は、どなたの声ですか?」


囲炉裏の向こうから、白雪が静かに問いかけた。その瞳は、すべてを見透かしていた。


「貴方様の心の中から聞こえる声ですか?それとも、貴方様の頭の中に住み着いた、誰か別の人の声ですか?」


図星を突かれ、翔太は言葉に詰まった。彼は、いつものように自分を取り繕おうとした。


「いえ……なんでもありません。少し、考え事をしていただけです」


「左様ですか」白雪は静かに頷いた。


「ですが、貴方様は、ご自分の足で立っておられますか?それとも、誰かの操り人形でいることに、慣れてしまわれましたか?」


操り人形。


その言葉は、雷のように翔太の心を打ち抜いた。

そうだ、俺は、母さんの操り人形だ。ずっと、そうだった。


心の壁が、音を立てて崩れ落ちていく。気づけば、彼の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。それは、悔しさの涙か、悲しみの涙か、それとも安堵の涙か、彼自身にもわからなかった。


「僕……どうすればいいのか、わからないんです……」


嗚咽混じりに、言葉が漏れた。


「母の期待に応えないと、僕は価値のない人間だと思って生きてきました。母を悲しませることが、世界で一番悪いことだと思っていました。でも、もう……苦しいんです……息が、できない……」


彼は、子供のように泣きじゃくりながら、すべてを告白した。

テストの点数で一喜一憂させられたこと。

友人を「あなたに悪影響だ」と切り捨てられたこと。

自分の意見を言うたびに「恩知らず」と泣かれ、罪悪感を植え付けられたこと。「

私がいないと、あなた何もできないんだから」という言葉で、自信の芽をことごとく摘み取られてきたこと。


それは、愛情という名の、二十四年間にわたる、執拗な精神的虐待の記録だった。


白雪は、ただ静かに、彼の言葉を、彼の涙を、彼の魂の叫びを、その深い瞳で受け止めていた。

小春と秋彦が、そっと彼の両脇に座り、小さな手で背中をさすってくれた。その温かさが、彼の凍てついた心を少しずつ溶かしていく。


翔太が、すべてを吐き出し、泣き疲れて静かになった頃。


白雪は、静かに立ち上がると、奥から一つの古びた桐の箱を持ってきた。

箱の中には、一体の小さな木彫りの人形が納められていた。それは、手足も頭も、無数の細い糸で上につながれた、操り人形だった。


「これは『呪縛じゅばくの人形』。貴方様を縛り付けている、その見えない糸の正体を映し出すものでございます」


白雪は、人形に繋がる無数の糸の一本を、繊細な指先でつまみ上げた。


「この糸は『期待』。これに触れてごらんなさい」


翔太がおずおずとその糸に触れた瞬間、脳裏に鮮やかな記憶が蘇った。


小学校の運動会。一位でゴールした彼に、満面の笑みで駆け寄る母。「さすが私の息子だわ!」。

その時の高揚感。母に褒められたくて、認められたくて、必死で勉強し、走り続けた日々。


「では、こちらは」白雪は、隣のどす黒い糸をつまんだ。

「これは『罪悪感』という名の糸です」


触れると、胸が締め付けられるような記憶が溢れ出した。美術大学へ行きたいと、初めて自分の夢を口にした高校生の日。母は「そんなもので食べていけるわけがないでしょう!」と泣き崩れた。「お母さんをこんなに苦しめて、楽しいの!?」その言葉が、彼の夢を殺した。母を悲しませる自分は、悪い子なのだと、心の底から思った。


「恐怖」「義務」「無力感」「世間体」……。


白雪が指し示す糸に触れるたび、翔太は自分の心を縛り付けてきた、呪いの正体を次々と直視させられた。そのたびに、彼は苦しさに身をよじり、呻き声を上げた。


最後に、白雪はひときわ太く、金色に輝く糸をつまんだ。


「そして、これが最も厄介な『愛情』という名の、呪いの糸」


翔太がそれに触れた瞬間、温かい記憶が流れ込んできた。熱を出した夜に、一晩中そばで看病してくれた母の手。お弁当に、いつも好物を入れてくれた母の優しさ。それらは、紛れもない愛情だった。


しかし、その記憶の裏側には、常に「だから、あなたはお母さんの言うことを聞かなければならないのよ」という、見返りを求める声が聞こえた。


「う……ああああ……っ!」


翔太は、頭を抱えて叫んだ。愛情と支配が、毒のように混ざり合い、彼の心を蝕んでいたのだ。

白雪は、そんな彼の前に、小さな、錆びた裁ち鋏をそっと置いた。


「翔太様。その糸を断ち切るかどうかは、貴方様がお決めになること」


その声は、厳かで、しかし慈愛に満ちていた。


「ですが、覚えておいてくださいませ。糸を断ち切ることは、恩や愛情を捨てることではございません。それは、貴方様が、誰かの人形であることをやめ、一人の人間として、ご自分の足で立つための、聖なる儀式なのです」


翔太は、震える手でハサミを握った。


怖い。


この糸を切ってしまったら、母との繋がりがすべて消えてしまうのではないか。自分は、本当に独りぼっちになってしまうのではないか。


彼の葛藤を見透かしたように、白雪が語りかけた。


「本当の愛情とは、縛るものではなく、解き放つもの。翼を傷つけるのではなく、翼を与え、その子が自由に大空へ飛び立つのを、たとえ寂しくても、遠くから見守るものではございませんか?」


