ガラスの向こう側
「おや、目覚めましたか?」
目を覚ますと、眼下に胡散臭い格好の男がいた。中肉中背の、平凡な格好をしていれば印象にも残らないであろう男は、笑みをたたえ見上げてくる。
「不服、怒り。浮かべているのはそんな表情でしょうか? もしかして、いや、もしかしなくても、自分の格好を理解しておられないのではないでしょうか?」
どういうことか、と声を出したくても声が出ない。
「あなたは今、閉じ込められているのですよ」
言われてみれば、男はガラス一枚隔てた向こう側にいるようだった。滑らか曲線をしたガラスは、筒状になっているのだろう。
「声は出ませんよ。手も足も動きません。あとでボタンを押すために手だけは動くようになりますが、それまであなたに自由は一切ありません」
ふざけた格好とは裏腹に、男は真面目な口調で話を進める。
「これから、あなたには我々が主催する思考実験に付き合って頂きます」
我々。
男はそう言ったが、見える範囲に男以外の姿はない。彼の後ろにあるのは壁だけだ。角も天井も見えないほどに広い部屋だということはわかっても、他の人物の姿は確認出来ない。
「運命のボタン。あるいは、押せば一億円が手に入るボタン。そんなお話をあなたは知っていますか?
……と、その状態では返事も出来ませんね」
小さく肩を竦め、男は説明を始めた。
「簡単に言えば、ボタンを押すことで誰かが死ぬ代わりにあなたが大金を手に入れられるというボタンのことです。ファンタジーなパターンでは、後で記憶を消す代わりに、何億年とも言われる長い時間を経験することになるパターンなどもありますね。要するに、目に見える形でのリスクがなく、ハイリターンがある場合に人はどうするかと言う思考実験です。
こんなところでご理解頂きましたでしょうか?」
男は尋ねるが、答えられる状況ではない。
そんなことは百も承知で、男は反応がなくとも話を続ける。
「ですが、リアリティに欠けると、我々は考えたのです。そこで、コチラを用意させて頂きました」
袖に向かって、男が手招きをした。
それに答えるように、視界にスーツ姿の男が入ってくる。眼前の不真面目そうな男とは違い、いかにも真面目そうーーというよりは用心の警護でもしてそうな黒服の男性は、懐から一枚の紙切れを取り出した。
「サンキュー。下がってくれて構わないよ。で、あなたにはしっかりと確認して頂かなくてはいけませんからねぇ」
男は黒服から貰った紙切れを一瞥もせずに、ガラスに押しつける。それは、宝くじだった。
ついで男は空いている手で携帯を操作すると、スピーカーをONにして、その内容を聞かせてくる。それは、宝くじの当選番号を知らせる自動音声だった。
そして、携帯から流れてる当選番号は、宝くじの番号は一致していた。最高額の10億円だ。
「どうです? そちらからは見えてますか? 景品についてのリアリティはご理解頂けたでしょう? 実験修了の暁には、こちらをあなたに贈呈させて頂きますよ」
宝くじをちらちらと見せつけながら、男は最初の位置まで戻った。
「思考実験に参加されますか?」
①はい
②いいえ
「まあ、自由に選んでくださって構いませんよ。
断ったとしても殺しはしません。
その、暗くて狭いガラスの中から解放してさしあげますよ。この、明るくて広い部屋……には入れられませんが、今まで通りの世界に戻れることをお約束致しましょう。
まあ、ここでのことが忘れられず、心ここに在らずな生活を送る可能性も否定は出来ません。けれど、そうなったのならば、我々はきっとあなたと再び出会うことでしょう。
ここは去るもの追わず来るもの拒まずの精神で赤字運営を続けておりますから、またのご来店をお待ちしております、ということなります。
まあ、ここで引くなら宝くじは差し上げられませんけど……」
男はニヤリと口角を釣り上げた。
「決断出来たようですね」
が、邪悪な笑みは一瞬で霧散し、男の顔には胡散臭い笑みが浮かぶ。
「では、次はボタンについて」
そう男が言うと、筒の床から棒がせり上がってきた。その上には、クイズ番組に出てくる早押しボタンのようなボタンがひとつ。
「そのボタンを押せば、あなたは解放されます。そして、その瞬間に、この世界から一人の人間が消えますーーようは死にます」
男が指を鳴らした。
それに合わせて男の背後にあった壁が開いていく。
