来訪者 2
「……殿下?」
前日の一件が引っかかっていたのか。毎日馬車を止める場所まで、わざわざノエルが出迎えに来ていた。
「どうせなら、先に少し庭を歩いてから食事にしないか?」
「それは、かまいませんが……」
ドロシーは不思議そうに首を軽く傾げながらも、すんなりと頷いた。ノエルはホッとした表情でかすかに微笑む。
急な変化についていけず、嫌でも戸惑ってしまう。
カラカラと軽快な音を鳴らして、乗ってきた馬車が帰っていく。それをぼんやりと見送り、ノエルに促されてゆっくり歩きだしたとたん。
「待てーっ!」
制止する怒声が聞こえた。
自分に向けられたものかと、ドロシーはビクッとして勢いよく振り返る。一目散に駆けてくる人影が目に入り、その人物に投げられたものだと気づいた。
こちらへ向かってくる、格好からすると男性らしい人物は、いったい誰なのか。よくよく見ようと目を凝らすと、不意に一面の濃緑色に染まる。
「誰だ!」
視界を遮った背中が誰何した。研ぎ澄まされた刃物を思わせる、鋭く尖った声音だ。
見えない向こう側で、あたふたと跪く気配。
「前もって約束のないこと、ど、どうかお許しください。僕はタイン辺境伯子息、ヴィクター・ウェイクリングと申します。えっと、無礼を承知で、兄の減刑を願い出にまいりました!」
まだ幼さの残る少年の声は、やや早口でつっかえつっかえだ。
突然やってきて、承諾もなく押しかけたのだから、どんな罰が待っているか。それでも、聞いて欲しくて必死なのだろう。懸命に訴える声が響く。
ノエルの背に庇われながら、ドロシーは眉根をギュッと寄せる。
「……ヴィクター……」
こんなところで、こんな時に、幼い頃から知った名前を聞くとは思わなかった。
少しだけ振り向いたノエルへ、小さく頷く。そのままドロシーは、ノエルの左斜め後ろへ立ち位置を変える。
軽い癖のある、茶色の髪。俯いていて、顔を確かめることはできなかった。本物のヴィクターなら、タイン辺境伯の末息子で、今年十五になる少年だ。体つきがほっそりして、子供っぽく幼い印象であることも、何ら不思議はない。
「タイン辺境伯領から、一人でここまで来たのですか? タイン辺境伯か夫人には、きちんと伝えて来たのですか?」
王城からタイン辺境伯領までは、馬車で鐘二つ分ほどかかる。単騎で馬を駆ったとしても、半分程度に短縮するのがせいぜいだろう。
フッと上がった顔は、記憶に大きな間違いがなければ、ヴィクターだ。ふわりと頬にかかる、真っ直ぐではない茶色の髪。髪よりやや濃い茶色で愛嬌のある瞳は、大きく見開かれていた。上気してふっくらした頬が、より幼さを強調している。
最後に顔を見た時より、いくらか大人びた印象を受けた。ほんの少し、彼の上の兄に似てきたと思う。
「ドロシー? どうして君がここにいるの? ひょっとして君も、グレン兄さんとリリアンさんの減刑を、お願いしに来たの?」
「いいえ。私は二人の出奔を知ってすぐ、殿下に厳罰を望みました」
「どうして!」
とたんに声を荒げるヴィクターの気持ちが、どうしても理解できなかった。
理解したいとも、思わない。
「……どうして? それは、私が聞きたいことです。あなたはなぜ、姉とシプリー子爵の減刑を願うのですか? 二人の行為は、王太子に対する明確な裏切りです。本来、我がメイフィールド家も、あなたのウェイクリング家も、滅んでいておかしくないのですよ? どんな理由があれ、軽い処分で済ませれば、殿下の体面に大いに関わります。甘い処分は、遠くない将来に国を滅ぼすでしょう。それが、あなたには理解できないのですか?」
「わからないよ!」
できるだけ淡々と、論理的に。そう心がけて語りかけると、ヴィクターは涙をうっすらにじませて、噛みつくように叫んだ。
涙を流せば、何も知らない者は同情してくれる。たとえこちらを傷つけても、泣いた加害者が慰められるのだ。
そんな経験は、これまでに嫌というほどしている。
