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最良の道  作者: 日咲ナオ
9/17

来訪者 2

「……殿下?」

 前日の一件が引っかかっていたのか。毎日馬車を止める場所まで、わざわざノエルが出迎えに来ていた。

「どうせなら、先に少し庭を歩いてから食事にしないか?」

「それは、かまいませんが……」

 ドロシーは不思議そうに首を軽く傾げながらも、すんなりと頷いた。ノエルはホッとした表情でかすかに微笑む。

 急な変化についていけず、嫌でも戸惑ってしまう。

 カラカラと軽快な音を鳴らして、乗ってきた馬車が帰っていく。それをぼんやりと見送り、ノエルに促されてゆっくり歩きだしたとたん。

「待てーっ!」

 制止する怒声が聞こえた。

 自分に向けられたものかと、ドロシーはビクッとして勢いよく振り返る。一目散に駆けてくる人影が目に入り、その人物に投げられたものだと気づいた。

 こちらへ向かってくる、格好からすると男性らしい人物は、いったい誰なのか。よくよく見ようと目を凝らすと、不意に一面の濃緑色に染まる。

「誰だ!」

 視界を遮った背中が誰何した。研ぎ澄まされた刃物を思わせる、鋭く尖った声音だ。

 見えない向こう側で、あたふたと跪く気配。

「前もって約束のないこと、ど、どうかお許しください。僕はタイン辺境伯子息、ヴィクター・ウェイクリングと申します。えっと、無礼を承知で、兄の減刑を願い出にまいりました!」

 まだ幼さの残る少年の声は、やや早口でつっかえつっかえだ。

 突然やってきて、承諾もなく押しかけたのだから、どんな罰が待っているか。それでも、聞いて欲しくて必死なのだろう。懸命に訴える声が響く。

 ノエルの背に庇われながら、ドロシーは眉根をギュッと寄せる。

「……ヴィクター……」

 こんなところで、こんな時に、幼い頃から知った名前を聞くとは思わなかった。

 少しだけ振り向いたノエルへ、小さく頷く。そのままドロシーは、ノエルの左斜め後ろへ立ち位置を変える。

 軽い癖のある、茶色の髪。俯いていて、顔を確かめることはできなかった。本物のヴィクターなら、タイン辺境伯の末息子で、今年十五になる少年だ。体つきがほっそりして、子供っぽく幼い印象であることも、何ら不思議はない。

「タイン辺境伯領から、一人でここまで来たのですか? タイン辺境伯か夫人には、きちんと伝えて来たのですか?」

 王城からタイン辺境伯領までは、馬車で鐘二つ分ほどかかる。単騎で馬を駆ったとしても、半分程度に短縮するのがせいぜいだろう。

 フッと上がった顔は、記憶に大きな間違いがなければ、ヴィクターだ。ふわりと頬にかかる、真っ直ぐではない茶色の髪。髪よりやや濃い茶色で愛嬌のある瞳は、大きく見開かれていた。上気してふっくらした頬が、より幼さを強調している。

 最後に顔を見た時より、いくらか大人びた印象を受けた。ほんの少し、彼の上の兄に似てきたと思う。

「ドロシー? どうして君がここにいるの? ひょっとして君も、グレン兄さんとリリアンさんの減刑を、お願いしに来たの?」

「いいえ。私は二人の出奔を知ってすぐ、殿下に厳罰を望みました」

「どうして!」

 とたんに声を荒げるヴィクターの気持ちが、どうしても理解できなかった。

 理解したいとも、思わない。

「……どうして? それは、私が聞きたいことです。あなたはなぜ、姉とシプリー子爵の減刑を願うのですか? 二人の行為は、王太子に対する明確な裏切りです。本来、我がメイフィールド家も、あなたのウェイクリング家も、滅んでいておかしくないのですよ? どんな理由があれ、軽い処分で済ませれば、殿下の体面に大いに関わります。甘い処分は、遠くない将来に国を滅ぼすでしょう。それが、あなたには理解できないのですか?」

