ひよっこ作家の悲しみ
夜の駅前商店街は、歳末の賑わいで、何時もより人出で、ごった返していた。内山英吾は大学を卒業してから、5年ほど会社勤めしたが、勤めた会社が中小企業で、親会社から訳の分からぬ男が左遷されて来て、いばりまくったりしたので、会社を辞めた。今は上司にいじめられることも無いアルバイト生活。アパートでの一人暮らし。好きな文筆でわずかな収入を得て暮らす糊口の毎日。一日の大半を同人誌『星座』に載せる小説や、出版社の発行する雑誌の埋め草原稿の執筆に費やす。アパートの部屋の机の前に座って過ごす生活。そんな日々を暮らす英吾は師走の夕方、セーターの上にマフラーひとつで、気晴らしの為、賑やかな通りに出た。雪が降って来るかもしれないので、安物のビニール傘を手に持って歩いた。彼の脳裏は、年末までに書き上げねばならぬ原稿のことで、頭がいっぱいだった。主軸となるテーマが浮かんで来ず、街をほっつき歩くことにした。街をほっつき歩けば、何かヒントが得られるだろうというのが、街に出た理由だった。雪でも降って来たら帰ろうという考えだった。それまでに何か話のタネでも見つかればと思うのであるが、そう簡単に新鮮なテーマなど見つかりはしない。通りを雑踏にもまれ、端から端まで歩いた。コンビニエンスストア、パチンコ店、時計メガネ店、御茶屋、とんかつ屋、写真店、花屋、焼肉屋、薬局、パン屋、カメラ店、掘出物屋、不動産屋、整骨院、寿司屋、靴屋、酒屋、印房店、漢方薬店、ラーメン屋、喫茶店、洋服店、歯科医院、デスカウントショップ、古美術店、和菓子屋、フルーツ店、古本屋、麻雀屋、化粧品店、家具店、電気製品店などなど、いろんな商店がずっと続いていて、その通りを、大人や子供たちが、目を輝かせ歩いていた。なのに英吾に物珍しいものは何一つ無かった。更に歩くと商店街は途切れて、料亭などが見えて来た。松の古木が料亭の庭の灯篭のなどの灯りを受けて歴史を誇っていた。英吾が自分には関りない所だと、その前を通過すると、銭湯があり、その周辺が飲み屋街になっていた。そこには、ちょっとした原稿料が入ると、時折、英吾が顔を出す、馴染のスナックがあり、自然と、そっちの方へ、足が向いていた。小説のテーマ探しが最もな理由でではあるが、本心はそこのスナック『夜汽車』に行って寛ぐことであった。スナック『夜汽車』には弓岡桃子というママの他に、月子と夕子がいて、飲み代も、それ程、高くなかった。英吾が貧相な身なりをしているものだから、ママの桃子が何時も安くしていてくれていた。『夜汽車』のドアを開けると、カウンターの中にいる桃子ママが微笑した。
「いらっしゃい」
するとママの声に合わせるように、年寄客2人と月子と夕子と真理が振り返った。そこには老若男女が寄合い、語り合い、内面を曝け出す温もりがあった。英吾は、そんな『夜汽車』の雰囲気が好きだった。誰かと語り明かしたいなどという程ではないが、人恋しかった。桃子ママはカウンターの片隅の椅子に何時ものように座るよう英吾に指示した。その場所は英吾の指定席みたいなものだった。脇にはプラスチックケースやダンボール箱などが置かれ、そのちょっと上で扇風機が回っていた。桃子はメカブと長芋の突き出しと焼酎のお湯割りを英吾の前に出しながら、優しく言った。
「もう締め切り近いんでしょう。こんな所に来ていて良いの?」
「良い訳が無いんだけれどね。筆が進まないので、ちょっと飲みに来た」
英吾は、そう答えて桃子ママを見詰めた。この経験豊富な桃子なら、何か小説のテーマになるきっかけを提供してくれるに違いないと今日も思った。若い英吾に見詰められると桃子は、少し照れ臭そうにして、英吾にオデンを出してくれた。それからママ中心の世間話が始まり、英吾も、それに加わった。片隅で飲んでる英吾を見て、年寄り2人が、夕子をからかった。
「若いって良いね。女にもてて。夕子、彼の隣に行きたいのだろう」
「そんな」
「そう思っていても、はい、そうですとは言えないよな」
「池田社長の馬鹿!」
夕子は池田老人の肩を叩くと、突然、立ち上がり英吾の隣の椅子に移動して座った。英吾は緊張した。その様子を見て、もう1人の北沢老人が、ニヤニヤして英吾に質問した。
「何時も、そうして静かに飲んでいるけど、内山さんて独身ですか?」
「独身よ」
英吾の代わりに桃子ママが答えた。それを聞いて北沢、池田の両人は何を納得したのか、頷き合った。それからまた北沢老人が下品な発言をした。
「内山さん。ここの月子も真理も夕子も、すまし顔をしてるけど、結構、男を騙しているから、気を付けろよ」
すると月子たちが、ちょっと怒った顔をして反論した。
「まあ、北さんて酷い。私たちが男を騙してるなんて、失礼ね」
「そうよ。だから北さん、女性に嫌われるのよ」
「それに内山さんは、私たちが誘っても、乗って来ないわ」
そんな会話を耳にしていると英吾も楽しい気分になった。池田社長も冗談が好きだった。
「ほほう。誘っても乗って来ないか。俺たちなら誘われたら直ぐ上に乗っちゃうけどな。北さん」
「うん。ラッキーってな」
英吾は、お客とホステスの話を、焼酎のお湯割りを飲みながら、黙って聞いていた。池田老人はママと向き合って、薄ら笑いを浮かべている英吾に興味があるのか、当然、テーブル席から離れ、夕子の隣から手を伸ばし、英吾の肩を突っいて言った。
「内山さんよ。女を引っ掻けるのは魚釣りと同じさ。初めは餌をまいて、音無しの構えで、じっと竿を下げているんだ。そして魚が餌に食いついたのを確かめてから、竿を上げるんだ。魚が餌に食いつくまで、じっと待つんだ」
英吾は、その言葉に反応しない訳にはいかなかった。
「待つしかないのですか?」
「そうだよ。待つしかない。辛抱するんだ。分かるかな。辛さを堪えるんだ。心で棒を抑えるんだ。それが俺の言う心棒だ」
「成程」
うまい冗談を言う池田老人に英吾は感心した。流石、社長だ。池田老人は尚も続けた。
「ところがだ。今の若い男は、そういった我慢が出来ないんだ。良い女を見ると直ぐに興奮して、最初から、竿が上がっている。それじゃあ魚はひっかからない。竿は下げておくものだ。やりてえのが見え見えだから、女を釣ることなんか出来ねえってもんだ」
それを聞いて、一同がドッと笑った。池田社長の話は面白かった。英吾は、その話をちょっとメモした。桃子ママが、それを見ていた。英吾はきまりが悪そうに桃子ママに言った。
「私たち若い者は、年長者の言葉を手本にしないといけないと思って」
そう言い訳する英吾を見詰め、桃子ママが妖しく笑った。
「そうよ。私を含め年長者は、沢山の事を経験しているんだから」
ママの言葉に池田重吉と北沢安雄が同調した。
「そうだ、そうだ。若者は戦争を経験した俺たちを見習わんといけんよ」
英吾は苦笑した。そして次の客が入って来ると、スナック『夜汽車』から、そっと退散した。外は今にも雪が降って来そうな師走の夜だった。
〇
英吾はアパートに戻ると、早速、階段を上り、2階の自分の薄暗い部屋の中で、机に向かった。今日、スナック『夜汽車』で仕入れた老人、2人の話を原稿にすることにした。これで年末までに書き上げねばならぬ原稿のペンが進みそうだ。大学生時代は小説のアイディアが泉が湧くように次から次へと溢れ出て来たものだが、物書きになると、そういったアイディアが思い浮かばなくなり、自分の思考能力が枯渇してしまったのではないかと、怖くなったりすることが、しばしばである。今日も、あの老人2人に助けられなかったらと、どうなっていたかと思う。英吾は今日、体験したことを拡大して、原稿用紙になぐり書きした。四百字詰め原稿用紙が次から次へと埋まって行く。実に調子が良かった。部屋にある暖房器具は電気コタツしかなかったが、コタツにも入らず、寒い部屋の中で、机にしがみつき夢中になってペンを走らせた。部屋は実に静かで、ペンを走らせる音と、原稿用紙をめくる音しか聞こえなかった。外では雪が降り始めたのだろうか、いやに静かなのだ。原稿用紙10枚ほど書いたところで、一休みした。その時、アパートの階段を誰かが上って来る音が聞こえた。こんな夜遅く、誰が帰って来たのだろうか。機械メーカーに勤めるサラリーマンだろうか。新宿でアルバイトをしているという大学生だろうか。それともラーメン屋の兄ちゃんか。ところが、その足音は2階の一番端にある英吾の部屋の前までやって来て止まった。誰かが部屋の入口のドアを軽くノックした。英吾は恐る恐る覗き穴から、外にいる人物が誰であるかを確認した。そこにはパッチリ目を見開いて、こちらを見ているスナック『夜汽車』のママ、弓岡桃子の顔があった。英吾は唖然とした。一瞬、戸惑った。忘れ物でもしたのだろうかと、慌ててドアを開けると、桃子ママが粉雪と一緒に部屋に舞い込んで来た。
「良かった。いてくれて」
「どうしたんですか?」
「ごめんなさい。これ食べていただこうと思って。お客さんから『トン吉』の味噌カツをいただいたの。月子も夕子も、肥るから要らないっていうから」
「わざわざ有難うございます」
「貴方、余り食べていないのじゃあないかと思って。奥に入るわね」
桃子は、そう言うと、自分の家に入るかのように英吾の部屋に入ると、自分のバッグを部屋の片隅に放り投げた。そして『トン吉』の味噌カツの入ったプラスチック容器を入れた紙袋をコタツの上に置いて笑った。
「まだ寝ないで小説書いていたのね」
「はい」
「起きていて良かったわ。『トン吉』の味噌カツ、美味しいのよ。温かいうちに食べましょう」
桃子は紙袋から、味噌カツの入ったプラスチック容器をコタツ板の上に取り出すと、割り箸を英吾に渡した。それからプラスチック容器の蓋を開けた。すると、味噌カツの何ともいえぬ匂いが部屋に充満した。その味噌カツを桃子が一つ箸でつまみ、英吾の口元に差し出した。英吾は、ああんと大きく口を開け、それを口に入れた。程よい大きさと味噌の甘さが、何ともいえず、口の中がとろけそうになった。
「うん。美味しい。とっても美味しい」
「そうでしょう。『トン吉』の味噌カツ、美味しくて有名なのよ」
そう言ってから桃子が味噌カツを口にして微笑んだ。
「食べて。食べて」
2人は夢中になって、『トン吉』の味噌カツを食べた。その後、英吾は慌てて、御茶を淹れた。湯呑を桃子に手渡し、味噌カツの礼を言った。
「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「喜んでもらって良かったわ。うふふ・・」
桃子は、そう笑ってコタツに入ったまま動く気配を見せなかった。英吾は次の言葉に窮した。どうしたら良いのか分からなかった。息がつまりそうだった。そんな英吾を見て、桃子が笑った。
「何、怖がっているのよ。馬鹿ねえ。それじゃあ、良い小説なんて書けないわよ」
英吾は今の精神状態を桃子にからかわれ、その恥ずかしさの為、身体の芯が、カッと熱くなって来るのを覚えた。
「何も怖がってなんかいませんよ。ただ外で雪が沢山、降っているんじゃあないかと気になって」
「そうね。この分じゃあ、止みそうもないわね。私、泊まって行こうかしら」
桃子は下から英吾の顔を覗き見しながら、微笑した。英吾は、どう答えて良いのか分からず、狼狽して答えた。
「でも、ここには布団がひとつしかないし、寒いから」
「そんな冷たいこと言わないで」
「しかし」
英吾は困惑した。その戸惑う英吾の手を取り、桃子が耳元でささやいた。
「味噌カツ、美味しかったでしょう。私も美味しいのよ」
桃子の化粧の香りが、英吾を甘く包んだ。胸の動悸が高鳴り、英吾の下半身で、欲望が膨れ上がった。気づいた時には桃子の舌が、蛇の舌のように、英吾の口の中に割り込んでいた。長い接吻の後、英吾は桃子と、そのまま重なった。桃子がからかうように言った。
「私、裸になっちゃうね」
彼女はあっけらかんとしてスカートの中の物を脱ぎ去ると、英吾の前で、スカートをまくった。英吾は小さく息をのんだ。黒い陰毛に覆われた桃子の花園が、まるで紅い唇のように美しく開いて、英吾を誘った。流石の英吾も、もう我慢出来なかった。据え膳食わぬは男の恥。快楽の花園は芳香を放ち、英吾を誘い込む。英吾は恐れた。何処に落とし穴があるか分からない。桃子、そのものが落とし穴になっているように感じられたが、もう、そんなことなど、考えていられなかった。英吾は恐ろしい桃子の深い落とし穴にはまっていった。
〇
スナック『夜汽車』のお陰もあって、年末までに書き上げる約束の原稿は、年末ぎりぎりに出来上がった。作品はちょっとエロチックな短編で、一般の読者に喜ばれそうな内容になった。タイトルは『夢みたいな話』と題し、陰でしか語れないような話題を幾つか組み合わせしている。ネタは言うまでもない。スナック『夜汽車』の年寄り客の話や、桃子ママや、月子や夕子たちとの雑談の中から得た際どい話ばかりである。これらの原稿は編集長に好まれた。自分の文章が読者に受けるのは、生活費を得る為には有難いことであるが、英吾の内心は、それだけでは、ちょっと寂しかった。英吾が本来、書きたい作品は、青春の苦悩と挫折を主題にした純文学作品だ。英吾は、そんな純文学作品を、文芸誌の新人文学賞の募集に何度か投稿したが、一度として取り上げられることが無かった。同人誌『星座』の仲間で、雑誌社のコピーライターをしている黒木洋介は悩む英吾に創作内容を転向するよう勧めた。
「君の作風は同人誌に載せている作品より、娯楽雑誌に載せている方が人間味があって、俺は好きだな。君が『星座』に投稿する作品は純粋潔白すぎる。その為、幼稚っぽく取られてしまう。それじゃあ君の才能が生かされなくて損だよ。もっと汚い世界を書けば、成功するよ」
「でも俺は青春の苦悩と挫折を書きたいんだ」
「それがいけないんだ。高校生の作品に毛が生えた程度にしか評価されないんだ。青春の甘ったるい純情小説を、よくもまあ、飽きずに書いていられるものだ。もう、そういった作風は古すぎるよ。若い男も女も、そんな甘い感傷作品には跳びつかないよ。もっと猥雑で退廃的作品を書かないと」
黒木洋介の言う通りかもしれなかった。最近の文学賞の受賞作品は、奇抜で危険なものばかしで、純文学作品らしきものは、全く影をひそめてしまっている。
「どうしたら良いのかな」
「頭からドイツ文学を消去するんだな。かってイギリス文学者の篠田一士が、ドイツ文学を嘲笑ったことがある。ドイツ文学には幼児性があると言って・・」
「そんな酷い事を」
英吾は黒木の発言に、ちょっと立腹した。しかし黒木は、そんな英吾のことなど気にせず、更にドイツ文学についてケチをつけた。
「君の小説はドイツ文学を専攻した所為で、死ぬまで子供じみたエゴイズム作品を書きまくった、あのゲーテやヘルマン・ヘッセ、シュトルーム、マンといった連中の作風に感染してしまっているのだ。このことは君だけではない。柴田翔も柏原兵三も古井由吉らドイツ文学出身者たちに共通した問題点だ。この甘さや幼児性から脱却しないことには、君の小説は陽の目を見ないと思うな」
この黒木の指摘は尤もなことかもしれなかった。英吾は今まで同人誌『星座』に発表して来た自分の作品を振り返ってみた。それは他人を他人の立場から考えて描写する手法をとっているが、実は自分を自分の目で眺めている過剰な自意識の繰り返しの寄せ集めだった。英吾は年末の孤独な部屋の中で、黒木洋介の言っていることは当たっていると思った。この自意識を捨てない限り、文学賞を受賞することは出来ない。内山英吾が、内山英吾独自の新しい小説世界を構築するには、自分を他人の目から見るという冷徹さがなければならない。自分への甘い感傷は、マイナスなのだ。それにしても年末の『月光荘』の部屋でじっとしている孤独は、侘しすぎた。アパートの住人のほとんどが帰省したか、旅行に出かけたかで、アパートはひっそりしていた。こんな時にこそ、スナック『夜汽車』のママ、桃子が、やって来てくれないかと思ったりした。あの淫蕩な桃子の微笑と豊満な肉体が脳裏に浮かんだ。今夜、もし桃子が、この部屋に現れたらどうなるのだろうか。英吾は妄想を文章にした。
*彼女に誘惑されたら、どうしたものか。多分、俺は勇気を振り絞り、狼となって、彼女に挑むであろう。俺は彼女の肉体を求め、彼女はまるで子供を可愛がるように、俺を奥へ奥へと導くだろう。奥へ奥へという感覚。紅く燃えた花芯に向かって花びらを一枚一枚、掻き分けて行く感覚。右に左に身体をくねらせ、奥へ奥へともぐりこんで行く感覚。それは、どんな快感であろう。きっと息もつけない程、苦しく遣る瀬無い快感に違いない。奥の奥。奥のまた億。その花芯の密房に浸るまでの行程は、気が遠くなる程、輝かしく、まばゆく、素晴らしいに違いない。俺は彼女に裸のまま抱かれて死にたい・・・*
英吾は想像しただけで、窒息してしまいそうになった。何という晦日であることか。英吾は興奮を抑える為、テレビのスイッチをひねった。テレビは紅白歌合戦で盛り上がっていた。華やかな衣装を着て、男も女も、歌い、踊り、熱狂していた。振り返れば、苦しい彷徨の1年だった。どんなに努力しようとも、他人に称賛されるような作品を生み出すことが出来ず、ひたすら生活の為に、雑文を書き続けて来た1年であった。その1年が、ようやく終わるかと思うと、何故か空しい気がした。自分は何故に生きているのか。こんな生き方をしていて良いのだろうか。
〇
