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心の箱庭 ~親友が置いていった一枚の地図。それは、引きこもりの俺を、星空へと誘う扉だった~

その部屋は、森下亮介もりした りょうすけの世界のすべてだった。


広さ六畳。壁際には、専門書や古典文学がぎっしりと詰まった本棚。床には、積み上げられた本の塔が、まるで墓標のように林立している。唯一、外の世界と繋がる窓は、分厚い遮光カーテンで閉ざされ、部屋の中は常に薄暗い。


亮介、二十八歳。この部屋から、もう五年、一歩も外に出ていない。


彼は、決して社会を憎んでいるわけではなかった。むしろ、その逆だった。真面目で、探究心が強く、かつては大学院で古代史を研究していた。将来は研究者か、あるいは博物館の学芸員として、自分の知識を社会に役立てたいと、本気で願っていた。


しかし、その夢は、指導教官からの執拗なアカデミック・ハラスメントによって、粉々に打ち砕かれた。彼の研究成果を横取りし、彼の存在そのものを否定するような言葉を、毎日浴びせ続けた教授。助けてくれる者は、誰もいなかった。


ある日、彼の心は、ぷつりと音を立てて切れた。

電車に乗れなくなった。人の視線が、刃物のように突き刺さる。外に出ようとすると、激しい動悸と呼吸困難、手足の震えが彼を襲った。パニック障害。医師の診断は、彼の心をさらに部屋の奥深くへと追い詰めた。


部屋は、彼を守るためのシェルターであり、同時に、彼を閉じ込める檻となった。

外に出たい。働きたい。もう一度、誰かの役に立ちたい。

その願いは、日に日に強くなるのに、体は、鉛のように重い恐怖に縫い付けられて、動かない。彼は、自分の心と体がバラバラになってしまったような、終わりのない地獄を生きていた。

そんな彼の世界に、唯一差し込む光があった。


親友の、佐藤健太の存在だ。

大学時代からの付き合いである健太は、亮介が引きこもってからも、見捨てることなく、週に一度、必ず彼の部屋を訪れた。


「亮介、いるか?食料、ドアの前に置いとくぞ」


「最近、面白い映画見つけてさ。今度DVD持ってくるな」


健太は、無理にドアを開けさせようとはしなかった。ただ、壁の向こう側にいる親友に向けて、一方通行の言葉を投げかけ続けた。亮介は、ドアの内側で、その声に耳を澄ませる。ありがとう、と心の中で呟き、同時に、こんな自分で申し訳ないという、激しい自己嫌悪に苛まれる。その繰り返しだった。


