介入者
何とか、逃げられたっすかね。
「……ふぅ」
既に日が昇り始めた山の中、俺は深く息を吐いた。転移陣の使用は監視の問題で難しかったので、非常口の方から抜けて来たが、追手が来ているようには見えない。
(これも、やっと消せるっすね)
組織の者は必ず刻むことになる魔術印。これが無ければバレずにアジトの中に入ることは出来なかった。俺は知り合いに刻んで貰ったが、あるだけで言い知れぬ不安感がある。
後の問題は、花房の洗脳状態をどうやって解除するかっすけど……まぁ、詳しい奴らが何とかするっすよね。
「そろそろ、効果が切れるっすね……」
俺は天能連の研究者だった男を見た。今はただ命令に従っているが、後数時間程度で効果は切れるだろう。
「記憶を失って気絶しろ」
「……」
途端に虚ろな目になり、地面に倒れる白衣の男。俺の血の密約はこういう無理やりな命令でも強制させられる。代わりに、条件は厳しいっすけど。
「行くっすよ。俺に付いて来るっす」
頷くことも無くこちらに付いて来る花房華凛。俺の言うことも聞くように白衣の男に命令させたので、一応は俺にも花房の支配権がある。
「道、終わってるっすね……」
遠くに見える開けている方の道はある程度整備されているが、俺の歩いている場所は終わっている。
「花房、どうにか出来る異能は……」
いや、待つっすよ? 冷静に考えれば簡単な話だったっすね。
「転移系の異能はあるっすか?」
「……はい」
こくりと頷く花房。
「帰るっすよ。家まで俺ごと転移するっす」
「……はい」
頷いた花房が異能を発動しようとした瞬間、どこからか黒い風が吹いた。
「――――転移は中止」
笑みを浮かべた女が、いつの間にか立っていた。
「くふふ、こんにちは」
そこに居たのは見たことも無いような絶世の美女だった。俺は頭がくらっとするような感覚に襲われつつも、直ぐに銃を取り出して女に向けた。
「おっと、そんなに見惚れた目で見られても困るな……このくらいかな?」
女とその周囲がぼやけたように歪み、そして気が付けば目の前に立つ女の姿は丸っきり変わっていた。
「ッ、何っすかその力……」
いや、言ってる場合じゃないっすね。向こうも花房に命令が出来たってことは、天能連の奴ってことは確定なんすから。
「何を言うんだい、君も変装しているじゃないか。似たような力さ」
「花房、転移っす。急いで!」
俺が急かすと花房は直ぐに能力を発動した。女のニヤついた顔を最後に一瞬で視界が入れ替わり、アパートの一室に転移した。
「何とか逃げられたっすかね……」
得体の知れない女だった。嫌な予感がビンビンにしていた。戦闘ではなく逃亡を選んだのは、冷静にそれを最良と判断したのもあるが、それ以上に逃げるべきだと直感が叫んでいた。
「いやぁ、悪いのだがね」
居る!? 俺は驚きつつも、振り向きながら躊躇なく銃弾を放った。
「くふふ、怖いなぁ。私はか弱い少女だと言うのに……お兄ちゃん、最低だよ!」
完全に当たった筈だが、当たっていない……それに、また姿が変わった。今度は少女とでも言うべき見た目だ。こいつは何だ? 魔術の気配も感じないが、何の異能を持っているのか。
「私、怒ってるんだからね!? ……くふっ、そう怒らないでくれ。ちょっとした冗談じゃないか」
その正体を探るべく、更に数発の弾丸を撃ち込むもやはり効果は無い。直撃した瞬間に弾丸が消えているように見える。少女の後ろの壁に傷が付いている様子も無いっすからね。
「私は君に害を加えたいとも思わないし、君のことが嫌いでも無いよ。私は人間が好きだからね……だが、そこの子は返して貰わないといけない」
少女は一歩ずつ俺に近付いてくる。距離を離そうとするが、何故か足が動かない。
「ッ、何なんすか……アンタは、一体」
「教えてあげよう」
少女は俺の前まで来ると背が伸びて最初の美女の姿に戻り、俺に顔を近付けた。
「――――ニャルラトホテプ」
女の目の奥には、漆黒の宇宙が広がっていた。もう既にここがどこかも分からない。視線は動かせず、星々が瞬いていた。
「私の名前は、ニャルラトホテプ。ナイアーラトテップでもナイアルラトホテップでも何でも良いんだが、一番語呂が良いのはこれだからね」
女の声が反響するように響く。広がる闇の中で星々が揺れ動き、残像を残す。
「さて、私の計画が成功しないのは困るが……張り合いが無くなっても面白くないからね、私の記憶を封印するだけに留めておこう」
星の残像が、五芒星を描いた。段々と頭がぼんやりしてくる。
「本当はこうして介入する予定も無かったんだが、悪いね。過程はとことん楽しむつもりではあれど、流石に花房華凛は譲れない」
眠気が沸々と沸いて来る。目の前の女の顔が、黒く染め上げられたようになって見えない。
「再び私に会わないことを、宇宙に祈ると良い……次に会った時は、君を奴隷にでもしてしまうかも知れないよ」
もう耐えられない。意識が保てない。限界が近い。
「さらばだ、赤咫尾燈吉」
「く、ッ……」
去って行く女と花房華凛の背中を最後に、俺の意識は失われた。