新しい年、昭和46年(1971年)を迎えた。しかし、新しい年が始まったという感じがしない。古いおんぼろアパート『月光荘』の2階の薄汚い部屋の中で、何もすることがない。テレビのスイッチをひねっても、馬鹿馬鹿しい番組ばかり。小説を書こうという気も起らない。そんなところへ電話が入った。管理人の小母さんが、1階の階段下から、英吾の名を呼んだ。
「内山さん。電話ですよ。内山さん、電話ですよ」
その声に英吾は、ハーイと答えて、階段を駆け降り、1階の管理人室の窓口にある電話機の受話器を取った。
「お待たせしました。内山です」
「ああ、英吾さん。明けましておめでとう。何してる。私、今、上野駅に着いたところ。これから、そっちへ行っても良いかしら」
「えっ。珠ちゃん」
「そうよ。珠美よ。東京に来たの」
「ああ、珠ちゃん。おめでとう。東京へ来たんだ。なら目黒駅で会おう。目黒駅まで、迎えに行くよ」
「ありがとう。じゃあ、目黒駅で待っててね」
電話の主は幼馴染みの国島珠美だった。何と無茶な女だ。英吾の都合も確認しないで、上京して来るとは。英吾には黙って会いに来る珠美の気持ちが分からなかった。英吾の田舎では、正月には親戚縁者が集まり、互いの安否を確認し、懇親を深める慣習があるのに、それをほったらかして、東京にやって来るとは。東京に、そんなに魅力があるのだろうか。英吾は時計で時刻を確認し、セーターの上にジャンパーを羽織り、アパートから目黒駅まで歩いた。40分程して改札口に行くと、もうそこに珠美が立っていた。彼女はベージュ色のコートにレンガ色の襟巻をして、不安そうな顔をして立っていたが、英吾を発見すると、直ぐに晴れやかな顔になった。
「英吾さん。おめでとう。突然、ごめんね。会いたくなったから、来ちゃった」
「おめでとう。相変わらず、いい加減だね」
「だって英吾さん、田舎に帰って来ないんだもの」
珠美の言葉に英吾は頭を掻いた。両親や兄弟の顔を見に帰りたいところであるが、先立つものが無いから、帰れないでいるのだ。
「昼飯は、まだなんだろう」
「まだよ。でも英吾さんの為に、お節料理持って来たから、英吾さんのお部屋で食べましょう」
「それは有難い。その前に初詣して行こうか」
「はい」
2人は目黒駅から坂道を下り目黒川の畔にある大鳥神社へ初詣に出かけた。大鳥神社は和服を着たり、新調した洋服を着た老若男女が、旧年の感謝を伝え、新年の幸運を祈願する参拝をしていた。それらの人たちと同じように、英吾と珠美も1年の幸運を祈願した。参拝を終えてから、珠美が訊いた。
「英吾さん。何を祈ったの?」
「良い作品を書けますようにって」
「私、早く英吾さんが新人賞を受賞するように祈ったわ」
「ありがとう。自分の事は、お願いしなかったの?」
「それは秘密」
珠美は可愛く笑った。2人は大鳥神社から、英吾のアパートまで20分程、歩いた。風が冷たかったが、2人で話していると、寒さなど気にならなかった。『月光荘』に到着し、部屋に入るや、英吾はお湯を沸かし、電気コタツのスイッチをひねり、珠美を座らせようとした。しかし珠美はベージュのコートを脱ぐと、ピンク色のセーターの腕をまくり、直ぐに小さな台所に向かった。台所の棚に置いてある小鍋を取り出し、持参した小瓶のお雑煮のだし汁に水を加えて、里芋や人参、鶏肉、しいたけなどと一緒に煮た。それから切り餅や三つ葉、かまぼこの準備をした。その珠美の後姿を見て、英吾は良からぬことを考えた。
〈 珠美を裸にしたら、どんなだろう。セーターを脱がせ、ブラジャーを外し、スカートを降ろし、パンティ一枚になった珠美の姿。それはどんな感じだろう。珠美は恥ずかしがるだろうか。それとも、待ってましたとばかり、俺に従うだろうか。俺が抱こうとしたら、彼女は泣いてしまうのではないだろうか?〉
しかし、それを行動に移す勇気は無かった。珠美はちょっとの間にお雑煮を作り、コタツ板の上に持参したお節料理を並べ、お屠蘇の準備を済ませ、お雑煮のお椀を前後に置くと、嬉しいそうに言った。
「さあ、いただきましょう」
2人は日本酒で新年を祝い、お節料理を食べた。英吾の脳裏に故郷の正月が蘇った。珠美はお節料理を口にする英吾を見詰めて言った。
「まるで新婚さんみたいね」
珠美が、そう言って笑ったので、英吾は微笑み返し、ただモグモグとおせち料理を食べた。珠美がまた喋った。
「新人賞、受賞出来ると良いわね」
「うん」
「何時になるのかしらねえ」
「スタンダールの『恋愛論』は刊行されてから10年間で、たった15部しか売れなかった。それを思えば、俺の作品が評判を得るまでには、まだまだ何年もかかる」
「私、お婆ちゃんになっちゃうわね」
珠美は明るく笑った。実に楽天的な笑顔だった。彼女は何を考えているのだろうか。東京の生活に憧れているのであろうか。それとも、英吾との結婚でも考えているのだろうか。
「お婆ちゃんに、なっちゃうか。でも、その前にいろいろすることがあるだろう。結婚とか子育てとか」
「そうよ。珠美には、これからすることが沢山あるのよ。まずは結婚しないとね」
「そうだな。良い旦那、見つけろよ」
英吾は他人事のように言った。全く分かっちゃあいない。珠美は英吾と結婚したいと思っているのだ。英吾より素敵と思う男性が現れたなら、既に結婚しているだろう。しかし英吾にとっての珠美は、隣の家の珠美であり、まるで家族の一員のような存在でしかない。だから、彼女が自分の部屋で一泊しても、何も気にすることは無かった。そして翌日には渋谷のデパートに買い物に出かけ、彼女に紺色のブレザーを買ってもらった。英吾はなけなしの金で、珠美にネックレスを買ってやった。英吾と珠美は同じ年齢であったが、珠美は幼い時から英吾の姉さん的存在だった。珠美は渋谷のデパートで沢山の買い物をすると、田舎へと帰ると言った。英吾は珠美の荷物を持って、山手線の電車に乗り、上野駅まで、彼女を送って行った。
〇
正月も5日を過ぎると、会社勤めの人たちが動き出し、英吾の日常にも普段の雰囲気が戻って来た。英吾は神田にある出版社『文永社』の娯楽雑誌『文芸夜話』編集部の西村雄一デスクに、新年の挨拶の電話を入れた。
「明けまして、おめでとう御座います。本年もよろしくお願いします」
「おお、内山先生。こちらこそ、よろしく」
西村雄一は『M大学』文学部の先輩で、同人誌『星座』の同人、藤森博之とも親しく、英吾に目を掛けてくれていた。西村は英吾からの電話を待っていたらしく、明るい声で英吾を迎えてから、英吾に伝えた。年末に提出した『夢みたいな話』が、読者の好評が得られそうなので、その続きを書くようにと編集長から指示があったという報告だった。有難いことである。また生活費が得られる。西村デスクに、新年の挨拶の電話をしてから、英吾は自分の部屋に戻り、考えた。では次はどんな話を書こうか。いろいろ考えてみたが、アイディアが浮かばない。狭い部屋の中で、あれやこれや思考したが、面白い話が出て来ない。
「矢張り、あそこに行くしかないか」
英吾は夕方、ブレザーに着替え、マフラーを首に巻き、商店街を抜けたところのラーメン屋に行き、味噌ラーメンの大盛りを食べた。それからスナック『夜汽車』へ行った。ママの桃子に会うのが恥ずかしかったが、仕事のネタを得る為には、『夜汽車』が最適の場所だった。英吾は、『夜汽車』のドアを開けて、皆に新年の挨拶をした。
「おめでとうございます」
「いらっしゃい。おめでとうございます。何時、現れるかお待ちしてたのよ」
桃子ママが嬉しそうに英吾を迎えた。それに合わせ、月子と夕子と真理と、他の客が、おめでとうを言った。この温もりのある雰囲気が、何とも言えず、心地よかった。英吾が何時ものようにカウンターの片隅の席に座ろうとすると、桃子がテーブル席に座るよう指示した。
「今日は、お店のお正月だから、ここに座って。お節料理を食べて」
そのテーブル席には、英吾より若い先客が座って、夕子と話をしていた。その他に年末に会った池田、北沢老人と、もう一組の会社員のグループがいて、月子と真理とアルバイトの明美が、その相手をしていた。桃子が英吾と同席した若者を英吾に紹介した。
「こちら小野さん。商店街の床屋の息子さん」
「私は内山英吾です。よろしく」
「小野克彦です。よろしく、お願いします」
若者は礼儀正しく挨拶した。それを見て、隣席の池田社長が、口を出した。
「内山さん。彼のおやじさんは色男でね。わしらの中学時代のマドンナと結婚して、こいつが生まれたのさ。もたもたしていると、この色男に夕子を取られちゃうぞ」
そんな助言に、英吾は何と返答したら良いのか、言葉が浮かばなかった。すると夕子が、池田社長に向かって悪たれをついた。
「池田社長の馬鹿」
何時ものパターンであった。桃子ママは、それを笑って見ていた。池田社長と北沢老人の2人を相手にしていた月子が池田社長に質問した。
「池田社長が失恋した時の顔、見たかったわ。どんな顔をしていたのでしょうね」
「こんな顔さ」
池田社長は、しかめっ面をして皆を笑わせた。それに続いて北沢老人が喋った。
「それで池ちゃんが見つけたのが、そのマドンナそっくりの2号さんなんだ。雪のように白い肌をした秋田美人だ」
「羨ましい話ですね」
英吾が、そう言って合いの手を打つと、池田社長は得意顔になって、若者2人に説教でもするかのように語った。
「羨ましいと思っちゃあいけないよ。わしは失恋の痛手を紛らす為、一生懸命、仕事に魂を打ち込んだんだ。小野ちゃんに負けちゃあならないと、建設会社に勤め頑張った。お陰で仕事は成功し、自分の会社を設立し、遊ぶ金を貯めるこちが出来た。マドンナのそっくりさんと出会うことが出来たんだ。それも若いマドンナだ。アハハ」
池田社長は豪快に笑った。
「羨ましい話だろう。だが本当なんだ。30歳も年下の美人だ」
北沢老人がニヤニヤした顔で、そう言って、英吾と克彦の顔を覗き込んだ。北沢老人が言う通り、羨ましい話である。30歳も年齢差のある老人と娘の組み合わせが、この世に本当にあるのだと知った。
「羨ましいです」
「だが、こういった道楽は、若い者のすることではない。わしのように、ある年齢になり、地位も出来、金もあって、女房にも嫉妬されないようになってからでないと、してはならない。若い時に博打や女狂いの遊蕩三昧をしたなら、必ず身を持ち崩し、人生の半ばにして落伍者になってしまう」
「そうだよ。若いうちは真剣に仕事に打ち込み、努力しないと。若い時から遊んでいると精根尽きて、途中で立ち枯れてしまい、人生の花を咲かすことは出来ないよ」
このことは本当かもしれない。人生の経験者の話には深みがあった。その老人2人の話に、桃子ママが割り込んだ。
「それだと、私も、お婆ちゃんになってからでないと、花を咲かすことが出来ないのかしら?」
すると、池田社長が笑って答えた。
「女と男は違う。女の場合は男と反対さ。若い時にしか花は咲かないよ。開いてしまったら、もう終わりだ」
「まあっ」
女たちの顔つきが一斉に変わった。池田社長は悲しい顔をして語った。
「辛いのは朽ちて行く花の姿を見詰める事だ。その美しさを永遠のものに出来ないから哀しいんだ」
その言葉を聞いて、桃子ママが憂鬱そうな溜息をついた。そんなスナックの女性たちとお客の会話を耳にして、英吾は笑った。小野克彦も英吾と一緒に美味しい料理と酒を楽しみ、英吾の目を見て笑った。英吾はまた新しいネタを仕入れると、時間を見計らって、『夜汽車』から出た。正月の夜空には青い星が冷たく光っていた。
〇
1週間後、英吾は『文永社』の娯楽雑誌『文芸夜話』の西村雄一デスクと銀座で会った。居酒屋『村田』の2階で『夢みたいな話』の原稿を渡し、それから日本酒を飲んだ。刺身、おでん、焼き魚、小松菜などを口にしながら、どんな作品が『文芸夜話』の読者に受けるのか西村デスクが、その内容を英吾に語った。兎に角、ロマンチックな内容でなく、奇抜な内容が読者に好まれるのだという。特にエロチックな作品が読者をひきつけるらしい。『村田』で、そんな会話をしながらの夕食会談を終えると、西村から行きつけの銀座のクラブ『紅バラ』に行こうと誘われた。英吾は、サラーリーマン時代、銀座のクラブに一度、行ったことがあるが、飲み代が高額なのを覚えていて、どう答えたら良いのか躊躇した。その英吾の態度を察して、西村が言った。
「心配するな。飲み代は、『文永社』の付けだ」
「なら、一緒します」
英吾は銀座のクラブへ行って、そこに来る会社の経営者や弁護士やサラリーマンやホステスたちの会話を聞くのも、自分の執筆の肥やしになると思い、西村の誘いを喜んだ。クラブ『紅バラ』は、新橋よりに近い、ホテルの裏通りにあった。靴音を立て、ビルの地下へと階段を降りて行くと、西村は常連らしく、『紅バラ』のドアを、そっと押した。
「いらっしゃいませ」
一斉に四、五人の女の声がした。流石、銀座のクラブ。客を迎える感じが良かった。クラブの部屋の天井ではシャンデリアが輝き、中央のピアノの脇には大きな壺には、バラの花が溢れるように飾られていた。『紅バラ』のママは和服姿の小太りの女だった。40歳過ぎの細川久美という、色気たっぷりの女で、その素振りは、今まで沢山の男を弄んで来たに違いないと思われた。彼女は西村と英吾を、奥のテーブル席に座らせて、マスターに合図した。店内には2組の先客がホステスに囲まれ、酒を飲んでいたが、英吾たちが加わったことにより、店の中は一段と賑やかになり、活気を帯びた。ママが英吾に名刺を差し出した。
「細川久美です。よろしく。西ちゃんには、何時もお世話になっていますの」
そう言って色やかに笑うママから、英吾は黙って、彼女の名刺を受け取り、その後、自分の名刺をママに差し出した。サラリーマンで無いので、英吾の名刺は簡単だった。名前と住所と電話番号の三行しかない名刺だった。
「内山です。よろしくお願いします」
英吾がママに挨拶すると西村が、それに付け加えた。
「内山先生は我が社で期待されている作家なんだから、よろしく頼むよ」
「勿論、分かっています。西ちゃんの紹介ですから」
「うん、ありがとう」
「内山先生、『紅バラ』をよろしく。こちらは笛子と琴子。可愛がってね」
ママは席に呼んだ若い2人のホステスを、英吾に紹介した。2人とも痩せていて良く飲み、良く喋る女性った。しばらくすると、西村のお気に入りの由紀というホステスが現れた。他の席についていたのであるが、西村が来たのに気づき、移動して来たらしい。笛子が英吾に耳打ちした。
「彼女、ママの一人娘よ」
そう言われれば、ママの娘だけあって、由紀には、色気があり、可愛かった。睫毛が長く、美しい瞳をしていた。彼女は西村に心を寄せているのであろうか、英吾と西村の話を生き生きとした目で聞いていた。彼女は女子大の文学部の学生で、出版社の編集部にいる西村に興味があるらしかった。その由紀が、突然、英吾に質問した。
「内山先生は、どんなものを、お書きになられるのですか?」
「私が西村さんから頼まれるのは人間社会のユーモアとペーソス。自分の趣味で描いているのは、ちょっと誌的な感傷小説といったところかな」
「それって恋愛小説かしら?」
そう質問されて、英吾は一瞬、躊躇した。すると代わりに西村が答えた。
「そうなんだ。内山先生は、そっちの執筆に夢中になって、時々、俺の担当する原稿の締め切りに、遅れそうになるので、困っちゃうんだ」
西村は笑って、由紀に英吾の批判をした。全く西村の言う通りであった。自分の書きたい純文学作品の創作に没入すると、何もかも、そっちのけになる。
「盲目的性格をしているみたいね。私たちの詩の仲間にも、似たような人がいるわ」
「詩の仲間って、詩を書いているのですか?」
「内山先生。由紀ちゃんの詩、中々、素晴らしいですよ」
「西ちゃん。胡麻をすらないでよ」
西村に褒められ、由紀が恥ずかしそうな顔をした。こういった話に関心が湧かないのか、琴子が、そっと席を外した。すると笛子が英吾にすり寄った。笛子の芳香が、甘い快楽に誘おうとしているかのようだった。英吾は、それから逃れるように由紀に質問した。
「どんな詩を書かれるのですか?」
「そうね。幼稚な抒情詩よ。内山先生、詩に興味をお持ちですか?」
「まあ、ちょっとね。もともと私も詩から小説に転向した人間ですから」
英吾は、そう喋ってから、余分な事を発言してしまったと後悔した。由紀はかって英吾が詩をかじったことがあるということから目を輝かせ、英吾に訊ねた。
「内山先生は、現代詩について、どう、お考えですか?」
「余り面白くないですねえ。肝心なものが足りないから・・」
「肝心なものって、何ですか?」
「ハートじゃあないの」
西村が横槍を入れた。その指摘は当たらずとも遠からずだった。英吾の答えを待って、由紀が見つめるので、英吾は自分の思っていることを喋った。
「私は詩歌の主体は音声言語、パトロールであると思っている。詩歌、そのものの響き、調子、声調、節奏は、まさに作者そのものの独特なものを、相手に伝達するものであり、それを感じさせない作品は、私にとって生命を持たない作品だ。難解な言語を羅列し、何の意味も感じさせない文章を作り、それを現代詩と呼ぶ最近の詩人たちには、文字言語、エクリチュールはあっても、詩歌の本質ともいえるパロールがない。全く西村さんの言う通りで、人を感動させるハートが、現代詩には無いんだ」
英吾の話を聞いて、由紀はびっくりした。西村に、こんな知人がいるとは信じられなかった。そして英吾の小説を読みたいと言ったが、英吾は未熟だからと、丁重に断った。
〇