「わからないよ!」

 できるだけ淡々と、論理的に。そう心がけて語りかけると、ヴィクターは涙をうっすらにじませて、噛みつくように叫んだ。

 涙を流せば、何も知らない者は同情してくれる。たとえこちらを傷つけても、泣いた加害者が慰められるのだ。

 そんな経験は、これまでに嫌というほどしている。

 他人の涙に揺れる優しさなど、とっくに捨ててしまった。

「何で君は、そんなに冷たいことが言えるの? グレン兄さんが君じゃなくて、リリアンさんと行っちゃったから、だから怒ってるの? 恨んでるの? 憎んでるの? そんなことで、こんなひどいことを言うなんて……見損なったよ!」

「私は、あなたを見損ないました」

 真っ直ぐ前を向いたまま、わずかに目を伏せたドロシーは、彼女にしては低い声で冷ややかに言い放つ。

 視界に入るヴィクターの、驚愕に染まった顔。右側から落ちてくる、明らかに気に病んだ視線。

 ヴィクターよりも、視線が気になって仕方がない。

「ただの怒りや憎悪で厳罰を望む、さもしい女と思われていたとは、想像もしていませんでした。グレン様が姉以外の女性と出奔しようと、私は怒りも悲しみもしません。憤るほど、私が彼を愛していると思っていたのですか? 兄様が決めたから従っただけです。ですから、グレン様がどうなろうと、私の知ったことではありません」

 言葉が一旦流れ始めると、思う以上にスラスラとこぼれていく。

「今回に関しては、大きな問題がいくつもあります。まず、グレン様は、世間の目には、王太子の婚約者と駆け落ちした男としか見られません。姉も、王太子を裏切った女とみられるでしょう。そして、逃げた二人を殿下があっさり許せば、直接の関係者の気持ちは落ち着くかもしれません。けれど、世間は違います。大罪を犯しても、一度懐に入れた人間であれば、必死に謝れば許してくれる。そう考える奸臣が、ことあるごとに甘言を囁くでしょう。信が置けないと、民の見る目はますます厳しくなるでしょう。今後の治政が、多大な影響を受けてしまうのです」

 なるべく言葉をかみ砕き、ヴィクターにも思い浮かべやすいように。可能な限り、理路整然と並べ立ててみる。

 口を挟ませないよう話すうちに、ヴィクターの顔は悲しげに、悔しそうに歪み、やがて下を向いていった。

 強い口調のドロシーが見慣れないせいか。ヴィクターだけでなく、ノエルもひどく驚いた様子で口をつぐんでいる。

 俯いたヴィクターの肩が、かすかに震えている。それが怒りなのか、はたまた悲しみなのか。ジッと見つめてみるものの、読み取れなかった。

「取り返しのつかないほど国を傾けてでも、あなたはグレン様と姉を許せと言いたいのですか? この国を、滅ぼしたいのですか?」

 一転し、声音をやわらげる。

 これでもまだ、減刑を望むと言い出すなら、これ以上の説得や説教は行わない。その代わり、今後一切、耳を貸さない。あまりにしつこいようならば、別の手段を講じてでも黙らせよう。

 そう決めたドロシーは、静かにヴィクターの反応を待つ。

「……ドロシーは、変わったね」

 ぽつりと呟かれたひと言。しかし、感情を再び逆なでするには十分だった。

 変わった、と言えるほど、自分のことを知っているのか。そんな戯れ言を口にすれば、考えを変えるとでも思っているのか。

 そう問い詰めたい感情の爆発を、懸命に抑え込む。

「……我が家からの、婚約破棄に関する書状が届いたからこそ、あなたがここへ来たのでしょう? たとえ姉とグレン様が許され、姉が王太子妃となっても、私はグレン様へは嫁ぎません。どんな理由があれ、一度は姉を選んだグレン様を、再び婚約者と思えるよう、私にいらぬ努力を強いるのですか?」

 納得はしていなかったのかもしれない。それでも、世間に対し、正式に婚約を公表した間柄だ。相応の心構えもしていた。

 彼の行為は、手ひどい裏切りに他ならない。

 同情も、未練も、復縁も。何もかも、あり得なかった。

「それともあなたは、自分を裏切った正式な婚約者が「許して」と哀願してきたら、簡単に許してしまえるのですか? 陰でどんな悪口を囁かれているか。知らぬうちに、また裏切っているのではないか。そんな疑心を抱きながら、自分をもだまして、死ぬまで生きるつもりですか?」

