夜会 3
あの後、見計らったように迎えに来たキースに連れられ、ドロシーは帰路に着いた。家が見えた頃には、いつも眠る時間をとっくに過ぎていた。
翌朝は、普段より少し遅く目が覚めた。ぼんやりする頭で、今日も王城へ向かわなければ、と考える。
(昨夜は遅かったでしょうから、少しゆっくりでも大丈夫でしょうか?)
早く着きすぎて、ノエルの職務に影響があってはいけない。かといって、話をする時間が少なくなるのは嫌だと思う。
(……本当に、私はわがままですね)
そばにいられるだけで幸福なのだ。それ以上を望むのは、欲張りというものだろう。
「ドール、起きてる?」
キースの声だ。
すぐに起きている旨を伝えると、遠慮なくドアが開けられる。
「昨日はちょっと遅くなったからね。十分眠れた? 大丈夫? 何なら、殿下と会う約束をやめて、今日はもっと寝ていてもいいんだよ?」
ひょいと顔を覗き込まれ、顔色をことさら入念に確認された。
こんなことには慣れっこなのか。ドロシーはじろじろ見られても気に留めず、ゆるゆると首を横に振る。
「軽い寝不足では、断る理由になりません。何より、私にとって、いい息抜きになりますから。殿下は、滅多に姉様やグレン様のことを話題にしませんもの」
「ああ、好きで好きでたまらなくって婚約してたってわけじゃない辺りが、君と殿下は同じだから。それに、他にいろんな話題があるんでしょ?」
「そうですね。最近の殿下は、王城に飾られた花や、その辺りに生えている野草の名が気になるそうです。私も、見かけるものの名前は知らない花が多く、殿下に教えていただけるので、大変勉強になります」
「……それで僕に、花や野草の載っている本を教えろって言ってきたんだね」
心底呆れ果てた表情で、キースはわざとらしく肩をすくめてため息をついた。
気心の知れた相手に対し、よく大げさな言動を見せる。そんな兄に、ドロシーは首を軽く左に傾けた。
(このところ、殿下のお話を聞かせてくださる機会が、やけに多い気がします)
気に入っている相手であっても、自分の親しい人間はあまり教えてくれない。事実、姉が出奔するまで、兄は王太子の噂ひとつ教えてくれたことがなかった。
それなのに、ここ最近の話題は、なぜか彼のことばかりだ。
肝心の姉の行方は、ちっとも教えてくれないのに。
「まあ、君が珍しく打ち解けてるみたいだし、悪いことばかりじゃないかな」
「そうかもしれませんね。殿下は、兄様とお話しているようで、心から安心できる時が多くありますから」
わずかに目を見張った兄を、不思議そうにドロシーは見上げる。とたんに彼は、まるでごまかすような、ふわりとやわらかな微笑みを浮かべた。
「じゃあ、気晴らしに行っておいで。殿下ものんびり寝てるだろうけど、君が着く頃には……さすがに起きてると思うし」
「今日は兄様は、城へは行かないのですか?」
こんな時間に家にいるのだ。行かないに決まっている。それがわかっていながら、ドロシーはなぜか聞いてしまった。
「うん。ちょっとやることがあってね」
曖昧な微笑と言い方に、それが姉の行き先に絡むことだと察する。だからドロシーは、かすかに口角を持ち上げてみせた。
「では、朝食と身支度を整えましたら、行ってまいります」
「多分見送れないと思うけど、気をつけて行っておいで」
にこやかなキースが、ドロシーの頭を優しくなでる。
頷き、まずは握り締めていた角材を片づける。手には、角の跡が赤く、くっきりとついていた。それから、髪を邪魔にならないよう、簡単にまとめる。
「……先に、食事を済ませましょうか」
ひっそり呟いたドロシーは、そのまま部屋を出た。
王城に出向くと、いつもの中庭に変わらない光景が広がっていた。
「昨日はせっかくお招きいただきましたのに、早々に辞してしまって申し訳ありませんでした」
顔をあわせたとたん、ドロシーはまず謝罪を口にする。それから礼を取り、ゆっくりと顔を持ち上げた。
「いや、急に誘ったのは俺だ。むしろ、俺が君に謝るべきだろう?」
「昨日は恐らく、建前は姉の名代でしたよね? でしたら、少なくとも半ばを過ぎるまでは、ご一緒すべきではありませんか? ですから、私が謝罪することは、何ら不自然ではありません」