銀座のクラブ『紅バラ』の店が閉まってから、英吾は西村と由紀に付き合わされた。笛子も一緒だった。
「内山先生から、もうちょっと詩について訊きたいので・・」
これが母親、久美ママに対する由紀の言い訳であった。そんな娘の言訳など、久美ママには、お見通しの事だった。娘が西村に心を寄せていることは分かっているし、2人の交際を反対する理由もなかった。だから西村が来店した日に、娘の帰宅が遅くなることを黙認している。西村と英吾たち4人は、『紅バラ』を出ると、店の近くにある喫茶店『コージーコーナー』に入った。そこで、真夜中のコーヒーを飲み、ちょっと喋ってから、突然、西村と由紀が時計を見て立ち上がった。
「内山先生。私たち、ここで失礼します」
その言葉に英吾は唖然とした。英吾が慌てて立ち上がろうとすると、笛子が英吾の腕をつかみ立ち上がるのを抑えた。
「後は任せておいて」
笛子が西村たちに、そう答えたので、英吾は2人に軽く頭を下げた。
「では、また」
西村はそう言って四人のコーヒー代を支払うと、由紀と手を組んで、喫茶店から出て行った。それを見送りながら笛子がつぶやいた。
「羨ましいわね」
「西村さん、ハンサムだからな」
「貴方もハンサムよ」
英吾はドキッとした。笛子が急に内山先生から、貴方と呼び方を変えたからだ。これから先、どうなるのか心配になって言った。
「私たちも帰るとしようか」
「その前に、お願いがあります」
笛子が真剣な目で英吾を見詰めて言ったので、英吾は恐ろしくなった。何のお願いであるのか、恐る恐る訊いてみた。
「何でしょうか?」
「私にラブレターを書いて欲しいの。嘘のラブレターで良いのです。私、今までラブレターを一度も貰ったことがないから・・」
英吾は返答に困った。何と答えれば良いのか。大学生時代、それらしき手紙は練習用として沢山、書いたことはあるが、実際に使用した手紙ではなかった。なら一度、書いてみようかと思った。
「分かりました。嘘のラブレターで良いのなら、書いてみましょう」
「住所はここよ。今から来る?」
「遠慮するよ」
竹原冬子が提示した住所は渋谷区だった。方向がちょっと違う。初対面なのに、本気で言ったとは思われない。酔ったついでの、戯言だろう。2人は『コージーコーナー』を出て、新橋駅まで歩き、そこで別れた。笛子は地下鉄銀座線の電車に乗り、英吾は山手線の電車に乗った。英吾は終電前の電車の吊革につかまりながら、笛子たち、夜の銀座に勤める女たちのことを思った。
〇
そろそろまた『文永社』の娯楽雑誌『文芸夜話』に載せるショート小説『夢みたいな話』を書かなければならない時期になった。その話題の材料の多くはスナック『夜汽車』で仕入れているので、それ程、悩まずに済んだが、そうはいうものの、ただ書けば良いものではない。ユーモアの中に、小説らしい味付けをしなければならない。自分らしさも、ちょっと加えたいと思う。英吾はおんぼろアパート『月光荘』の二階の部屋で、原稿用紙に向かって、頭をひねくりながら、ペンを走らせた。『夜汽車』の客、池田社長たちの顔や桃子ママやホステスたちの顔が浮かぶ。一般大衆の喜怒哀楽が、部屋中に浮遊してくれた。好き放題に生きる老人や女たちの話は、書いていても楽しい。寒い部屋の中で、コタツにも入らず、机に向かっているのであるが、ポカポカして来る。人間のいとなみとは何と面白く、不可思議なのだろう。今回の原稿は、北沢老人の若い時の失敗談をショート小説にした。北沢老人は会社員時代、部下の独身女性と不倫をしていて、日曜日に彼女とデートする為、妻に出かける理由を、お客さんとゴルフに行くからと話したらしい。ところがゴルフ道具の入ったゴルフバックを車に載せずに出かけてしまったので、その日の行動が嘘であると、露見してしまったという。浮気が露見した時、あのニヤニヤ老人は、どんな顔つきをして、妻に謝罪したのであろう。そんな想像をしているところへ、電話が入った。一階の大家から電話ですよとと声がかかったので、一階に降りて、ピンク電話の受話器を取ると、その相手は銀座のクラブ『紅バラ』の竹原笛子だった。
「内山先生、お元気。私のこと分かる?『紅バラ』の笛子よ」
「ああ分かるよ。この前はどうも」
「私、今、お店が終えたところ。これから一人で家に帰るの。先生の事、思い出して、電話しちゃった。今、何しているの。小説を書いているの?」
「うん、不倫小説」
「えっ」
笛子が驚きの声を上げた。何も驚くことなど無いではないか。娯楽雑誌『『文芸夜話』のライターなら、何でも書かなければならないのだ。
「先生、独身でなかったの?」
「独身だよ」
「それで不倫小説が書けるの?」
「小説は創作だから」
英吾は平然と答えた。結婚していなくても、想像の世界に没入すれば、何でも書ける。
「ところで、まだ私にラブレター届かないわよ。何時になったら書いて下さるの」
「あっ。そうだったね。ごめん、ごめん。これから書くよ」
「お願いね。仕事中の邪魔をしてごめんなさい。では、おやすみなさい」
銀座のホステス、竹原笛子は言いたいことだけ言って電話を切った。その言葉に英吾はラブレターを書いてみたくなった。
〇
内山英吾は、アパートの二階の薄汚い部屋の中で嘘のラブレターを書いた。
〈 竹原笛子様
お元気ですか。
僕は今、窓から青い空を見上げ、貴方の事を想っています。僕は一人ぽっちの時、窓外を吹く風に向かって、詩人になったつもりで、よく言うのです。
*そよ風よ。もしお前に心あらば、彼女に伝えて欲しい。僕が愛している事を*
しかし、それは何時も空しい僕だけの夢想。想う人に何も伝わらない。それで僕は今日、はっきりと自分の心の内を、明確に伝えるべく、貴方に手紙を書きました。偽らず申して、僕は貴方を愛しています。この世で一等、愛しく思っています。こんなセリフは余りにも古く、ありふれていて、幼稚な感じですが、僕にとっては、この世に於いて初めて使用する赤裸々な愛の告白の言葉です。このことは貴方にお会いした時、直接、僕の口から貴方に伝えるべきものでしょうが、貴方にお会いしてからだと、多分、心が火のように燃えるばかりで、何も言えなくなってしまうと思うのです。その為、ペンの力を借りて、書面にて告白致します。
最近、僕は貴方との結婚をしばしば夢に見ます。それは美しいオトギの国の物語のように、華麗で、かぐわしい夢です。そして、そんな夢を見た朝は、決まって眩しい光の中で、もし僕に小鳥のような翼があったなら、貴方の所へ直ぐにでも飛んで行くのだが、などと考えたりするのです。でも、それもまた夢。結局、僕は卑怯かもしれませんが、このようにして遠くから密かに手紙を利用して、僕の心を、貴方に伝えるしか方法が無かったのです。ご理解ください。愛しています。愛しています。返事を頂戴出来れば幸いです。
内村英吾 〉
英吾は書き上げてから、再読し、赤面した。何と幼稚なラブレターであろうか、黒木洋介のいうドイツ文学の甘さや幼児性いっぱいの文章ではないか。この嘘のラブレターを受け取ったら、笛子は、どんなことを言って来るであろうか。高校生のラブレターみたいだと笑うのではないだろうか。しかし、約束である。何が何でも良いから、この手紙を明日の朝、笛子に出すことを決め、英吾は布団に潜り込んだ。これからの笛子との夢想が駆け巡った。もしかすると、このことがきっかけになり、自分は笛子と個人的に付き合うようになるかもしれないと思った。笛子は自分の事をどのように思っているのであろうか。将来性のある物書きと期待しているのであろうか。西村デスクの恋人細川由紀と自分たちとのアバンチュールを画策しているのであろうか。そう考えると英吾は、中々、眠れなかった。
〇
翌週、英吾は、また新しいネタを得ようと、スナック『夜汽車』に出かけた。場末にある所為かスナック『夜汽車』には不思議と常連客が多い。飲み代が安いのと、弓岡桃子ママをはじめとするホステスたちの温もりが、人恋しさでやって来る男たちを優しく包んでくれる。このことが、この店の集客力となっているのだ。何時ものように英吾が店のドアを開けると、女たちが英吾を迎えた。
「いらっしゃい」
その声に合わせて常連客が軽く手を上げて、挨拶した。英吾は何時ものカウンター席の片隅に座り、焼酎のお湯割りを注文した。英吾の訪問に桃子ママは微笑した。英吾は珍しく桃子ママに御世辞を言った。
「相変わらず繁盛していて嬉しいですね」
「皆さん、優しいから・・」
桃子は人に気づかれぬよう英吾の手の上に、自分の手を重ねた。今日も池田社長と北沢老人が、月子たちを相手に、酒を楽しんでいた。英吾は池田社長たちの会話を盗み聞きした。池田社長は相変わらず明るく喋った。
「そうなんだ。うちの事務員はうるさくて困る。今日だって外出先から帰って来ると、わしを追求するんだ」
「池田社長。また何か失敗でもしたのですか?」
「そうなんだ。落花生の袋を三つ、机の上に置いていたのが、まずかった。その落花生の袋を目にした事務員が、分かっているのに、これ、どうしたのですかって訊くんだ」
「落花生?」
「うん落花生だ」
池田社長特有の、また楽しい話が始まった。英吾は聞き逃すまいと、カウンター席から耳を傾けた。池田社長は落花生を入手した経緯を説明した。
「事務員がいない時に、落花生売りの小母さんが、事務所に入って来て買わされてしまったんだよ。買う気などなかったんだが、突然、その小母さんが入って来たものだから、驚いてね。初めはわしも落花生などいらんと断ったんだがね。その小綺麗な小母さんの顔色が悪かったものだから、ついうっかり、余計な事を言ってしまったんだ」
「余計な事って、何を言ったのですか?」
「顔色が悪いが、どうしたのかね。こう訊くと、その小母さんが喋り出したんだ。実は去年の夏、亭主に死に別れて、三人の子供を養っているって言うんだ。わしも、それを聞いて、気の毒になり、行きがかり上、落花生を三袋、買ってしまったんだ」
「池田社長って、本当に人が良いんだから」
月子がそう言って、池田社長にもたれかかった。それを聞いて、北沢老人も笑って、池田社長をからかった。
「その小綺麗な小母さんが、子供が四人いると言ったら、池ちゃん、四袋、買っただろうな」
すると池田社長が調子に乗って、更に喋った。
「彼女は落花生売りにしては、結構、エロチックでね。落花生五袋、買ってくれたら、今晩、千葉に帰らず、一晩、泊って行っても良いと言うんだ。わしもぐらついたが、その時、うちの事務員が銀行から帰って来たので、落花生売りの小母さんには帰ってもらったよ」
それを聞いて、月子たちホステスをはじめ北沢老人、八百屋の主人、床屋の息子、クリーニング屋の主人たちが、ドッと笑った。一同が笑い疲れたところで、桃子ママが質問した。
「それで社長は事務員さんに何て答えたの?」
「ありのまま、同情して買ってしまったと話したよ。そしたら彼女、何て言ったと思う。断れば良かったのに。あんな女に気を許すと、とんでもないことになりますよ。気を付けて下さいよ。社長は女に甘いんだから、だってさ」
「それは正解ね」
月子が、そう言って池田社長の背中を叩いた。そのはずみで、池田社長のグラスからウイスキーの水割りがテーブルの上にこぼれた。池田社長は慌ててグラスを倒さぬよう強く握り直した。
「何するんだよう」
「あらら、ま大変、こんなに濡れちゃって」
月子がおしぼりでテーブルの上を拭き、明美が池田社長の股間を拭いた。池田社長は、ちょっと照れ笑いをした。
「池ちゃん、拭いてもらいたくて、わざとこぼしたんじゃあないの?」
北沢老人がテーブルの周りを拭いている月子たちに言った。すると彼女たちは一斉に同じ態度で頷いた。桃子ママが英吾に言った。
「池田社長って、そういうところが上手なのよ。内山さんも見習わないと」
「そうですね。年長者、お二人を手本に私も頑張ります」
英吾は池田社長と北沢老人に向かって、一礼した。それから、その隣のテーブルに移動し、床屋の息子、小野克彦と乾杯した。
「頑張ろう。克ちゃん」
小野克彦は英吾に同調し、グラスの酒を飲み干した。若者の考えも知りたかったから、英吾は床屋の息子とも親交を深めた。
〇
二月になり、同人誌『星座』の仲間、黒木洋介から向島に来ないかという誘いがあった。英吾は、その誘いに応じ、目黒から上野まで行き、そこから地下鉄の電車で浅草に移動し、浅草駅で下車した。浅草から向島までは歩くことにした。地下鉄浅草駅から地上に出て、東橋の所から隅田川沿いに言問橋に向かった。隅田公園に咲く梅の花を眺めながら、向島まで歩こうと思ったのだ。黒木洋介との待合せは、夕方六時だったので、五時過ぎから隅田公園に咲く美しい色と香りの紅梅白梅を楽しみながら、あちこちをゆっくりと散策した。東武線の高架下を潜り、ちょっと行った所で、紅梅を眺めている時の事であった。見知らぬ老人が、血相を変えて、駆け寄って来た。
「大変だ。人が溺れている。私は泳げない。助けてやってくれ!」
「そりゃあ大変だ。何処ですか?」
英吾は老人と一緒に堤防に駆け上がった。老人が指さす川面を見ると、若い女が溺れているではないか。真冬なので心臓麻痺のことが頭にちらついたが、そんな事、言ってられなかった。英吾は、その場で、上着は勿論、下着と靴を脱ぎパンツ一つになって、高さ3メートルの所から、厳寒の隅田川に跳び込んだ。夢中で泳ぎ、岸から10メートル程、離れた水面で、ぐったり浮いている女を、後ろからだ抱えるようにして捕まえた。それから気を失いかけている彼女を堤防の下まで泳ぎ着かせた。そして先程の老人や駆け付けて来た人たちに、堤防の上まで引き上げてもらった。救出したのは髪の長い肌の白い若い女だった。約十分後に救急車が到着。英吾は老人と一緒に救急車に乗って、近くの病院まで行った。病院に運ばれた女は二十歳の女子大生で、入水自殺を図ったのであるが、無事、助かった。英吾と老人は浅草署員に事情聴取され、新聞記者に囲まれた。これでは黒木との約束の時間に間に合わない。そこで英吾は黒木の家に電話した。
「申し訳ないが、白髭橋の病院まで来てくれないか」
英吾からの電話を受けた黒木は、10分程すると、病院にやって来た。黒木と顔を見合わせた時、病室から自殺を図った女が出て来た。看護婦と警官から英吾たちに礼を言うように説得されて、彼女は、英吾と老人と黒木に深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。私にも事情があったのに・・」
彼女は、恨めしそうに救助した英吾たちを睨み付けた。英吾も老人も周囲の者も、びっくりした。彼女が礼を言って立ち去った後、英吾が黒木に言った。
「余計な事をしたのだろうか」
すると黒木が英吾の肩に手をやり、元気づけるように言った。
「余計な事であるものか。人の命を救ったのだ。彼女は救われ、また人生の新しい道に向かって行けるのだ。後で必ず感謝する筈だ」
「そうだと良いのだが」
英吾には、彼女のあの恨めし気な顔が気になって仕方なかった。老人も英吾同様、人助けしたのに、みじめな気分になった。
「助けてもらったのに、あれはねえよな。声をかけて悪かったな。遅くなると女房が心配するから、わしはここで失礼するよ」
老人は、そう挨拶して病院から出て行った。それを見送ってから黒木と英吾は、黒木の行きつけのスナックに行く前に、一旦、黒木の家に立ち寄り、黒木の妻に、事件の報告をした。その後、英吾は病院から借りた衣類を脱ぎ、黒木の衣類を借用して、それに着替えた。それから濡れた自分の衣類を入れたポリ袋を持って、黒木の行きつけのスナック『どん底』に飲みに行った。『どん底』には、梅崎理恵ママの他、加奈子、恵美子、澄江とお客5人がいて、ここでも事件のあったことが話題になっていた。黒木が事件に英吾が関わっていた経緯を皆に説明した。それを聞いた『どん底』のママ、梅崎理恵が気の毒そうに言った。
「若い時は、そういう心理になることがあるのよ。愛に溺れるっていう言葉があるでしょう。愛に溺れたら、悩み、苦しみ、傷つくことは避けられないの」
「でも、この寒いのに入水自殺なんて」
「余程、思い詰めていたのね」
「心配だなあ」
英吾がつぶやくと、理恵が色やかな目で、英吾を見詰めて笑った。
「大丈夫。彼女は、また新しく生まれる愛に夢中になるから。女なんて、そんなものよ」
英吾には理恵ママの言葉を理解することが出来なかった。そんな英吾を見て、黒木がからかうように言った。
「君は相変わらず、純粋で甘いんだな。その幼児性があるうちは純文学は書けないよ」
「そうだよな。俺の作品には、有名作家たちが描いて来たそこはかとない人間心理への敬意、つまりオマージュを感じさせるものが欠落しているからな」
「君が作品に立ち向かう細心に研ぎ澄まされた文章も必要かもしれないが、優れた作品はそういう堅苦しさばかりでは駄目なんだ。繊細さと粗雑さを併せ持っていてこそ人間らしく、読者の心を引き付けるんだよ」
黒木の発言は、コピーライターの顧客牽引術、そのものであった。確かに、それは一理あった。『文芸夜話』の西村デスクからの要求も、ユーモアとペーソスを含めた文章で、読者を引き付けるコントだった。『どん底』のママも文学に興味があるのか、話題に加わって来た。
「そうね。私の読んでいるのは盛り場で遊ぶ人たちや愛に翻弄された人たちの哀歓を中心にした作品ばかりよ。青春物は青臭くて、読む気がしないわ」
「そうだよな。ママからも、こいつに言ってくれよ。もっと」
