図書室
高校一年生の時、僕は初めて恋をした。
彼女は同級生で、ちょっと地味目の、眼鏡が似合うおとなしい女の子だった。
でも初めての自己紹介で
「後ろから話しかけられるとびっくりします。」
なんて言うもんだから、僕は彼女のことが少し気になっていた。
一週間は経ったかな。クラスに馴染んできた頃、悪戯心に駆られた僕は、彼女が本当にびっくりするのか試してみたくなった。
自分でもなんて幼稚なんだろうとは思う。けど、なぜか試してみないと気が済まなかった。
彼女が教室から出て、図書室に向かう途中で、僕は行動に移した。
「桜小路さんっ!どこ行くの?」
「っひゃぁっ?!びっくりしたぁ……なにすんのさぁ……。」
振り向いて、ちょっと恨めしそうに僕を見る彼女。
僕は悪戯が成功した嬉しさと、びっくりさせたことに対する罪悪感に襲われた。
「ごめんごめん。自己紹介の時に『後ろから話しかけられるとびっくりします』って言ってたから、どうしても試してみたくなっちゃって……。」
「それでホントに試してきたの、君が初めてだよぅ……。ほんとにびっくりしたんだからね!」
腰に手をあて怒る彼女。びっくりしたせいか、顔が真っ赤だった。
「だからごめんって。今度なんか奢るからし、同じ眼鏡のよしみで許してよ~。」
「……最上くん、だっけ。入る委員会はもう決めてる?」
「いや、まだなにも決めてないよ」
「じゃあ私と一緒に図書委員になって。ちょっとでも知ってる人がいいから……。」
まさかのお願いに少し驚きながらも、僕は快諾した。
「明日のホームルームで決めるみたいだから、絶対になってね!約束だからね!!」
「はーいよ。こう見えても本は好きだからね~。」
そう言うと彼女は、可愛い、素敵な笑顔でうなずいた。
僕はその笑顔一つだけで、恋に落ちたような気がした。
約束通り図書委員になった僕は、ずっと図書室に入り浸るようになった。
放課後、特にやることのない僕の居場所になっていた。
あの一件から二か月近く経つが、僕は彼女―桜小路 悠丹さんのことが気になって仕方なかった。
話すようになってから分かったことがいくつかある。
1.彼女はあまり表情豊かな方ではない
2.なによりも本が好き
3.人見知りが激しい
以上三つだ。
特に衝撃的だったのは一つ目だ。あんな良い笑顔ができるのに、もったいないなと思う。
教室での彼女は、あまり友達と喋らず、一人で静かに本を読んでいるタイプだった。
でも、あの笑顔を知っているのは僕だけかもしれないと思うと、なんだか独り占めしているようで、すこし喜びを感じていた。
彼女は可愛い。けどそのことに気付いているのは僕だけ。ちょっとした優越感を覚えた。
これが恋心というものなのか、僕には確信出来なかったが、けど心のどこかでは、きっとそうなんじゃないかと考えていた。
これが「カタオモイ」ってやつなのか。
僕―最上 和樹の頭の中は、彼女でいっぱいだった。
「最上くん、最近元気なさそうだけど、どしたの?」
「別になんでもないよ。ちょっと考え事」
素っ気なく返す僕に、彼女はちょっと残念そうな顔をしながら本の整理をしに行った。
(口が裂けても言えないだろ……。君のことばっかり考えてたなんてさ。)
そんなことを思いながら僕は、本の続きを読むことにした。
「本当に僕は、臆病者だ。」
ギャップ萌え、という言葉をご存じだろうか。
異性の普段と違う姿を目にしたり、普段ならしない表情にくぎ付けになったりすることを言うらしい。
ちなみに僕調べ。
時は流れて残暑厳しい9月下旬。それまで彼女に対するアプローチは一切なし。
……チキンと呼んでくれてもかまわない。
今日は体育祭。普段は男女別で授業を行うため、彼女はおろか、他の女子の体操服姿など滅多にお目にかかれない。
それだけで他の男子は浮かれていた。
僕は運動が好きな方ではない。別段苦手というわけでもないが、どちらかというと体を動かすのは嫌いかもしれない。
走るのだってそんなに速くない。
そんな僕だけど、なぜかクラス対抗リレーに出ることになってしまった。
クラス対抗リレーは男女混合で、僕はアンカーの彼女にバトンをつなぐことになった。
そもそも彼女がアンカーっていうところにかなり驚きなのだが。
運動得意だったなんて全然知らなかった……。
今日の彼女は普段と違い、セミロングの髪を後ろでまとめてポニーテールにしている。
正直心の底からドキッとした。
体操服姿ってだけでもドキドキするのに、その上髪型まで変えるなんて。
なるほど、これが死か……。
「桜小路さん、リレーの時はよろしくね。僕は足が遅いから文字通り足引っ張っちゃうと思うけど……。」
「そんなこと、気にしなくていいよ。例え最上くんが抜かされても、私が抜き返す。倍返しにしてあげるわ。」
表情はあまり変わらないけど、得意気にそう話す彼女。僕はそこはかとない安心感を覚えた。
「精一杯、頑張るよ」
クラス対抗リレーは最終種目だ。
男女混合の6人で、順番も男女交互というルール。
学年順でリレーがスタートするので、僕たち一年生はトップバッターだ。
一年生はA,B,C,D,Eの5クラスあって、僕たちはD組。委員長がじゃんけんで負けたせいで一番外のコースを走ることに。
うちのクラスの第一走者は陸上部の男の子だから、大丈夫だとは思うけど……。
今、スタートのピストルが鳴った。
一番インコースにいたC組の子がトップを独走している。
続いてA組、それに続いてうちのD組、E組、B組だ。
二番目の走者にバトンが渡された。
ここでA組が痛恨のバトンミス。2位から一気に最下位へ転落した。
それに伴いD組が2位へ浮上。C組を追い抜けばトップだ。
順調にバトンをつないでいき、とうとう僕の番が来た。
緊張で胸が高鳴る。呼吸が少し浅くなり、全身の筋肉が硬直しだす。
手をぐっと後ろに伸ばし、ただ時を待つ。
10秒ぐらいだっただろうか。たったそれだけの時間が、僕には何倍にも、何十倍にも感じられた。
バトンを、受け取る。
が―
僕はA組の二の舞を踏んだ。バトンを落としたのだ。
意外にも頭は冷静で、咄嗟に拾ってすぐに走り出すことができた。
E組とB組には抜かれてしまったが。
「最上くん頑張って!!!!」
彼女の声が聞こえる。
たったそれだけで僕は、普段の何倍ものスピードで走れた。
走れ、走れ、走れ!なにもかも、自分の意識すら置き去りにして走れ!
