3話
そこから俺は夜未にとりあえず腰をおちつけるため家に向かうと連れられて夕暮れの街を歩いていた。まず目を見張ることとなったのはこの世界に住んでいる住人の姿だった。夜未の様に完全な人の形をしている人は少なくどこかしらが墨汁で塗りつぶしたように黒く染っていたからだ。
「この世界では長い間妄念になること無く過ごしていると次第にああなるの、そして最期には真っ黒になって消えちゃう」
「消えちゃうって……」
「そう、この世界で妄念に襲われて殺される以外に死ぬ方法は影になって闇に溶けるしかないの」
死ぬことはない、ね。それじゃあここでは妄念になるか影になって消えるか、それとも妄念に殺されるかのの三つしかない訳だ。どれにしても遠慮願いたい選択肢しかないじゃないか、何があってもこんな所から出てやらないと。
「なぁ、やっぱり俺はここにいるのは……」
俺がそう言うと彼女は少しの間立ち止まり考える素振りをする。後ろからその小さな背中を見ていると急に振り返り左手で俺の肩を掴んできた。
「ねぇ、それじゃあ私も協力するからやってみようか」
そう言うと身長差から上目遣いで目を見詰められる。その目は彼女は本気だという事を語っていた。
「でも、もしかしたら化け物になるかもしれないんだろ?」
「そうね、確かにそういった行動を取ることも危険かもしれない。だけど偉い人は言ったのです。前例は作るものだと」
そう言い不敵な笑み顔で小さな胸を張る。全く……俺の方が年上なのに元気づけられてばかりじゃないか、確かに今でも理解出来ない事、知らない事は沢山あって俺に出来る事は少ないかもしれない、でも、ちゃんとしないとな。頬を思いっきり叩く。鋭い音が響き静かな街にこだまする。幾つかの影がこちらを見るが何事も無かった様に自らの事に戻るまでの少し間静寂が辺りを包む。
「えっ、えっと、どうしたの?」
夜未が先程とは打って変わって心配そうに覗き込んでくる。そりゃいきなり頬を叩いたのだから驚くのは当たり前だろう。だけど彼女のコロコロと変わる表情に自然と顔がほころぶ。
「ちょっとな、うん。もう大丈夫、これから頑張っていこうぜ」
「えぇ、勿論!」
そして道を二人並び進んでゆく。その影は伸びて一つに重なり合っていた。
「ここが夜未の家」
「ここしか使える場所が無いのよ……」
夜未も若干不満そうに言う。その家は築何十年経っているか分からない程にボロボロになっていた木造のアパートだった。
「でもちゃんとした家も幾つかあったよな?」
「あぁ、勘違いしてるみたいだけど物も妄念になるの。特に人の想いが詰まった家なんかは元の場所で家主を待たなきゃっていうのが強くてすぐに妄念になるの。妄念になった家はその中で家主の存在を再現する。存在が消え去るその時までね」
それは……悲しいな。永遠に帰らない家主を待ち続ける家か。
「基本的にそういう家は中に入らない限り危害はないから入らないようにして放置。でもたまに外、私達に攻撃的な家もあるの、大体が迫害された家族の家らしいけど」
哀れな物を見る目で目の前のアパートを見つめる。もしかしてこのアパートもそうなのか、俺はなんて言えばいいのか分からずに黙って話を聞くことしか出来なかった。
「そういう家は妄念を倒すことで空になるの、ここもそう。事情は分からないけど空になった家はゆっくりと影に溶ける最期しかない。ほら」
夜未が指さした先にはアパートの角がありそこには確かに黒い影が。
「そして空になった家は溶けるまでの間なら私達が住めるようになる。だから有難く使わせて貰ってるの」
そう言うと夜未は二階へと階段を上り一番目の部屋の前へと俺の手を引き駆け出した。以外と力が強いんだな、体格差もあるのにグングン引っ張られるぞ。
「ようこそ我が家へ!」
夜未が扉を開けて俺を玄関へと誘い込む。誘われるまま家の中に入ると和室のワンルームで家具といった物はほとんどない殺風景な部屋が、そして窓からはこのアパートが高台にあったようで歪な美しい街並みが一望出来た。
「以外といい場所でしょ、景色も最高!」
「あぁ、そうだな……」
こうして腰を落ち着ける様になって初めて現実味を帯びてこの光景を見ることが出来た。
「なぁ、あれは?」
窓から見ていると他と明らかに違う建物が目に入る。それはロンドンの時計塔と形容するのが一番しっくりくるだろうか、高さも他と比べて高いうえに今見えている建物は全て日本様式なのに対しあの塔だけ洋風で更に違和感が際立つ。
「あぁ、あれは昔からあった気がするわ。でもずっと時計が止まってるのよねあれって……え、昔っていつからだっけ?」
そう言うと夜未は何かに気づいた顔をしたと思ったら額に手を当て恐怖が浮かんだ表情で数歩後ずさる。そして先程より数段低くなった声で言う。
「ねぇ、優くん。ここにいるとどんどん記憶が薄れていくの。私も気をつけてたはずなんだけど迂闊だった……。この世界で全てを忘れる事はは影になって溶ける事。私は忘れたみたいだけど優くんは絶対に自分を強く持って。少なくとも自分の名前は絶対に、絶対に忘れちゃ駄目だよ」
「あぁ、分かった。」
夜未の表情を見てこれはマジな案件なのだと思い改めて自分の姓名を強く心に刻みつける。
「ねぇ、一つお願いがあるんだけど良いかな?」
まだ少し青白い顔をした夜未から声がかかる。
「これから毎日起きたら二人の名前を確認しよ?どんどん自分の名前を忘れないように記憶を更新していくの」
「それは勿論、俺も絶対に忘れないっていう自信を持っていられる訳じゃないし」
少なくともある程度の期間はここにいる夜未でさえ記憶の欠落に気づく事が出来なかった。俺ももしかしたら既に忘れている事があるかもしれない。そう考えると自分の友人、家族、学校という今までの記憶達が全ておぼろげなものに感じてしまい体の芯からゆっくりと冷たくなっていく感覚を覚える。
「とりあえず今日は疲れたでしょ、布団は押し入れにあるからゆっくりと休んで」
「あぁ……ありがとう」
そうして俺の異界での最初の一日は過ぎていった。