「うん、言って下さい。遠慮しなくて良いですから・・」
英吾が意見を求めると、理恵は遠慮なく答えた。
「では教えて上げる。それは、この店の名前と同じ、絶望の泥沼の底を這いつくばる人たちの苦しみと怠惰と狂気を描くことね」
理恵ママの回答に英吾も黒木もびっくりした。
「苦しみと怠惰と狂気か」
英吾はママの言葉を聞いて、自分の未熟さを真正面から串刺しにされたようなショックを受けた。その為か酔いに酔った。理恵ママは更に付け加えた。
「不純不倫が書けるようになったら一流ね」
読者とは、そう言う作品を求めているのか。自分はまだまだ世間での修業が足りないと英吾は思った。
〇
数日後、娯楽雑誌『文芸夜話』のショート小説『夢みたいな話』が好評を得ているので、そのうち、それらを集めて単行本を出版しようかという意見が持ち上がっていると西村デスクから連絡が入った。それを聞いて、英吾は自分にも運がようやく巡って来るかもしれないと胸を膨らませた。単行本がベストセラーになり、有名作家になれば、自分の純文学作品も、単行本として、書店に並ぶようになるかもしれない。そして、それらもベストセラーになり、文学賞の対象になるかもしれない。そうすれば、この貧乏生活から脱出し、ちょっと贅沢な暮らしが出来るようになるかもしれない。英吾はおんぼろアパート『月光荘』の二階の六畳間で、自分勝手な夢想をした。そんな夢想に酔っている英吾を郵便屋がぶち壊した。アパートの英吾の郵便受箱に、英吾宛ての封書が投げ込まれた。その封書は、父、内山国夫からの手紙であった。手紙には、こんなことが書かれていた。
〈 英吾。
こんな手紙を書きたくなかったが、お前が実社会で無事に生きて行くことを願って、私はこの手紙を書いた。心して熟読せよ。
私は確かに親戚の者が言うように、馬鹿な息子を持ち、不幸だと思っている。これは親である自分の責任で仕方なく、ただ一人泣くより仕方あるまい。ただ私がお前に言いたいことは、お前の現在のような在り方では、将来が心配で安んじられない。くだらない小説書きなど、社会の為に全く役立たない。これから数十年後のお前のうらぶれた姿を頭に思い描くと、私は死んでも死にきれない。そこで今なら、まだやり直しが出来ると思い、この手紙を書いた。
国島の珠美ちゃんは、お前が街に戻って、地元に勤め、お前が嫁に迎えてくれることを希望している。国島家は勿論のこと、我が内山家の者も、そう願っている。珠美ちゃんは何時までも待ちますというが、そういう訳にはいかない。人の一生にかかわることだ。お前が実社会で生きて行く為には、一時も早く、お前を育ててくれた故郷に戻り、皆に恩返しすることだ。時は待ってはくれない。これは父からの命令である。一時も早く故郷の戻って来い。母も同じ考えだ。
父より 〉
英吾は父、国夫からの手紙を読み終え部屋の天井板を見詰めた。父が怒っているのは分かるが、ここで故郷に戻ったなら、今までの苦労が何の意味も無くなってしまう。従って父の要望を受け入れる訳には行かない。自分にようやく運が向いて来ているというのに、それを捨てて、故郷に戻ることに何の意味があるというのか。自分は文筆を職業とする為、東京の大学で学び、今まで貧乏生活に耐えて来たのだ。それを総て放り投げ、故郷に戻り、身を固めろというのか。それは父母の望みであり、珠美や、その両親の望みであろうが、自分の望みでは無い。一度、走ると決めたマラソン競技から、そう簡単に、中途から抜けるなんて出来ない。抜けることを決めているなら、最初から競技などに参加しない。英吾は、文筆を職業とするマラソン競技に参加してしまったのだ。完走することが英吾の夢であるのだ。国島珠美と初詣した時、彼女は英吾が小説の新人賞を受賞することを祈ってくれたが、その願いは変わらぬ筈だ。彼女は父がいうように故郷に帰って来いとは言って来ない。その本心は分からぬ。だが良い男を見つけたら、結婚するであろう。英吾は沈思黙考した。自分は父親の命令に軽々しく同調してはならない。父は我が子が失敗することを心配するだけで、成功することを期待していない。父は我が子が生きることに失敗し、家族の者をひどく悲しませるような過ちを犯すのではないかと危惧している。人生には失敗もあれば、挫折もある。しかし、人生はやり直すことが出来る。自分は人生をひとつの作品ととらえて努力している。自分という作品に誇りを持ち、自分の意志で、自分らしい生き方をしたいと思っている。現在が暗い闇夜のような生活であっても、その闇の奥底から見えるのは明るい光輝の世界だ。自分は他人に導かれて、その闇夜から脱出しようなどとは思わない。自分の力、自分の意志で行動し、自分の作品を創り上げ、光輝の世界を掴むのだ。英吾の信念は固かった。外部からの意見に左右されず、自分で自分の為に、自分で選んだスタイルで、自分を堂々と表現しなければ、人生、満足など得られない。英吾には、父の命令に従うつもりなど、サラサラ無かった。たとえ不幸が待ち構えていようが、自分で選んだ道を真っ直ぐ進むしか生きる道はないと再確認した。
〇
いろんな事があり、地元のスナック『夜汽車』にご無沙汰していた。英吾は久しぶりに商店街を通り抜け、『夜汽車』に行った。鈴付きのドアを開けると、桃子ママをはじめ、月子や夕子、明美たちが、英吾を歓迎した。
「いらっしゃい」
「いらっしゃい」
ホステス以外の池田社長、北沢老人も英吾を歓迎した。あの床屋の息子、小野克彦も友人と二人で来ていて、頭をコクンと下げて、挨拶した。英吾はカウンター席の片隅の椅子に腰かけ、焼酎のお湯割りを註文した。そんな英吾にお通しの塩キャベツを出しながら、桃子ママが訊いた。
「今月の原稿、もう書き上げたの?」
「お陰様で。一段落したので、飲みに来ました。皆の顔を見たくって」
英吾はそう答えて桃子ママを見詰めた。そんな英吾に対し、桃子は他の連中に気づかれないよう、ウインクした。英吾はウインクされて、ちょっと照れ臭かった。夕子は明美と小野克彦と、その友人の相手をしながら、こちらへ来ようか来まいか迷っていた。月子は真理と一緒になって、池田社長たちをからかっていた。
「池田社長は本当に女に甘いんだから。だから騙されるのよ」
「女に浮気されても気づかないんだから」
そんな月子たちに北沢老人が同調して言った。
「そうだよ。池ちゃん、油断しちゃあならないよ。この間、昼飯食べに『チロル』に入ろうとしたら、店、やってなかったよ。俺が、がっかりして帰ろうとすると、当ての外れた俺を見ていた豆腐屋のかみさんが俺に、こう言いやがった」
「何て?」
「残念ね。しのぶさんは、10時頃、ピンク色のスーツを着ていそいそと出かけて行きましたよ。何処へ行くのでしょうかね。あんなに嬉しそうに、おしゃれして・・」
それを聞いて、池田社長の顔色が変わった。池田社長は笑う北沢老人を問い詰めた。
「それは幾日のことだ?」
「幾日だったかなあ。水曜日かな」
北沢老人はまずいことを喋ってしまったという失敗顔をした。北沢老人が話題にした女性は池田社長の2号さんで、小松しのぶという秋田美人で、喫茶店『チロル』を経営していた。喫茶店『チロル』は午前11時頃から開店して、夕方六時半に店を閉めるコーヒーの他、軽食もいただける店だった。商店街をちょこっと入った所に店があるので、その喫茶店のだ入りは、近所隣の豆腐屋や花屋に手に取るように分かってしまうから注意せねばならなかった。北沢老人がそこへ行くのは、暇つぶしがてら、昼飯食いに行くのと美人の様子見の為だった。そんな北沢老人の話を聞いて、月子が池田社長に忠告した。
「池田社長、注意しないと駄目よ。たまには油、やってるの?」
「油?」
「分からないの。油が切れると、女は乾いちゃうの」
「池ちゃん。油断するなってことだよ」
北沢老人がそう言うと、話が盛り上がり、桃子ママも、その話題に参加した。桃子はカウンター内から英吾の隣の椅子に移り、後ろ向きになって、池田社長たちと喋った。
「社長。月子の言う通りよ。気を付けないと駄目よ。男が振り向かなくなった中年女の寂しさって哀れなものなのよ。それを感じた時、女は何とかしなくっちゃあと思うから・・」
桃子ママの言葉に池田社長は益々、不安気に蒼ざめた。そして池田社長は突然、立ち上がって北沢老人に言った。
「北さん。悪いけど、俺、先に帰るよ」
池田社長の変化に北沢老人はじめ、スナックにいた連中は驚いた。池田社長の脳中に、女への猜疑心と未知の男への嫉妬心が湧き上がったらしい。喫茶店を任せている小松しのぶに男が出来たのだろうか。池田社長はカシミヤのコートをひっかけると、慌てて『夜汽車』から出て行った。入れ替わるように、電機会社の稲垣部長と、その客たちが入って来た。英吾は、この時とばかり、カウンター席から向きを変えて桃子ママに伝えた。
「私も、ここで帰ります」
「あらっ、もう帰っちゃうの」
「ママ。俺も帰るわ」
北沢老人も立ち上がった。二人は桃子ママに飲み代を支払い、店の女たちや、客たちに挨拶して、『夜汽車』を出た。商店街の帰り道、北沢老人が言った。
「池ちゃん。今頃、どうしているかなあ」
「北沢さんが、あんなことを言ったから、もめてますよ」
「俺の所為じゃあないよ。そこの豆腐屋のかみさんが悪いんだ」
二人は豆腐屋の隣の喫茶店『チロル』に目をやったが、灯りはついていなかった。どうなっているのであろうか。
〇
ほろ酔い気分で、おんぼろアパート『月光荘』に戻った英吾は、今夜、仕入れたネタを忘れないうちに書こうと、直ぐに机に向かいペンを執った。言うまでもない、池田社長の女について記述して置く為である。余り酒に強くない英吾なのに、思いのほか短時間で今日の話題を文章にまとめることが出来た。早く帰った池田社長と隠し女の口論も想像して加筆した。その原稿を書き終えて、さあ寝ようとした時、アパートの階段を誰か上って来る音がした。誰だろう。202号の住人かなどと思っていると、その足音は英吾の部屋204号の前まで来て止まった。入口ドアが、軽く叩かれた。覗き窓から誰であるか確認すると、ドアの前に立っているのは、スナック『夜汽車』の桃子ママだった。英吾は躊躇することなく、入り口ドアを開け、桃子を部屋に招き入れた。
「また『トン吉』の味噌カツをいただいたの。一緒に食べましょう」
「ありがとう御座います」
「稲垣さんの会社、景気が良いのね。接待客以外の私たちにまで、お土産くれるのよ」
「羨ましいな。矢張り、サラリーマンを続けるべきだったのかな」
英吾は台所で、お湯を沸かしながら、桃子と会話した。桃子はまるで自分の部屋にいるかのように、コートを脱ぎ、ハンガーに掛け、コタツの前に座ると、味噌カツの入ったプラスチック容器や割り箸をコタツ板の上に並べた。ポテトサラダまで持って来てくれた。
「お店の残りのポテトサラダ持って来ちゃった」
英吾は、どう答えたら良いのか分からなかった。英吾がドギマギしていると桃子が言った。
「温かいうちに食べましょう」
英吾は桃子の指示に従い、コタツに入り、桃子と向き合った。桃子が味噌カツを一切れつまみ、英吾の口元に差し出した。英吾は前回、同様、ああんと大きく口を開き、それを口に入れた。
「美味しい、『トン吉』の味噌カツは実に美味しい」
「本当に美味しいわね」
二人は、仕合せそうに『トン吉』の味噌カツを食べた。桃子の持って来たポテトサラダも、また美味しかった。二人は食べ終わると、御茶を飲みながら話した。
「稲垣さん、ママと私が味噌カツを食べているなんて、思いもしないだろうな」
「そうでしょうね」
「でも、サラリーマンは、会社の金を使ってお酒が飲めて、気楽で羨ましいよな」
「そうかしら。私はサラリーマンのように地位や富を求めるのではなく、人間愛を求めて、ギリギリの生活の中から、美しい情熱を汲み上げようとしている貴方の方が好きよ」
桃子は、英吾の湯呑にお茶をつぎ足しながら、そう言って、英吾ににじり寄った。男を求める女の芳香が、英吾を包み込んだ。英吾には、それが良く分かった。自分もまた同じだった。ふくよかな桃子の胸の膨らみや腰のあたりの曲線は、英吾の妄想を拡大させ、現実の姿に進展して行った。気づいてみれば、二人は薄汚いアパートの六畳間のコタツの脇に敷かれた布団の中で、もつれ合っていた。桃子の秘めたるところに手を伸ばすと、そこからは早くも女の愛液が溢れ出て、英吾を迷宮に吸い込もうとしていた。簡単に吸い込まれてはならない。英吾は必死になって、しがみつく桃子の両足を持ち上げ、海老固め状態にして、その上から圧力をかけた。今までに経験したことのない体位になって、真上から桃子の愛欲に応えた。英吾がピストン運動を繰り返すと、桃子は寄せては返す狂おしい程の快楽に絶頂に達しそうになって叫んだ。
「ああっ、私、先に行っちゃう」
「行っちゃあ駄目です」
「ああっ、ああっ。そんなこと言ったって駄目、駄目」
桃子は英吾を挟んだまま悶絶しようとする。英吾は、その瞬間を見逃さず桃子の秘部に弾丸を撃ち込んだ。英吾の放った弾丸は、見事に桃子の中で炸裂し、万事休す。事が終わった恍惚の余韻は、甘い快感を伴い、桃子の肉体深く浸透して行った。
「私たち、どうなってしまうのかしら・・」
桃子の言葉に英吾は身震いした。背筋が凍りつくような女の愛の深さに怯えた。
〇
二月末、銀座のクラブ『紅バラ』のホステス、竹原笛子から電話がかかって来た。1階の管理人の小母さん、山本光代は、女性からの電話だと言って、ウインクした。笛子に嘘のラブレターを送ってから、随分、日数が経過していた。受話器を取るなり、笛子が言った。
「内山先生。今日は何しているの。不倫小説?」
「今日はユーモア小説を書いている。ちよっと、もの足りない所があって悩んでいる」
「では、私とこれから銀座でデートしましょう。そうすれば面白い事あるわよ」
「銀座は金がかかるし、私の行く所じゃあないよ」
「大丈夫。この前のラブレターのお礼をするから、同伴してよ。同伴のノルマ、厳しいのよ」
笛子の口ぶりから、彼女が仕事で行き詰まっていると感じ、英吾は笛子と銀座でデートする約束をした。夕方までに仕事を片付け、五時半、『ソニービル』の前に行くと、既に笛子が白いダウンコート姿で待っていた。
「何処へ行こうか」
「私の知っているお店に行きましょう」
笛子は、そう言って、馴染の居酒屋『美浜』に英吾を案内した。店に入ると、一階の奥に個室があり、二人は、そこに入った。笛子が予約していたのである。二人は『美浜』で新鮮な魚と串焼き、おでん、だし巻き卵、ゴマ豆腐などをいただきながら酒を飲んだ。笛子は何故か陽気だった。
「この店、素敵でしょう」
「うん。素敵だ。この心地よい空間が気に入ったよ。美味しい物を頂きながら寛げる。まさに大人の隠れ家だね」
「流石、内山先生ね。誉め言葉もお上手」
笛子が色っぽく笑った。フリルの付いた白のブラウスが、そんな笛子を可愛くしていた。
「ところで、あの嘘のラブレターは、どうだったかな?」
「有難う御座いました。大切に大切にしまってあるわよ。私の大事な宝物よ。嘘の手紙なのに、心がこもっていたわ」
笛子が妖しく笑った。その視線に、英吾は怯えた。英吾は嬉しかった半面、何故か不安に襲われた。スナック『夜汽車』の夕子などと過ごす時間に無い、笛子と接近した時間の雰囲気が、自分を予想外の世界に運んで行こうとしているのではないかと予感した。居酒屋『美浜』で、一時間半ほど過ごしてから、二人は8丁目のクラヌ『紅バラ』へ行った。
「いらっしゃいませ」
まず和服姿の細川久美ママが、色やかな笑みを見せて英吾を迎えた。先客は二組しかいなかった為、客待ちをしているホステス、7,8人の視線が一斉に英吾に注がれ、英吾は焦った。駆け出しの文筆家、内山英吾と同伴した笛子は華やぐクラブの中を誇らし気に堂々と奥の席に進み、英吾を指定席に座らせた。その態度は格好よく美しく咲く花のように輝いて見えた。
「お久しぶりです」
細川久美ママは英吾が出版社『文永社』の編集部のデスク、西村雄一の仕事をしていることを、ちゃんと覚えていて、英吾を奥の席に案内しながら、挨拶をした。
「西村さんに何時も、お世話になっていますの。今日はゆっくりしていって下さいね」
「はい」
英吾はどう答えたら良いのか分からず、一つ返事しただけで、緊張した。後は久美ママの生徒のように彼女の誘導に従い、指定席に座った。そしてボーイが運んで来た西村デスクのボトルを前にして、久美ママと笛子と向かい合い、まずは乾杯した。それから久美ママは笛子の他に美穂を席に着かせ、自分は他の席へと移って行った。英吾は相手が若い二人になったので、ほっとした。『夜汽車』の桃子ママ同様、年上の女は怖い。ましてや久美ママは長年、銀座で生きる男勝りの美人ママである。彼女に呑み込まれたら大変なことになる。英吾は笛子と美穂を相手に何を話したら良いのか分からず、世間話をしているうちに、何故か暗い話をしてしまった。
「ベトナム戦争が収まらず、世界は今、大破局に向かっている。戦争が世界に広がり、早晩、地球上から、生物という生物が姿を消してしまい、無機物だけが残り、灰色の地表を、砂嵐が、ビュービュー吹くだけの時が来る。そんなことを考えると、自分たちの未来が恐ろしくて仕方ない」
「まあっ、内山先生って、そんな未来のことを考えているの?考え過ぎじゃあない」
そう言って笑う美穂に英吾は言ってやった。
「考え過ぎじゃあないよ。この間、アメリカがアポロ14号を月面に着陸させたのも、万一、地球に人類が住めなくなった時のことを考えての実験だ。世界には、未来の事を真剣に考えている人がいるんだ」
