救うべきもの
一歩ずつ、ゆっくりと歩いて来るニャルラトホテプ。
「勿論、君の邪魔はしないさ。寧ろ、君の手伝いをしよう。きっと、それは混沌に満ちた日々になる……私の享楽も、満たされるだろう」
残り数歩。ニャルラトホテプはゆっくりと手をこちらに伸ばしてくる。
「君は勇者なんだろう? 救ってくれよ、この世界を……そして、私を」
目の前まで来たニャルラトホテプが、その手で俺の頬に触れようとする。
「……残念だが」
俺は伸ばされた手を弾き、その首筋に刃を添えた。
「――――勇者はもう、廃業した」
ニャルラトホテプはしかし、笑みを強めた。
「くふふ、優しいね。優しすぎるくらいさ、君は」
ニャルラトホテプは楽しそうに、そして残念そうに俺から一歩ずつ離れていく。
「あのまま不意を突いて私を斬れば良かったのに。私の首に添えた刃を少し動かして、そのまま斬り落とせば良かったのに……君は、それをしない」
無防備に背を向けて、離れていく。
「きっと、それは私が対話を望んだからだろう? 殺意の無い相手を殺したくなかったんだろう? だから、今から殺すぞなんて言う意思表示を見せずにはいられなかったんだろう」
十数歩歩いたところで、ニャルラトホテプは振り返った。
「くふふ……良いよ、止めても」
何を、だ?
「もう、全部止めたって良い。邪神の召喚も何もかも……君がそう言うならね」
「何を言ってる?」
俺は剣を強く握り、相手の言葉の真意を探ろうと考えた。
「ただ、私は君の傍に居るだけでも構わないさ。それくらい……ッ!」
ニャルラトホテプの美しい顔に一筋の傷が付き、人のような赤い血が溢れる。
「――――呆けているなよ、老日勇」
強い風が吹き、黄色い衣を纏った触手の人型が夜空より現れた。
「ふぅむ。随分、早かったね? 用意していたのかな?」
「本来なら、クトゥルフには化身を幾つか使い捨てて挑むつもりだったからな」
ハスターは俺の横に並び、俺の迷いを取り払うように強い風を吹かせた。
「そうだな」
俺は神殺しの剣を持ち上げ、ニャルラトホテプに向ける。
「俺は、鈍りかけていた」
あの殺伐とした日々から、この地球に帰って来た俺は、きっと平和ボケしていたんだ。ずっと、余裕があった。だからこそ、不要な優しさを持ってしまった。
「おや、私のことは救ってくれないのかな?」
「俺はもう、勇者じゃないからな。救う相手くらい……自分で選ばせろ」
俺が言い切ると、ニャルラトホテプは狂ったように笑みを深めた。
「くふふッ、良いね! 自分の意思で私を斬ってみせろ!」
俺は真っ直ぐに進み、無防備に手を広げたニャルラトホテプの体を真っ二つに両断した。神殺しの剣と術によってその肉体は再生することも出来ず、崩れ落ちていく。
「く、ふふ……ハハッ……」
嗤い声を上げながら、ニャルラトホテプは消滅した。
「油断するなよ、老日勇。アレも俺と同じ化身だ。追加が来るかも知れん」
「あぁ、分かってる」
俺は感覚を研ぎ澄ませ、周囲を警戒する。
「このまま何も来なければ俺は町の方に行くが……」
瞬間、そこかしこの地面が不自然に膨れ上がり、邪悪な気配が溢れた。
「そう来たか」
膨れ上がった地面は、粘土のように蠢いて人の形を取る。それらは直ぐに色を変え、紛うことなき人になった。
「やぁ、さっき振りだね」
「くふふ、少しは驚いてくれたかな?」
「私は無貌の神。泥の神。その気になれば……どこからでも、幾らでも」
全てが神性を持った化身。神力を操る邪神。その数は、既に百を超えている。
「外なる邪神。その一柱……ニャルラトホテプの力の一端を見せてあげよう」
俺は溜息を吐き、神殺しの魔剣を構えた。
「どうするつもりだ? ハスター」
「一応言っておくが、俺はニャルラトホテプとまで敵対する予定は無かったぞ」
確かに、共闘するのはクトゥルフとまでって約束だったな。
「まぁ、だが……手を出された以上、仕返しくらいはしてやろう」
「くふふ、それなら殺さない方が良かったかな。でも、仕方ないだろう? 君にあんなに無防備に立たれたら……奇襲の一つでも仕掛けたくなってしまうのが私の性だ」
百を超える顔が、同じ微笑みで俺達を見ている。ハスターは苛立ったようにニャルラトホテプを睨み付けた。
「そこまで言うなら、良いだろう……全面戦争だ」
ハスターが触手を高く掲げる。すると、下を向いた黄色い縁の円形のゲートが空に現れた。
「出でよ、我が眷属共」
巨大なゲートの内側、先の見えない漆黒から異形が顔を出した。