他人の涙に揺れる優しさなど、とっくに捨ててしまった。
「何で君は、そんなに冷たいことが言えるの? グレン兄さんが君じゃなくて、リリアンさんと行っちゃったから、だから怒ってるの? 恨んでるの? 憎んでるの? そんなことで、こんなひどいことを言うなんて……見損なったよ!」
「私は、あなたを見損ないました」
真っ直ぐ前を向いたまま、わずかに目を伏せたドロシーは、彼女にしては低い声で冷ややかに言い放つ。
視界に入るヴィクターの、驚愕に染まった顔。右側から落ちてくる、明らかに気に病んだ視線。
ヴィクターよりも、視線が気になって仕方がない。
「ただの怒りや憎悪で厳罰を望む、さもしい女と思われていたとは、想像もしていませんでした。グレン様が姉以外の女性と出奔しようと、私は怒りも悲しみもしません。憤るほど、私が彼を愛していると思っていたのですか? 兄様が決めたから従っただけです。ですから、グレン様がどうなろうと、私の知ったことではありません」
言葉が一旦流れ始めると、思う以上にスラスラとこぼれていく。
「今回に関しては、大きな問題がいくつもあります。まず、グレン様は、世間の目には、王太子の婚約者と駆け落ちした男としか見られません。姉も、王太子を裏切った女とみられるでしょう。そして、逃げた二人を殿下があっさり許せば、直接の関係者の気持ちは落ち着くかもしれません。けれど、世間は違います。大罪を犯しても、一度懐に入れた人間であれば、必死に謝れば許してくれる。そう考える奸臣が、ことあるごとに甘言を囁くでしょう。信が置けないと、民の見る目はますます厳しくなるでしょう。今後の治政が、多大な影響を受けてしまうのです」
なるべく言葉をかみ砕き、ヴィクターにも思い浮かべやすいように。可能な限り、理路整然と並べ立ててみる。
口を挟ませないよう話すうちに、ヴィクターの顔は悲しげに、悔しそうに歪み、やがて下を向いていった。
強い口調のドロシーが見慣れないせいか。ヴィクターだけでなく、ノエルもひどく驚いた様子で口をつぐんでいる。
俯いたヴィクターの肩が、かすかに震えている。それが怒りなのか、はたまた悲しみなのか。ジッと見つめてみるものの、読み取れなかった。
「取り返しのつかないほど国を傾けてでも、あなたはグレン様と姉を許せと言いたいのですか? この国を、滅ぼしたいのですか?」
一転し、声音をやわらげる。
これでもまだ、減刑を望むと言い出すなら、これ以上の説得や説教は行わない。その代わり、今後一切、耳を貸さない。あまりにしつこいようならば、別の手段を講じてでも黙らせよう。
そう決めたドロシーは、静かにヴィクターの反応を待つ。
「……ドロシーは、変わったね」
ぽつりと呟かれたひと言。しかし、感情を再び逆なでするには十分だった。
変わった、と言えるほど、自分のことを知っているのか。そんな戯れ言を口にすれば、考えを変えるとでも思っているのか。
そう問い詰めたい感情の爆発を、懸命に抑え込む。
「……我が家からの、婚約破棄に関する書状が届いたからこそ、あなたがここへ来たのでしょう? たとえ姉とグレン様が許され、姉が王太子妃となっても、私はグレン様へは嫁ぎません。どんな理由があれ、一度は姉を選んだグレン様を、再び婚約者と思えるよう、私にいらぬ努力を強いるのですか?」
納得はしていなかったのかもしれない。それでも、世間に対し、正式に婚約を公表した間柄だ。相応の心構えもしていた。
彼の行為は、手ひどい裏切りに他ならない。
同情も、未練も、復縁も。何もかも、あり得なかった。
「それともあなたは、自分を裏切った正式な婚約者が「許して」と哀願してきたら、簡単に許してしまえるのですか? 陰でどんな悪口を囁かれているか。知らぬうちに、また裏切っているのではないか。そんな疑心を抱きながら、自分をもだまして、死ぬまで生きるつもりですか?」
こちらばかりを責めるのは、きっと彼が、本当の意味で当事者ではないからだ。もし同じ立場に置かれたら。その考え方ができないからだ。