「その点は大丈夫だ。俺がうっかり忘れていて、三日前にいきなり頼んで承諾してもらったと、不審がった人間には伝えてある。翌朝に外せない用があるから帰宅も早い、とも。その辺りは、誰もがうらやむ、愛らしい婚約者に逃げられた精神的ショックだろうと、苦笑いで納得してくれてるから安心しろ」
ドロシーはギュッと眉を寄せる。
腹立たしくて悔しくて、悲しい。そんな感情たちが渦巻いて、言いたい言葉がうまく見つけられなかった。
「……私は、あなたを貶めたいわけではありません」
対外的には、いなくなって落ち込んでいると映るのかもしれない。だが、本性を知っていれば、むしろこの状況がありがたくなる。ある種の希有な存在が、リリアンだ。
あんな姉と婚約していただけで、何もかもが結びつけられる。失態を見せるごとに、正しく評価されない。そんな彼が、誰よりも不憫でならなかった。
「わかっている。言いたいやつには言わせておけばいい。どのみち、俺がきっちりやれないことは、何もかもリリアン嬢が原因と思われているからな。そのうち、ドロシー嬢との逢瀬が楽しみで心ここにあらず、と言われるようになるかもしれんぞ」
「それが最終的な目標ではありますし、私はかまいません。ですが、政務に関してはきちんと執り行ってください。姉ではないので、魔性の女だの何だのと、あらぬ二つ名をつけられても嬉しくはありませんから」
「そうだな」
数回頷きながらの肯定に、思わず短いため息がこぼれた。
「君には、リリアン嬢のような二つ名は似合わない。どうせなら、天女や女神と呼ばせるようにしてみせようか」
「……女神はわかりますが、てんにょ、というのはどんな存在ですか?」
おとぎ話の中には、女神が時々登場する。だからそれが女性の神で、たいていが美人に描かれていることは知っている。そんなものと同列にされることもまた、姉と似た二つ名をつけられるのと変わらない。
だが、聞き慣れない言葉への好奇心が、それらへの苦情に勝った。
「君の知識はなかなかに幅広いが、さすがに天女は知らんか。海の向こうにある小さな国の、女神のような存在だ。あまりの美しさに一目惚れした男が、天女の宝を取り上げて隠し、一時の夫婦になったというおとぎ話もあるそうだ」
「私は、そこまで大それた存在と並べられても困るのですが……」
「そうか? 近いいつか、君の本質を知らずに、陰で「月から来た女神」などと呼ぶやつらの姿が浮かぶようだぞ」
目の前で、彼はなぜか嬉しそうに笑う。現実とあまりにもかけ離れた呼称に、額を強くギュッと押さえて、クラクラする頭をどうにか支える。
兄や姉ではあるまいし。分不相応の二つ名は、陰の呼び方であろうと、息苦しく不快なだけだ。
「さあ、そろそろ食事にしよう。話は、その後でもいい」
素直に従い、席に着く。繰り返される淑女の扱いにも、少しずつ慣れてきた。
食卓に並ぶパンに挟んだ具は、毎日違う。だいたい十日ほどで、以前見たものに再び出会う感覚だ。それでも、味つけを含め、まったく同じものは出ていない。
「……今日は、スコーンはないのですね」
すっきりして見えた理由に気づき、ついつい声に出してしまった。彼を見ると、いたずらが成功した子供のような、やけに楽しげな笑みを浮かべている。
「長く居るから、お茶の時間に違う茶請けを用意するそうだ。キースが好きなものだから、君もきっと気に入るだろうと思っている」
「兄が好きなもので、私が嫌いなものはほとんどありませんからね」
おかげでキースは、言わずとも好みを理解してくれるありがたい存在だ。とはいえ、もちろん、彼が好きなものでドロシーが苦手とする食べ物もある。
逆はない辺りが、キースらしいといえばらしいのかもしれない。
「そうなのか? ……あいつはいい加減、手持ちの情報を全部明かしてくれてもいいと思うんだが……」
「ほとんど同じですが、違うところもあります。それから、兄は翻弄して楽しむことこそ至上、という人ですから、あえて言わないのでしょう」
「その辺りも、よく似た兄妹だな」
クツクツと低く、けれど楽しげに笑う彼に、何と答えればいいのか。いまいちわからないし、急に気恥ずかしさを覚えた。
少し熱くなった顔をごまかそうとパンへ手を伸ばし、端っこにかじりつく。ほのかな香辛料の香りが鼻を抜け、ピリッとしたわずかな刺激が舌を刺す。
