9.神とお茶を
「いや、神ですとか言われて信じられるわけがないじゃない」
この世で二番目くらいに信じがたい言葉だ。
反射で返した言葉にも、スイニーは「ですよね。」とあっさり頷いた。
それから、うーん、としばし顎に手を当て悩み、ぽん、と手を打った。
「じゃあこういうのはどうです?」
そう言った直後、スイニーの姿が消えた。
「え?!」
思わず声を上げた瞬間、私の隣に人影があった。
すっと伸びた指が、つん、と私の右頬に触れる。
ばっと私の体を庇うようにして、リヒャルトが私を後ろに隠した。
しかしまた一瞬後にはスイニーの体は反対側にあり、今度は左頬につんと触れた。
リヒャルトは驚愕しながらも私を背に庇い、スイニーと対峙した。
「ね? わかりました?」
「とりあえず普通の人ではなさそうなのはわかった」
やっとのようにリヒャルトが答えると、スイニーは満足そうに手を引っ込めた。
「まあそれだけわかってくれればまずはいいですよ」
私とリヒャルトの不審な目もものともせず、スイニーはけろりとしてソファへと腰を下ろした。
「まあどうぞ、お座りくださいな」
部屋の主であるかのように言われ、私はリヒャルトと目を合わせ、スイニーの向かい側に隣り合って座った。
「神、というのは、ゼレニウス教会の信仰するゼレニウス神ということか」
「いいえ、違いますよ。私はスイニーです。ゼレニウス神なんてものはいませんよ。あれは人が勝手に作り上げた、まさに偶像ですから」
「ゼレニウス神がいない……?」
リヒャルトは呆然としたようにその言葉を繰り返した。
私も驚いた。
アレクシアと神なんていない、神なんてクソだとよく言い合ったものだったけど、まさか本当にいないとは。
スイニーはいつの間に淹れたのかカップを口に寄せ、お茶を啜った。
「アレクシアさんたち聖女と呼ばれる人の力は、そういった能力が目覚めただけですよ。ユリシア様は既にお察しでしたよね。神は関係ありません。昔の人がそれを神のおかげだとして、ゼレニウス教を作っただけのことです」
私はその思いつきを口には出していない。
アレクシアにも言っていない。
それをスイニーが知っているのは、やはり只者ではないと――神であるということの裏付けに思えた。
「じゃあ、ゼレニウス神ではなくて、あなたがこの国の神なの?」
「まあ、そう言ってもいいでしょう。確かにずっとこの国を見守ってきました。人を見ているのは楽しいですから。ですが私は何もしません。見守っているだけです。助けもしませんし、罰も与えません。そういう存在です。ただ――」
そう言ってスイニーは言葉を区切ると、私とリヒャルトを交互に見てから困ったような顔を作った。
「そうも言っていられなくなりましたので、少々私の手の代わりになってくれる人はいないかと探していたのです。それでユリシア様がちょうど都合がよろしかったので、その企みに加えてくださいな、と。そういうことです」
「目的は何だ?」
リヒャルトがじっとスイニーを見つめたまま問えば、あっさりと答えが返る。
「ですから、あなた方と同じですよ。近頃教会は聖女が祈るだけでいいと、それで人々の願いは叶うのだと吹聴し始めました。教会に権力を集中させたかったのでしょうねえ。それは勝手にやっていただいたらいいのですが。私としては、それではつまらないんですよ。面白くないんです」
「は?」
その物言いにリヒャルトの声が尖るものの、スイニーは歯牙にもかけず話を進める。
「これまであなた方人間は、自然をコントロールしてしまおうなどと傲慢な考えを抱くのではなく、大雨が降っても洪水が起きてしまわないように川の整備を進め、干ばつに強い作物を育て、危機の度に自分たちにできることを精一杯、試行錯誤しながら進んできましたね。私は、そういった人の姿を愛しているのですよ。祈るだけの人生を見ていてもつまらないのですよ。生贄なんてもっといりません。ですから、聖女なんてものはなくしてしまいたいのです。今の教会は少々行き過ぎなのですよ」
「なるほど。同じ不満を持っていたというわけか」
「あなたがたが生まれる前から、ね。そもそも、ささやかな力でしかないものの、聖女だなどと担ぎ上げて力があることを本人に知らしめるのは諸刃の剣なのですよ。他国にある聖女のように、心が清らかだから力を得たのではありません。悪なる願いを心に浮かべてしまったら? 自分に力があることを知っていたら、それを強く願ってしまいませんか?」
「まさか、それで世界が滅ぶなど……」
「ええ。人にはそこまでの力は持ちえないでしょう。直接的にはね。ですが、みんなが幸せになればいいと、楽しくなればいいとアレクシアが祈ったのと反対のことを念じればどうなるでしょう」
世界など滅べばいい。
そう願ったとしたら?
