2 そんなに不幸ではないのよ、本当に
部屋に戻るととても心配そうな顔をして侍女のパメラが待っていた。
「お嬢様、顔色が優れませんが…大丈夫ですか?奥様もずっと塞ぎ込んでいらっしゃるようで…」
「ええ…そうでしょうね、私もまだ嘘じゃないかと思ってしまうんだもの…お母様の嘆きようも仕方ないわ…」
一人掛け用のソファに体を預けるように深く座り込む。こんな座り方淑女らしくないけれど、今日ばかりは見逃してほしい。
すっかりくたびれているマリアンナの様子を見て、普段と違う何かが起きているのを察したのかあまり語らずパメラは少々お待ちくださいと告げて部屋を出ていく。
あのあと父は「マリー、苦労をかけてすまない…。すぐに良縁を探そう。なにも心配することはない」と言われている。
「ほんの少しも、沈んでいる暇はないのね…」
伯爵家に生まれたときからの運命だと理解はしているけれど、それでもほんの少しだが心が痛んでいる。その痛みと向き合う時間もないのだ。本来であれば結婚間近だったのに、たち消えてしまったのだから父からすればマリアンナの婚約者探しが急務になってしまった。
「マリーお嬢様、こちらカモミールティーですわ」
浮かない顔をしているマリアンナを気遣うようにお茶を淹れて戻ってきたパメラ。ソーサーとカップを丸テーブルの上に置き、ゆっくりとお茶を注ぎ込んだ。
「ありがとう…良い香りだわ」
「お嬢様、差し支えなければパメラに離してはくださいませんか。話すことで気が紛れることもあると思います」
「そうね…貴女にも関係のある話だもの。貴女にも聞く権利はあるわ。まず単刀直入に言うと来年の結婚は中止になってしまったわ」
「え…っと…延期ということですか?」
「いいえ、中止よ。婚約がなくなってしまったの」
貴女にもついてきてもらう予定だったけど、一旦白紙ね。
「ど、どうしてそんな…!結婚式は来年のデビュタントが終わればすぐのはずでは?!」
そんな時期に婚約が白紙になるなんてそんなことが罷り通っていいのか、と訴えるパメラ。その主張はまったくもって正しい。普通だったらありえない時期だ。
毎年デビュタントは社交シーズンの五月第一の女神の祝福日に行われている。十二歳から十八歳くらいまでの結婚適齢期を迎えた貴族の令嬢たちが大人としての一歩を踏み出す大事な行事だ。
マリアンナはいま十六歳で、年を跨いだ半年後のデビュタントに向けた準備と並行して結婚式の準備をしていた。
来年はとても忙しくなる。こうしてダスティン領で過ごす冬は終わりだと思うと寂しくなると生まれ育った土地を目に焼き付けていた。のにも関わらずその予定も感傷にひたる必要すらなくなってしまった。
おそらく和平条約の内容については国家機密である可能性があるため発表があるまではパメラにだって話すことはできないができるだけ説明をした。
パメラは大きなため息を吐いて、それからそっとマリアンナの手を握りしめた。
「差し出がましいことをして申し訳ありません。しかし、それではあんまりではないですか…お嬢様は何も悪いことをしていないのに…」
「仕方ないわ…。王命なんですもの、それに国王陛下が私達貴族の婚姻に口を出さなければならないほどお困りの事態…それに協力しないわけにいかないわ」
パメラはますます困ったような、何かを決意したような顔をしている。
マリアンナ付きの専属侍女として物心がついた頃からずっとそばにいてくれたパメラの目には傷つきながらもそれを見せないように穏やかに見せている、と思われているようだ。
もしかしたらマリアンナでさえ気づいていない気持ちをパメラはわかっているかもしれない。幼い頃から知っている分、マリアンナ自身よりもパメラのほうが詳しいかもしれない。
「お嬢様、無理をなさらないでください」
握りしめられた手の温かさに少しずつ落ち着いてくる。自分の感情と向き合って見るも、やっぱりほんの少しだけ悲しいだけで激しく感情を揺さぶられるようなものはない。
「そんなに気にしないでパメラ。だって二度目ですもの」
婚約解消も二度目になればそれほど痛みもない。
