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立上げ~五日目 見えざる敵

 滑り防止マットという伏兵によって、心と身体に大きな傷を負わされてから一時間ほどが経過した。


 持ち上げるだけで一苦労だった四角い悪魔(すいそう)を飾り棚から降ろす――残念ながら無傷でそれを成功させることはできなかったのだ。


 短くまとめると、水がこぼれたんだ。


 俺はそれをティーシャツで受け止めた。辛うじて下着には侵入しなかったもののジャージ素材のハーフパンツまでもが被害を被った。不幸中の幸いというか、床には数滴垂れただけで済んだ。


 俺は風呂場に駆け込み全身を清め、来る戦いに備えて腰を休めているというわけだ。


 侮っていた。


 アクアリウムを立ち上げるなんて楽勝だ、と。


 池や川で捕獲してきたザリガニを飼うのと同じ感覚で捉えていたのだ。

サイトで見るような水質、温度管理なんてもっと本格的にやりたいマニアどものこだわりに過ぎない。俺はちょちょいとインテリアに一味加えて部屋の雰囲気をよくしたいだけなのだ。


 そんな風に考えて熱帯魚専門店へ車を走らせ、意気揚々と帰ってきた自分が恥ずかしい。


 扇風機の前で「あ゛~」をやりながら自嘲する。


 それは、水槽が予想外に重たかったくらいでここまで意気消沈した自分を嘲る気持ちだった。


 やれやれ、我ながら情けない。


 腰に手をやり、よっこらせ、と立ち上がった。


 さて、怪我の功名というか舞い上がったソイルの粒子で濁っていた水もようやく透明と呼べる状態に落ち着いたようだ。


 腰巻タオル姿から、万が一に備えて再び別のジャージを引っ張り出して着替えた。


 六匹のカーディナルテトラは厚めのビニール袋に水と一緒に入れられて、ショップからこの部屋までお引越しをした。現在それは小さな穴を開けられて水槽の上に浮かんでいる。


 これぞ水合わせ。異世界同士の邂逅。


 完璧に整えられたショップの水と、色々と足りないある意味フレッシュな俺の水槽の水が混ざり合う。見た目には何の変化もない。テトラたちの動きがにわかに速くなったのは、水質が悪いからじゃなくてびっくりしたからだろう。そうに決まっている。


 自分を無理やり納得させて、詫び草を水底に沈めた。


 LEDライト点灯!

 外掛けフィルターセットオン!

 隠れ家用陶器のドーム降ろせぇ~! 

 隊長! ソイルの嵐です!

 狼狽えるな、そのうち治まる! そんなことより水温送れ!

 現在摂氏28度! 適温です!

 よおーし! “カーディナル”投下用意!

 了解です!

 カーディナル投下よぉ~い!


 ハサミでビニールの口を切り、一気に放流した。心の中の水槽自衛隊は大変に勇敢かつ迅速に行動してくれた。私は、諸君を誇りに思うぞ。わっはっは。


 放流から二時間ほど。


 ライトに照らされて光るきれいな赤い身体を揺らし、しかし個別に泳いで不安げにしていたテトラたちがようやく群永を見せるようになった。


 新しい我が家に早くも馴染んできたのかと頬が緩くなる。


 どれ、エサでもやってみるか。


 パラパラパラ……


 どういうことだ。


 おっちゃんに言われるがまま値段の高いエサを買ってきたというのに、一匹たりとも食いつかないではないか。


 スマホをいじくり情報を探す。


 なになに?


『お魚を水槽に移しても、二日くらいはエサを与えない方が良い。立ち上げたばかりの水槽はバクテリアの活性が弱く、食べ残しが腐敗し水質汚染や種々の病気の原因となる』


 おのれ、熱帯魚屋のおやじ! ちゃんと「まったくの素人なんで全部教えてください」って言っただろう!? エサの件は聞いてないぞ!?


 だが、大丈夫だ。


 このエサは『食べ残しても分解が早く、活性なんちゃら配合で水質改善に寄与する』が売りなのだ。少々食べ残しが出ても問題にはなるまい。外掛けフィルターが作り出す水流によって、徐々にソイルの上へ落ち、まばらな白い花を咲かせたエサたち。それらにまったく興味を示さないテトラたち。


 おーけー、ハニーたち。ツンデレは大好物だぜ。


 エサをもらって狂喜乱舞するテトラを眺めて悦に入るのは二日後だな。そのぐらいは我慢できるさ。







「さあ、テトラたち! 食事の時間だよ!?」


 朝七時、『魚たちも起きてすぐはお腹が動いていないので、ライトを付けてから二時間程度経ってから朝ごはんはあげましょう。逆に、消灯する二時間前までに、食事を済ませるようにしましょう』というガイドブック(水槽セットに入っていた!)の指示に従い、朝五時起きで部屋の照明を付けてまんじりともせず待った。


 ソイルの上に点々と落ちていたはずのエサの残骸はいつの間にか消えていた。なんだかんだ食べたのだろうか。それともバクテリアの分解を受けたか、はたまた溶けただけなのか。