その言葉が、翔太の最後の躊躇いを打ち砕いた。


彼は、涙を流しながら、一本、また一本と、自分を縛り付けてきた糸を断ち切っていった。

「期待」の糸を。

「罪悪感」の糸を。

「恐怖」の糸を。ぷつり、ぷつりと、糸が切れる乾いた音が、静かな亭に響く。


最後に残ったのは、あの金色の「愛情」の糸だった。翔太は、深呼吸を一つすると、思いを込めて、その糸にハサミを入れた。


ぱちん。


その瞬間、人形は彼の腕からことりと落ちた。


そして翔太は、生まれて初めて、何にも繋がれていない、完全な「自由」を感じた。同時に、今まで感じたことのないほどの、途方もない「孤独」が彼を襲った。それは、雛鳥が、初めて自分の翼で飛ぶために、巣から突き落とされた瞬間の、恐怖と希望が入り混じった絶叫だった。


「うわあああああああああああっ!」


彼は、床に突っ伏し、ただ泣き続けた。二十四年分の悲しみと、苦しみと、そして、これから始まる人生への産声のような、激しい慟哭だった。


泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまった翔太は、夢を見た。


広大な、何もない野原に、自分が一人で立っている。

足元には、先ほど糸を切った、小さな木彫りの人形。

すると、人形はぎこちない動きで、ゆっくりと立ち上がった。

そして、一歩、また一歩と、自分の意思で歩き始めたのだ。

その姿は、おぼつかないけれど、どこまでも自由に見えた。



夜が明け、朝の光が障子を通して差し込んできた頃、翔太は目を覚ました。

驚くほど、体が軽かった。そして、何よりも、心が静かだった。あれほど執拗に鳴り響いていた、頭の中の母親の声が、嘘のように聞こえなくなっていた。


白雪との別れの時が来た。


「ありがとうございました」


心の底からの感謝を述べると、白雪は微笑み、一つの巻物を手渡した。広げてみると、それは、何も描かれていない、真っ白な地図だった。


「お代は、結構です。その代わり、これを差し上げましょう。それは貴方様の『これからの地図』。道は、まだどこにもございません。貴方様が、ご自分の足で歩いた跡が、やがて道となるのです。どうぞ、貴方様だけの、美しい地図をお作りくださいませ」


翔太は、その真っ白な地図を、震える手で大切に受け取った。


現実の世界に戻った翔太は、まず携帯電話の電源を切った。そして数日間、ただ眠り、歩き、空を眺めた。頭の中の声が聞こえない世界は、こんなにも静かで、広かったのかと知った。


一週間後、彼は会社に辞表を提出した。上司は驚いたが、彼の表情が、以前とは比べ物にならないほど穏やかで、力強いことに気づき、何も言わずにそれを受理した。


そして、彼は実家へ向かった。母親の佳代子は、いつものように彼を罵り、泣き落とし、コントロールしようとした。


「あなた、お母さんを捨てる気なの!この恩知らず!」


しかし、今の翔太には、その言葉はもう届かなかった。それは、ただの音の羅列にしか聞こえなかった。


彼は、初めて母の目をまっすぐに見つめ、静かに、しかしはっきりと告げた。


「お母さん、今までありがとう。育ててくれたことには、感謝しています。でも、僕はもう、お母さんのための人生は歩めません。これからは、僕の人生を生きます。さようなら」


初めて母親に背を向け、家を出た時、彼の背中には翼が生えたような気がした。


翔太は、都会を離れ、海辺の小さな町でアパートを借りた。貯金を切り崩しながら、アルバイトで生活費を稼いだ。

そして、子供の頃、母に禁じられていたギターを始めた。

最初は指が痛くて、コードも上手く押さえられない。

けれど、自分で選んだメロディを、自分の指で奏でる喜びは、何物にも代えがたいものだった。


時折、母親から罵倒と哀願が入り混じった長いメッセージが届いた。心が揺らぎ、罪悪感に苛まれそうになる夜もあった。


しかし、そんな時は、心の中の真っ白な地図と、白狐亭の囲炉裏の温かい光を思い出した。そして、ぎこちないギターを掻き鳴らすのだ。


一年が過ぎた頃、彼は地元の小さなライブハウスのステージに立っていた。観客は十数人。彼が歌うのは、決して上手くはない、けれど魂の叫びが込められた、彼自身の言葉で紡いだ歌だった。



『操り糸を断ち切って 初めて知った空の青さ

 傷だらけのこの翼で どこまで飛べるだろう

 道なき道を行く この足跡が地図になる

 さよなら昨日の僕 こんにちは明日の僕』



歌い終えた時、温かい拍手が彼を包んだ。


その中に、かつての会社の同僚が、少し照れくさそうに立っていた。

「お前、すげえいい顔になったな」。その言葉に、翔太は心の底から微笑んだ。


彼はもう、白狐亭を探しには行かないだろう。

あの場所は、最も暗い夜にだけ現れる、魂の避難所なのだから。


彼は知っている。白狐亭で断ち切ったのは、母との縁ではない。

母がかけた、そして自分が受け入れてしまった、「呪縛」だったのだと。

本当の縁は、これから自分の手で、自分の足で、結んでいくのだ。


夜空を見上げると、満天の星が輝いていた。


翔太は、ギターを抱きしめ、静かに呟いた。


「白雪さん、見てて。僕の地図、少しずつだけど、ちゃんと描けてるよ」


その声は、もう誰のものでもない、彼自身の、力強い声だった。

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