「でも私たちが生きているうちに、月に住めるようにはならないわね」
「戦争を繰り返している地球の未来を考えると、地球で生きていることが全く面白くなくなるよ」
「それでは私たち、今のうちに楽しまなくちゃあ損ね」
「そうだな」
「それって、ショックね。そう考えると本当に私たち、人生を楽しまないと損よね」
笛子が英吾にもたれかかって来て、ウインクした。それを美穂が羨ましがった。英吾は銀座『紅バラ』の夜を満喫した。
〇
英吾がクラブ『紅バラ』を出たのは11時ちょっと前だった。居酒屋『美浜』で食事をした時、笛子が英吾に二万円を渡し、『紅バラ』での飲み代を支払って『紅バラ』から出た後、喫茶店『リバティ』で待っているようにと言っていたので、英吾は『リバティ』に入り、笛子を待った。その笛子は、11時過ぎに『リバティ』に現れ、コーヒーを飲みながら、英吾に一万円を差し出して言った。
「今日の飲み代の御返しよ」
「えっ。良いの?」
「うん。良いの。同伴代の戻し。同伴代二万円の半分よ」
笛子は久美ママから、今日の同伴代、二万円を受け取り、その半分を英吾に返したのだ。『紅バラ』での飲み代は四万五千円だった。そのうちの二万円は笛子からいただいていたので、英吾が負担したのは二万五千円になる。それに『美浜』での食事代一万円を加えると三万五千円になる。つまり英吾が実質負担したのは三万五千円マイナス一万円の二万五千円だった。英吾は飲み代を計算してみて、結局は笛子の同伴のノルマ達成の為に自分が利用されたのだと推測した。笛子は、そんな英吾の内心も知らず、満足の笑顔いっぱいだった。
「またノルマ達成が難しくなったら付き合ってね」
「同じ条件なら何時でも良いよ」
「嬉しいわ。では帰りましょうか。今から私のマンションに来る?」
「えっ!」
英吾は戸惑った。どう答えたら良いのか分からず悩んでいると、笛子が英吾をからかった。
「だって、店にいる時、内山さん、言ったじゃない。人類は今のうちに楽しまないと損だって」
「あれは酒の席の話。私は女性の部屋には行かないことにしているんだ」
「何故?」
「犬を飼ってる女性の部屋に行って、犬に噛まれたことがあるんだ。だから・・」
「内山先生の意気地なし」
笛子は膨れっ面をした。だからといって、まだ二度目なのに、彼女のマンションに行く訳にはいかない。それに彼女は、オスのシーズーを飼っている。この次の機会にでも誘われれば、様子見に行っても良いと思った。午後11時半、残念がる笛子と新橋駅で別れて山手線の電車に乗り、目黒のアパートに帰った。灯りの消えた商店街を通り、ちょっと酔っぱらって薄汚いアパートの二階への階段を上って行くと、階段の上にオレンジ色のマフラーを首に巻いた白い半コート姿の弓岡桃子ママが、少し怒った顔をして突っ立っていた。英吾を見るなり、彼女が言った。
「何処で飲んで来たの?」
「友達と銀座で・・」
「随分と金回りが良いのね」
「いや、出版社のおごりだよ」
英吾は適当にごまかした。そんな言い訳をする英語に、早く部屋のドアを開けてよと桃子が合図した。英吾は慌ててポケットから鍵を出して、ドアを開け、桃子を部屋に招き入れた。
「今日は、肉マンとアンマンを買って来たの。一緒に食べましょう」
「ありがとう御座います」
「私がお湯を沸かすわ」
桃子は英吾が酔っているのを気にして、自ら台所に立ち、お湯を沸かした。英吾は、その桃子の後姿の腰のあたりを見て、何と煽情的な肉体をしているのであろうかと思った。女とは得体の知れぬ生き物である。女という生き物は誰も見ていないと知ると大胆になり、自分の肉体を露出する。平気で男の欲情をそそる。その誘惑は、ちょっと腐臭を放っているように思えるのに、男は、その罠にはまってしまう。英吾は背後から桃子をそっと抱きしめた。小太りの桃子の肉体は、拒否することも無く、英吾を迎えた。
「どうしたの?」
桃子は後ろ向きのまま訊ねた。英吾は何も答えず、彼女にしがみついた。彼女の芳香に酔いながら、彼女の起伏に富んだ肉体を愛撫し、熱い吐息を吹きかけてやった。
「英ちゃん。何が欲しいの?」
桃子は身体をくねらせ、英吾の腕を振り払い、正面から英吾を見詰め直して、再度、訊ねた。
「どちらの肉マンが欲しいの?」
「ママの肉マン」
英吾は、そう答えると、桃子を畳の上に押し倒し、桃子の着ている物を剥ぎ取り、桃子に襲い掛かった。桃子も桃子で、英吾にからみつき、自分の火照る部分に英吾を引き込もうとした。この男女の格闘はまさに快楽をむさぼり合わんとする情欲の表出であり、動物の本能、そのものであった。格闘の嵐は数分続いて過ぎ去った。桃子は満足したのであろう、晴れやかな微笑みを漂わせ、英吾に言った。
「お湯が沸いているわ」
英吾は慌てて立ち上がり、ガスコンロの元栓を閉じた。それから桃子と二人、コタツに入り、ゆっくりとアンマンと肉マンを食べて、一夜を過ごした。
〇
三月の中旬、英吾の兄、内山正夫が、大学時代のゼミナールの教授が亡くなったので、そのお通夜の後、英吾の所に泊まりに来た。英吾は正夫からの電話を受け、商店街の先にある私鉄駅まで、兄を迎えに行った。駅に着くと喪服姿の正夫が苦笑いして言った。
「悪いな。こんな時に立ち寄ったりして」
「遠慮なんかいらないよ。会えて嬉しいよ」
英吾は元気な声で兄を歓迎した。そしてアパートに向かう途中、商店街でおでんや焼き鳥、白菜漬けを買って帰った。正夫はおんぼろアパート『月光荘』を見ると、懐かしそうな顔をして二階を見上げた。外階段から二階に上り、部屋に招き入れると、正夫は、駅で会った時と同じことを言った。
「悪いな。お通夜の帰りに立ち寄ったりして」
「何も気にすることはないよ。人間、誰しも、いずれ死に辿り着く。兄貴の先生が亡くなった事で、兄貴と会うことが出来たのだから、先生に感謝しないと・・」
「そうだな。お通夜で懐かしい大学時代の仲間と会うことが出来たよ。お前の言う通り、先生のお陰だな」
英吾の兄、正夫は、英吾が元気なのを確認し、ほっとしたようだった。正夫は東京の大学を卒業後、故郷の田舎町に戻って、町役場に勤め、結婚していて、既に二児の父親だった。それ故であろう、昔より落ち着いて見えた。久しぶりに会った兄弟は薄汚いアパートの2階の部屋で、おでんなどを食べながら、焼酎を飲み、いろんなことを話した。当然、英吾の結婚のことも話題になった。正夫は家族の考えを英吾に伝えた。
「兎に角、オヤジは国島家との繋がりを継続させたいと思っているんだ。先方もそうだ」
「そうは言っても、俺には俺の考えがあるんだ」
「どうしたら良いのかなあ。国島の珠美ちゃんは、他の男たちが声を掛けても、お前のお嫁さんになると言って、男たちを相手にしないらしい」
「まずいなあ。正月、会った時に、良い旦那、見つけろよと言っておいたのに」
英吾には、いかに珠美が気心の知れた幼馴染とはいえ、自分の夢の為に彼女を不幸の巻き添えにする訳にはいかなかった。彼女は自分の家族の一員のような存在であり、結婚し、不安定な生活を味合わせることなど、させてはならない。いや珠美に限らず、自分と暮らす者に自分の夢の為に不幸を味合わせたくなかった。
「兄貴。田舎に帰ったら、皆に良く伝えてくれ。英吾はガチガチの独身主義者だって。一生、結婚しないって言っているって・・」
「お前は本当に、そう考えているのか?」
「そうだ。俺は貧しくても良いから、周囲に縛られず、自由奔放に生きたいんだ」
「結婚生活って楽しいんだがなあ」
正夫は呆れ返った顔をした。英吾の考えを全く理解することが出来なかった。父や母が心配しているというのに、当人が人生の枠組みの中に、結婚を組み入れていないということは、どんな未来を考えているのであろうか。英吾が嫁に迎えてくれると信じ込んでいる珠江は、どうなってしまうのか。英吾の文学かぶれには困ったものだ。英吾は昔から青春の苦悩と挫折を主題にしたドイツ文学的作品の創作に夢中になり、大学を卒業してからも、ちゃんとした仕事に就くことも無く、フラフラして日々を過ごしている。貧困を恐れず、孤独を背負って生きることが、美しい人生の歩き方だと、いまだに思っているようだ。しかし、上京のついでに、弟の英吾を説得してくれと両親に言われて来た正夫は、家族の要望を伝えない訳にはいかなかった。
「いずれにせよ、オヤジもお袋も、年齢を重ねて、独り身でいるお前の事が心配で心配で仕方ないらしい。一度、故郷に戻り、両親に元気な姿を見せて、国島家にも挨拶したらどうなんだ」
「馬鹿な息子は故郷に帰らない方が良いんだ。その方が、遠くで暮らすバカ息子のことを心配して、両親も長生きするよ」
「困った奴だな」
正夫は英吾を説得することを諦めた。何度、説得しようと、英吾の意志は固い。国島家の珠江には英吾の事は断念してくれと伝えるしか仕方ないと思った。久しぶりに再会した兄弟は、焼酎を飲み、深夜まで語り合った。そして正夫は、翌朝、英吾の故郷へと帰って行った。
〇
満開の桜の季節がやって来ると、黒木洋介の住む家の近くの隅田川界隈では,毎年、花見客で賑わう。そんな下町の雰囲気を味合わせようと、黒木から向島で飲もうと誘いがあった。向島と聞いて、英吾の脳裏に、2月のことが思い出された。あれは梅の花の季節だった。今度は桜の花の季節だ。何かが起こるのではないかと、ちょっと心配だった。英吾は目黒から電車を乗り継ぎ、浅草の吾妻橋の船付場近くまで行って、黒木と合流した。そこから墨堤公園まで花見をしながら、散歩し、桜祭りを見学した。日本人は花見が好きだ。戸川公園入口から、墨堤公園までの道は花見客でごった返していた。快晴で隅田川の川風が優しかった。言問橋から桜橋あたりまで、花見客がいっぱいで、歩くのに一苦労した。黒木と英吾は桜祭りに酔う川べりの屋台で、ビールを買って飲んだ。イカ焼きも美味しかった。隅田川の桜祭りは芸者衆まで繰り出して、実に華やかだった。夕方になり、あたりが薄暗くなり始めると、屋形船が何艘も灯りをつけて現れ、桜祭りは更に賑わった。その頃合いを見計って、黒木が馴染みのスナック『どん底』に英吾を誘った。二人が店に入って行くと、店内は満席だった。そこで黒木は理恵ママに言って、何時もダンボールなど積んである片隅のテーブルを整理してもらい、何とか座って飲む場所を確保した。黒木と英吾が席に座ると理恵ママが英吾を見詰めて言った。
「お久しぶり。お待ちしてましたのよ、内山先生」
ママの梅崎理恵が、英吾の名前を憶えていいてくれたのには驚いた。こういった水商売の人たちは、一度来た客を忘れないというが、その記憶力には感心する。英吾は前回、『どん底』に来た時、彼女からアドバイスを受けて、絶望のどん底を這いつくばる人たちの怠惰と狂気を描くことにチャレンジしたが、まだその作品『トンネル』は未完のままだった。理恵ママから声を掛けられた英吾は、理恵ママを見つめ返した。
「お久しぶりです。黒木に誘われ、隅田川の花見に来ました」
「そう。墨堤公園の桜、綺麗だったでしょう」
「うん。綺麗だった」
英吾に代わって黒木が答えた。理恵ママと黒木は相当に長い付き合いのようであった。冷えたビールで乾杯しながら、理恵ママが言った。
「うちのお店の花も綺麗なのよ」
理恵ママが妖艶な笑みを見せた。そう言われて店内を見回すと、以前、来た時より、ホステスの数が増えていた。桜祭りでの来客を見込んで、アルバイト女性を採用したらしい。理恵ママに指示され、加奈子と千春が席に付いた。英吾は二人を見て、黒木と理恵ママに言った。
「ママの言う通り、この店の花も綺麗だな」
「そうでしょう」
理恵ママは嬉しそうに、頷いた。それに黒木が付け加えた。
「そうだろう。君の小説に登場させても良いんじゃあないかな」
「どちらの小説に登場させれば良いと思う?」
「そりゃあ、決まっているよ。『文芸夜話』だよ」
黒木は女性たちを前にして、好き勝手なことを言った。加奈子も千春も、会話の意味が分からず、自分たちの飲み物をマスターに頼み、乾杯の準備をした。そして飲み物がそろったところで、五人で乾杯した。それから理恵ママは他のお客に呼ばれ、席を外した。すると黒木が加奈子と千春をからかった。
「ママが『どん底』の花も綺麗なのよと言ったけど、君たち、今夜、花見させてくれるの?」
「ママが、そんなこと言ったの?」
「うん。うちのお店の花も綺麗なのよと確かに言った」
「うん、言った」
英吾が黒木に口裏を合わせると、加奈子が好色の目で、男二人に答えた。
「でも、私たち高いのよ。びっくりする程よ」
「何でびっくりする程、高いの?」
「だって、ここ向島ですもの」
そう答えた加奈子は肉感的な体格のがっちりした女だった。男女の事が好きそうだった。それに比べ千春は恥ずかしそうにうつむいているだけで、英吾たちと視線を合わそうとしなかった。20歳の女子大生だという。黒木は、加奈子と長い付き合いのようで、英吾にお構いなしに加奈子を口説いた。
「俺、美人を見ると、直ぐに欲しくなるんだ。加奈ちゃんだって同じだよな。俺のような男を見ると燃えるんじゃあないの」
「そりゃあ、女ですもの」
「そうだよな。オリンピック選手が金メダル、欲しがるのと同じだよな」
「そうね。私、金が欲しいわ」
加奈子の答えに、傍にいた客まで、それを耳にして笑った。理恵ママと山本太一マスターは桜祭りで店が繁盛し、御満悦そのものだった。黒木は何故か、英吾と千春をくっつけようとした。店が終えたら加奈子と何処かにしけ込む考えらしい。
〇
スナック『どん底』の営業時間が終えてから、英吾は黒木に付き合わされた。『どん底』で席についてくれた松井加奈子たちにラーメンをご馳走するという約束で、浅草に出た。
「ママも来たかったんじゃあないの?」
加奈子が黒木と理恵ママの関係を心配して、黒木に訊ねた。すると黒木は笑った。
「いや。ママにとって俺は本命で無く、控え投手だよ」
「まあっ。じゃあ本命は誰よ?」
「分かっているくせに・・」
黒木が、そう言って睨みつけると、加奈子は笑った。浅草のラーメン屋は深夜近いのに混んでいた。そこで四人は黒木がおすすめの豚骨ラーメンをご馳走になった。満腹になり外に出ると、綺麗な満月だった。
「じゃあ、俺たち車で帰るから」
黒木は、そう言うとタクシーを拾い、加奈子と走り去った。英吾は千春と二人、きょとんとしたまま、ラーメン屋の前に残された。英吾はこれからどうすれば良いのか迷った。まずは千春に訊ねた。
「千春ちゃんの家は何処?」
「八広よ」
「困ったなあ。俺、目黒なんだ。八広まで送って行けないので、タクシー代あげるから、タクシーで帰りなよ」
「私を一人で帰すつもり?」
「だって送って行ったら、俺、帰る電車が無くなっちゃうから」
「じゃあ、私を目黒まで連れてって」
千春のその言葉に英吾はびつくりした。向島のスナック『どん底』で、俯いて座っているだけの千春だったのに、大胆な事を言う。
「だって俺たち、初めて会ったばかしだよ」
「初めてではないわ」
そう言って千春が、英吾をじっと見つめた。英吾はハッとした。それは、あの時、英吾を恨めし気に睨みつけた女子大生の目だった。彼女は英吾に向かって言った。
「私、貴男をずっと探していたのよ。私の命を消させてくれなかった貴方を・・」
「その千春ちゃんが、どうして『どん底』に?」
「或る日、黒木さんが、『どん底』に入るのを見つけて、貴方の事を聞こうと追いかけて行って、黒木さんに訊ねたの」
「黒木の奴、びっくりしたろう」
「ええ、びっくりして、ママと一緒に相談に乗ってくれたわ」
「そう。俺、余計な事をしたのかな」
「いいえ。助けてもらって感謝してるわ。お陰で辛くとも生きる気になれたわ。黒木さんとママにも助けられたわ」
「それは良かった」
「働き口の見つかっていない私に、『どん底』で働いてみないかとママが言ってくれたわ。辛いけど頑張れるかって。ママには私が抱えている苦しさや悩みが見えてたみたい」
千春の言葉を聞いて、英吾は『どん底』の理恵ママが言った言葉を思い出した。貴方は絶望の底を這いつくばる人たちの怠惰と狂気を描くことねと。千春はなおも言った。
「ママは私のような辛い経験をしたことがあるのかもしれないわね。私に時々、言うのよ。辛さを積み重ねれば、幸せになれるって。そういえば幸せという字は、辛いという字に似ているわね」
「そうだね。ママの言う通りだ。生きていれば幸せになれるよ」
「そうあって欲しいわ。そうで無かったら、貴方の責任よ。これから目黒まで行くのは遠いから、私の所へ来て」
英吾は千春との再会に感激し、千春の事を、もっと詳しく知りたくなった。英吾は千春の誘いを受け入れた。二人は言問い通りからタクシーに乗って、千春が暮らす八広のアパート『白百合荘』に行って、千春の部屋で話した。千春はお茶を淹れてから、英吾に入水自殺を図った時の理由を語った。
「私の家は千住の『村上鉄工所』という小さな町工場で、従業員5人の部品加工会社だったの。私の小さい時は好景気で、羽振りも良かったわ。でも私が高校生で、大学受験する頃から、仕事が減ったの。だけど家族や従業員の為、廃業する訳には行かなかったの。その為、父は工作機械のリース料や社員の給料を支払わなければならず、あっちこっちから、多額の借金をしてしまったの。そのうち景気が上向くだろうと思っていたのに、増々、不景気になり、会社が倒産。父は借金取りに追われ、ノイローゼになり、工場の中で首をくくって自殺したわ。母は、その時、私を抱きしめ、私と一緒に泣いたのに、父の葬儀が終わるや、従業員の男と駆け落ちして、二度と家に戻って来なかった。独りぼっちになった私のところにも借金取りが来て、私は住む家を失くし、花川戸の叔母の所に厄介になったの。私は、そこで酷い目に遭ったわ。大学を辞めて、風俗で働き、親の借金を返せと、迫られたの。それで人生に絶望し、隅田川で入水自殺を図ったの。でも、貴方に助けられた・・」