 何はともあれガラス越しに見る水は少しも濁っていない。


 俺はエサが入ったケースを片手に、水槽の天板を撤去し、水面を覗き込んだ。


「…………ん?」


 二日ぶりに点灯したLEDの灯りに照らし出された水面に、何かが浮かび上がっている。水の流れによって揺らめくそれは、薄い肌色の絵の具を水面に流したようだった。毎日水槽を眺めるのが当たり前だったが、初日、昨日はそんなものはなかったはずだ。


 身をかがめて水槽の側面から内部に目を凝らす。LEDライトの向きを変えつつ水中に似たような現象を探したが、少々水草の葉が茶色くなっていること以外に異常は見つからなかった。


 とりあえずエサをやるか。可愛いテトラちゃんがお腹を空かせているに違いない。


 パラパラパラ……


 フレーク状のエサが水面に浮かぶと、そこめがけてテトラたちが急接近してきた。我先にと茶色っぽいそれをくわえ、おちょぼ口を懸命に動かして咀嚼し、すぐさま次の獲物を求めて水面へ向かう。


 なんてかわいいんだ。


 くっく。


 あとは昨日投入したがまったく沈む気配のない流木二ケが水を吸って重くなるのを二週間ほど待てばいい。その間に詫び草どもも大きく成長するだろう。美しいアクアリウムをエサにあの子とこの子とその子も呼びまくるのだ!


 ふあはははははは!!


 俺の中に皇帝ネロが降臨した。







 五日目。


「な、なんだ!?」


 目覚ましがなくとも五時には目覚めるようになった。大きく伸びをし、熱帯魚飼育がもたらした思わぬ副産物に感謝しつつ観賞時にしか点灯しないLEDライトのスイッチをオンにした俺は、青白い光に浮かび上がった光景を見て腰を抜かしそうになった。

 

 ゆらゆら……ゆらゆら……


 いつか水族館で見た美しくも妖しい深海クラゲの触手のように、茶色く変色して必要以上に侘しさを醸し出している水草に絡みつく謎の物体。


 水草だけじゃない。


 ようやく全身を水没させた流木のいたるところにもそいつは付着していた。色は深緑から黄緑がかった感じだ。揺れ方を見るに、根をはって増殖したというよりは粘性の高い外殻同士が絡み合って付着しているといったところか。目を凝らせば水槽のガラス壁にも茶色がかった緑色の螺旋模様がうっすらと浮かび上がっている。


 これはまさか。


 藻か!


 正式名称は知らんが藻の類いだろう。


 どういうことだ。


 焦りはしかし、俺の記憶回路を一気に活性化させた。


 そうだ、おっちゃんはたしかこう言っていた。二層のソイルは汚れを吸着すると同時にバクテリアを活性化させるために栄養を出すものだ。そこへ魔法の水が加わることで富栄養化が急激に進む場合があるため、立上げから二週間ほどはこまめに水替えをするべし。


 そういう高度に専門的(めんどうくさそう)な部分は聞き流し、俺が実践していたのは「LEDライトはずっと付けていると藻が発生しやすくなる」という部分だけだった。だから観賞時の数分しか付けないように心掛けていたのだ。


 ともかく己の愚かさを責めても仕方あるまい。


 発生した藻を取り除き、水を換えてやらねば!


 水草に藻が生えた場合の対処法などを調べるため、俺は「詫び草の選び方と育て方」という小冊子を開いた。これも飼育セットに入っていたものだ。


 なになに?


『水草の成長にはライトが必須です。温度管理が難しく、日が差さない場所に水槽を設置する場合は特に重要! 水草は光が当たらないと光合成できずに枯れてしまいます! 傷んだ葉はバクテリアの恰好のエサとなり――』


 馬鹿な!!


 ライト付けんなっつーから消しといたらこれか!?


 今更そんなことを悔やんでも意味のないことだ。最善を尽くして水槽(せかい)を救おう。俺は救国の勇者となるのだ!


 朝から何を言ってんだちくしょう、と心の中で自主ツッコミをしつつ、赦せ魚たちと念じて水槽に手を突っ込んだ。こうなっては潔癖症がどうとか言っていられない。


 俺の夢よ、死なないでくれ!


 ずろん。


 うむ。上手いオノマトペだと我ながら思うぞ。


 滑る自ら顔を背けつつ、もっとも茶色っぽくなっている水草の束を掴んだ俺の手の中で、憐れな水生植物は崩れ去った。


「うおぉぉおお!?」


 四つ入れておいた詫び草の束の内、三つがもろくも崩れ去った。魚たちにとっては突然水面から巨人の手が現れ、川底を爆発させたとでも感じただろう。腐った植物の残骸が満ちていく水槽内を狂ったように泳ぎ回っていた。

しかしその光景に息を飲んだ俺もテトラたちに負けず劣らず、朝の五時からテンパっていた。


「くそぉ! いったい何がどうなってやがる!?」


 リビングダイニングに俺の叫びがこだまする。早朝であることを思い出し隣家の誰かが怒鳴り込んで来やしないかとひやひやした。


 ともかくこれが、見えざる敵――藻類と俺の終わりなき戦いの始まりだったのだ。




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