その日も、健太がやってきた。

「亮介、これ、置いとくぞ」


いつもと違う、少し弾んだ声。ドアの前に置かれたのは、食料の袋と、一つの小さな、桐の箱だった。

健太が去った後、亮介は、震える手でその箱を部屋に引き入れた。中に入っていたのは、古びた羊皮紙のような紙に描かれた、一枚の地図と、一通の手紙だった。


『亮介へ。

古本屋の親父に、面白いものをもらったんだ。なんでも、霧深い夜にだけ現れる、不思議な茶屋があるらしい。その地図だそうだ。馬鹿げてるって思うだろ?俺もそう思う。

でも、もし……万が一、お前が心の底から、本当にこの状況を変えたいと願うなら、この地図が、何かを教えてくれるかもしれない。

無理は絶対にしないでくれ。でも、俺は、いつだってお前のことを信じてる。

健太』


地図には、インクで描かれた、見慣れない山の絵。そして、その麓に、朱色の鳥居の印が記されていた。地図の隅には、古風な文字で、こう書かれていた。


『心が迷子になった夜にだけ、道は開かれる』


馬鹿げてる。非科学的だ。

亮介は、そう思った。しかし、その地図から、目が離せなかった。健太の「信じてる」という言葉が、彼の心の、固く錆びついた扉を、ほんの少しだけ、軋ませたのだ。




数日後の夜。テレビの天気予報が、珍しく「今夜半から、山間部では深い霧が発生するでしょう」と告げていた。

その瞬間、亮介の心臓が、大きく脈打った。

行きたい。行かなければ。


その衝動は、しかし、すぐに巨大な恐怖の波に飲み込まれた。

怖い。外が、怖い。一歩でも出たら、またあの発作が。

彼は、部屋の中を、檻の中の獣のように、ぐるぐると歩き回った。葛藤が、彼の精神をすり減らしていく。


ふと、机の上の地図が、月明かりを受けて、淡く光ったように見えた。

『信じてる』

友の声が、蘇る。


亮介は、意を決して、五年ぶりに、玄関のドアノブに手をかけた。

冷たい金属の感触。回す。ぎ、という嫌な音がする。

ドアを、数センチ開けた。


その隙間から、流れ込んできた、外の生ぬるい空気。

途端に、世界が歪んだ。心臓が、破裂しそうなほど速く鼓動し、呼吸ができなくなる。手足が、意思とは関係なく、がくがくと震え始めた。


「……っ、は……ぁ……っ!」

だめだ。やはり、無理だ。

床に崩れ落ちそうになった、その時。


彼は、ポケットに入れていた地図を、強く握りしめた。紙の感触が、不思議と彼を現実に繋ぎ止める。

これは、健太が繋いでくれた、最後の蜘蛛の糸だ。

これを手放したら、俺は、本当に、二度と外には出られない。


彼は、這うようにして、一歩、家の外に足を踏み出した。それは、彼にとって、人類が月に降り立った第一歩よりも、遥かに遠く、困難な一歩だった。

霧の中、彼は、ただ地図が示す方角へと、夢遊病者のように歩き続けた。どうやってそこまでたどり着いたのか、記憶は曖昧だった。ただ、気づいた時、彼は、朱色の鳥居が連なる、苔むした石段の前に立っていた。


鳥居をくぐり抜けた先、霧の中に浮かぶようにして、一軒の古民家が静かに佇んでいた。軒下には「白狐亭」と書かれた木の看板と、淡く揺れる提灯。


彼が、その光景に立ち尽くしていると、からん、と涼やかな音を立てて、格子の引き戸が静かに開いた。

中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性だった。雪のように白い肌、銀糸を束ねたような髪。白い着物をまとったその姿は、この世のものとは思えなかった。そして、その深い瞳は、彼が踏み出した、その血の滲むような一歩の価値を、すべて理解しているかのように、慈愛に満ちていた。


「ようこそお越しくださいました。その一歩は、何よりも尊い、勇気の証でございますね。さあ、中へ」

女は白雪しらゆきと名乗り、亭の女将だと告げた。その声には、彼の極度に緊張した心を、そっと解きほぐすような、不思議な力があった。


亭の中は、囲炉裏の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが響く、温かい空間だった。


「お客様ですよー!」


「まあ、どうぞこちらへ!」


小春と秋彦が、かいがいしく彼を囲炉裏のそばへと案内する。


食事として出された「きつねうどん」の、優しい出汁の味が、何年も機能していなかった彼の味覚を、ゆっくりと呼び覚ましていく。美味しい、と感じた。ただ、それだけのことが、奇跡のように思えた。


彼は、白雪に、ぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。外の世界が怖いこと。でも、外に出たいと、強く願っていること。そして、そんな自分を、見捨てずに支え続けてくれる、たった一人の友人がいること。


「私は、臆病者です。彼の優しさに甘えて、何も返せない、価値のない人間です」


「いいえ」

白雪は、きっぱりと否定した。


「貴方様は、臆病なのではございません。心が、あまりに優しく、繊細すぎただけ。そして、貴方様を守るために、その心は、自ら部屋に鍵をかけたのです。それは、賢明な判断でした」


そして、白雪は続けた。

「ですが、その部屋は、いつしか貴方様を閉じ込める、檻にもなってしまった。貴方様は、その檻の、たった一つの扉だけを見つめ、その扉が開かないことに、絶望しておられる」


白雪は、静かに立ち上がると、奥から一つの精巧な、木製の箱庭を持ってきた。


亮介は、息を呑んだ。

それは、彼の六畳の部屋と、寸分違わぬミニチュアだった。本棚の並び、床に積まれた本の塔、そして、固く閉ざされた遮光カーテンまで。箱庭の中には、背中を丸めて座る、小さな彼の人形が置かれていた。