村上千春の話は、英吾の想像の届かぬ不幸そのものであった。英吾はあの時、千春が言った言葉を思い出した。
「私にも事情があったのに・・」
あの髪を濡らしたまま、恨めし気に英吾を睨め付けた眼光は、英吾の胸に突き刺さったまま、今も生きていた。千春は尚も話を続けた。
「私、あの時、助けられて本当に良かった。大切な人を失って生きることは過酷であるけれど、あそこで死んでしまったら、何もかもおしまいだったわ。本当に生きてて良かった。助けてくれた内山先生に心から感謝してます」
そう語り、千春は英吾の手を握った。英吾はためらいもなく千春の手を握り返し、千春を見詰め、諭すように言った。
「人間は死ぬ為に生まれて来たのではない。生きる為に生まれて来たんだから・・」
そう英吾が言い終わると同時に、千春が英吾の胸に跳び込んで来た。英吾はびっくりした。どうしたら良いのか分からなかった。自分にしがみつく千春の身体は震えていた。英吾に抱かれ泣いていた。その泣きじゃくる千春の姿が愛おしかった。自分に抱きすがっている千春の命を救ってやることが出来たのだと思うと、矢張り、あの時、助けてあげて正解だったと思った。千春は目にいっぱい涙を浮かべて、英吾に言った。
「先生。私を仕合せにして・・」
英吾は戸惑った。ここへ来る時、想像していたことが、現実になってしまった。千春は英吾に囁いた。
「私の総てのものが先生のものよ」
確かに千春は英吾が拾った英吾のものかも知れなかった。千春は英吾にそう言って接吻すると、目を閉じた。千春が今日の日の為に準備していた花園は英吾が予想していた通り、甘い香りを放ち、妙なる美しさに満ちていた。
〇
五月、英吾の小説『夢みたいな話』の単行本が『文永社』から刊行された。娯楽雑誌『文芸夜話』編集部の西村雄一デスクの提案のお陰だった。英吾は、そのお礼という事で西村先輩を銀座に誘った。居酒屋『村田』で食事をしながら、西村に単行本の出版に尽力してくれた御礼を言った。
「西村さんの支援により、この度、『夢みたいな話』が出版され、西村さんのお骨折りに心から感謝してます。私の名前を冠した単行本が発行されたなんて、夢のようです。これで、やっと周囲の者に物書きだと言えるようになりました」
「うん、そうだよ。君は立派な作家になれたんだ。作家の仲間入り、おめでとう」
西村デスクにとって、可愛い後輩である内山英吾の名前が文学界に登場したことは、自分の事のように嬉しくて仕方なかった。西村は店の女将が運んで来たビールのジョッキを英吾のジョッキにぶつけて喜んだ。乾杯のビールは最高だった。二人は美味しい刺身と焼き魚などを食べながら、これから新人作家として、どんな作品を主体に書いて行くべきかを相談した。西村デスクが求めるのは、『文芸夜話』に相応しい、ちょっとエロっぽい、ユーモア小説だった。英吾は出版社のバックアップが重要なので、当分、この路線で執筆して行くしか仕方ないと思った。居酒屋『村田』での食事代は西村デスクへのお礼を兼ねて英吾が支払った。その後、二人は西村デスクの馴染みのクラブ『紅バラ』へ行った。八丁目『Nビル』の地下への階段を降りて、店のドアを開けると。『紅バラ』のママ、細川久美が香水の匂いをプンプン振りまきながら、二人を歓迎した。
「まあっ、西ちゃん。内山先生。いらっしゃい」
和服姿の久美ママは、、そう言うと、西村と英吾を、奥のテーブル席の赤いレザーのソフアに座らせた。久美ママがスツールに座ると、直ぐにママの娘、由紀と笛子が二人の席に付いた。乾杯が終わり、久美ママが席を離れるや、由紀が英吾に質問した。
「この前は内山先生の詩論について勉強させていただきましたけど、今日は小説について訊きたいわ」
「のっけから、小説の話か。色気が無いな」
西村が由紀に文句を言った。そんな西村と由紀を見て、笛子が笑った。まるで子供みたいなじゃれようだ。こんな言葉のやりとりが、西村と由紀の愛情表現であることを笛子は分かっていた。なのに、そういった雰囲気を読めぬ英吾は、小説について真面目に論じた。
「私に言わせれば、今の小説は、本来の小説の意義を喪失しているように思えます。本来の小説は、事実の記録、現実でもあり、告白でもあり、説教でもあり、夢想でもあり、憧憬でもあり、いろんな事象を包含しているものです。つまり作家の構想に基づき、時代、思潮、社会環境、現実事件などをテーマに描かれるものです。それ故、その作中に登場する人物の中に夢や人間性などを委託する表現、文学形態がなければならないのです。しかし、最近の小説執筆者には、その意義なるものが欠落してしまっているように思われます」
「難しい事を話すのね」
笛子が英吾を見詰めた。すると西村が女たちに言った。
「うん。内山先生は作家なんだから、難しい文学思想があるんだよ」
「それで、どうなの?」
由紀が、先を訊ねた。そう質問されると、英吾は調子に乗って喋った。
「うん。今の小説は現実離れした夢想以上のものが多すぎる。ここでいう夢想は現実的夢想、作家に訪れたことがなくても、作家以外の何者かが体験した偶然的現実の範疇のものです。ところが、最近、その夢想が夢想を超越した未知への想望に変化してしまっているのです。この未知への想望を描くことが異常であり、問題だと私は思っています。主人公がまさに超人的で、人間味が全く失われている人物なのです。何から何まで失敗の無い超人的であるスーパーマンだから、私は読んでいて、嫌になってしまうんです。一般人でいながら一部超人的なものを持っていても、その人物の中に人間味があるのであれば許せるが、その主人公が全く神様同様に空を飛んだりするから納得出来ないのです。漫画なら許せるが、小説の世界では許容出来ないことです」
「何か分かるような気がするわ。スーパーマンや宇宙戦争、ファンタジー、ホーラの作品が多いですものね」
「そうなんだ。それは、私に言わせれば、白雪姫や一寸法師、空飛ぶジュータンといった少年少女の夢物語レベルなんだ。ちょっと、それらを現代風に大人っぽく化粧して描いただけの作品なのだ。しかし、今の若者は、単純で、これらの作品に熱中し、その世界を信じてしまい、もっと身近にある現実的夢を探そうとしない。遠い遠い未知の夢を見てしまっている。そういった幼児的若者に、出版社は幼児的作品を売り込み業績を上げている」
そんな英吾の熱弁に西村が、口を挟んだ。
「でも、いろいろあって良いのじゃあないかな。そういった作品を好む読者がいるのだから・・」
娯楽雑誌を発行している『文永社』に在籍している西村は、自社の業務を擁護するような発言をした。『文永社』は娯楽雑誌の他、推理小説やホーラ小説、SF小説、ファンタジー小説などを出版している。彼の気持ちも分かるが、英吾はむきになって言った。
「それが問題なんです。テレビや漫画や小説で得た知識の分別が出来ない若者が増えているから問題なのです。善悪の見分けが出来ない若者が増えているのです。自分が描いた想像を正しいと思ってしまうのです。殺人などの犯罪事件をあつかった小説が流行したりすると、人間性を身に付けないまま育った若者が、殺人を犯したりするのです。その殺人小説は人を殺す方法を巧みに教えてくれる教科書になってしまっているのです。悪書は良書を駆逐する。その為、犯罪や人殺しが現実化されるのです。現代人は道徳的小説と出会い、人間に回帰せねばならないのです」
「成程。そういう考えもあるか」
「そんなことから、私は自伝的小説が好きなんだ。作者の本心が通っていて、人の心を動かせると思っているんです」
すると途中から席に加わった浅野美穂が余計な事を言った。
「内山先生って、芯から硬いのね」
「そうなんだ。内山先生は、何処も硬いんだ」
西村デスクの言葉に、女たちがドッと笑った。その様子を目にした英吾は、こんな連中に文学論を語っても、何にもならないと思った。矢張り文学は黒木洋介たち同人誌仲間と語り合うべきものだと感じた。急に無口になった英吾に気づき、由紀が笛子に言った。
「笛ちゃん。内山先生の『夢みたいな話』が単行本になったのよ。良かったじゃない。これからが楽しみの有望作家なのよ。大事にするのよ」
「はい。分かっています。私は内山先生のフアンですから・・」
「本当に分かっているのかなあ。フアンになるってことは、一度、決めたら二度とは変えず、一生、応援するってことなんだよ」
「そうよ。野球チームのフアンと同じ。勝っても負けても応援するの。夢中になって、裏切られても、がっかりしても、それでも本気で好きを貫き通すの」
西村と由紀が、笛子を扇動した。すると笛子は英吾にもたれかかり、西村と由紀と美穂に言った。
「分かってます」
それを聞いて、西村たち三人は唖然とした。英吾は皆のやりとりを聞いて、人生、こんなで良いのだろうかと思った。人生なんて、そう簡単に決められるものではない。全て他人との関りの中で流されて行くのだから・・。
〇
クラブ『紅バラ』の店が閉まるのを見計らって、西村雄一デスクが英吾たち三人を、真夜中のコーヒーに誘った。何時もと同じパターンだった。『紅バラ』の細川久美ママは、そんな娘たちの行動を見抜いていて、娘の由紀が一時も早く西村と結婚してくれれば良いのだがと願っていた。四人は『紅バラ』を出ると、喫茶店『コージーコーナー』に入って、真夜中のコーヒーを飲むことにした。そこで、西村たちが、コーヒーの他にケーキを註文し、英吾の『夢みたいな話』の単行本の出版祝をしてくれた。英吾は三人に礼を言った。自分の単行本の出版など、遠い話と思っていたが、それが現実になると、何故か世間に認められたような気分になり、これからの自信となった。三人に祝福され、喜びに浸っていると、突然、由紀が西村デスクと立ち上がって英吾に言った。
「内山先生。私たち、お先に失礼します」
英吾は、その言葉を聞いても慌てなかった。何時も経験している事だから、驚くことでも無かった。英吾は、立ち去ろうとする西村と由紀のカップルに、立ち上がって礼を言った。
「西村さん。今日は有難う御座いました。飲み代を支払っていただいた上に、お祝いまでしてもらって」
「良いんだ。『紅バラ』の費用は会社のつけだから。これから頑張って下さい」
西村デスクは、そう言って、全員のコーヒー代とケーキ代を支払うと、由紀と手を組んで、喫茶店から出て行った。そんな二人を見送ると、笛子が英吾に囁いた。
「西村さんが、これから頑張ってと言ったから、私たちも帰りましょう。今日こそ、うちのマロンを見て頂戴ね」
英吾は戸惑った。間違いなく、笛子からの誘いだった。心の片隅で期待していたことだが、いざ声をかけられると、どうしたら良いのか、心で葛藤した。笛子は英吾の手を引っ張るようにして、喫茶店から出て、通りでタクシーを拾った。笛子の住所は渋谷区広尾だという。英吾は成るに任せた。タクシーは銀座から六本木の夜のネオン街を通り抜けて西麻布から広尾へと入った。竹原笛子が暮らすマンションは7階建てで、彼女は、そこの402号室を借りていた。タクシー代を支払い、笛子に案内され、彼女の部屋に入ると、彼女は直ぐに、愛犬の入っているドッグハウスの扉を開けた。するとオスのシーズーが英吾に跳びき、吠え付いて来た。英吾は、慌ててた。
「おお、この犬、何とかしてくれよ」
「マロン、マロン、駄目よ。駄目よ。静かにしなさい」
それでも、子犬がじゃれつくので、英吾は子犬の名を連呼した。
「マロン、マロン、マロン・・」
すると一層、マロンは吠えて、部屋中を走り回った。しかし笛子が抱き上げると、マロンは大人しくなった。英吾はマロンに嫉妬した。得体の知れぬ情欲が、激しく英吾の身体に沸き起こった。笛子はマロンを上手にあやして、ドッグハウスではなく、ドックハウスの上に置いてある旅行用のキャリーボックスにマロンを入れた。マロンは、これから旅行に出かけるのだと想像したのだろうか。更に大人しくなった。それを確認して、笛子が英吾を手招きした。マロンのいる居間の奥にある別室に移り、そこで会話しようということらしかった。英吾は彼女の指示に従い、別室に移動した。そこは寝室だった。部屋の中に大きなダブルベットが備え付けてあった。笛子は英吾を、そのベットに引きずり込んだ。
「やっと二人になれたわね。寝ながらゆっくり、お話ししましょう」
英吾は彼女に引っ張られ、彼女の上に重なると、妄想に追われ、返事することが出来なかった。そこで彼女に軽くキッスした。隣の部屋でマロンがワンワン吠えたが、二人には関係なかった。衣服を脱ぎながら、もつれ合った。笛子の白い肌は美しかった。キッスの後、豊かな笛子の乳房を愛撫し、更に彼女の大事な所に触れようとすると、笛子は身体をよじり、すり抜けようとした。英吾はそれでも諦めず、彼女の裸体を愛撫した。時間をかけ、ゆっくりと、柔らかに、優しく、情感をこめて、彼女の全身を愛撫し続けた。すると彼女が次第によがり声を上げ始めて、秘めたる所に触れても逃げなくなった。英吾がそこに薬指を差し込むと、彼女はやっと扉を開いた。英吾は遠慮なく笛子に侵入した。その先は迷宮。彼女の強い吸引力に嵌まってしまった。彼女はたちまち絶頂に達した。激しい戦いが終わると笛子は満足したのであろうか、晴れやかな声でささやいた。
「内山先生。激しくて、とても良かったわ」
英吾は、喪失感に襲われ、返事することが出来なかった。笛子は沈黙している英吾にキッスすると、英吾をバスルームに案内した。二人で小さなバスタブに入った。子供みたいに、ふざけ合った。バスルームから出ても、二人はふざけ合った。マロンが嫉妬して、再び吠え出した。
「マロンがうるさいから、もう寝ましょう。泊まって行くでしょう」
「うん」
もう、真夜中過ぎだ。英吾は笛子に従うしか方法が無かった。明け方、求められると、それに従った。
〇
小説『夢みたいな話』が単行本になってから、英吾のフリーライターの仕事は忙しくなった。他の出版社からも、原稿依頼が舞い込み、今までのようにゆったりした気分で創作にふける余裕がなくなった。一日中、ぼろアパートの2階の部屋で、頭をかきかき、原稿用紙に文字を書き込んだ。気づいてみれば、今日も、既に夕暮れ時になっていた。英吾はペンを置き、ブレザーをひっかけ、外に出た。住宅街を抜け駅前にあるラーメン屋『どさん子』に入り、味噌ラーメンと半チャーハンのセットを註文した。英吾は、ここの常連だった。たまに自炊をすることもあったが、ほとんどが外食だった。サラリーマン時代、北海道に出張し、札幌のラーメン横丁の味噌ラーメンを食べた美味しさが忘れられず、『どさん子』に来ることが多かった。その『どさん子』での夕食を済ませてから、英吾は商店街をと通り抜け、薄暗い料亭の森の前を通って、久しぶりにスナック『夜汽車』に飲みに行った。
「いらっしゃい」
相変わらずのメンバーが英吾を歓迎した。英吾は何時ものようにカウンターの片隅の席に座ってビールを飲んだ。桃子ママが恨めしそうに言った。
「最近、忙しそうね」
「うん。原稿依頼が増えちゃって。ママのお陰だよ」
そう言って、英吾は桃子ママにウインクした。英吾に初めてウインクされた桃子ママはドキッとした。そんな桃子の動揺に、誰も気づかなかった。店には床屋の息子、小野克彦が、何時か連れて来たことのある友人、佐藤四郎と来ていた。珍しく池田社長と北沢老人の姿が無かった。
「池田社長と北沢さんは?」
「あの『チロル事件』から、来なくなったの。北沢さんは時折、来てくれるけど」
「そりゃあ、残念だな。池田社長たちの話を聞くのを楽しみ来ているのに」
「まあっ、私たち女性とお酒を飲むのを楽しみに来ているのじゃあなかったの?」
「それは勿論だけど、人生経験豊富な池田社長たちの面白い話、聞けないなんて、ちょっと寂しいよ」
すると月子が英吾の所に寄って来て言った。
「池田社長の話も面白いけど、稲垣部長の話も、面白いのよ」
その稲垣部長は今夜もお客を接待して、賑やかに場を盛り上げていた。彼らはゴルフの話をしていた。英吾はゴルフをしたことが無いので、ゴルフ用語を余り知らなかった。しかし、稲垣真二の話は営業部長だけあって、ゴルフをしたことのない月子や明美や英吾をも笑わせた。
「冗談の分からぬ奴と遊びに行くものではないね。この間は、そんな冗談の分からぬ奴とゴルフに行ったものだから、悪いスコアになってしまって負けてしまったよ」
「冗談の分からない人って、どんな人?」
「うん。ゴルフのスタートの時、俺がプレイをリードしてくれるキャディさんに言った御世辞にケチをつけたんだ」
「何て?」
月子が訊くと、稲垣部長は水割りを、ちょっぴり飲んで、一同の顔を見渡して言った。
「キャディさん。この近くには、美人が多いんですねと、俺が言ったら、キャディさんが嬉しそうに顔を赤らめたのに、そいつは冗談を言うなよと、俺の事を叱りやがるんだ」
「まあっ」
「と、いうことは、キャディさんが不美人ということじゃあないか。キャディさんだって人間だ。そう言われたら気分が悪くなる。だから、俺のボールが泥で汚れたら、綺麗に磨いてくれるが、そいつのボールなど、綺麗にしてくれないんだ」