 こちらばかりを責めるのは、きっと彼が、本当の意味で当事者ではないからだ。もし同じ立場に置かれたら。その考え方ができないからだ。

「あなたがどうするかは自由ですが、その考えを私に押しつけないでください」

 ドロシーは冷ややかに見下ろし、温情は一切交えず徹底的に突き放す。

 これからヴィクターがどんな決断を下そうと、かまわない。わざわざ巻き込もうとしない限り、基本的に関与することはないだろう。婚約という縁がなくなった今、好き好んで絡む必要性も感じられない。

「殿下の御前をお騒がせしましたこと、どうぞお許しください」

 ドレスをちょいとつまんで一礼するドロシーへ、ノエルはやわらかな微笑を向ける。

「さすがはキースの妹だな。啖呵の切り方がやつにそっくりだ」

「いえ、兄には遠く及びません」

 そっと目を伏せるドロシーを見て、ノエルが楽しげな低い笑い声をこぼす。

 兄はもっと狡猾に、敵だけを徐々に孤立させていく。敵本人に戦う素振りを見せた時には、すでに勝敗は決している。

『君が嫌いなんだよ』

 その意思表示をするだけで、相手は跪くしかなくなるのだ。

 勝算も考えず、ただ意見を述べるだけでは、兄に追いつくことすらできない。

「時間を取られたな。散策は後にするか」

「はい、わかりました」

 いつもの場所まで並んで歩きながら、ドロシーはこっそりノエルを見上げる。

 すべてが片づいた時、彼が姉と、もう一度婚約する気にならなければいいと願う。

 このまま、時間をかけてじっくりと距離を縮め、いずれは婚約を公表する。そして、対外的には仲のいい夫婦として、長い時間を一緒に過ごすのだろう。

 本当にそうなれるかは、これから次第か。

 ぼんやりと、彼の隣に立つ、自身の姿を想像してみる。今までずっと、想像してきたことだ。あっさりと思い浮かぶ二人は、今の姿だった。

(……こうなると、いいのですけれど)

 誰かと苦楽をともにしていく。穏やかな時間を、ふたりで過ごす未来。

 そんな漠然とした先行きを、かつての婚約者相手には、何ひとつ思い描きもしなかった。むしろ、婚約してからも、別の人との未来を想像していたのだ。

 誠実でなかった罰は、その罪の重さに応じて、きちんと降りかかるものだった。


      § ‡ §


 何だか気分がいいから、いつもより少し早く家を出た。燦々と降り注ぐ陽光に、とっさに手をかざして目を細める。

 今はまだ春の心地よさが残っている日差しも、いずれ強く照りつける夏のものへと変わるのだろう。

 暑さは嫌いではない。ある程度着込まなければ寒い冬よりは、動きやすさで好ましいとも思う。ただ、読書がはかどる点では冬に軍配が上がる。その程度の差だ。

「ドロシー」

 名前を呼ばれ、渋々そちらに目を向けた。見据える視線が少なからず厳しくなるのは、致し方ない。

 昨日、帰る時にはもういなかった。だから、タイン辺境伯領へ帰ったのだと思っていたが、どうやらこの近辺で宿泊したらしい。

 まだ、グレンとリリアンの件は公にされてはいない。けれどそれも、もはや時間の問題だ。公然の秘密として、すでにほとんどの貴族には知れ渡っている。

 わざわざもめ事を招き入れる貴族は、まずいないだろう。

(……それにしても、よく、泊めてくださる方がいらっしゃいましたね)