「これは『心の箱庭』。貴方様の心そのものでございます」


白雪は、亮介の手に、一つの、小さな、星の形をした取っ手のついた「扉」の模型を乗せた。


「さあ、この扉を、貴方様が『ここなら出られる』と思う場所に、つけてごらんなさい」

亮介は、箱庭の中を見つめた。


現実の部屋の「玄関のドア」。そこは、恐怖の象Cだ。そこに、この扉をつけることは、どうしてもできなかった。


彼は、箱庭の中の、小さな自分を見つめた。その人形は、窓の方を向いていた。

窓……。

彼は、箱庭の、固く閉ざされたカーテンに、そっと手を触れた。そして、ゆっくりと、そのミニチュアのカーテンを開けてみた。


すると、窓の外には、暗闇ではなく、満天の星空が、ジオラマのように広がっていた。それは、彼がかつて、祖父の家で見た、降るような星空だった。

そうだ。僕はずっと、玄関という、一つの出口しか見ていなかった。

でも、出口は、一つじゃなかったんだ。


彼は、決意を固めると、箱庭の「窓」に、その星形の扉を、そっと取り付けた。

その瞬間。

箱庭の窓の扉が、ゆっくりと、内側から開いた。

そして、その隙間から、星屑のような、柔らかく、温かい光が溢れ出し、薄暗かった箱庭の部屋全体を、優しく照らし出した。


「おわかりになりましたか」

白雪の声が、静かに響いた。


「扉は、一つとは限りません。恐怖に閉ざされた扉が開かぬなら、希望へと繋がる、別の扉を探せばよいのです。貴方様の心は、決して袋小路ではございません。いつだって、貴方様が望むなら、星空へと繋がっているのですから」


友人との、手紙やメールのやり取り。

インターネットで見つけた、興味のある論文。

窓から聞こえてくる、鳥の声。


それらすべてが、外の世界へと繋がる、小さな、小さな「窓」であり、「扉」だったのだ。自分は、「社会復帰」という、あまりに大きな、重たい扉だけをこじ開けようとして、絶望していただけなのだ。

亮介の目から、温かい涙が、静かにこぼれ落ちた。それは、五年ぶりに流す、希望の涙だった。





朝が来た。


白狐亭を去る時、亮介は白雪に深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。僕……僕だけの扉を、見つけました」


「お代は結構です」白雪は微笑んだ。

「その代わり、お願いがございます。貴方様が見つけた、その小さな扉を、どうか大切になさい。焦る必要はございません。時には、窓から星を眺めるだけで、一日が終わってもよろしい。貴方様の歩幅で、ゆっくりと、世界と再び繋がっていけばよいのです。そして、いつか、貴方様を信じ続けてくれた、たった一人の友人に、心からの『ありがとう』を、伝えてあげてください」




現実の世界に戻った亮介は、すぐには外に出られなかった。


しかし、彼は、まず、自分の部屋の、あの分厚い遮光カーテンを、勢いよく開けた。

五年ぶりに差し込んだ朝日は、あまりに眩しく、彼は目を細めた。部屋の埃が、光の中でキラキラと舞っている。生きている、と思った。


次に、彼はパソコンを開き、健太に、何年ぶりかのメッセージを送った。

『健太、ありがとう。地図、ちゃんと受け取ったよ。俺、もう少しだけ、頑張ってみる』


数秒後、すぐに返信があった。画面が、着信で震える。電話だった。

震える手で、通話ボタンを押す。


「……もしもし?」


『亮介かっ!亮介なのか!?』

電話の向こうで、親友が、声を詰まらせて泣いていた。


「……ああ、俺だ。健太、ごめん。そして、ありがとう」

僕らは、それ以上、まともな会話はできなかった。ただ、電話越しに、二人で泣いていた。

その電話が、彼にとっての、新しい「扉」の、第一歩だった。


彼の社会復帰は、焦らない、ゆっくりとしたものだった。

まずは、ベランダに出ること。次に、深夜、人のいない時間に、アパートの周りを一周すること。そして、数ヶ月後、彼は、健太と、近くの公園で会う約束をした。


五年ぶりに、太陽の下で会う親友は、少しだけ老けて、でも、昔と変わらない、優しい笑顔をしていた。

僕らは、たくさんの話をした。空白の五年を埋めるように。


亮介の旅は、まだ始まったばかりだ。

彼が、昔のように、満員電車に乗れる日は、まだ遠いかもしれない。

でも、彼はもう、孤独な檻の中に、閉じ込められてはいない。


彼の心には、いつでも外の世界へと繋がり、満天の星空を見渡せる、美しい窓が開いているのだから。

そして、その窓の向こうには、いつも、自分を信じてくれる親友の笑顔が、一番星のように、輝いているのだから。

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