「当然よね」
「そうよ。穴入れするには、相当、褒められないと、女はいうこと訊かないのよ」
桃子ママも話に加わり、エロ話に変じた。稲垣部長は調子に乗って、更に語った。
「冗談の分からぬ奴とのゴルフは面白くないね。そいつが、ボールを草むらに打ち込んだら、キャディが、そいつに言ったんだ。ラフと女には金を使えって。そしたら、そいつは、どういうことかって訊くんだ。全く困っちゃったよ。冗談が通じないんだ」
稲垣部長の言葉に、稲垣部長が接待しているゴルフの経験者や桃子ママたちが、ドッと笑った。皆が何故、そんなに笑うのか理解出来ない月子は、稲垣部長に質問した。
「女に金を使えっていう意味は分かるけど、ラフって、何よ?」
すると稲垣部長は月子に、丁寧に教えて上げた。
「ゴルフで草深い所をラフと言うんだ」
「まあっ」
「そこからボールを出すのには、安定感のある金属製のクラブ、アイアンを使うんだ。つまり木製のクラブで無く、金属製のクラブを使って、芝が短く刈り込まれているフェアウェイに出しなさいという教訓みたいな言葉さ」
「その金属製のクラブと女に使う金をかけたのね」
「そうなんだ。なのに奴は分からないんだ。草深い所に玉を入れたら、金が必要だってことを理解していない。ただで済むと思っているんだ」
「ただで済むなんて。そんな馬鹿な女はいないわよ」
今まで黙って聞いていた真理が突然、真剣な顔で、男たちを見回して言ったものだから、ここでまた、一同が、ドッと笑った。池田社長たちが不在であったが、『夜汽車』の夜は相変わらず賑やかで、楽しかった。
〇
暑い夏になった。八月八日、土曜日、幼馴染の国島珠美が上京して来た。英吾は珠美と上野駅の改札口で合流した。水色のワンピース姿の珠美は、眩しそうに目を細めて改札口から出て来た。二人はまず上野公園を散歩した。青葉の森の中や不忍池の畔をゆっくりと歩きながら、互いの近況報告をした。過ぎ去った時間と記憶が蘇って来た。故郷の人たちは皆、元気だという。突然、珠美が木陰に佇んだので、英吾も立ち止まった。珠美が真剣な眼差しをして言った。
「私、英吾さんに話したいことがあるの」
「それで来たんだろう。話って何?」
「おなかが空いていて直ぐには話せないわ。後で話すわ」
珠美は、そう言って笑った。そこで英吾は不忍池の畔にある料理店『伊豆栄』に珠美を連れて行き、そこの名物、ウナ重を食べながら、話をした。珠美は、自分の家族の事や、英吾の家の事、中学時代の同級生の近況などを沢山、話した。沢山の事を話されたので、英吾には、その中のどれが、彼女が話したいことなのか分からなかった。確認したいと思ったが、そうすることは、ためらわれた。沢山のことを語り、何も話すことが無くなってしまったところで、二人は『伊豆栄』を出た。
「これから、何処へ行こうか?」
「決まっているでしょう。英吾さんのアパート」
「ええっ。俺のアパート。暑くって駄目だよ」
「でも一泊するつもりで、出て来たから・・」
「なら、映画を観て、時間をつぶそう」
英吾はいろいろ考えた。珠美をアパートに連れて行って、『夜汽車』の桃子ママと鉢合わせなどしたら大変な事になる。そこで、近くの映画館『上野東宝劇場』に珠美を連れて行き、『恋の大冒険』というコメディ映画を観た。歌手の今陽子、相良直美、由紀さおりたちが唄いまくるミュージカル映画で、珠美も喜んでくれた。映画を見終えてから、夕方になるまで、時間があったので、英吾は珠美を湯島天神に連れて行き、互いの幸福を祈願した。それが済むと、珠美がはしゃいで言った。
「では、アパート行きましょう」
「暑いから、駄目だと言っただろう」
「じゃあ、どうするの?」
「あそこに泊まろう」
英吾が湯島神社の下にある旅館『みやこ荘』を指さした。すると、珠美は素直に頷いた。二人が硬い表情をして『みやこ荘』に入ると、気立ての良い女将が出て来て、二人を一階奥の部屋に案内してくれた。宿泊料が高そうであったが、ここのところ収入が増えている英吾はこの時とばかり奮発することにした。浴衣に着替えて、風呂から出た後、酒と食事を部屋に運ばせ、ゆっくりと寛いだ。酒を少し口にすると、珠美がにっこり笑って言った。
「今度のお盆の同級会に、貴方を参加させるよう、仲間から強く言われているの。だから、それを伝えに来たの。私たち、ただ、ワイワイ付き合っているだけで、はっきりしないから・・」
「はっきりしないって?」
「お互い結婚適齢期でしょう。私、皆の前で、はっきりさせたいの。英吾さんでない人の奥さんになるなんて、私、考えていないんだから」
「ええっ」
「ええっじゃないでしょう。私の事、嫌いなの?」
「いいや。嫌いじゃあないよ。だけど、まだ結婚は・・」
「じゃあ、どうするのよ」
「兎に角、お盆に田舎には帰れない。俺はまだ一人前になっていないし、経済力がないから」
「経済力が無くても、私が働けば何とかなるわよ」
「そうは言っても、俺の仕事は孤独と向き合う仕事だ。珠美ちゃんを不幸にすることになる」
「そ、そんな。そんなこと無いわ。私といるのが楽しいんでしょう。私だって楽しいんだから」
「そりゃあ、そうだけど・・」
英吾は、これ以上、珠美に酒を飲ませては駄目だと思った。一気に酒を空にし、食事を終わらせた。すると仲居がやって来て、食事を片付け、二組の布団を敷いてくれた、すると珠美は、その布団の上に座り、再び喋り出した。
「何とかなるわよ。二人で努力すれば大丈夫」
「しかし、世の中を軽く見てはいけないよ。珠美ちゃんは貧乏の辛さが、まだ分かっていないんだ」
「もともと貧乏の家で育ったのだから平気よ」
珠美は何があっても、一、二年のうちに結婚したいと思っていた。何時までも待っていられなかった。時が流れて行くのが不安だった。このまま停滞していることが恐ろしかった。心に余裕など無かった。そんな珠美の心境も考えず、英吾はのんびりして、あくびをした。
「眠くなったの?」
「うん。さっきから、同じことを何度も言われて眠くなった」
「まあっ。じゃあ寝ましょう」
「じゃあ、おやすみ」
英吾は酒を飲み過ぎた所為か、本当に眠くて、直ぐに自分の布団に潜り込んだ。すると珠美は部屋の電灯を消し、英吾の布団に潜り込んで来た。
「ごめんなさい。一緒に寝させて」
「駄目だよ。そっちで寝ないと」
「いやっ。私、我慢出来ない。抱いて欲しいの」
英吾は珠美の求めに応じ、珠美の身体をまさぐった。珠美の身体は想像以上に豊かだった。幼い時からの付き合いだが、互いに真っ裸になり、抱き合うのは初めてだった。互いに望んでいたことであったが、初めてだった。二人は子供の頃、川遊びした時のようにじゃれ合った。英吾は夢中になって珠美を攻撃し、珠美は英吾の激しさに興奮した。英吾が発すると、珠美が痙攣して果てた。英吾はやさしくささやいた。
「これで、満足したかい?」
「はい。良かったわ。これで結婚出来るわ」
珠美は汗にまみれたまま、英吾の背中に手をまわし、喜びの声を上げた。英吾は珠美にはめられたと思った。翌朝二人は、再び愛し合い、湯島の旅館『みやこ荘』を出て、上野駅に行って、そこで別れた。
〇
九月、読書の秋。内山英吾の小説『銀色の月』が英吾の第二作品として、『文永社』から出版された。その作品は下町の酒場を舞台にした深く心にしみ入る人間ドラマ。都会に出て来た男の郷愁と恋愛を描いた悲哀に迫る物語という触れ込みで発売された。その内容が第一作品『夢みたいな話』より文学的であったことから、同人誌『星座』の島田卓也主幹や黒木洋介が中心になり、『銀色の月』の出版記念パーティを開いてくれることになった。同人誌『星座』の連中は、出版社から認められ、全国販売の単行本を出版出来た英吾を羨ましがるとともに、自分たち同人仲間の英吾が作家の仲間入りをしたとして大いに喜んだ。その出版記念パーティは、土曜日の夕方、銀座1丁目の『銀座アスター』の一室で開かれた。パーティに出席したのは『文永社』編集部の藤森博之部長をはじめ西村雄一デスク、編集担当、堀口良平、編集助手、石山秀子、装丁者、高橋のぞみたち出版関係者5名、有名作家、井上隆史と久世明の2名、同人誌『星座』の仲間10名、英吾の大学時代の友人、3名、それに『紅バラ』の細川由紀、竹原笛子、『どん底』の松崎理恵ママ、松井加奈子、村上千春など、水商売の女性たち5名。総勢20数名のパーティーとなった。パーティの進行は同人誌『星座』の島田主幹と黒木洋介の段取りで進められた。司会は『星座』の詩人、中野弘子が黒木とコンビになって進めてくれた。最初に『星座』の主幹、島田卓也が、出版記念パーティの趣旨を述べ、その後、『文永社』の藤森博之編集長が、主賓の挨拶をした。それに続いて西村デスクが、乾杯の音頭をとった。会場はバイキング方式になっていて、五個の丸テーブルに各五名が適当に座った。西村デスクの乾杯が終わり、皆が食事を始めた所で、英吾は黒木の指示を受け、今回、出版された小説『銀色の月』を執筆した経緯を説明した。その緊張が終わり、英吾が席に座ると、竹原笛子が、食事を運んで来てくれた。英吾は軽く食事をしてから、各テーブルを回った。
「おめでとう」
『銀の月』の解説を書いてくれた有名作家、井上隆史先生に声を掛けられると、英吾は有頂天になった。その井上隆史が司会の中野弘子に紹介されると、英吾の作品をべた褒めしてくれたので、集まった連中は、これから英吾が文壇で活躍すること間違いなしと期待した。そんな英吾に招待された女性たちは、そっと英吾に近寄り、個人的におめでとうを言った。二時間ほどして、英吾は再び壇上に立たされ、スナック『どん底』のママ、梅崎理恵から、大きな花束を受け取った。黒木が理恵ママを花束贈呈者に選んだのである。そして、英吾が花束を抱いて感謝の言葉を述べ、夜の八時半にパーティは終了した。パーティ終了後、黒木立ち、『星座』の同人たちは、梅崎理恵ママに引き連れられて、向島のスナック『どん底』に行った。英吾は有名作家の井上先生や久世先生と一緒の藤森編集長から、先生たちに付き合えと声をかけられ、西村デスクや堀口良平と銀座八丁目のクラブ『紅バラ』へ同道した。井上先生は、英吾の出版記念パーティで、英吾以上に脚光を浴びたので、ご機嫌だった。英吾は大学時代の友人と久しぶりに飲みたかったのであるが、『文永社』の藤森編集長や井上先生たちとの付き合いを優先した。パーティ会場を出る時の『どん底』へ向かう村上千春の恨めしそうな視線も気になったが、英吾は知らん顔をした。英吾たち『紅バラ』行きの連中は、由紀と笛子に案内され、短い距離なのに、2台のタクシーに分乗して、銀座一丁目から八丁目まで移動した。八丁目のクラブ『紅バラ』では和服姿の細川久美ママが香水をプンプンさせて、井上隆史先生の来店を待っていた。
「先生、お久しぶり」
一同が入って行くと久美ママは色やかな笑いで、井上先生を迎えた。ここでも皆にちやほやされ、井上先生は御満悦だった。しかし笛子は英吾にぴつたりと寄り添い、花束の管理などにも気を配った。久美ママの掛け声で、ウィスキーの水割りで乾杯すると、井上先生は新進作家の英吾に、偉そうに言った。
「内山君。作家は売れてなんぼだよ。売れる作品の書き方を教えてやるよ」
「はい。よろしくお願いします」
「それは事実と妄想の境界線など、全く無視して、読者の嫉妬心を煽り立てることだよ」
それを聞いて、藤村編集長をはじめ一同が納得しかのように頷いた。久世先生はテレビドラマの製作について説明してくれた。11時前になると井上先生たちと藤森編集長が帰ると言うので、英吾たちも、それに従って『紅バラ』を出た。
〇
クラブ『紅バラ』を出てから、西村と英吾は堀口良平と別れ、喫茶店『コージーコーナー』に行き、由紀と笛子を待った。女性たちは十分ほどすると、喫茶店にやって来た。何時ものように真夜中のコーヒーを飲みながら四人で喋った。由紀が改めて今日の出版記念パーティの感想を述べた。
「今日のパーティ素晴らしかったわ。内山先生、あんなに沢山の人たちに祝福されて仕合せね」
「うん。有難う。全て西村さんのお陰だよ」
「俺は、そんなに活躍していないよ。段取りをしたのは『星座』の黒木君だ」
「でも、西村さんに推薦していただき、『銀色の月』を出版してもらえなかったら、パーティなんか無かったのですから」
「そうよね。西ちゃんのお陰よね」
由紀は、そう言うと、西村に寄り添って笑った。そんな由紀に代わって、笛子が英吾に言った。
「内山先生。パーティで頂いた花束、お店で二つに分けて持って来たの。一つを由紀ちゃんに持って帰っていただくけれど、良いわね」
「ああ、良いよ」
「こっちは、私たちで持って帰りましょう」
「うん」
ケーキを食べながら、そんなやり取りをしてから、四人は何時ものように、二組に分かれた。英吾と笛子は花束を抱え、タクシーに乗り、笛子の広尾のマンションに移動した。部屋に入ると愛犬、マロンが英吾に向かって吠えまくり、部屋中を走り回った。しかし、後は笛子の命令に従い、キャリーボックスの中に納まった。笛子は英吾がいただいた花束を、大きな花瓶に飾った。それから二人でバスルームに入り、身体を清めた。シャワーで身体を洗う笛子の細い立ち姿は美しかった。ベットに入ると笛子は早くも濡れて、甘美の世界へ英吾を誘導した。英吾は熱い吐息を吹きかけ、今日、付き合ってくれた笛子にキッスした。愛をこめ、彼女の起伏に富んだ肉体を優しく撫で回した。それに呼応し、笛子は潤滑油を溢れさせ、激しい愛を求めた。後は組んずほぐれつの絡み合い。笛子の中に潜んでいる欲望が津波のように荒れ狂い、英吾を一気に呑み込んでしまった。二人は悦楽の世界に溺れた。ことが終わると英吾は、ふうっと天井に向かって息を吐き出した。ベットの中で笛子が言った。
「今日、パーティに来ていた、あの髪の長い女の人、内山先生の恋人?」
「ああ、千春のことか。彼女は向島のスナックの女だよ」
「先生と関係があるみたいね」
笛子の言葉に英吾はドキッとした。心臓に悪い。その通りと答える訳にはいかない。
「彼女の働いているスナックは黒木の行きつけの店で、私に花束を贈呈してくれたママが、パーティを盛り上げる為に、彼女たちを連れて来た来たのさ。サクラだよ」
「そうとは思えないわ。私が貴方と乾杯した時も、パーティが終わってからも、彼女たちと別れる時も、彼女の目、私たちの方を睨んでいたわ」
「それは笛子の思い違いだよ」
「そうかしら」
疑いの言葉を発すると、笛子は再び絡みついて来た。英吾は全力を振り絞って、笛子を満足させた。二人の肉体の結合により生み出される愛は、笛子の肉体の奥深くに浸透した。その結合の余韻は甘く切なく、二人を酔わせた。総ての欲望を吐き出した英吾は、空になった身体を横たえ、愛を吸収して満足している笛子に手を握られた。
「来週、また会ってね」
「うん」
英吾は、そう答えたものの、束の間の快楽を得る為に、付き合うのは良くないと思った。どんな成り行きがあるにせよ、女とは、誠実に付き合うべきだと思った。
〇
10月になると、『銀の月』が好評を博し、英吾の仕事は増々、忙しくなった。猫の手も借りたい英吾は、おんぼろアパート『月光荘』の二階の部屋で、ねじり鉢巻きをして、創作に夢中になった。従来の『文芸夜話』の原稿や埋め草の仕事以外に、小説を書かなければならなくなったからだ。そんな英吾の所へ、突然、村上千春が訪ねて来た。
「どうして、ここを?」
「ママに送られて来たパーティの御礼の手紙を読ませてもらったの。そこに書かれてあった先生の住所、メモしちゃったの」
「それで、ここへ」
「そう。私の八広のアパートに二度来てくれたっきりでしょう。三度目を待っていたのに、全然、来て下さらないから、私が来ちゃった」
英吾は唖然とした。遠くからやって来た千春を突っ返す訳にも行かず、英吾は千春を仕方なく部屋に招き入れた。千春は入って直ぐのたたきの脇の小さな靴箱に白いハイヒールを収納すると、遠慮なく英吾の部屋に入った。千春は畳の上に上がると、英吾の狭い部屋の中を物珍しそうに見回した。入って直ぐの左側の壁に洋服タンスと本棚が並び、その奥の突き当りに押し入れと、小さな台所があった。南側は一面、窓になっていて、ベランダは無かった。千春の部屋より、旧式だった。千春が暮らす『白百合荘』の部屋はバス、トイレ付だったが、英吾のところのトイレは室外の共同トイレで、風呂は無く、まだ銭湯利用だった。英吾の仕事机は窓辺にあり、テレビは押入れの片隅に設置されていた。物書きの部屋らしく、書物がいっぱいで、書物の臭いと男の臭いが入交り、千春には不快だった。千春は、そんな臭いに耐えられず、南側の窓を開放しながら、英吾に言った。
「私の所に引っ越して来ない?」
「藪から棒に、何を言い出すんだ」
「その方が、お互いに経済的でしょう」
言われてみれば、その通りであるが、英吾には同棲の経験が無い。同棲生活は互いに助け合うことが出来、便利な事であろうが、彼女が創作の邪魔になると思われる。作家とは孤独の中で、妄想を広げ、現実に回帰する生き物である。誰かが傍にいたのでは、妄想が駆け巡らず、慰撫されることがないだろう。英吾はやんわりと言った。
「俺には、ここが似合っているんだ」
「一流作家になったんだから、ここでは、おかしいわよ。もっと広い所で、快適に創作に取り組んだら、素晴らしい作品が更に生まれるわ」
「そうかなあ」