 憤りをあらわにしたヴィクターは、昨日とまったく同じ服装だ。クラヴァットすら変わっていない。

 泊めてもらっただけなのか、はたまた、夜通しどこかに身を潜めていたのか。

 そのどちらだろうと、相変わらず、興味は持てなかった。

「お願いだから、グレン兄さんとリリアンさんの減刑を、殿下に願い出てよ!」

「お断りします」

 ドロシーはすげなく即答する。

「私には、グレン様と姉の減刑を望む理由がありません」

 軽減の方向で協力するつもりは、一切ない。それを一刻も早く理解し、取りなしを求めなくなって欲しい。

 こうして嘆願に来られると、嫌でも気になってしまう。心が、ずっしりと重くなる。軽やかになれて、時の経つのも忘れる時間を、とにかく欲してしまう。

 脳裏にふと、面影が浮かんだ。今、なぜか、無性に会いたいと感じる人だ。

 苦々しい表情をしているヴィクターから、するっと視線をはがす。彼に背を向け、馬車が待っている場所へと、ゆっくり足を踏み出した瞬間。

「きゃっ!」

 呆然としてしまう。

 いきなり右腕をつかまれたからではない。自身の喉から、予想以上に年頃の少女らしい悲鳴が上がったことに、完全に虚を衝かれた形だ。

「君がしているのは、グレン兄さんとリリアンさんを見捨てることだよ!」

 すうっと、心臓が冷えた。

 そんな言葉で、裏切られた側の同情が買えると思っているのか。そうだとしたら、ずいぶんと見くびられたものだ。

 自分の望みを叶えるためなら、他人の犠牲を見つめることすらできないのか。

 あまりに幼稚でわがままで、恥を知らない物言いをする。そんなヴィクターに、ドロシーは今まで以上に冷え切った視線を向けた。

「あなたの言動は、殿下を辱め、この国を破滅へ導く行為です。姉はもちろん、グレン様にかける情けも、あいにくひとかけらも持ち合わせておりません」

 冷ややかに、忌々しげに、素っ気なく。告げたとたん、ヴィクターの顔がグニャリと歪んだ。

「……もう、昔のドロシーはいないんだね」

「もしかして、姉と勘違いしていませんか? 私は今も昔も、大して変わっていません。もし、私の考えが冷淡だと思っているのなら、それはあなたがあなた自身を基準としているからでしょう。あなたの婚約者が、あなたの兄弟と出奔してごらんなさい。その時、笑って許してもう一度受け入れ、死ぬまで大切にして添い遂げる覚悟のある方だけが、私の考えをけなし、否定することが許されるのではありませんか?」

 くだらない思考の押しつけは、迷惑以外の何物でもない。

 それを理解してくれないならば、わかってもらえるまで、ただひたすら淡々と語るか。もしくは、何もかもに触れずに過ごすか。

「あなたが一生、裏切り者の婚約者と結婚する以外できなかった情けない男、として囁かれながら生きたいとおっしゃるなら、どうぞご自由に。けれど、それを他人に強要する権利など、あなたにはもちろん、他の誰にもありません」

 キッと睨みつけてくるヴィクターの視線を、真っ向から受け止める。

「他に用がないのでしたら、手を離してください。殿下との約束に、遅れるわけにはいきませんから」

 ヴィクターは離れようとしない。それどころか、腕をつかむ指にギュッと力を込める。走った痛みに、ドロシーは思わず眉根を寄せた。

「……手を、離しなさい」

 痛みを堪え、完全に冷え切った声音がこぼれ落ちる。

 それでもなお、離すつもりがないのなら。あまり取りたくはないが、最後の手段に出ようと心に決めた。

 聞く耳を持たない人間に、懸命な説教をしてあげる。それほど酔狂でもなければ、暇を持て余してもいない。

 つかまれた腕をさらなる激痛が襲ったとたん、ドロシーは体をひねってヴィクターと向かい合う形になる。そして、素早く右足を後ろへ引き、つま先を彼のすねへと思い切り叩き込む。

 堪えきれず、ヴィクターはうずくまって蹴られた部分を両手で押さえた。彼をその場に残し、ドロシーはさっさと馬車が待つ場所へと向かう。

(兄様のおっしゃったとおりですね)

 いつだったか、しつこい輩はこうして追い払え。そう教えられた方法だった。

 ただし、やり過ぎると自分の評判を下げるから、本当にここぞという時だけにするように。そんな条件をつけられたやり方だから、今ここで使うことは許されるはずだ。

 馬車が動きだすと、急に体がガタガタと震えだした。つかまれていた右腕に、まだ感触が残っている。それがひどく不快で気持ち悪く、何度も何度も腕をさすった。

 どうにかして、この不快感を振り払ってしまいたい。その一心だ。

 王城への到着が、今日ほど待ち遠しかったことはない。裾を踏まないよう、ドレスを持ち上げることさえもどかしい。

「ようこそ」

 かすかに微笑んで、手を貸してくれる。そんなノエルに、ドロシーは心の底から安心して、ホッと息を吐き出す。

 もう、安全だ。これで大丈夫だ。

 なぜか、そんな気がした。


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