リハビリ
後日、先ずはミミの件から片付けることになった俺は三級の異界に来ていた。京都にある花脊異界は、夏だと言うのに真っ赤に輝く紅葉で覆われていた。
「えっと……あの、何で顔隠してるんですか?」
「諸事情だ」
俺の顔を覆う真っ黒く穴の無いのっぺらとした仮面を指差してミミは言う。俺は五級のハンターだ。三級の異界に勝手に潜るのはアウトってことになる。念の為に顔は隠しておいて損は無いだろう。
「ていうか、それ見えるんですか……?」
「行ける」
目にすら穴の開いていない仮面は、確かに普通なら何も見えない。が、仮面だけ透過して見れば問題ない。
「ま、まぁ、老日さんが大丈夫って言うなら良いですけど……一応、配信もしてないですよ?」
「分かってる」
別に配信されてても顔は映らないからな。そこはどっちでも良い。
「じゃあ、えっと……行きますか!」
「あぁ」
退魔石の境目を超えて異界に足を踏み入れる。瞬間、空気が入れ替わったような感覚に襲われる。
「ッ、ピリピリしますね……」
「空気が違うな」
気後れするミミの腕を捕まえて、俺は異界を進み始める。
「私もここは初めて来たんですけど……綺麗な異界ですよね」
「なんで慣れてる異界を選ばなかったんだ?」
俺が言うと、ミミはあっと声を漏らした。
「……折角なら、綺麗な異界の方が良いかなぁと」
俺は溜息を吐き、ミミを軽く睨んだ。
「アンタ、本当は余裕なんじゃないのか?」
「い、いやっ、違いますよ! それに、アレじゃないですか! 慣れてる異界でどうにかなっても、本当に克服出来たか分かりませんし……!」
別にどっちでも良いんだが、危険な目に遭うのは自分の方だぞ。
「魔物の気配が少ないな」
「ここの魔物は比較的大人しいらしいですからね……」
そうなのか。確かに、それならリハビリには向いているかも知れない。
「……ッ!」
ミミが兎耳をピンと立たせ、森の奥を睨み付けた。
「き、来ますよ……敵が」
「あぁ、頑張れ」
ミミは震える手でナイフを抜き、木々の裏から現れた赤い鱗に覆われた熊を捉える。
「老日さん……あ、あの」
「大丈夫だ」
のそのそと近付いて来る熊を前にじりじりと下がるミミ。俺はその後退を止めるように肩に手を置いた。
「安心しろ。絶対死なん」
「……行きますっ!」
身長は二メートルを超え、凄まじい威圧感を醸し出す赤い熊を相手に、ミミはナイフを握って駆け出した。
「ブォオオオオオオッッ!!」
「ハァァ……斬るッ!」
同じように駆け出した熊。ミミの目が赤く染まる。
「ブォオッ!?」
「ッ!」
駆け出した一人と一匹が交差する。ミミはその圧倒的な速度で熊の横を擦り抜けながら、熊の腹部を斬り裂いた。
「ブォォォォ……ッ!」
しかし、鱗の隙間を狙ったその斬撃は、震える手によって僅かにズレてしまった。それでもミミのナイフは硬い鱗を斬り裂いたが、骨は疎か肉にも届いていない。
「はぁ、はぁ……ッ!」
混乱。焦燥。息が乱れ、ペースが崩れる。流石に不味いな。
「ブォオオオオオオッッ!!!」
「は、ハァッ!」
それでも、ミミはナイフを構えて熊に立ち向かっている。振り下ろされる鉤爪を避け、懐に入り込みながら腹部にナイフを突き刺した。突き刺してしまった。
「ッ、まずッ」
「ブォオオオオッッ!!!」
刃渡りのそこまで長くないナイフでは、熊を刺しても殺し切ることは難しい。その上、熊の分厚い筋肉に捕まってナイフを抜けなくなってしまった。
「ッ! 落ち着いて……冷静に」
ミミは宙返りし、鉤爪を避けながら後ろに下がる。
「替えは、あるよ……大丈夫」
ミミは予備のナイフを抜き、再び構えた。仕切り直しとなった戦場。熊が思い切り地面を叩き付ける。
「ッ!?」
「ブォオオオオオッッ!!」
地面が波打つように揺れ、衝撃が足元から伝わる。ミミは何とか倒れないように堪えつつ、目の前から迫る熊を見た。
「……ここしかッ!」
揺れる地面。伝わる衝撃。その波が落ち着く、静の一瞬でミミは地面を蹴った。