そこには眼前の胡散臭い男と同じ服をきた人がいて、向かい合う筒に向かって何かを喋っていた。その奥には、ただただ広いスペースが広がっている。
「あなたにも見えますよね? 被験者なので中は見えないようにしてありますが、あの筒の中にいる人物があなたがボタンを押した時に死ぬ人物です」
物騒な話でも、男は表情ひとつ変えず、身動ぎひとつさえしない。
「どこの誰かは教えられません。
もしかしたら、あなたと非常に親しい誰かかもしれません。
もしかしたら、あなたの全く知らない誰かかもしれません。
もしかしたら、あなたが心から嫌いな誰かかもしれません。
そこは、ご想像にお任せします」
ーーそして。
男は声に出さずにそう前置きすると、悪魔のように囁いた。
「向こうも条件は同じです」
「さあ! 制限時間は一時間! ボタンひとつで全てが決まる、デッドオアアライブの選択を! もし仮に誰も死ななけれは、宝くじは生存者で山分けとしましょうか!」
男の宣言と共に【60:00】のカウントが現れる。
【59:59】
カウントダウンが始まった。
【59:58】
【59:57】
カウントダウンは止まらない。
【59:56】
【59:55】
【59:54】
始まったものはもう止まらない。
【59:53】
【59:52】
【59:51】
【59:50】
ようやく10秒が経過した。
【59:49】
【59:48】
【59:47】
【59:46】
【59:45】
引き返すという選択肢はない。
【59:44】
【59:43】
【59:42】
【59:41】
【59:40】
あるのはボタンを押すか、押さないか。
【59:39】
【59:38】
【59:37】
【59:36】
【59:35】
押して、殺して、大金を得るか。
【59:34】
【59:33】
【59:32】
【59:31】
【59:30】
押さずに、押されて、殺されるか。
【59:29】
【59:28】
【59:27】
【59:26】
【59:25】
あるいは2人とも押さずに、山分けか。
【59:24】
【59:23】
【59:22】
【59:21】
【59:20】
直前までは雄弁だった男も、今はニヤニヤとした笑みを浮かべるだけ。
【59:19】
【59:18】
【59:17】
【59:16】
【59:15】
それ以外の人物の表情は全く分からない。
【59:14】
【59:13】
【59:12】
【59:11】
【59:10】
自らの表情さえも。
【59:09】
【59:08】
【59:07】
【59:06】
【59:05】
物音ひとつしない部屋を沈黙だけが支配する。
【59:04】
【59:03】
【59:02】
【59:01】
【59:00】
ようやく1分ーー60秒という時間がとても長く感じられる様な感覚。これを、あと59回繰り返せば、何もせずとも大金が手に入る。
けれど、ボタンを押せば、即時に大金が手に入る。
ボタンを押されれば、死ぬ。
そんな迷いを見咎めて、あるいは何も動きがないことに不満があるのか、男が口を開いた。
「1分も耐えましたか。今回は長いほうですねぇ」
不吉な言葉を残して、男は黙ってしまう。
視界が狭くなっていく。
呼吸が苦しくなってくる。
死が近づいてくる。
そんな中、あなたはボタンを押しますか?
「押しましたね?」
男がニヤリと笑った。
「あなたは一体どのような表情を浮かべているのでしょうか? 気になりますねぇ。では、フィルターを解除するとしましょうか」
男はパチンと右手の指を鳴らした。
「マジックミラーはご存知ですか?」
その動きに合わせて、背中合わせの男は左手の指を鳴らす。全く同じタイミングで、全く同じように。
「化学の発展は素晴らしいもので、ガラスの表層に薄いフィルターを展開するだけでただのガラスがマジックミラーに変わる代物があるんですよ」
そんな男達の向こう側にある筒が、透明になっていく。中にいるのは、世界で一番近くにありながら、普段ほとんど見ることない姿。
あなた自身が、ボタンを押している姿だった。
「あぁ、いい絶望の表情ですなぁ!」
愚かな道化を、鏡の向こう側で胡散臭い男が嘲笑う。
「では永遠に、さようなら」
世界からひとりの人が消えた。
思考実験×二人称小説で作ってみた作品です。
拙い文章で読みづらかったら申し訳ありません。同時に、そんな中でも最後まで読んだくださってありがとうございます。