アレクシアの楽しく踊る気持ちが伝播したように、人々は暗く陰鬱な気持ちになり、やる気がそがれ、うらぶれるかもしれない。
そして小さないざこざが起き、それがやがて大きな騒動に発展するかもしれない。
それが多くの人を巻き込むような事態になったら?
王城での争いが起きたら。
国同士の戦となってしまったら。
結果として、国が、世界が滅ぶ事態にだってなりかねない。
「人が持つ力など、些細なものです。ですが、たった一人の力を持ったものが悪なる願いを思えば、それは波紋となり広がり、やがてこの世は破滅しかねない。だからこそ、誰もが人々の幸せを祈るような世であればいいと思うのです。その中には同じように力を持つ者がいるでしょう。皆と同じように、当たり前のように祈るのですから、そして変化は些細なものなのですから、自らの力で人々が幸せになっていることには気が付かないでしょう。でもそれでいいと思うのです」
アレクシアが、『ユリシアも祈ってよ』と言っていたことを思い出す。
ズルいから、と。
これまでの聖女のように、一人だけが矢面に立たされ、神殿に閉じ込められ、人々の安寧を願うのではなく。
人々に紛れた力を持つものが、皆と同じように人々の幸せを願えば、重荷を一人で背負い込むことなく、そして悪なる願いにも打ち克つことができる。
「だから、敵ではないと言ったのね。私の目的が変わらない限りは」
「ええ、その通りです。神をクソだとのたまい、一種合理的な考えの上で大地の神と豊穣の神に供物を捧げるあなたなら、放っておいてもやり遂げてくれるだろうとは思っていましたけどね。この機を逃せばまた同じように立ち上がる人を探すのにも時間がかかりますし、その人が発言力を持てるかはまた別です。だから失敗のないよう、一度で済ませたいなと、微力ながら協力したく、こうして首をつっこませていただいた次第ですよ」
なるほど、と簡単に頷ける話ではなかった。
けれど、話はわかる。
なんとも返せずにいると、リヒャルトは深くソファにもたれ、考え込んだ。
その様子をじっと見ていたスイニーは、少しだけ口元を吊り上げて再び口を開いた。
「明日、大司教とその一派を拘束するのでしょう。ずっとその準備を進めてきたようですが、女官長にはその動きを気取られない方がよいかと思いますよ。彼女は大司教の愛人ですから。気を抜けば大司教を逃がされてしまいますよ」
リヒャルトは呆然として、やがて詰めていた息を吐き出した。
「やはり、女官長は教会側だったか。警戒してはいたが、信じたくない気持ちが残っていた」
さっきリヒャルトが言っていた準備とは、大司教を捕らえることだったのか。
そして女官長には久しく会っていなかったけれど、私が城に連れて来られたあの日、すまして嫌味を連発してきたことは忘れていない。
もしかしたらその態度はリヒャルトの婚約者としてふさわしくないというよりも、私が教会に行き大司教の傍に侍ることになることを見越しての嫉妬だったのかもしれない。
平然とリヒャルトにも言い返すなど強いなとも思ったけど、それも裏には大司教がついているという気持ちの強さがあったのかもしれない。
「でも、だとしたら何故女官長は私に侍女をつけなかったの? どうせ私は自分のことは自分でできるんだから、侍女をつけないなんてまったくダメージのない嫌がらせなんてするより、スパイを送り込んでおいた方がよほどいいじゃない」
「そのつもりだったようですよ。でも私の方が先でしたので。女官長は王太子殿が私を侍女につけたものと思い、たいそう歯噛みしていらっしゃいましたよ」
思い出したのか、スイニーは楽しそうに笑みを浮かべた。
「それから、ここに案内してくれたのは前聖女役のミレーネだと思いますが、彼女が城に身を隠していることは女官長から既に大司教に伝わっています。明日大司教一派を拘束すると言っても、混乱に紛れてその手を逃れる者があるかもしれません。ミレーネの周囲も、十分に守りを固めておいた方がよいかと思いますよ」
確かに不利な証言をしかねないミレーネは狙われるだろう。
しかし私はスイニーの言葉に引っかかった。
「助けない、罰しないんじゃなかったの?」
問えば、スイニーは口元を緩めて笑った。
「力を持たないながらも、家族のために教会にその身を差し出し、毎日を存在しない神への祈りに費やして来たミレーネを殊更かわいそうに思ってしまうのは、私が長く人の世界に滞在したせいでしょう。大司教の手の者を逃してしまうのもまた同じことの繰り返しになりますので、面倒なのです」
容赦がない神だ。
だが慈悲深くもある。
神は人間の尺度とは違うのだろう。
だけど、スイニーはとても人間くさかった。