嫌いで苦手とは言わないが、食べ物の刺激はあまり好きではない。
結局、やや無理をしてパンを押し込み、強引に喉へ押し通す。口中のピリピリした感覚がいくらか収まってから、ぬるくなってしまった紅茶を流し込んだ。
カップに触れたからぬるいとわかっているのに、口の中も喉も、やたらと紅茶がしみた。
ぬるくてこれでは、熱い紅茶はとても飲めたものではない。
「少し待っていてくれ」
「はい、かまいませんが……」
「すぐ戻る」
政務に関することで、たまに呼ばれて出ていくことはあった。しかし、誰かが呼びに来たわけでもないのに席を外す。こんなことは初めてだ。
(実は、忙しい日だったのでしょうか? それを知らず、今日も来てしまうだろう私に、殿下は合間を縫って政務を執り行っていらっしゃるのでは……)
そんな考えが浮かび、ドロシーの顔からスッと色が抜ける。
思い返せば、昨日も取りこぼした政務を片づけていて、うまく落ち合えなかったのだ。その翌日が忙しくない保証は、どこにもない。むしろ、夜会の次の日だ。仕事が残っている可能性は高いだろう。
それどころか、これまでも、たまった仕事を気にかけながらだったのでは。
(今日は早めに帰った方がよさそうですね)
用意されている茶請けを見てしまうと、きっとそんな決意は揺らいでしまう。それならば、見る前に辞してしまえばいい。かといって、座ったままでは、辞する機会を逃してしまいかねない。
そのことに気づいたドロシーは、あたふたと立ち上がる。ノエルが戻り次第、帰る旨を伝えようとジッと待つことにした。
手間取っているのか、彼は一向に戻ってくる気配がない。
(黙って立ち去るというのは、大いに礼を失しますが……)
もうしばらく待って来なければ、こっそり帰ってしまおう。帰宅してから手紙を書き、届けてもらえばいい。その際に、明日から滞在時間を短くすることも記そう。
すっきり考えがまとまると、少しだけ心が軽くなった。
会って話をすること自体はとても楽しい。けれどそれは、負担をかけてまで行いたいことではないのだ。
「遅くなってすまない!」
しゃんと背筋を伸ばして立っているドロシーに、よほど驚いたのか。ノエルは腕に平たく大きな皿を抱えながら、妙に焦った表情で足早に歩み寄ってくる。
「殿下、あの……政務が忙しいのでしたら、おっしゃってください。以前と変わりない時間で辞しますから」
「え? いや、朝の分はもう終わらせてあるし、新しい案件も、君が帰った後でのんびり片づければ済む程度しかないぞ」
「そうはおっしゃいますが、たびたび席を外されるでしょう? 私は、殿下の信望を落としたいわけではありません。むしろ逆です」
婚約者に逃げられたとたん、別の女を見つけてうつつを抜かす。
そんな噂をされる王太子に、ついていきたい人間がいるはずがない。一度きっちり立ち直り、吹っ切れたところを見せなければならないのだ。そうでなければ、きっといつまでも、リリアンの影がつきまとうことになる。
それでは、何の意味もない。
「結果として邪魔になるのであれば、差し控えることは当然です」
「邪魔ではない!」
急な大声に驚き、ドロシーは思わず身を引いてすくめる。
皿を片手でしっかりとつかみ、ノエルは空けた左手で前髪を乱暴にかき上げた。懸命に言葉を探している表情だ。きつく眉根を寄せ、ガシガシと頭をかく。
冷静な姿しか知らなかった。そういう人なのだろうと、思い込んでいた。
「……政務に差し支える存在なら、俺はここへ呼ばない。少なくとも、俺にとっては、君は時間を作ってでも会う価値のある存在だ」
くしゃくしゃになった髪を、これっぽちも気に留めない。
あまりに必死な形相のノエルに、ドロシーは口元を右手でそっと隠して顔を伏せた。彼女の肩は小刻みに震えている。
「……ふふっ」
いつもは完璧な貴公子然とした彼の、奇妙で不自然な取り乱しぶり。
懸命に我慢していたのに、一旦こぼれてしまうと、もう堪えることはできなかった。
「最高の賛辞を、ありがとうございます。それから、殿下の狼狽ぶりを笑ってしまって、申し訳ありませんでした」
ふうっと顔を上げると、ばつの悪そうな顔が目に入る。
「……そんなに、俺らしくなかったか?」
「ええ。少なくとも、私の知る殿下らしくはありませんでした」