「あなたがどうするかは自由ですが、その考えを私に押しつけないでください」
ドロシーは冷ややかに見下ろし、温情は一切交えず徹底的に突き放す。
これからヴィクターがどんな決断を下そうと、かまわない。わざわざ巻き込もうとしない限り、基本的に関与することはないだろう。婚約という縁がなくなった今、好き好んで絡む必要性も感じられない。
「殿下の御前をお騒がせしましたこと、どうぞお許しください」
ドレスをちょいとつまんで一礼するドロシーへ、ノエルはやわらかな微笑を向ける。
「さすがはキースの妹だな。啖呵の切り方がやつにそっくりだ」
「いえ、兄には遠く及びません」
そっと目を伏せるドロシーを見て、ノエルが楽しげな低い笑い声をこぼす。
兄はもっと狡猾に、敵だけを徐々に孤立させていく。敵本人に戦う素振りを見せた時には、すでに勝敗は決している。
『君が嫌いなんだよ』
その意思表示をするだけで、相手は跪くしかなくなるのだ。
勝算も考えず、ただ意見を述べるだけでは、兄に追いつくことすらできない。
「時間を取られたな。散策は後にするか」
「はい、わかりました」
いつもの場所まで並んで歩きながら、ドロシーはこっそりノエルを見上げる。
すべてが片づいた時、彼が姉と、もう一度婚約する気にならなければいいと願う。
このまま、時間をかけてじっくりと距離を縮め、いずれは婚約を公表する。そして、対外的には仲のいい夫婦として、長い時間を一緒に過ごすのだろう。
本当にそうなれるかは、これから次第か。
ぼんやりと、彼の隣に立つ、自身の姿を想像してみる。今までずっと、想像してきたことだ。あっさりと思い浮かぶ二人は、今の姿だった。
(……こうなると、いいのですけれど)
誰かと苦楽をともにしていく。穏やかな時間を、ふたりで過ごす未来。
そんな漠然とした先行きを、かつての婚約者相手には、何ひとつ思い描きもしなかった。むしろ、婚約してからも、別の人との未来を想像していたのだ。
誠実でなかった罰は、その罪の重さに応じて、きちんと降りかかるものだった。
§ ‡ §
何だか気分がいいから、いつもより少し早く家を出た。燦々と降り注ぐ陽光に、とっさに手をかざして目を細める。
今はまだ春の心地よさが残っている日差しも、いずれ強く照りつける夏のものへと変わるのだろう。
暑さは嫌いではない。ある程度着込まなければ寒い冬よりは、動きやすさで好ましいとも思う。ただ、読書がはかどる点では冬に軍配が上がる。その程度の差だ。
「ドロシー」
名前を呼ばれ、渋々そちらに目を向けた。見据える視線が少なからず厳しくなるのは、致し方ない。
昨日、帰る時にはもういなかった。だから、タイン辺境伯領へ帰ったのだと思っていたが、どうやらこの近辺で宿泊したらしい。
まだ、グレンとリリアンの件は公にされてはいない。けれどそれも、もはや時間の問題だ。公然の秘密として、すでにほとんどの貴族には知れ渡っている。
わざわざもめ事を招き入れる貴族は、まずいないだろう。
(……それにしても、よく、泊めてくださる方がいらっしゃいましたね)
憤りをあらわにしたヴィクターは、昨日とまったく同じ服装だ。クラヴァットすら変わっていない。
泊めてもらっただけなのか、はたまた、夜通しどこかに身を潜めていたのか。
そのどちらだろうと、相変わらず、興味は持てなかった。
「お願いだから、グレン兄さんとリリアンさんの減刑を、殿下に願い出てよ!」
「お断りします」
ドロシーはすげなく即答する。
「私には、グレン様と姉の減刑を望む理由がありません」
軽減の方向で協力するつもりは、一切ない。それを一刻も早く理解し、取りなしを求めなくなって欲しい。
こうして嘆願に来られると、嫌でも気になってしまう。心が、ずっしりと重くなる。軽やかになれて、時の経つのも忘れる時間を、とにかく欲してしまう。
脳裏にふと、面影が浮かんだ。今、なぜか、無性に会いたいと感じる人だ。
