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初日 水槽という名の怪物

 一か月前、アクアリウムを立ち上げた。


 31×21×25㎝のガラス水槽、外掛け式フィルター、ポンプ、LEDライト、水槽の底に敷く吸着系のなんちゃらいう砂的な粒二種類、水道水をアクアリウムに適した水に変えちゃう魔法の液体、詫び草四種、流木二個、温度計に肝心の魚カーデイナルテトラ6匹(1匹サービス)でかなり安く買えた。


 早速家にセットを持ち替えり、水槽を洗う。


 イイ感じに砂を敷き詰めた。おっちゃんが手前から奥へ行くほど高くなるように高低差を付けるのがミソだというのでその通りにした。

あらかじめバケツに溜めておいた12L水に魔法の液体を混ぜたものを注ぎ込む。

砂が水流に巻き上げられて大変なことになった。


 何のためだか忘れたが二層にしたのはちゃんと意味があったはずだが、水流をまともに受けた部分は灰色と黒の粒たちが混ざり合って複雑なグラデーションを形成していた。


 どうにか砂(ソイル?)を整え、床に水槽を置き椅子の上にバケツを置いて手動ポンプで水を注ぐ。そう言えばおっちゃんがしつこく「ポンプでね、高低差つけてね」と言っていた。


 適当なことをしてはいけない。


 いい教訓になった。


 12L全て注ぐ。


 はっは。


 水槽の半分も水が入っていない。


 あ、そう言えば水温が低いとよくないと言われたな。ぬるま湯をたしながら温度を調整し、魔法の液体を溶かし込んだそれをポンプで注ぐことさらに二回。


 ようやく水槽の縁から2cmほどの深さに水を張ることができた。慎重に注いだつもりだが、最初のラッシュのおかげで舞い上がったソイルの細かい粒子が水中に舞っており、かなり濁っている。


 沈殿するのを待つ間に外掛けフィルターやらなんやらを組み立てる。対面式キッチンに設えた飾り棚の空きスペースが、ちょうど水槽一つ分くらい空いているのだ。あそこにアクアリウムを置いて眺めながら一杯やるのも乙なもんだろう。


 早くも買い込んでおいたビールに手が伸びそうになる。


 いや、まだ昼の二時だぞ。


 ここで酒が入るとこの後の作業がまた適当になってしまうじゃないか。


 自分を諌めて立ち上がり、だいぶん落ち着いた床の水槽を見て、俺は背筋が寒くなるのを感じた。


 なんということだ。


 底に敷き詰められた砂の重量2kg、水槽自体の重さ1.5kg、そこに約36Lの水。

たかが40kgと侮るなかれ。荷物を持ち上げるのとは意味が違う。


 水槽の縁2cmに迫る水面は、わずかな傾きによっても溢れ出してしまう。得体のしれない魔法の液体――なんちゃらいうバクテリア等と栄養素? がふんだんに入っている――を床にぶちまけでもすれば、軽い潔癖症の俺はフローリングの溝の奥まで掃除をし、つい先日かけたばかりのワックスをまたかけ直すに決まっている。これまでの作業も床に一滴たりともこぼさないよう細心の注意を払って行ってきた。


 持ち手もなく、滑沢なガラスでできた40kgの箱をほとんど揺らすことなく、水平に持ち上げ、自分の腰よりも高い位置にある飾り棚に安置するだと?


 やってやろうじゃないの。


 このまま床に置いておくわけにもいかないし、早く詫び草の間を泳ぎ回るテトラを眺めて癒されたいのだ。苦労が多い分、その感動も一入だろう。


「ふんぬおふぁっ!?」


 緊張と暑さでちょうどよく汗ばんだ手で水槽を挟む。俺は人生で初めて左右の筋力バランスが均等でないことを悔やんだ。


 右側がわずかに持ち上がったとき、左はほとんどうごいていなかったのだ。水面が傾き、左側にむかって不吉な傾斜ができる。


「だ、だめだ……」


 それは水面を揺らすことなく持ち上げることを諦めかけた俺の呟きか。はたまた「だったら水を少し減らして、運び終えてから足せばいいじゃない」という天使のささやきに対する答えだったのか。


 諦めたらそこで試合終了。俺は今静かなる四角い相手と真剣勝負に挑んでいる。反則(みずをへら)してまで勝ちたくない。


 なんとかこいつを、あの飾り棚(ちょもらんま)の頂まで送り届けてみせる。そして、水槽の奴が「ふぅ……あんたにゃ負けたぜ」なんて言うのをニヒルな笑みを浮かべて聞いてやるのだ。








「ま、やってみればできるもんだ」

「…………」


 水槽(しかくいやつ)は応えなかった。


 結局のところ、俺の作戦――ちょっとだけ右側を持ち上げて段ボールを挟み込む。続いて水槽を回り込んで左側を右手で持ち上げてまた段ボールを挟み込む。そして両手を差し入れて持ち上げる――の前に、奴はあっさりと屈服したのだ。


 まだ微生物しか棲んでいない水槽を前に、俺は大きな達成感を得ていた。あとは水草を入れて、水合わせをしたテトラを放流するだけだ。


 おっと、LEDライトやフィルターも設置しておくか。アクアリウムとの暮しはもう目の前――


「ぐぉああああッ!?」


 外付けの機器を取ろうと踵を返した俺は、まるでダイニングテーブルの影に溶け込むようにして床に伏せる存在を認めて膝から崩れ落ちた。


「こんにちは、僕は滑り防止マット君。地震大国日本の皆、水槽の下には必ず僕を敷いてね!?」

「とか言えよちくしょうああああ!!」


 俺は物言わぬ黒いマットを踏みつけ、絶叫とも哀哭ともつかない叫び声を上げた。





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