「ないッ!!!」
「ブォオオオオオッッ!!?」
赤い熊の濁ったオレンジの眼球が斬り裂かれ、轟くような悲鳴が上がる。しかし、その咆哮にミミは一瞬怯んでしまう。
「ブォォォォォッ!!」
怒り狂った様子で襲い掛かる熊。ミミの表情に僅かな恐怖が浮かび、ミミは後ろに跳び退いた。
「ミミ。アンタの速さがあれば、この状況はチャンスだ」
「分かって、ます……」
答えながらも、その表情に余裕は無い。ミミの目が赤く染まり、熊の動きを見切ろうとする。
「ブォオオオオオッ!!」
「ッ、ハァッ!!」
両腕を振り上げ、クロスするように鉤爪を振り下ろす熊。ミミはそれを回避しながら横腹を斬り付けた。しかし、震えるナイフは硬い鱗に弾かれ、ミミは勢いを失ってしまう。
「ブォオオオオッ!!」
「ぁ」
ミミの動きを幾度も見ていた熊の反応は早く、動きの止まったミミに鉤爪が振り下ろされる。
「大丈夫だ」
「ッ!」
俺は素手でその鉤爪を受け止め、軽く押し返すと、震えてナイフを持つミミの手を握った。
「アンタは闘気の使い方が下手だ。素体は良い。センスもある。異能も抜群だ。だが、心を落ち着けることが出来てない」
「老日さん……」
俺は握った手から自身の闘気を僅かに流し込む。毒にならないように、体に馴染むように細工した上でだ。
「闘気は心を奮い立たせれば強くなるが、上手く心を奮い立たせるには上手く心を落ち着ける必要がある。心に波があると闘気は弱い。緩急、強弱、起伏……とにかく、心の静と動を操れる奴が強いんだ」
「その、どうすれば……」
熊は簡単に攻撃を弾いた俺の存在に怯んでいるのか、まだ様子を窺っている。
「何となくで戦おうとするな。アンタは瞬間的な戦況しか見てない。だから落ち着けないんだ。相手の動き、速度、癖、全部じっくり観察してやれ。そうすれば、相手によっては必勝の動きを見つけられる。今みたいに速度で勝ってて余裕がある相手なら尚更な」
「……でも、観察してるつもりはあるんですよ?」
「違う。アンタの観察は相手の攻撃と隙を見てるだけだ。さっきも言ったが、瞬間的な戦況だな。それも当然大事だし、格下相手ならそれだけで余裕かも知れないが、同格や格上相手にはそれだけじゃ無理だ。はっきり言って、あの熊は格下だからそれでも余裕だと思うが……そろそろ、行けるだろ」
「確かに、落ち着いて来ました……これって」
俺はゆっくりと、ミミの体に俺の闘気を巡らせていく。それに気付いたのか、ミミが俺を見上げた。
「一回だけ、特別だ。それなら焦ることも震えることも無いだろ」
「っ、はい!」
俺はミミから手を離し、そのまま歩いて距離を取っていく。
「感覚と反射だけで戦おうとするな。思考を戦闘に入れれば、冷静になりやすい」
「らじゃーっ!」
俺が離れたことで動き出した熊。ミミは冷静に動きを捉え、その鉤爪を回避した。
「なるほど、言ってること……やっと、分かりました!」
怒りを取り戻した熊は、再びミミに鉤爪を振り下ろす。
「これ、余裕です」
ミミの目が赤く染まる。上体を逸らし、鉤爪を紙一重で回避したミミは、ナイフを鉤爪に引っ掛け、そこを支えにして跳躍し、隙を晒している熊の首筋を斬り裂いた。
「前言撤回だな」
「え、何がですか?」
ゴトリ、地面に落ちる熊の頭。
「闘気を扱う才能もある」
「本当ですかっ!?」
こいつ、俺の闘気を全部使って熊の首を斬り落としやがった。馴染ませているとは言え、他人の闘気だ。自分の物のように扱うのはそこまで簡単じゃない。
確かにあの刃渡りじゃ、そのまま熊の首を斬り落とすには足りていないが……冷静になって出る行動がアレってのは、色々と才能だな。
「いやぁ、一発であの熊をぶっ倒すにはアレしかないと思ったんですよね!」
「一発で倒す必要ってあるか?」
俺が言うと、ミミはふふんと笑った。
「だって、ジリジリやっても配信映えしないじゃないですかっ!」
駄目だこいつ、早く何とかしないと。