「それは当たり前だ。ここにいる時の俺は、ホリーデールの王太子ではないからな」
とっさに意味がつかめず、ドロシーは首をこてんと左に傾けた。
どこにいても、どんな時でも、ドロシーからすれば、ノエルは自国の王太子だ。それ以外の何者でもない。
「たまには、出奔した婚約者や政務のことを綺麗さっぱり忘れて、純粋に心から楽しみたいと思わないか? 俺にとっては、それが、君といる時間だ」
「……そういうものですか?」
嫌なことを忘れて楽しみたい。その気持ちはドロシーにも理解できる。だが、自分と過ごす時間がそれに当たると言われても、すんなりと納得はできない。
「仕事のついでに、ことごとくリリアン嬢の件を聞かれるのは、さすがに嫌気が差す。そういうものだ」
家族以外との接点がほぼないドロシーと違い、ノエルは嫌でも多数の貴族と顔を合わせる。そうなれば当然、言葉を交わさずには済まない。
その際の話題が、リリアンのことばかり。その光景を、ふと想像してみる。
「……確かに、嫌ですね」
「どうせ聞くなら、君のことにしてくれればいいんだが……まあ、リリアン嬢の方が、より話題性があるからだろうな。そのくせ、シプリー子爵には触れないときた」
何となく、嫌な予感がした。
「そういえば、君からも、シプリー子爵の話を聞いたことがないな」
知らず知らず、重たいため息がこぼれる。
姉のことよりずっと、聞かれたくない話題だ。かといって、いつまでも言わずに済むとは思えない。
「……私は、グレン様のことは、あまりよく知らないのです」
俯いているドロシーに、怪訝なノエルの視線が注がれる。
「確かにグレン様は、時々屋敷には来ていましたが、挨拶以外は兄と話してばかりの方でしたし……優しい方であることは知っていますが、その程度です。恐らく、兄や姉の方が、私よりグレン様に詳しいのではないかと思います」
「だが、家族ぐるみで親しくしていたと……」
その辺りは兄から聞いたのだろう。けれど兄は、人となりは話さない。家族の誰が、向こうの誰と仲がいいのかも、きっと話していない。
ドロシーの中で、親しかった他人は存在していないのだ。
「タイン辺境伯ですが、あちらはグレン様を筆頭に、男ばかりの四兄弟です。両親と兄はあちらと親密でしたが、私は挨拶以外で話しかけたことはありません」
出向く時は本を持参し、あちらが来る時は挨拶だけして、自室で読書。そんな過ごし方ばかりだった。
鮮明な記憶はないが、タイン辺境伯夫妻はおっとりした雰囲気の夫婦だ。彼らに近々、他の女性と駆け落ちしたことを理由に、婚約破棄を告げる書状が届くだろう。
とっくに心労でやつれているだろうタイン辺境伯に、少なからず同情する。けれど、彼らがどうなろうと知ったことではない、とも思う。
ドロシーはキースのように、他者との円滑な関係が必須な立場ではない。嫁ぎ先は、政治的な思惑も絡むため、自己主張は無意味だ。誰かに特別な想いを抱きたいなら、夫となる人だけで十分だろう。
「私にとって、ウェイクリング家は、他よりは少々近くはありますが……まったく関係のない家との結婚を示唆されていたとしても、今回のように迷うことなく承諾できる程度の間柄です。取り立てて、興味も関心もありませんでしたから」
「……キースの言ったとおり、シプリー子爵の人となりは、自力で捕まえてからじっくり調べることになりそうだ」
諦めの混ざった苦笑を浮かべるノエルに、ドロシーは忙しく目を瞬かせる。
事前にある程度、兄から情報を得ていたのか。その上で、シプリー子爵のことを知りたいと聞いたのか。まるでだまし討ちだ。
けれど、不思議なことに、憤りはちっとも湧いてこない。
「リリアン嬢には、他に好きな男がいる気はしていた。まさか、正直に打ち明けるどころか、手に手を取って……となるとは思っていなかったんでね」
「……私は、気がつきませんでした」
あからさまな変化に気づかないほど、姉にも婚約者にも、一切関心がなかった。
すとんと視線を足下に落とす。上に重ねた右手で、左手をギュッと握る。指の色がなくなるくらい、できるだけ強く。
カタカタと小刻みに震えている、血の気のないドロシーの手に気づいたのか。
「……少し、歩かないか? ちょうど、薔薇が見頃なんだ」
ひたすら顔を伏せたまま、ドロシーはわずかに頷いた。