英吾は曖昧な返事をした。千春は台所でお湯を沸かし、持って来たケーキをテーブル兼用の炬燵板の上に置いて、机に向かっている英吾に声をかけた。
「ケーキを食べましょうよ」
そこで英吾は一旦、座った仕事机からテーブルに移動し、千春と向き合って、ショートケーキをいただいた。もし、千春と同棲することになったら、こんな時間が増えるに違いない。英吾は部屋で滅多に食べることのない甘いケーキを、ゆっくりといただいた。千春が、そんな英吾の顔を下から除きこむようにして言った。
「この間のパーティ、盛大だったわね。あんなに褒められ、先生、仕合せね」
「黒木のお陰だよ」
「黒木さんと仲が良いのね」
「うん。大学生時代からの同人誌仲間だからな」
「ところで、あれから私たちと別の二次会に行ったのでしょう」
「うん。井上先生や『文永社』の編集長に引っ張られて、銀座のクラブに連れて行かれた」
英吾は、ありのままを話した後、突然、この前の笛子の言葉を思い出した。彼女の目、私たちの方を睨んでいたわよという笛子の怪しんだ言葉だ。その笛子の疑惑は的中していた。
「パーティに出席した笛子さんという方、細くてモデルさんみたいね。先生の恋人なの?」
あの日の笛子のことを訊かれ、英吾はびびった。以前、笛子が英吾に投げかけた質問と全く同じ千春の質問だ。女の感は鋭い。どう答えて良いのか、一瞬、戸惑ったが、平然と答えた。
「俺に恋人などいないよ。彼女は銀座のホステス。俺のような貧乏作家など、眼中に無いよ。彼女は玉の輿を狙っているんだ」
「本当かしら」
英吾は聞こえなかった振りをして、ケーキを食べ終わると、腕時計で、時刻確認をした。午後の三時半過ぎだった。心が落ち着かなかった。
「天気が良いから、送って行こうか」
「まだ少し時間があるのに」
「でも俺の部屋、汚いから、外に行こう」
千春は仕方なく英吾の意見に従った。二人はアパートを出て商店街を歩き、目黒駅まで行き、結局、そこから五反田駅経由で、地下鉄の電車に乗り、八広の『白百合荘』の千春の部屋で、時間を過ごすことになった。二人は、そこで何度も抱き合い、愛し合った。
〇
英吾にとって、村上千春が明るさを取り戻してくれたことは、この上ない喜びであった。心の何処かに、引っかかっていたものが、綺麗さっぱり、無くなった感じだった。残る悩みは故郷にいる国島珠美のことだった。彼女が誰かと早く結婚してくれれば良いと思った。故郷の事を考えると、何故か憂鬱な気分になった。すると英吾の足は、自然とスナック『夜汽車』に向かった。鈴付きのドアを開けると、何時ものように女性たちが明るく英吾を迎えた。
「いらっしゃい」
英吾は軽く手を上げ、桃子ママがいるカウンターの片隅の席に座った。店には池田社長と北沢老人が復帰していた。床屋の息子、克彦たち若者や不動産屋の社長も顔を見せていたし、お客を連れた稲垣部長も来ていた。また隣町にある寺の坊主も最近、顔を見せるようになっていて、店内は何時もになく賑やかだった。英吾は一口、ビールを口にすると、桃子ママを見詰めて言った。
「池田社長たち、復帰したんだ」
「そうなの仲直りしたみたい」
桃子ママは、そう答えると、カウンターの上の英吾の手に指をからめた。その温もりを感じながら英吾はふと女たちの生態が怖くなった。世の中、男と女で成り立っているとはいえ、桃子も笛子も千春も珠美も、英吾の事をどのように考えているのだろうか。ちょっと不安だった。今更、そんなことを考えても、どうなるものではない。一人一人に生き方があるのだ。それにしても気心の知れた桃子ママと話していると気楽でいられた。ビールを飲み終わった後、焼酎のお湯割りに切り替え、近くのテーブル席で飲んでいる池田社長や月子たちの会話を、話のネタにしようと耳を傾けた。そうして『夜汽車』の時間を楽しんでいると、見慣れぬ男二人が店に入って来た。
「いらっしゃい」
桃子ママをはじめ、女性陣が明るい声で迎えると、一人の男が胸ポケットから、手帳を取り出し、桃子ママに示した。警察手帳だった。男はゆっくりと訊いた。
「ここに内山英吾さん、来ていますか?」
その問いに、桃子ママは唖然として何も答えられなかった。一同の視線が、英吾に集まった。後ろ向きの英吾は、カウンター席から離れて、二人の男の前に進み出た。
「私が内山英吾ですが、何でしょうか?」
英吾が訊ねると、手帳を見せた刑事が、微笑んだ。
「ちよっと事件の事で、お尋ねしたいことがありまして」
「どんな事でしょうか?」
「竹原笛子さんが亡くなられたことで」
「えっ、笛子が・・」
ふいの知らせに、英吾は次の言葉が出なかった。もう一人の刑事が、英吾に説明した。
「はい。一昨日、全身、数か所を刺され、即死しました。昨日の午後になって発見されました」
そう刑事が告げたので、『夜汽車』にいた皆がびっくりした。英吾は足がガタガタ震え、しゃがみこみそうになった。何故、笛子が?全く信じられぬことだった。刑事の言葉に、『夜汽車』の中は、シーンとなった。刑事の質問が始まった。
「あなたは竹原笛子さんと、婚約されていますか?」
「婚約だなんて。私は彼女が働いている店の客です」
「一昨日はどちらに?」
「昼間、自分の部屋で、仕事をしていました。夕方から仲間との会合に参加してました」
「昨日は?」
「昨日は一日中、家にいました」
「それを証明してくれる人はいますか?」
「一人なのですから、何処にも証明してくれる人はいません」
「昨日、朝帰りしたのでは、ありませんか?」
「朝帰りなどしていません。前の日、遅くまで、仲間と飲んで、11時過ぎに帰りました」
「飲んでいたのは、何処の店ですか?」
英吾は、ややっこしい殺人にからむ話なので、桃子ママに迷惑をかけてはならぬと思った。
「ここでは、店の営業に迷惑をかけますので、署に伺いましょう」
英吾は、そう言って、心配する桃子ママたちに、軽く頭を下げ、『夜汽車』を出た。それから目黒署まで行って取調べを受けた。警視庁捜査一課の刈谷刑事と金井刑事は、英吾の一昨日の行動の詳細を確認した。一昨日のことなので、英吾は細かく説明することが出来た。午前中、アパートの部屋で執筆。昼飯はアパートの近くの蕎麦屋『信濃庵』で、肉そばを食べ、午後から再びアパートで執筆。夕方5時半、駅前のラーメン屋『どさん子』で味噌ラーメンを食べ、6時半、学芸大学駅近くの喫茶店『ロマン』での同人誌『星座』の会合に出席。島田卓也主幹、黒木洋介、長島達夫、中野弘子、原田美穂らと、『星座』冬季号の原稿チエックと編集後記等のまとめを行った。9時半、駅前の焼き鳥屋『鳥平』で仲間と酒を飲み、11時半過ぎに、帰宅したと、こと細かに話した。その他についても何やかや質問された。長い取調べが終わって、アパートに戻ったのは、一昨日と同じ11時半過ぎになっていた。
〇
銀座のホステス、竹原笛子が殺害されたニュースは、たちまち日本中に報道された。英吾は翌朝、新聞で、竹原笛子が殺害された記事を読んだ。その記事は、『銀座のホステス殺害』ー顔見知りの犯行かーという見出しから始まり、こう書かれていた。
〈 25日午後4時頃、渋谷区広尾5丁目、ホステス、竹原笛子さん(26)が自宅マンションで倒れているのを、訪れた妹さん(21)が見つけ、110番通報した。竹原さんは既に死亡しており、胸や背中などに、数か所の刺し傷があったことから、渋谷署は殺人事件と断定し、捜査を始めた。警視庁捜査一課の調べによると、竹原さんは一人暮らし。竹原さんは、日曜日、昼に妹さんと銀座で待ち合わせる約束をしており、竹原さんが約束の時間に現れなかったことから、その後、妹さんが、竹原さん宅を訪れると、竹原さんが居間で倒れていたという 〉
英吾には、あの快活な笛子が、殺害されるなんて、全く信じられなかった。誰が何の目的の為に笛子を殺したのか。第一発見者が怪しいと言う者もいるが、笛子の妹が、大学の学費を出してくれている姉を殺害すなどとは考えられない。銀座のクラブ『紅バラ』にも、笛子を怨んでいるような者はいない。笛子から恋人はいないと聞いているが、関係する男は、多分、数人いるであろう。その中の一人が、彼女と別れ話にでもなって、殺害したのであろうか。あるいは何かのトラブルに巻き込まれたのか。ただ単なる物取り、あるいは変質者の犯行だろうか。英吾は新聞記事を読んでから、睡眠不足のまま、執筆することが出来なかった。ただ、ぼんやりして、笛子や愛犬マロンのことを考えて、午前中を過ごした。昼食は近所の蕎麦屋『信濃庵』に行き見張りに来た捜査一課の金井刑事と一緒に、世間話をしながら、肉ソバを食べた。金井刑事とは天ぷらソバを食べながら気楽に話した。
「金井さんの仕事って大変ですね。私のような身動きしない人間を見張るなんて」
「でも仕事ですから」
「捜査で何か進展ありましたか?」
「彼女、昼間、青山の喫茶店でアルバイトした後、銀座の『紅バラ』に行って働いていたらしいです」
英吾の知らない笛子の日常だったが、英吾は黙って、金井刑事の話を聞いた。本来なら話してはならぬ個人情報であろうが、それを漏らすことによって、新たなる情報のきっかけを英吾から引き出せると金井刑事は計算しているのであろうか。肉ソバを口にしている英吾に金井刑事が訊いて来た。
「内山先生は、竹原さんの妹さんに、会ったことがありますか?」
「いいえ」
「妹さんは、女子大生で、優秀らしいですよ。内山先生は妹さんのことを疑っていますか?」
「そう言われても、面識が無いので、分かりません」
英吾には金井刑事が、笛子の妹について訊いて来る意図が分からなかった。姉妹喧嘩による殺人と疑っているのか。英吾は金井刑事に、ざっくばらんに訊いてみた。
「金井さんは、笛子のスポンサーを知っていますか?」
「内山先生も分かっているのでしょう。不動産会社の社長、本間琢磨と喫茶店主、小林直人の二人です。二人には当日のアリバイがあります。内山先生のアリバイも証明されましたし、犯人探しに苦労しています」
「犯人の手がかりは全くないのですか?」
「今、角度を変えて調査しています」
「角度を変えてといいますと?」
「犯人は妹さん以外の女性ではないかと」
金井刑事は喋ってはならぬことを口にした。英吾の脳裏に銀座のクラブ『紅バラ』の女性たちの顔が浮かんだ。金井刑事には英吾が『紅バラ』の利用客であることは調査済みであった。
「内山先生。銀座の店で、怪しいと思われる人いませんか。彼女の部屋に、彼女以外の二種類の女性の毛髪が見つかり、一つは鑑識で妹さんのものだと分かったのですが、残る一つが分からないのです」
「そうですか。『紅バラ』の人たちの毛髪を調べてみてはいかがですが?」
「調べましたが、該当者がいないんです」
「そうですか。となると彼女の友達か妹さんの友達でしょう」
英吾は、そう言ったが、痴情のもつれかも知れないと思った。もしかすると不動産会社の社長、本間琢磨の妻の髪かも知れない。あるいは喫茶店主、小林直人の妻の髪か。英吾には皆目、見当がつかないことだった。どうして笛子は殺されたりしたのであろうか。犯人は誰か?犯人は何処にいるのだろうか?自分はまだ疑われているのだろうか?
〇
11月16日の月曜日、英吾は竹原笛子殺しの犯人を検挙したという知らせを金井刑事から受けて動転した。笛子を殺害したとして検挙されたのが、向島のスナック『どん底』のホステス、村上千春だというのだ。信じられないことだった。何故、村上千春が笛子と繋がりがあるのか。あるとすれば九月十九日の土曜日、レストラン『銀座アスター』で開かれた『銀の月』の出版記念パーティーでの出会いだ。そこで二人は知り合い親密になったのかもしれない。しかし何故、千春が笛子を殺害することになったのか、その理由が不明だ。英吾は向島のスナック『どん底』のママ、梅崎理恵に電話した。すると理恵は泣き声で訴えた。
「内山先生。先週、金曜日、大変だったの。刑事さんが来て、千春を連れて行ったの。どうも渋谷の殺人事件に関係しているらしいの。事件の日、彼女、ちゃんと出勤したのよ。千春が渋谷まで行って、殺人したなんて、信じられないわ」
「俺にも信じられないんです。千春ちゃんはママに何か言っていなかったですか?」
「トラブルに巻き込まれているとか、人を恨んでいるなんてこと、言ってなかったわ。でも内山先生のこと気にしていたわ。誰か好きな人がいるんじゃあないかって・・」
「俺には、そんな相手などいなですよ。いたら結婚してますよ」
「そうよね。内山先生の奥さんになる人って、にじみでるような知性のある人で、品の良い人ですものね」
英吾は理恵ママと話しながら、千春の事を思った。英吾には千春が何を考え、笛子を殺害したのか、その精神状態が理解出来なかった。理恵ママは喋り続けた。
「私はね。向島芸者の娘で、いろいろ苦労して来たの。だから黒ちゃんに、千春を働かせて欲しいと依頼された時、彼女の不幸な身の上を知って採用したの。私は自分がどん底の生活を経験したから、どん底の娘を集めて、スナック『どん底』をやっているのよ。うちの店で働く娘たちは皆、不幸者ばかりだけど、皆、仕合せを感じて、生き生きと生活してるわ。千春だって明るく毎日を過ごしていたわ。それが何で?」
「何かの間違いでしょう」
「そうだと良いのだけれど。13日の金曜日に刑事が来たのだから、不吉を感じちゃって、私、寝不足なのよ」
「そうですか。そんな体調の時に電話して、ごめんなさい」
「でも、どんな事情があろうとも、人の命を奪って良いという理屈はないわよね」
英吾は、その言葉に、自分が疑われているような不快感を覚えた。それを察知したのか、理恵ママが、失言を訂正するかのように言った。
「いずれにせよ、千春は戻って来ると思うわ。その時は電話しますから、『どん底』に遊びに来てね」
「はい。黒木と一緒に飲みに行きます」
英吾は理恵ママとの電話を切ってから、更に深く、笛子殺人の動機について考えてみた。
〇
英吾は部屋に寝転んで天井を睨みながら考えた。ここからは想像だ。村上千春は、あの『銀の月』の出版記念パーティーの夜から、銀座のクラブ『紅バラ』の竹原笛子という女が気がかりでならなかったらしい。千春は笛子についてあらゆる角度から調査した。結果、自分が信頼している新進作家、内山英吾に竹原笛子が言い寄っていることを知った。将来を期待される男性に女性が魅力を抱くのは当然だ。そして竹原笛子の住むマンションをつきとめ、彼女の部屋に訪問した。千春は笛子に確かめた。
「笛子さん。貴方は内山先生と、どういう関係なの?」
「私の親しいお客様よ。近いうちに結婚しようって話し合っているわ」
「それって、詐欺じゃあないの。近いうちに、近いうちにと言って、何時までも結婚しないで、他の男とも付き合っているって・・」
「何が証拠で、そんなことを」
「不動産屋の社長や、喫茶店の主人が、貴方のマンションに出入りしているじゃあないの」
笛子は英吾や世間の人に気づかれないように行動しているのに、千春が自分の不貞行為を知っているので驚愕し、どうしたら良いのか困惑した。このままだと英吾は勿論のこと、不動産会社の本間社長や喫茶店の小林オーナーにも知られてしまうかもしれない。この女は内山先生欲しさに、ここに押しかけて来たのだ。どうすれば良い。追い返すしかない。内山先生とは客とホステスの関係であり、先程、話した関係は嘘であり、個人的付き合いは皆無だと説明し直すべきか。それとも、最初、言った通り、真剣に結婚を考えていると言うべきか。瞬間、英吾に書いてもらった嘘のラブレターのことが笛子の頭に浮かんだ。ここを切り抜けるには、あの嘘のラブレターを千春に見せて、千春に帰ってもらうしかないと考えた。笛子は強気に出た。
「貴方が何を言っても、内山先生は私を愛しているわ。内山先生が私に下さったラブレターがあるわ。お見せしましょう。御覧になって・・」
笛子は本棚から英吾の書いた嘘のラブレターを取り出し、千春に開示した。千春は、そのラブレターを読んだ。そのラブレターには、最近、僕はしばしば、貴女との結婚を夢に見ますなどと書かれてあった。ショックだった。その手紙を読んで、千春は狂乱した。思い人の実態が何なのか分からなくなってしまった。笛子はせせら笑った。
「分かったでしょう。内山先生は場末の女など相手に考えていないわよ」
「そんなこと無いわ。内山先生は、貴方のことを玉の輿を狙っている女だと言っていたわ。先生と別れて。先生と別れて。先生は私のものよ。私の命なの」
「何を言っているの。内山先生は私の物。横取りは許さないわ」
二人の激しい口論の様を見て、ドックケースの中の愛犬、マロンが吠え立てた。二人の口論は取っ組み合いになり、ついにはキッチンにあった包丁を笛子が持ち出し、それを奪った千春が笛子を・・。
英吾の、その想像は、ほぼ実際に近かった。後で分かったことであるが、同様の事を村上千春が自白したと言う。
〇
英吾は部屋の中で千春のことを思い、自問した。隅田川に入水自殺した千春を助けたのは過ちだったのだろうか。あの時、千春が英吾に言った。
「私にも事情があったのに・・」
英吾はあの時の恨みがましい千春の眼差しを思い出した。あのまま、助けずに放置しておいた方が、彼女にとって仕合せだったのかもしれない。あの時、溺死していたら、殺人など犯さずに済んだのだから。ひよっこ作家の悲しみは果てしなく続いた。生きるとは恐ろしい事だ。これ以上、書くと更に辛くなるので、話はここで終わりにする。
《 ひよっこ作家の悲しみ 》終わり