苦々しい表情をしているヴィクターから、するっと視線をはがす。彼に背を向け、馬車が待っている場所へと、ゆっくり足を踏み出した瞬間。
「きゃっ!」
呆然としてしまう。
いきなり右腕をつかまれたからではない。自身の喉から、予想以上に年頃の少女らしい悲鳴が上がったことに、完全に虚を衝かれた形だ。
「君がしているのは、グレン兄さんとリリアンさんを見捨てることだよ!」
すうっと、心臓が冷えた。
そんな言葉で、裏切られた側の同情が買えると思っているのか。そうだとしたら、ずいぶんと見くびられたものだ。
自分の望みを叶えるためなら、他人の犠牲を見つめることすらできないのか。
あまりに幼稚でわがままで、恥を知らない物言いをする。そんなヴィクターに、ドロシーは今まで以上に冷え切った視線を向けた。
「あなたの言動は、殿下を辱め、この国を破滅へ導く行為です。姉はもちろん、グレン様にかける情けも、あいにくひとかけらも持ち合わせておりません」
冷ややかに、忌々しげに、素っ気なく。告げたとたん、ヴィクターの顔がグニャリと歪んだ。
「……もう、昔のドロシーはいないんだね」
「もしかして、姉と勘違いしていませんか? 私は今も昔も、大して変わっていません。もし、私の考えが冷淡だと思っているのなら、それはあなたがあなた自身を基準としているからでしょう。あなたの婚約者が、あなたの兄弟と出奔してごらんなさい。その時、笑って許してもう一度受け入れ、死ぬまで大切にして添い遂げる覚悟のある方だけが、私の考えをけなし、否定することが許されるのではありませんか?」
くだらない思考の押しつけは、迷惑以外の何物でもない。
それを理解してくれないならば、わかってもらえるまで、ただひたすら淡々と語るか。もしくは、何もかもに触れずに過ごすか。
「あなたが一生、裏切り者の婚約者と結婚する以外できなかった情けない男、として囁かれながら生きたいとおっしゃるなら、どうぞご自由に。けれど、それを他人に強要する権利など、あなたにはもちろん、他の誰にもありません」
キッと睨みつけてくるヴィクターの視線を、真っ向から受け止める。
「他に用がないのでしたら、手を離してください。殿下との約束に、遅れるわけにはいきませんから」
ヴィクターは離れようとしない。それどころか、腕をつかむ指にギュッと力を込める。走った痛みに、ドロシーは思わず眉根を寄せた。
「……手を、離しなさい」
痛みを堪え、完全に冷え切った声音がこぼれ落ちる。
それでもなお、離すつもりがないのなら。あまり取りたくはないが、最後の手段に出ようと心に決めた。
聞く耳を持たない人間に、懸命な説教をしてあげる。それほど酔狂でもなければ、暇を持て余してもいない。
つかまれた腕をさらなる激痛が襲ったとたん、ドロシーは体をひねってヴィクターと向かい合う形になる。そして、素早く右足を後ろへ引き、つま先を彼のすねへと思い切り叩き込む。
堪えきれず、ヴィクターはうずくまって蹴られた部分を両手で押さえた。彼をその場に残し、ドロシーはさっさと馬車が待つ場所へと向かう。
(兄様のおっしゃったとおりですね)
いつだったか、しつこい輩はこうして追い払え。そう教えられた方法だった。
ただし、やり過ぎると自分の評判を下げるから、本当にここぞという時だけにするように。そんな条件をつけられたやり方だから、今ここで使うことは許されるはずだ。
馬車が動きだすと、急に体がガタガタと震えだした。つかまれていた右腕に、まだ感触が残っている。それがひどく不快で気持ち悪く、何度も何度も腕をさすった。
どうにかして、この不快感を振り払ってしまいたい。その一心だ。
王城への到着が、今日ほど待ち遠しかったことはない。裾を踏まないよう、ドレスを持ち上げることさえもどかしい。
「ようこそ」
かすかに微笑んで、手を貸してくれる。そんなノエルに、ドロシーは心の底から安心して、ホッと息を吐き出す。
もう、安全だ。これで大丈夫だ。
なぜか、そんな気がした。