「二度目と言ってもお嬢様はほとんど覚えてらっしゃらないでしょう?だって四歳のころの話ですよ!」
「それでも二度目は二度目よ」
ただ今回はあと一年もしないうちにペーデル領に行き、挙式をして、ペーデル侯爵家の嫡男の妻として生きていく予定だった。それがなくなってしまうとマリアンナはこれからどうしたらいいのかわからなくなる。
それは確かに不安がないわけではない。地に足がつかない。どこかふわふわとしている心地だ。それが快不快のどちらなのかまではわからない。
「結婚式の中止や、それに伴って婚礼衣装の製作の中止なども職人たちに伝えなくちゃいけないわね…。お母様たちが手配してくださるかしら…」
「おそらくですが旦那様が手配なさるかと…」
「せっかく職人達が手塩にかけて作ってくれているのに申し訳ないわね…。ここまでの分でも給金が出ればいいのだけど…。ああ、このあたりの必要なお金を王家が迷惑料として負担してくれればいいのに…ねえ、パメラ」
「不敬ですよ、お嬢様」
「あらきっとこのくらいなら女神様も許してくださるわ」
ずっと浮かない顔をしていたパメラが初めて少しだけ微笑んだ。それにホッとしてマリアンナはカモミールティーのおかわりをねだった。
その日の夕食はとても静かだった。
というのもお母様が泣き腫らした赤い瞳でずっとお父様を睨んでいたからだ。お父様も気まずいのか、横からの視線に気づかないふりをして正面を向いたままだ。
食事中に話をするなんてはしたないことをする人間はダスティン伯爵家にいない。なので食事を終えるまでは静かなものだった。
「アイザック、マリー少しいいかしら」
「はい、お母様」
「マルグレート…」
淑女らしく背筋をピンと見せて当主であるアイザックに向き直る。
「先ほどは取り乱し、お見苦しいものを見せたことを申し訳なく思います。ただ、わたくしは貴族の妻としてではなく、ひとりの母としてこんなにも悲しいことがあるのか。どうしてこんなめにかわいいマリーがあわなければいけないのか…!そう考えたら抑えきれなかったのです」
「マルグレート、君の気持ちはよくわかる…。私も伯爵ではなく、ひとりの父としてはこんな理不尽なことを許すことはとうていできない…。そう言いたかった。そんな私の分まで貴女が言ってくれたのだと理解している」
「貴方……わかってくださってうれしいわ…」
アイザックは正面に座っていたマルグレートのもとに駆け寄ると跪き、彼女の手を取る。それはまるで一枚の絵画のように美しい光景だった。
三人兄妹の末っ子であるマリアンナが見ていても、ダスティン夫妻は決して取り繕うことをしたり意地を張ったりなどしないとても仲の良い夫婦であることは社交界でもよく知られていた。
「陛下にも、お声をかけていただいており、マリアンナの協力なしに今回の和平は成らなかったと言ってくださっていた」
「まあ!」
「あら、それはすばらしいわ!」
まだデビュタントも済ませていないのに、国王陛下にそのような言葉を賜るなんてマリアンナは信じられない気持ちだった。
「先ほどの話の際には伝えられなかったが…きちんと和平が為されたことを陛下が発表される際にマリアンナの名を出して、救国の令嬢としても良いとおっしゃられている」
「お父様!それは、あの…さすがに身に余りますわ……ただ先ほどの言葉だけで私は充分です」
「そうか?陛下の覚えもめでたいのであればきっと次の婚姻先もすぐに見つかると…そう思っていたのだが…」
「貴方…マリーがイヤ、と言っているのだからこの子の気持ちを考えてくださいな…。それに陛下の御威光がなくともマリーなら引く手数多でしょう」
きっと来年のデビュタントで貴公子に見初められるかもしれません、というマルグレートにさすがにそれは親の贔屓目なのでは、とマリアンナは言いたかったが、先ほどまでの悲しそうな顔よりはずっと幸せそうな母を見ると水を差すことも憚られた。
「なんにせよ、マルグレートもマリアンナもお父様に任せなさい…。セリム殿とのことは本当に申し訳なかったが…マリアンナのための良縁をお父様が必ず見つけよう」
「はい、信じておりますわお父様」
ここまで読んでくださりありがとうございます。