そう念じながら走るトラックは、ずいぶん長く思えた。
たぶん、今まで生きてきた中で一番速く走った気がする。
気づけばB組を追い抜き、E組のすぐ後ろにまでつけていた。
彼女が待っている。
バトンを渡す瞬間、彼女はこう言った。
「あとは任せて」
そこからはあっという間だった。
驚異的な追い上げを見せた彼女は、バトンを受け取ってすぐにE組を追い抜き、3秒もしないうちにC組も追い抜いてトップに躍り出た。
結果は言うまでもなく、僕たちが1位だった。
無事表彰式も終わり、体育祭も終わった。
高校生活で初めての体育祭だったが、ずっとドキドキしっぱなしだった。
普段大人しめの彼女が、あんなにアクティブで、カッコイイなんて。耐えられる訳が無い。
今でも余韻に浸っている。
「あとは任せて」
その彼女の一言が、表情が、息遣いが、僕の脳裏に鮮烈に焼き付いた。
「……よし」
天性のチキンハートの僕が、珍しく覚悟を決めた。
今日の放課後、彼女に告白しようと。
待ちに待った放課後。
僕は誰もいない図書室に入り、いつもと同じように受付に座って本を読む。
彼女が確実に来るあてなんてない。今日は友達と一緒に帰っているかもしれない。
それでも僕は、彼女が来てくれる方に賭けた。
ギィッと少し重ためのドアが開く。
僕は賭けに勝ったようだ。
「もーがみくんっ!体育祭お疲れ様!」
「桜小路さんもお疲れ様。リレーの時、めちゃくちゃかっこよかったよ。桜小路さんが居なきゃ、負けてたかも……。」
「小さい頃から、足だけはやたら速かったのよね〜。でも、最上くんが1人追い抜いてくれなきゃ厳しかったかも。それに、君からのバトンじゃなきゃ、あんなに走れなかっただろうし……。」
あまり表情を変えない彼女が、少し恥ずかしそうにもじもじと話す。
昼間のカッコ良さとは打って変わって、とても可愛かった。
図書室はあまり人気が無いらしく、滅多に人が来ない。
図書委員も僕ら2人しかまともに仕事に来ない。
でも今日ばかりは、他の生徒たちに心から感謝した。
「あの、さ、桜小路さん。伝えたいことがあるんだ。」
「なぁに?」
僕の顔をじっと見つめる彼女。昼間とは比べ物にならないくらい、心臓が早鐘を打った。
「……もしかしたら気づいてるかもしれないけど、桜小路悠丹さん。僕は君のことが好きです。」
「君と初めて話したあの時、凄く素敵な笑顔をしたのがきっかけです。」
「そして今日のリレーの時のあの真剣な表情。とてもかっこよかった。」
「僕は君の、普段はあまり表情が変わらない君の、いろんな表情を、感情を、傍で見ていたい。」
「僕と、付き合ってください!」
僕は頭を下げる。
時間にして10秒にも満たないであろう沈黙が流れた。しかし僕には、永遠のように感じた。
彼女が息を飲み、そして口を開く。
「……私が、言おうと思ってたんだけどな。最上くんに先を越されちゃったね……ははっ、そっか、両想いだったんだ。」
「えっ、それって……。」
今度は僕が息を飲む。再び彼女が口を開くのを待つ。
「ちょっとだけ、目を瞑ってて貰える?」
そう言われ僕は目を閉じる。
なんだか彼女が近づいてくる気配がした。
彼女の息遣いがはっきり聞こえる。そして次の瞬間―。
コツン。
眼鏡と眼鏡が、ぶつかった。
「……。ふふふっ……はははっ!」
先に堰が切れたのは彼女だった。
「折角私のファーストキスあげようと思ったのに、眼鏡の方が先にキスしちゃった……。ふふふふっ……。」
彼女が笑う。それに釣られて僕も笑みが溢れた。
「……じゃあ、今度は僕から。悠丹ちゃん、目を閉じて」
彼女が目を閉じる。
僕は顔を少し右へ傾けて、彼女の唇に僕の唇を重ねた。
数瞬後に離れる。
そして僕はこう言った。
「実は僕も、ファーストキスなんだ。初めての相手が君で、僕は本当に幸せだよ。」
これは、とある学校の図書室で起きた、秘密の恋物語。
この続きは、また別の機会に。