深淵にて
海中に現れる無数の生物。中でも一際大きな鮫はグロテスクで、大小不揃いな無数の眼球があちこちに埋まっている。
『潰えよ』
「ッ!」
瞬間、俺の身体に凄まじい圧力がかけられる。この海そのものが俺を潰そうとしているのだ。それも、クトゥルフの膨大な魔力による強化を受けた上でだ。
「『剛体化』」
「ヴォオオオオオオオオオッ!!」
速度を犠牲に肉体を強化し、海による圧力に耐える。そして、そこを目掛けて襲い掛かって来た巨大な鮫を一太刀の下に斬り伏せる。
『ッ、どんな力だ……化け物め』
真っ二つになった鮫の間から見えるクトゥルフを睨み、その障壁を更に解析する。
「……要するに、星そのものか」
やるべきことは決まったな。深い仕掛けは無い以上、純粋に力でぶっ壊すしかない。術を破綻させるにしても、今の俺では時間がかかり過ぎる。
「『禁忌の極致。諦観の果て、終焉は来たる』」
俺は、禁忌とされる魔術の詠唱を開始した。
「『崩れる大地、溶ける海』」
『そう易々と唱えられるとは思うな』
クトゥルフがこちらに杖を向ける。触手が地面から無数に生え、半魚人達と共に襲い掛かって来る。
「『空も砕けて、全ては塵に』」
『『二度目の屈辱』』
クトゥルフの横に人のようなものが何体か現れ、ゆっくりと起き上がる。
「『星砕き』」
俺は本来放つ筈の魔術であるそれをエンチャントとして扱い、神殺しの剣に直接付与した。代わりに持続できる時間は三秒も無いが、それでも十分過ぎる程だ。
「ぬぅッ!?」
神力、魔力、闘気、それらを合わせて振り下ろされた斬撃は、星砕きの力を持って星辰の障壁を砕いた。驚愕に目を見開くクトゥルフを守るように、怨嗟に満ちた表情の人間達が俺の前に立ち塞がる。
「アンデッドか」
「そう、だ……!」
血色が悪く、所々が朽ちている彼らは死霊だ。クトゥルフにより無理やり蘇らされたんだろう。
「悪いが、手荒な葬送になるぞ」
立ちはだかる五体の死霊。それらはどれも手練れで、生前は技術のある戦士だったことが分かる。もしかすれば、クトゥルフ等と神々が争っていた神代とでも言える時代から来たのかも知れない。
「『万年草樹、サラの原にて』」
「ぅ、ぉぉ……」
魔術士が一人、弓士が一人、他は戦士だな。俺は鋭く迫った矢を避けながら戦士達を飛び越え、後衛に斬りかかった。
「『深緑――――ッ!」
「ぐ……凄まじい、な……」
聖なる光を籠めた斬撃で魔術士を斬り裂き、そのまま弓士も斬る。斬撃の痕から光が広がり、二人はその一撃で浄化されていった。
「不味いな」
俺はクトゥルフの方を振り向いた。そこには、天に向けて幾重にも重ねられた黒い魔法陣があった。
『我が神よ! 偉大なるアザトースよッ!』
俺は背後から斬りかかって来た戦士達を無視して、クトゥルフの眼前に転移した。
『どうか、我を! 我が言葉を――――』
「『星辰断裂』」
瑠奈達の用意した術式を以って、星辰との繋がりと共にクトゥルフの体が真っ二つに引き裂かれる。
「ぉ、ぉぉ……神よ……偉大、なる……」
クトゥルフは完全に消滅し、振り返れば背後に居た戦士達も消えていた。未だ残っていた半魚人達を処理しようかと手を伸ばした瞬間、風によって全員が切り刻まれた。
「終わらせたか」
「あぁ、面倒ではあったな」
だが、俺が危惧していた程の強敵では無かった。やはり、精神干渉やら呪いやらを主体に使う神だったというのもあるだろう。そういうのが効かない俺にとっては、相性が良かったとも言える。
「さて、俺は次の場所に……」
そうして瓢達と連絡を取ろうとした瞬間、隣に居たハスターの体が弾け飛んだ。
「――――くふふ」
弾け飛んだハスターの残骸の上に一人の女が現れた。
「久し振りだね、老日勇」
女は水中で美しい黒髪をたなびかせ、こちらを見る。
「これは、無い方が良いかな?」
女が指を一つ鳴らすと、結界内を満たしていた海水が丸ごと消え去った。
「いやぁ、ハスターも昔は仲良くしていたんだけどね……ふふ、残念だよ」
「ニャルラトホテプか」
俺は神殺しの剣を向け、睨み付ける。
「おっと、怖いじゃないか。私はまだ、手を取り合えると考えているんだがね?」
「世迷い言だな」
歩き出そうとする俺を押し留めるようにニャルラトホテプは手の平を突き出す。
「一度、落ち着いて。話を聞かないときっと後悔することになる」
「何だ?」
俺は剣の先を向けたまま、言葉を促す。
「私はね……君が私の仲間になると言うなら、今世界に解き放った邪神の全てを引き戻し、これから封印を解く予定の邪神もそのままにしておくつもりさ」
「それで、仲間になった俺には何をさせるつもりだ?」
ニャルラトホテプはにやりと笑い、両手を広げた。
「何だって良い! 共に世界を旅しよう。この暗黒に満ちた宇宙の隅々までを! きっと楽しいよ? 数多の世界を私達の力で平和に導いてみようじゃないか! それは痛快な旅路だ。誰にも妨げられることは無い。時に苦難はあろうとも、私達ならば必ず乗り越えられるさ」
「何を言ってるんだ、アンタ」
俺は訝しむようにニャルラトホテプを睨んだ。
「なに、私達ニャルラトホテプにも性格や個体差なんかはある。だが、私は最もその本体に近い化身さ。そして、その考えは……何よりも、享楽を求めているというだけだよ」
ニャルラトホテプは一歩ずつ、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「世界を混沌に陥れるんじゃなかったのか? 邪神を蘇らせるのもその為だろ」
「確かに、私だって混沌は大好物だよ。混乱、狂気、その果てにあるモノを見てみたい……そんな気持ちは溢れる程にあるさ」
剣を持つ手を動かそうとした俺に、ニャルラトホテプは妖艶な笑みを浮かべる。
「だが、それ以上に私は君に興味があるのさ。自ら混沌に足を踏み入れる運命にある……勇者君にね」
「ッ」
少しずつ迫って来るニャルラトホテプ。足音は、しない。