旧支配者
準備も完了し、万全を期した状況で俺達はクトゥルフが復活する当日を迎えた。時刻は深夜の二時を過ぎ、夜空には星々が浮かんでいる。
「……感じるな」
俺は施設の近くの崖際に座り、海を見ていた。その横には瓢とアステラス、瑠奈、そして人の姿のハスターが立っていた。
「うん……ざわざわする」
「ふん、そう不安がることもあるまい。珍しく、この吾輩が本気を出せる状況なのだ。万に一つも負けは無い」
実際、こいつの本気の魔術を食らえば大抵の奴は死ぬ。邪神と言えど、タダでは済まないだろう。
「この際だから言っておく、老日勇。一つ忠告だが……あの呪文はそう気軽に使わない方が良い」
「あの呪文ってのは、どれだ?」
ハスターは緑に色付いた風を鍵の形にして、言った。
「門にして鍵だ」
アレか。確かに、地球で使うとちょっとピリッとした感覚がある。
「どういう理由でだ?」
「あの魔術からは、俺の知る限り最も強大な神の匂いを感じる。使えばその痕跡を辿られる上に、奴を忌み嫌う猟犬共にも狙われることになるだろう」
「……最も強大な神?」
「そうだ。奴は時間そのものにして空間そのもの。全にして一、一にして全。無名の霧より生まれし不滅の邪神。そして……俺の父親だ」
ハスターは空を眺め、その名を呟いた。
「――――ヨグ=ソトース」
それは、クトゥルフ神話に於いてもアザトースと並んで最強格の邪神と畏れられる時空の神だ。
「奴には気を付けた方が良い。と言っても、気を付けようも無いのが奴だが……少なくとも、あの魔術を使うのは危険だろう」
「そうだな」
今後は控えよう。別に、似たような効果を持つ魔術は他にもあるからな。
「……来たか」
ハスターは空を見て、言った。遥か彼方の星が強く輝き、次第に海が時化始める。
「うん、いよいよだ。神話のような戦いになるかもね」
瓢は微笑むような覚悟するような表情で海を見る。
「じゃあ、予定通りやるか」
俺は施設の中のステラに合図を出し、蘇ろうとする邪神の波動に目を細めた。
♦
南緯47度9分、西経126度43分。南太平洋の海底、太平洋到達不能点の近傍に沈む石造都市。それを擁する沈んだ石の島は余りにも巨大で、面積に限って言えば日本列島よりも広大だ。
『『『Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!』』』
海底より響く、狂気に満ちた声が。星々が輝き、星辰が揃う。沈みしルルイエが浮上する、主の再来と共に。
「――――ォォォォォ……」
地底から響くような、くぐもったオーボエのような、恐ろしい声。ルルイエの中心にある巨大な館の中で、その巨体が起き上がる。
『蘇った! 蘇ったぞ! あぁ! 我らが神、クトゥルーが蘇った!』
三十メートルを超える二足歩行の怪物。頭足類のような頭部からは無数の触腕が顎髭のように生え、手足からは巨大な鉤爪が伸び、その指の間には水かきが備わっている。
滑りのある緑色の鱗は全身を覆い、ゴム状の瘤があちこちで膨らんでいる。背中からは蝙蝠のような細い翼が開き、瞼の無い目には長方形の奇妙な瞳が浮かんでいる。
見るだけで吐き気を催すような嫌悪感と、生物的な格の差を思い知らせるような恐怖。そう、それこそがクトゥルフだ。
「……あ、ァ」
クトゥルフは館を出て天を仰ぎ、暗い海底にか細く通った星の光を見た。
「主よ。今度こそ、この星を捧げんことを……」
浮上するルルイエ。その途中で、海底からも見える程、空が強く光り輝いた。
「……またも、拒もうと言うか」
真っ直ぐに振り落ちた光の柱は、ルルイエを覆う巨大な結界とせめぎ合い、少しずつ罅を入れていく。
「良かろう」
凄まじい衝撃と共に結界が割れ、光がルルイエの中に入り込む。それはルルイエに乱立している奇妙な建造物を破壊し、地面に深い穴を開けてから消えた。
「全て、沈めてやる」
クトゥルフの体が、一歩歩く度に膨れ上がる。形はそのままに、サイズだけが大きくなっていく。
「――――原初の海より、全てをやり直すが良い」
遂に数百メートルの体長まで巨大化したクトゥルフは、まるで海中に居ないかのような動作で飛び上がり、翼をはためかせた。